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ノブ、ずるいやん 作者:奈備 光
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第 29 章 「砂塵」

 綾から連絡があったのは、朝の六時半だった。からりと晴れ渡った空には、すでに太陽が姿を現わしていた。綾は早口で自分が伝えたいことだけ言うと切ってしまった。
 奈津はまだ家に帰ってきていない。仙吉に聞いても知らないという。今朝、橘は珍しく三人分の弁当を作っていた。出掛けるようだ。でもまだ今は家にいるという。

 生駒は綾の元気そうな声を聞いてほっとした。少なくとも彼女の身に異変は起きていない。

 八時半には出発した。
今日の主な買出しは、着替えの下着、そして虫よけスプレーと長いロープなどだ。ホームセンターが開くまで、喫茶店で時間を掛けてモーニングセットを食べた。

「やれやれ」
 大西村に向かう府道を走りながら、今日も生駒は弱音を吐いた。恒例となった緊張緩和剤みたいなものだ。
「なにが、やれやれなん?」
 生駒の葬式用の黒いズボンは、昨夜の雨中行軍でよれよれになり、革靴たるや無残な有様だ。
「うぅー、まだ中が濡れているぅ」
「ノブも買えばよかったのに」

 道長や優は、Tシャツや綿パンやスニーカーなどを一揃い買い求めていた。
「裾上げはすぐにできないでしょうが」
「短いからね。でも、折り上げたらなんとかはけるやん」
「けっ、いらないものは買わない主義」
「なら、文句言わない。そんなことより、橘さんは三人分のお弁当を作ってたんやろ。その三人分って誰の分? 綾ちゃんにちゃんと聞いておけばよかったのに」
「そんなこと言ったって、あの子、あっという間に切ってしまったんや。ふたつは久米さんと橘の分、もうひとつは綾ちゃんのやろ」
「もし、違ったら?」
「まあ、まあ。たぶん生駒さんのいうとおりよ。それより、遅くなってしまったわ」
 道長がロープにたくさんの結び目を作っている。万一の場合、垂らして昇り降りするときに手がかりにするためだ。どれほどの役に立つのか、分らないが。

「おまえが、そのどうでもいい足を入れるものを買うのに、あれこれ悩むからやぞ」
「じゃ、もう金輪際、そのどうでもいい足は見せてあげない」
「はいはい。ふたりとも、トムとジェリーごっこは後でしてね。もし久米さんが出かけてしまっていても、追いかけていったらすむことだから。滝壷への秘密の道もわかったことだし」
 いつものさわやかな笑顔を見せて、道長がコーヒーを飲み干した。

 昨夜、優と話したことで、生駒の気分はずいぶん楽になっていた。
 優の解説は難解だったが、これから起きるかもしれない出来事を目の当たりにすれば、案外すっきり頭に入るかもしれない。今日は平常心でいられるような気がしていた。
「先に滝壷がどうなっているのか、見ておきたかったな。久米さんがまだ屋敷にいたらいたで、彼に知られずに屋敷の前を通り過ぎることもできないし」
「またノブ、そんなどうでもいいことを言ってる。しつこいよ」

「あれ?」
 屋敷裏の空地に、綾が佇んでいた。
「学校は?」
「早引きしちゃった」
「もしかして、待っててくれたん?」
 当然だ、というように綾は胸を張ってみせた。
「お昼ごろまでには、絶対来てくれるって思ってたから」
「ごめん。遅くなって」

 三人がなんともいえない顔をしていたのだろう。綾はせかすように車の中を覗きこんだ。
「あ、ロープを買ってきたんだ!」
 後部座席から引きずり出して、握り具合を確かめている。
「久米さんやお父さんは?」
「みんないない。お父さんは一時間ほど前に出ていったわ。私はいつでも出発準備オーケー」
 念のためにと思って、奈津や美千代、そして仙吉の家や集会所まで覗いておいた。どこにも誰もいなかったという。
 すべての関係者は滝つぼに集結しつつあるのかもしれない。急がねばならなかった。

「奈津さんは昨晩、帰ってきてた?」
「ううん。鶏の餌が入ってなかったから」
 綾がたちまち心配そうな顔になった。
 奈津はあの雨の中、ほぼ丸一日を外で過ごしたことになる。七月とは思えないほど気温も下がっていた。もしものことがあってもおかしくはない。今から、綾にとって、そして誰にとっても、見たくないものを見ることになるかもしれない。
 しかし生駒は、今朝も、綾についてくるなとはいわなかった。

 岩代神社の境内で立ち止まった。
「休憩?」
 綾は怪訝そうだ。焦りが顔に出ている。
「いや。ここで落ち合うことにしてる」
「えっ、誰と?」
 ますます不思議そうな顔になる。もう隠していてもしかたがない。
「警察」
 綾が目を丸くした。

「二台も三台も、見慣れない車が村の中を行列していったら目立つやろ。十分位したら、来るんじゃないかな。それまでここで休憩」
 今朝、寺井に電話を入れておいた。犯人を究明する手がかりになるかもしれないから、一緒に来ないかと誘っておいたのだ。
 綾は理由を聞きたそうな顔をしたが、なにも言わなかった。彼女にも十分想像できることだ。みるからに、肩に力が入っていた。

「ね、お弁当、三人分って言ってたやろ。誰と誰の分?」
 生駒は、そんなことを聞いて、綾の緊張をほぐしてやりたかった。
「ひとつは私の。お父さんの分でしょ。もうひとつは久米のおじさんの分じゃないかな」
「やっぱり」
 綾はなぜそんなことを聞くのかという顔だ。
 会話は途切れてしまった。綾の緊張をほぐす役は、優にバトンを渡す。
「聞き耳頭巾、持って来た?」
「ううん。今日は使うことはないかなと思って」
「そうかあ」
 失敗。

「ほぅらぁ」
と、道長が、生駒のリュックサックの中を見せた。
「うわ! いっぱい」
「綾ちゃんの分もあるわよ」
 本当はない。昼食のつもりで菓子パンやおにぎりを買ったのだが、優の好みで多めになっただけのことだ。
「ハハ、こんなのまで買ってる! デザート!」
 水饅頭のパックを取り出して、綾が笑った。

 しかし、その笑顔は長くは続かなかった。
「あ、あれ!」
 獅子岩の注連縄に、奈津の着物が挟まっていた。いつもの緑色の着物。きちんと畳まれていた。
「どういうこと。おばあさん……」

 まもなく、寺井一行五名が到着した。
 全員がラフな格好でズック靴を履いている。とりあえず、署にあるありあわせのものを履いてきたという感じだ。
「生駒さん。もう少し、事情を教えていただけませんかね。おっしゃるとおり、こんな格好で来ましたが」

 生駒は「さわり」のことしか伝えていなかった。
 確実なことがない以上、寺井に先入観を持って欲しくなかったからだ。久米と橘が夜な夜な、そして今日は朝から滝に行っている。なんらかの目的があるようだ。また、奈津が一昼夜も家に帰っていない。九十二歳の老婆が雨の中を。もともと奈津は、久米の行動に不審を抱いていた。なんらかの事故、あるいは事件に巻き込まれた可能性もある。ということだけを伝えていた。

「詳しいことはまだ言えません。いろいろな可能性があるので。無駄足になるかもしれませんが、ついて来て下さい」
「ですが……」
「プロの目や耳が、もしかすると腕力も、必要になるかもしれない。そう思っただけのことです。いやならいいんです。ゆっくりここで話し込んでいる時間はないんです。僕たちだけで、行きますから」
「わかりました。お供しましょう」
 寺井は同行の部下に目配せをすると、
「案内してください」といった。

 生駒の頭の中を駆け巡っていたさまざまな想像は、優が昨夜繰り出したたくさんのヒントや仮説を繋ぎ合わせることによって、ひとつの形になり始めている。万一、空振りだった場合は寺井に謝れば済むことだ。

「あの祠から下に降りるんです」
「ふむ」
 若い刑事が祠の写真を撮る。別の刑事は地図に、なにごとか書き込んでいる。
「一応、私が先に」
と、寺井が草むらに分け入り、しゃがみこんで地面を調べた。

「ここを通った可能性があるのは、久米荘一さんと橘文雄さん、采奈津さんですな。それから生駒さん達と……」
「それ以上です」
 寺井はがっかりしたように立ち上がり、祠に近づいていった。生駒達もその後に続く。
 刑事たちが祠の周辺を、念のためにと調べ始めた。

 焦りは募っている。
 しかし生駒には、警察がここで何かを発見してくれることに期待する面もあった。

 あたりをぶらつき始めた優が、「ノブ」と、手招きしてきた。
「ほら」
 縄梯子に続く踏み跡に、新しい靴跡があった。
 明らかに昨夜の雨の後でつけられたもの。進んでいく足跡が多いが、帰ってくるものもある。
「行ってみよ」
 振り返ると、道長と綾が心配そうに見ていた。
「すぐに帰ってくる」
 靴跡を踏まないようにして、水の流れまで来た。
「ガレバの水はこれやね」
 流れを飛び越した。
「商売道具を使って、大掛かりなことをやってたわけや」
「この水量やから、一時的に、川の流れを変えてしまうのもたいしたことやないかもね」
 そのとき、
「生駒さん! 来てください!」と、寺井の呼ぶ声が聞こえた。

 刑事が藪の中で血溜まりを発見していた。
「ここか」
 生駒も優もさほど驚かなかった。祠からそう遠くないところにあるはずだと考えていたからだった。
「どういうことですか?」
「恭介の血だと思いますよ」
「えっ?」
「彼はここで殺されたんです」
「どういう……」
「後で説明します。それより急ぎましょう」

 生駒は祠の裏手に回り、枝の蓋をとった。
「この穴を降りるんです」
「なるほど。こういう仕掛けに」
「さ、どいてください。僕が先に降ります」

 昨夜と同じように、腹ばいになって足から穴の中に入っていった。
 雨の中、懐中電灯を頼りに覗き込んだときとは違って、幻想的な光景だった。
 ガレバは大きく蛇行していた。両側の崖は高さ二十メートルから三十メートルほどあり、帯状の細い空が見えている。まるで天井のない廊下のような空間だ。
「ほほう!」
 寺井が生駒の横に降り立った。
「穴を抜けると別世界ですな」

 綾が降りてきた。待ちきれないというように、ポン、ポンッ、とガレバの石に飛び乗っていく。
 刑事達も降りてくる。

「先に行きますよ」
 生駒は、岩によじ登ったり跨いだりしながら進んでいった。ところどころで、シャワーのような水のカーテンをくぐり抜ける。さっきの踏み跡を横切る流れが、このガレバに落ちているのだ。
 最後尾の道長が追いついたところで、ひときわ水量の多いシャワーに差し掛かった。相変わらず岩の廊下の幅は狭い。これを潜らずには向こうに行けそうにない。
「これで全員ですか?」
「はい。ひとりは上に残してきました。万一のときの連絡用に」
 寺井が、水のシャワーの向こうを見透かしている。
「さ、行きますよ」
 走り過ぎることはできない。滑らないように慎重に積み重なった石を越していく。
 したたかに濡れた。綾の髪の先から、洗った後のように水が滴り落ちていた。

「行き止まりじゃないでしょうな」
 百メートルほど先、大きな玉のような巨石が、行く手を遮っていた。
 道長が綾にタオルを渡してやる。
「そんなはずはありません」
 玉のような巨石の前まで来た。

「こいつはよじ登ることはできませんな」
 寺井が石を平手で叩く。そして、慌てて手を合わせて拝むしぐさをした。巨石の中ほどに不動明王のお姿が彫り込まれてあった。

「どちらかに、通れる隙間があるんでしょう」
 生駒は右側に回りこんだ。
「ここから行けそうや」
 人がひとり、通り抜けることができそうな隙間があった。屈みこんでいかねばならない。
「そっちは?」
「だめです」

 左側を見に行った刑事が応えるのを聞いて、生駒は隙間に入っていった。
 巨石の出っ張りを頭を下げて通り過ぎると、まっすぐ立つことができた。
「狭いけどなんとか」
と、言いかけた生駒の声は途中で消えた。

 そして次の瞬間、声にならないグワッという叫び声をあげていた。
 後ろにいた道長が息をのむ。
 あっという間に、綾が横をすり抜けていく。

「おばあさん!」

 奈津が座っていた。
 巨石と崖の隙間に、横顔を向けた老婆がいた。
 目を見開いて、怒りに満ちた顔で巨石を睨みつけていた。

「おばあさん!」
 綾は、奈津の前でぴたりと止まった。

 高さ一メートルほどの石に跨るようにして、奈津は足を投げ出して座っていた。
 滝に打たれる行者が着るような、生成りの着物を身にまとっていた。
 両腕は腹の下で握り合わせているが、足は力なくだらりと垂れ下がり、その上にロープがかかっている。
 脱げてしまったのか、片方しか草履を履いていなかった。

 奈津の体は、シルエットとなって、狭い隙間を遮っていた。
 乱れた白髪が風になびき、光っていた。

「失礼」
 寺井が生駒を押しのけて近寄っていく。
 そして綾の両肩に手をかけると、
「ちょっとどいててね」
と、前に体を入れると老婆の顔を覗き込む。
 奈津の目の前に手をやると小さく振って、口元に持っていく。そして首筋に触れた。
「お亡くなりになっています」

 恐れていたとおりになった。

 現場保存のために、生駒達は巨石の手前まで押し戻された。
 昨夜、無理してでも降りてくれば良かったのかもしれない。後悔の念が胸をよぎる。
 綾は、体を硬くして巨石の隙間を見つめている。その肩に優が手を置いた。

 しかし、奈津の死は半ば予測していたことだった。
 行方不明になってから、雨の中を一昼夜。しかも、獅子岩の注連縄に挟まれた着物。
 それにしても、このようなところでなにをしようと……。

 刑事たちがぞろぞろと隙間から出てきた。最後に出てきた寺井がいった。
「これといった外傷はないようですが」
「……」
「生駒さん、説明していただけますか」
「そんなことをしている場合ではありません」
「では、どうし……」
 寺井の言葉を遮って、生駒はきっぱりといった。
「滝まで行きます。そこをどいてください」
「ふむ」
 寺井にも異存はない。もちろん、この先に犯人がいるかもしれないと考えているのだ。
「わかりました。じゃ、少し待っててください」
 寺井は若い刑事に指示を出し、生駒は刑事達が奈津を抱えて出てくるのを、体をこわばらせて待った。

「采奈津さんですな」
「そうです」
「で、今この先にいるのは、久米荘一さんと橘文雄さんということですな」
「そうだと思います」
「お父さん……」と綾が呟いた。

 刑事がひとりで出てきた。首を捻っている。
「それが、重くて」
「ばかやろう! 硬直してるだけだろうが! 見たところ、死後半日ほどだ。それくらいのことがまだわからんのか!」
「はぁ。それに冷たくて」
「あたりまえだ!」
「はぁ。でも、着物が濡れているんです」
「ごちゃごちゃ言ってないで、早くしろ!」
 寺井に引き摺られるようにして、刑事が再び隙間に入っていく。生駒と優がその後に続いた。

 刑事が、奈津の腕の下に手を入れて、抱え上げようとした。力を入れて奈津の体を引き寄せようとするが、びくとも動かない。刑事がさらに力を入れる。

 と、ぐらりと奈津の体が、前に倒れてきた。
 同時に奈津が座っていた石が動いた。
 そして、なんと、ピシッと鋭い音をたてて真っ二つに割れた。

「うわっ!」

 刑事が奈津の体から手を放して飛びさがるのと、
「危ない! さがれ!」
と、寺井が叫ぶのが同時だった。
 そして、突き飛ばさんばかりに生駒の体を押し返してきた。

 生駒は、岩の隙間に頭から突っ込んで転がり出た。
 その刹那、奈津の体が横ざまに飛び、岩壁に打ちつけられるのを見た。

 寺井も刑事も生駒の後に続いて隙間から駆け出してくる。
「上に逃げろ!」
と叫び、ものすごい形相で道長を突き飛ばす。

 すでに異変は起こり始めていた。
 そこにいる誰もが、不動明王の巨石がグラリと動いたことを肌で感じていた。

 我先にガレバを登り始める。
 飛ぶように石の上を走っていく綾。続く優。
 道長も懸命に石をよじ登っている。
 生駒も夢中で、両手足を動かす。ひとつめの石を乗り越え、ふたつ目の大きな石によじ登るのに時間がかかったように思った。

 それはわずか数秒後の出来事だった。

 突然、背後で大きな音がした。

 ガシーーーン。
 岩がぶつかり合う、鋭い音が耳をつんざく。
 振り返る余裕はない。無我夢中で足を動かす。

 今、なにが起きているのか、はっきりわかっていた。
 玉のような巨石も、奈津の座っていた石も、微妙なバランスでこのガレバに止まっていたのだ。互いに接しあって支えになり、この細い岩の廊下に挟まっていたのだ。
 ところが、小さいほうの石が割れ、そのバランスが崩れた。
 丸い巨石がそれまで接していた岩壁から離れた。そしてガレバを転がり始めたのだ。

 ものすごい音をたてながら、岩が転がり落ちていくのがわかった。
 地面が揺れている。そしてその激しい音に覆いかぶさるように、ドーーーンッ、と鈍い音が岩の廊下に響き渡り、鼓膜を震わせた。
 同時に、両側の崖から、ガラガラと岩が剥がれ落ち、ドドドドッ、ズザーーーッと土砂が落ちてくる音がした。
 無数の砂利粒が、生駒の背を襲ってきた。
 たちまちあたりは土煙が立ち込め、目を開けていられなくなった。

 目を閉じた。祈る気持ちで立ちすくんだ。
「ユウ!」
「ノブ!」
「綾ちゃん! 道長さん!」
「はい!」
 ふたりが緊張に震える声を返してきた。
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