挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ノブ、ずるいやん 作者:奈備 光
12/36

第 11 章 「波になぶられて」

「ちょっと疲れた。皆さん、先に行ってください」
 崖を横切ったところで、優が弱音を吐いた。
「じゃ、休憩しましょうか」
 久米が立ち止まりかけたが、道長は、
「西脇さんと恭介さんが心配、早く村へ戻りましょう」と、足を止めようとしない。
「ごめんなさい」
 優が日陰の草むらに座り込んだ。まさか優がこれしきのことで根を上げるはずはない。なにか考えがあるのだ。

 生駒は軽く手を振った。
「僕らはちょっとここで休んでから戻ります。帰り道はわかりますし」
 道長がようやく足を止めて振りかえった。
「大丈夫?」
「ええ。暑さでちょっと立ち眩みがしただけですから」

 仙吉が申し出た。
「皆さん、お疲れでしょうから、わしが一足先に下ります。山歩きはお手のもんですから。それで利郎らを探してみます。皆さんはどうぞごゆっくり、怪我しないように降りてきてください」
と、返事も待たずにさっさと駆け下りていった。

 みるまに仙吉の姿は見えなくなる。橘や優でも、あのペースにはついていけないだろう。
「どうぞ久米さんも先に戻ってください。僕らはここで少し体を冷やしてからゆっくり戻りますから」
と、生駒も優の横に座り込んだ。
 仙吉のおかげで、全員がここで小休止ということになったら優の芝居は水の泡だ。

 道長はちょっと逡巡したが、結局は歩き始めた。
「じゃ、お先に降りますね」
 久米や橘も続く。
 綾が何度も振り返った。そのたびに優は手を振った。

 草はしっとりと冷たくて気持ちがいい。
「尻が濡れるぞ」
「すぐに乾くわよ」
 一行の姿が完全に見えなくなると、優はリュックからペットボトルを取り出し、ゆっくりと口をつけた。そしてクッキーの袋を開ける。いつでも自由に食べられるように久米がリビングに置いてくれているものだ。
「今まで食べる機会がなかった。これ、おいしいねん」と、渡してくる。

 時間を使ってここで休憩し、前を降りていった一行と安全な間隔を空けようというのだ。
「やれやれ。ここまでしなくても、また別のときにでも来ればいいのに」
「フフ、さすがノブ」
 滝を見に行こうというのだ。
「恭介くんが、行き止まりにしてあるって言ってたやん。きっと、よほどのもの」
 なにがよほどなのかわからないが、勝手な想像を膨らませているのだろう。
「滝のお宝、お宝」
「それより西脇さんや恭介のことが気になるな」
「そう? ふたりともいい大人なんやから。それにこの山のことをよく知ってる。きっとなにか、急いで降りていく用があっただけのことよ」
「黙って?」
 さっきからこの繰り返しだ。

「ねえ、ノブ」
「ん?」
「アマガハラノ。迷いの原」
「ああ」
「不思議なところやったね。根元の石畳もそうやけど、原っぱ全体がまっ平らで」
「うん」
「考えてみたんやけど、呪術師の村の跡かも。井戸もあったし。それで、誰も近づかないように結界を張ってあって」
「呪術師ってなんやねん!」
「例えばやん」

 そんな話をしていたときだ。
「あれ?」
 西脇が山道を登ってくるのが見えた。息を切らせて半ば走るように登ってくる。
「ほうらね。やっぱり用事があったんや」
 西脇も生駒たちに気がついた。一瞬歩みを緩め、小さく手を挙げて、また足元に目を落としてぐんぐん登ってくる。たちまち声が聞こえるところまで近づいてきた。

「いったい、どうされたんです?」
 生駒は立ち上がって声をかけた。
「すみません。ちょっと急に思い出すことがあって」
「だからって、黙っていなくなってしまわなくてもいいじゃないですか」
 声が思わずきつくなる。西脇がごまかすような笑顔を作った。
「申し訳ない」
 西脇は目の前まで来ていたが、立ち止まらずに通り過ぎようとする。
「ちょっと、西脇さん!」
「皆さん、まだ上におられるんでしょう?」
 振り返りもせずに行こうとする。
「いいえ。で、恭介さんは?」
 ようやく西脇が足を止めた。
「は?」
「一緒じゃないんですか?」
「恭介がどうかしましたか?」
 当惑顔になった。よほど早足で歩いてきたのか、髪が濡れていた。作業服も水を浴びたように染みができている。

「あっ、血が」
 脛の下で作業ズボンがかぎ裂きになり、赤い斑点ができていた。
「転びましてな。それより、恭介がどうかしましたか? 皆さんと一緒じゃないんですか?」
 首に巻いたタオルで頭を拭いたが、微妙に指先が震えていた。

「姿が見えないので」
「え?」
「それにあなたもいない。なにかあったのかと、皆であわてて降りて来たところです。いったい、どうしたんです?」
「恭介が……。あれ? 生駒先生はこんなところで、どうされたんです?」
「休憩ですよ。暑くてたまらないんで」
「はあ……」
「久米さん達は先に降りていきました。会いませんでした?」
「いえ……」

 言葉を捜しているような短い沈黙の後、西脇が照れ笑いを浮かべた。
「実は、その、皆さんが原っぱに入っていかれた後、急に、もよおしましてなあ。まさか、神聖なお庭で、その、するわけにはいきませんので、少し下ってからしようと……」
 今度はタオルで手を擦り始める。
「はあ?」
「お恥ずかしい話なんですが、どうも腹を壊したようで。その、まあ、手や尻を洗おうと」
 生駒とユウは思わず顔を見合わせた。
「それでまあ、いつまたもよおすかわからんもんですから、しばらく様子を見まして……。そんなことより、恭介がどうしたっていうんです? なにか皆さんに不届きなことを?」

 生駒は不愉快になった。
 下痢はしかたないとしても、山の中で引率者が同行者に黙って消えてしまうとは。
「こっちが聞きたいですよ! あなたと同じようにいなくなったんです! 原っぱの周りも探したんですけどね」
「は?」
「さては彼も下痢かな?」
 西脇は生駒のいやみにも気がつかないほど、うろたえ始めた。

「笹原の入口で待っている間に、恭介さんは戻ってきましたか?」
 優が聞いた。
「いや……」
「そうですか。じゃ、とりあえず村へ帰ってみましょう」
 生駒は立ち上がった。
「あの、もう上にはいないんでしょうか?」
「大声で何度も呼んだんです。でも返事がない」
「はぁ……」
 西脇はまだ登って行きたそうに崖を見ている。生駒はリュックサックを肩に掛けた。

「僕たちは降りますよ」
「はい……。では、私も一度村へ帰ります」
 三人は黙って山を降りていった。
 西脇が先にたってどんどん下っていく。アマガハラノで栗の木が見つかったかどうかも聞いてこない。息子のことが心配で頭が一杯なのだろう。
 祠のところまで降りてきたとき、すでに生駒の息は上がっていた。西脇が気づいてスピードを緩めた。
 優が声をかけた。
「西脇さん、山歩き、慣れてますね。速い! 体を洗ったっておっしゃったけど、まさか神社のところまで降りて、また戻って来られたんですか?」
「いや、それはいくらなんでも無理です」
「じゃ、どこかに水場があるんですか? 滝とか?」
「それは」
 西脇が振り返った。顔が歪んでいる。息子のことが気になっているのに、つまらないことを聞くなといわんばかりだ。

「あっちに小川が流れてまして」
と、祠の上の斜面に視線を向けると、また猛スピードで歩き出した。
 優が目で合図を送ってきた。
(どうする? 見に行く?)
(行ってどうする。戻ろう)


 屋敷の松の間で寝そべっていた久米と道長と仙吉に、西脇は同じようなやり取りを繰り返してから、あたふたと出ていった。
「ふん。息子の方も、どっかで昼寝でもしとるんじゃないか」
 仙吉が毒づく。すでにTシャツに短パンという涼しげな格好に着替えていた。
 生駒も着替えていたし、優は離れでシャワーを使って寛いでいた。

「仙吉さん、西脇さんの家に恭介くんはいなかったんですか?」
「家は原田の町でしてな。利郎さんは昨晩、村の集会所に泊まったんです」
 集会所は覗いたが、誰もいなかったそうだ。自宅には電話してみたが、誰も出なかったという。

「ま、恭介はああいう変わった性格ですから。子供っぽいというか、ちょっと突っ走ってしまうところがあって。親はそんな息子にべったりですしな」
と、親戚の無礼な行動を弁解した。
「時々あるんですか。ふらっといなくなるようなことが」
「さあ、どうですかな。いつも近くにおりませんから。ま、そのうち、ひょっこり出てくるんでっしゃろ」
「集会所で寝泊りできるんですか?」
「そうですよ。なにせ過疎の村ですし、元村人ですから。さて、わしもこれで失礼します」
 立ち上がろうとする仙吉を久米が押しとどめた。
「木元くんに、弁当を買ってきてくれるように頼んであります。食べていってください」

 西脇が姿を見せたことで、笹原での漠然とした不安はずいぶん後退していた。
 仙吉がいうように、恭介はニヤニヤ笑いながら今にも顔を見せて、周りの人間の反応を楽しもうと思っているのだろう。そんな気がしていた。

 生駒だけではない。久米もいつもの朗らかな顔に戻っていて、もう一泊していくようにしきりに勧めるのだった。
「もうしばらくしたら失礼します。夕方までには出るつもりです」
「そうか。残念だな。じゃ、それまでゆっくりしていってください」
 そういいながらもそれほど残念がっていない。いわば恒例のやり取りなのだ。
 仙吉や木元は昼食を取るとそそくさと帰ってしまい、ゆるゆると午後の時間は過ぎていった。

「ちょっと例の広場の井戸を見にいってきます」
 三時のお茶を飲み終わったとき、車に乗り込む前に生駒は散歩でもしようという気になった。
「どうです? 一緒に」
「うん。行こう」
 久米が道長を誘った。しかし、
「ちょっと電話を待っているので」と、道長は縁側から腰を上げなかった。

 屋敷を出て村の中心部に向かって下っていく。猪背川の川面が陽光を反射していた。
「今度来るとき、釣り道具を持って来るか」
「お、ノブ、それいいかも。なにが釣れる?」
「ヤマベくらいかな」
「トキさんが取ってたってやつね。どんな魚?」

 前を歩いている久米が手を叩いた。
「そうだ。今度は釣り大会をやってみるか。どう? 生駒さん」
 久米は新しい企画が気に入ったようだ。
 そろそろ鮎釣りの季節だし、仙吉さんにでも教わって、などと、はしゃいだ声を出した。

 前から三人の男が歩いてきた。先頭は赤ら顔の老人で、よれよれの野良着に麦藁帽子をかぶっている。あとのふたりは村ではあまり見かけない服装だ。くたびれた黒いズボンに開襟シャツを着ている。
「久米先生!」
「こんにちわ、佐古さん」
 佐古と呼ばれた老人が駆け寄ってきた。額に玉の汗をかいている。
「大変なことになりました!」
 息を整え、声をひそめていった。
「健治さんが亡くなりました」

「えっ」
「川で」
「えええっ!」
「それで警察が来ています」
 開襟シャツの男が進み出た。
「久米荘一さんですね。京都府警のものです。少々お話を伺いたいんですが」
「はあ」
「今からどちらへ?」
「散歩を……」
「でしたら、集会所までご足労願えませんか。そこに寺井という警部がおりますので」
「はあ」
「それから、采健治さんが泊まられた部屋を見せていただきたいんですが、よろしいですか」
「どうぞ……、屋敷に今、道長という人がいますので……」
 生駒たちは急いで村の中心部まで降りていった。

 集会所の前に数人の村人の姿があった。仙吉が駆け寄ってくる。
 集会所のエントランスにも村人らしからぬ男が立ち、村人たちの動きに視線を当てていた。

「で、どういうこと? 川で?」
「はい。釣りに来た人が見つけたらしいです」
 今日の昼過ぎ、村から二キロほど下った浅瀬で、打ち上げられた健治の死体が発見されたという。

 死亡時刻は司法解剖を待たないと正確にはわからないが、数時間前。
 西脇を除いて、采家のものへの事情聴取は終わったのだということ。
 たまたま通りかかった橘も仙吉と一緒にいろいろなことを聞かれたということだった。

「事故ですか?」
「さあ。それはまだ……」
「どんな様子で?」
 仙吉は一呼吸置いて、小さな声でいった。

「私も健治の亡骸を確認したんですが……、後頭部がバックリ割れていまして……」
「なんと……」
「川に落ちたときにできた傷かどうか……、なんとも無残な姿で……」
「お気の毒に」
と、久米がその場に居合わせた全員の心境を代弁した。
「昨日と同じ服装でした。朝、山に行く前に、何か家に取りに戻る途中だったんでしょうなあ」
「なにをでしょう」
「さあ」
と、仙吉は言いよどんだが、すぐに、
「ですが、佳代子さんの写真を持っていたとか」と、呟いた。
「佳代子さん?」
「はあ、胸ポケットに……」
「そう……ですか……」
 久米がうなだれた。

「それにしても、えらいことになりました」
「そのう……、このたびは大変なことになり、お悔やみを申し上げます」
 あ、いえ、どうも、と仙吉も改めて頭を下げた。
 久米は厳しい顔をしていた。悔やみの言葉を口にしながら、一年前の事件の悔しさを思い出したのかもしれない。

 生駒たちはまさしく井戸の脇に立っていた。
 丸石で縁取りされた直径一メートルほどの井戸。古びた木の板が数枚掛け渡され、コンクリートブロックの重石がしてある。しかしすでに興味は失せていた。
「あ、来た」
 集会所から刑事が歩いてくる。久米は名乗ってから生駒を振り返った。
「どうせ生駒さんも聞かれるのでしょう。一緒にいかがです? 彼らの手間も省けますよ」
 変な誘いだとは思ったが、生駒に異存はない。刑事もだめだとは言わなかった。

 集会所は十二畳の畳敷きの主室がひとつとミニキッチン、シャワー室、トイレがあるだけの小さなプレハブの建物だった。
 そこを警察が臨時詰所にしていた。畳の上にブルーシートを敷き、数脚のパイプ椅子が乱雑に置かれてある。
 その真ん中に、いかつい顔の男が座っていた。

「や、お手間を取らせます」
と笑みを浮かべて立ち上がり、自分の前に座るようにと手招きした。

「久米さん、その節はどうも。京都府警の寺井です。こちらのお二方は?」
 久米の紹介に、寺井は無表情に頷いてから、健治が発見されたいきさつを織り交ぜながら質問を始めた。
 警察としては、健治の死を他殺とも事故とも自殺とも、まだ断定できない状態らしい。

「昨晩は何時ごろお休みになられましたか?」
「そのときの状況を詳しく教えていただけますか?」
「采健治さんの様子に変わったところはありませんでしたか?」
といった恒例であろう質問がなされた。
 佳代子の事件について口にはしないが、関係付けて考えてはいるのだろう。

「死亡原因ははっきりしないということでしたが、やはり溺れたということになるんでしょうか?」
 生駒からの質問だ。
 言外に佳代子の死因と同じように、という批判的な意味が含まれていたかもしれない。
「わかりません。ただ、後頭部に、致命傷に近い大きな傷がありました。川に落ちたときにできたものか、別の要因でできたものか、今はまだわかりません」

 寺井がまた久米に顔を向けた。
「昨晩、お宅であった集まりのことですが」
 さらりとあいまいな聞き方をしてくる。
「ちょっとした夕食の会です」
「参加していたのは?」
 久米が参加者の名を挙げた。自分自身も疑われているのだ、という当たり前の事実に気がついて、生駒はかすかな緊張を覚えた。

「あなたとのご関係も教えてくれますか?」
 久米は少し恐れたように唾を飲み込むと、生駒を横目で見やった。
「親しい方々とのパーティだったということは伺っていますが」
 寺井はなにをどこまで知っているのだろう。久米があの屋敷で週末を過ごすようになったいきさつは知っているはずだ。
 岩穴の中でどんな話が出たのかということは?
 生駒は、寺井のあばただらけの浅黒い顔と、久米の白い顔を見比べながら、ふたりのやり取りを聞いていた。

「生駒さん。あなたと采さんとのご関係は?」
 生駒にも質問が飛んできた。
「たぶん、会ったのは昨日で二回目です。以前、地鎮祭のときに」

「ふむ。三条さんは?」
「え、私? もちろん初めて。ここに来たことも」
「わかりました。じゃ、また久米さんにお聞きします。道長さんと坂井さん、このおふたりと采さんとの関係はいかがです?」
「さあ。なんともいえませんが、たぶん、生駒さんと同じく、以前会ったことがあるとしても、親しくはないんじゃないでしょうか」
「うむ。で、今朝はなにをされていたんです?」
 寺井が次々に質問を展開してくる。
 久米は戸惑ったように一旦開いた口を閉じた。強い冷房がきいているのに汗をかいている。

 生駒は助け舟を出した。
「近くを散策しようということになって、ちょっとした山登りをしました」
 どんな目的で山に登ったのかも、この男は知っているかもしれない。昨夜のことを仙吉らから聞いているのだから。神の庭・アマガハラノを探しにいったことも聞いているかもしれない。それを伝説の話も含めて、初めから説明するのは面倒な気がした。それに、すでに生駒は、この寺井という男がなんとなく嫌いになっていた。

「なるほど。ただ、今は久米さんにお聞きしているんです」
 寺井は生駒の顔を見ず、久米に視線を当てたままぶっきらぼうに告げた。久米が怖気づいたようにこっくりと頷く。

「では、その山登りの行き先とメンバーを教えてください。出発時刻と帰ってこられた時刻も」
「はぁ、行き先といいましても、岩代神社を抜けて裏山にちょっと登ってみただけのことです。昼過ぎには戻ってきました。屋敷を出たのは朝の八時半です。メンバーは私とこのおふたり、道長先生、橘さん親子、西脇さん親子、大葉仙吉さん、木元くんです」
「フルネームでお願いできませんか?」
 久米が慌てたようにひとりずつ名前を挙げていった。
「西脇恭介さんは昨晩の宴会の参加者ではありませんな」
 はぁ、と久米が手の平で汗を拭った。
「今朝、西脇利郎さんが連れてこられました」
「で、坂井さんという方はどうされたんです?」
「仕事があるからって、大阪に帰りました」
「何時に?」
「朝八時半ごろ。八時四五分のバスに乗るといって」
「で、采健治さんは? ハイキングに行くメンバーに入っていなかったんですか?」

「はぁ、彼も行くと思っていたんですが……。朝から姿が見えなくて……」
 寺井は久米の口元を凝視していた。
「出発の予定時刻になっても戻って来なかったので、なにか急に行けなくなった事情があるんだろうと……」
「つまり、采健治さんも今日のハイキングに参加する予定だった。ところが現れなかったと」
「はぁ」と、久米が悪いことをしたかのように身を縮めた。

「もう一度お聞きしますが、出発は八時半ごろ、お帰りは十二時過ぎですね。で、全員一緒に?」
「あ、いえ、それは……」
「もう少し正確にお答えいただけませんかね」
「す、すみません」
「で?」

 寺井に畳み掛けられて、久米がしどろもどろになりかけていた。
 それでもなんとか、仙吉が先に、そして久米と道長らが山を降り、三十分ほど遅れて西脇と生駒達が戻ってきたことを説明する。そして、山から降りてきて生駒が戻ってくるまで、自分や道長は離れや岩穴を覗いていない、母屋から一歩たりとも外へ出ていない、と付け加えた。
「橘さんや木元さんはどうされたんです?」
「橘さんとは屋敷の前で別れましたが、木元さんはちょっと後片付けを手伝ってくれて、弁当の買い出しを頼みました」
「ふむ……。で、降りてくるのがそんなにバラバラになったのはどういうことですかな」

 久米がそのときのことをありのままに話し、生駒が補足をした。
 寺井にとって新しい情報がようやく手に入ったようだ。
 眉間に皺を寄せ、考え込んでいる。健治の死に事件性が出てきた、と思い始めているのかもしれなかった。

 生駒は改めて昨夜の健治の様子を思い出そうとした。
 張り切ってとうとうと屋敷の自慢をしていたときの声はまざまざと思い浮かべることができる。
 表情やしぐさは? 会の途中までは特に変わったことはなかったが、綾が西脇にくってかかったときはどうだったろう。
 ただその直後、奈津が現れてからは存在感がまるでなくなってしまったのだった。

「健治さんが自殺するなんて考えられないよね」
 優が生駒の思いと同じことを声に出していった。寺井がすっと目を細めた。
「なぜ、そう思うんです?」
「だって、健治さんは楽しんでたから。ほら、部屋割りをじゃんけんで決めたときも」
 生駒も、今、思い出していたことを話した。
 しかし寺井が興味を持ったのは離れの部屋割りの方だった。
「久米さん、あなたは采健治さんがどの部屋で寝ていたか、ご存知でしたか?」
「いえ」
「では、采健治さんがどこで寝ているのかを知っていたのは、生駒さんと三条さんと木元さんだけということになりますな」
「なんか、疑われてるみたいー」
 優が口を尖らせる。
「いや、状況を確かめているだけのことです」
「でも、離れの座敷はどれも縁側に面していますから、外から見ていたら、誰がどの部屋かというのは簡単にわかりますよ。しかも奥の座敷は縁側からしか入れませんし」
「うむ。いいでしょう」
と、寺井がその話を打ち切った。

「生駒さんと三条さん、ちょっと席をはずしてもらえますか。ただ、あなた方とも、もう一度お話ししたいので、外で待っててもらえますか。申し訳ないが」
 念を入れようというのだろう。ひとりずつ聞くということは、万一他殺だったとき、これからの証言は重要なものになるということだ。
 寺井が口の隅で微妙な笑みを作っていた。
cont_access.php?citi_cont_id=297005171&s
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ