会葬者たち
――「死は人口統計学の問題であり、医学の問題であり、その意味ではこの世でもっとも陳腐な現象です。しかしまた同時に、死は個人的な悲劇でもあります。子供や妻や親を失った者にとって、死は類を絶した、ほかに比べることができない出来事です」 ジャンケレヴィッチ――
・「夜の墓地」
坂道の途中に車を止めて、俺たちは息を切らして歩いていた。
緩い坂道ではあるがじっとりと汗が溢れる。
「風がないからむしむしするね」
美谷さんが横で言った。俺は静かに相槌を打つ。声がわずかにうわずる。
枝振り凄まじい緑が頭上を覆っており、虫や葉っぱが落ちて足元に散らかっている。
まばらに設置された外灯は心細く、五分前犬の散歩をしていた青年と挨拶してから誰ともすれ違っていない。間を畑や溜め池で阻まれた十数メートル先のもう一方の道路はこちらと違って、車がひっきりなしに行きかっているのが見えた。
すぐ横の上り斜面に突き刺さった石の鳥居と、林の中の社が存在感を放っている。自分の気を紛らわそうと、それが何の社なのか美谷さんに訊ねるが、知らないと言われた。思えば生家の周りにある建物の名称なんて俺もほとんど知らない。
やにわに自らの腕をパチンと叩いた。手のひらの下に残ったのは痒みだけだった。
小さなライトと話し声を前兆にして、前方から自転車に乗った二人の女子高生が飛び出してきた。自転車は命知らずにしか出せない速度で坂を下っていく。夏休みだから部活帰りだろう。
「よくあれで転けないもんだな」
「この辺は事故多いよ」
「だろうね」
「ほら、こっちの坂だよ」
右手の側にうっすらと公共墓地の看板が見えた。幾分不安を覚えるような暗がりも、今度ばかりは都合が良い。
墓地は道沿いの、山の横面に作られておりここから更に長い坂道となっているらしい。脚の筋肉がひくついた。
「まだ登るの?」
近所のお年寄もここに来られるうちは石塔に名前を刻まれずにすむことだろう。
「もうちょっと」
「あっちなら助かったのに」
この墓地とは反対側――今しがた通ってきた道路と、向かいの繁盛している道路との間の土地――にも小さな墓地があった。そちらは違う管理母体のものだと美谷さんは説明した。
いくら墓地に需要があるとはいっても、午後八時前ともなると流石に他に誰もいない。
坂を登りつつ薄暗がりの中を眺める。盆が終わって間もないからだろう。まだどの墓石も綺麗だったし、墓前の花も綺麗だった名残があった。
水を入れるバケツも持たずに、かなり荒く舗装された坂道を進む。途中、下の段の隅に、もう何年かは放置さているであろう墟墓が見えた。
まだらに苔の生えた墓石、必要以外の場所に穴の開いた花立。土には新しい生命が茂る。他人事ではないような気がして、気休めにその頭上から手を合わせる。
美谷さんは俺を無視して、傍の境界石の段差に足を掛け、除草用の玉砂利の上に踏み上がる。そちらはそれなりに手入れのされているようだ。
似たような姿の石塔を見ていると祖母のことを思い出してしまう。
彼女は四ヶ月前に地元の先祖代々の墓に入居したばかりだ。祖母は面の皮が厚いことで有名だったからあちらでもうまくやれているだろう。だから心配はしていない。憎まれっ子世にはばかるというが、結局憎まれっ子も死ぬときは死ぬのだとこの間知った。
「佐々木くん」
「うん」
追想に耽っていたようだ。
自分の事情はさておいて、眼前の墓石に俺たちは手を合わせる。墓銘は秋山。会ったこともない人たちが眠る。
「……いいのかな」
俺は訊く。来る前に何度も話し合ってきたが、それでもいざとなると二の足を踏む。
何も言わずに美谷さんは頷いた。
「わかった」
俺は拝石を掴んで力を入れる。拝石がずれて納骨棺が口を開ける。懐中電灯を穴に向けた。
美谷さんはそっと布巾に包まれたお骨を拾い上げる。それを鞄に入れたのを見届けて俺は拝石を元に戻す。散らばった玉砂利を不自然さのないように整える。
「ありがとう。行こう」
美谷さんはかすかな微笑みを見せる。
「そうだね。見つからないうちに」
俺たちは来た道を引き返していく。墓荒らしは素早く去らねばならない。
・「関係性」
墓場に眠る大勢の人たちもかつては情熱を持って生きていた。
でもどういうわけか死んで、情熱の火は消えた。悲しいことだ。
そんなとりとめのない感傷のシートを、駐輪場の裏の建物の死角に敷いて弁当を食べていた。ここが工場の敷地の中では一番お気に入りの場所だ。静かにしていれば人と顔を合わせずにすむ。
休憩時間は長い。時間をつぶすのは得意ではない。
手すさびに美谷さんにメールを打つことにした。なにしてる? ぎこちない手つきでゆっくりと画面を撫でていき、送信を押す。
美谷さんとはネットで知り合った。少数派の人間同士知り合いたいならネットほど手軽な媒体はない。
実際は少数派などではなく、俺たちのような人間は大勢いるに違いないが、内に秘めた気持ちには互いに気づくことができないし、気がついたとして、姿形がある相手は敬遠してしまう。うんざりするような複雑さがあった。だからこそ外部の情報を取り払った実感のない気安い人間関係が成立する。
ネット社会の恩恵をたっぷり受けて、美谷さんとのネットでのやり取りは一年以上の期間にもなっていた。毎日パソコンの通話ソフトで会話もしないのにつけっぱなしにする。話すときは顔を知らないから好き放題言い合った。それでもどこか波長が合うのか、縁が切れることはなかった。
「――会わない?」
と言い出したのは、祖母の四九日が終わったころ、美谷さんの方からだった。
「どうしたの?」
出し抜けの提案に俺は一歩後ずさる。
「一度会ってみたいなって」
美谷さんは繰り返す。
「顔も知らないのに?」
「前に写メ送ったでしょ。佐々木くん自分で言うほど悪くなかったよ」
「ふーん、デートでもするの?」
「それでもいいけど、頼みごとがあるんだ」
「なんだよ、改まって」
「会ってから話したい」
「何だよ」
「今は言えない」
俺は困った。そこまで言われては頑なに断るわけにもいかない気がした。
「千葉だっけ?」
「うん、でもこっちが用があるんだからあたしが行くよ」
「いやいいって。ちょうどそっちを観光したいと思ってたしさ」
「なんでよ、大丈夫だって」
「ううん、俺も大丈夫。行くよ」
「へえ、珍しく行動的なんだね」
「まあね」
祖母が生前、もっと外に出るようにいつも言っていたのを思い出した。
祖母に背中を押されて、俺は彼女に会いに行った。良い歳して一人で新幹線に乗ることには不安があったが、実際には何の問題も起こらなかった。不安の量が多すぎるのだろう。わかっていても不安から自由にはなれないのだから不便なものだ。自分自身の不便さから逃れようとして便利なものを追い求める。
目的の駅に降り立つ。
スマートフォンに導かれ、スマートフォンに向かって誰かを導いてそうな女性を見つける。美谷は俺が想像していたより今時な感じの女性だった。もっとも俺の今時の範囲はかなり広いのだと思うけれど。黒髪のショートカットは手入れされていて、服装も自然。あまり外に出ないためか肌は青白かった。
「はじめまして?」
「そうだね、来てくれてありがと」
「ううん、別に」
「佐々木くん、やっぱり普通に見えるよ」
「美谷さんもね」
「はは、当たり前でしょ」
そんなぎこちない挨拶を交わして、さっそく黙った。通話ソフトで話すのとは勝手が違う。本物なのか確かめ合うような距離感。
「行こっか」
「どこに?」
俺はこの場に辿り着くこと以外何も考えていなかった。
「それじゃあ、カラオケ。だめ?」
「いや、いいよ」
カラオケということは他人に聞かれたくない話なのだろうか。
最寄のカラオケボックスに向かい、料金プランを適当に選んで、部屋に入った。煙草の染み付いた匂いがした。
「――それで」
俺は切り出した。
「頼みごとって?」
「うん……。言いにくいことだし、初対面の佐々木くんに頼めることじゃないんだけどね」
「ふうん」
「というか誰にも頼めなるようなことじゃないんだ」
「いいよ、そこまで他人行儀にならなくても。ま、断るときは断るけどさ。無碍にはしないから」
「そう言ってくれるとありがたいけど」
美谷さんは少し躊躇ったのち口を開いた。
「あのね――」
――メールが来た。
「準備だよ。佐々木くんは休憩時間?」
そうだよ。暇なんだよー、と返信する。
コンクリートの上に横になって仮眠を取ることにした。
青空が見える。連想が始まる。不思議な気持ちになる。この青空の下のどこにも祖母はいない。わずかなきっかけから始まる破綻した連想ゲームは錯覚を引き起こす。俺はしばしば祖母の死の実感を見失う。どこかにいるような気がする。でもいないという事実もわかっている。その摩擦が苦しみを引き起こす。家族と死に別れた人間にはありがちな反応なのだろう。でもその認知も救いにはならない。
両親を早くに亡くした俺にとって祖父母は親そのものだった。祖父は俺が高校生のときに亡くなり、祖母は今年亡くなった。
もともと人付き合いが得意でなく、社会でうまく折り合いもつけられていない俺はひたすら困惑した。何もかも終わった気もした。唯一の救いはネット回線を通じてだが、俺を励ましてくれた美谷さんの存在だった。
思考を続けながら横たわるとまどろみの中に沈んでいくのを感じる。俺を目覚めさせたのはメールだった。
「なんとか乗り切って!」
やっつけ返事なのかそうでないのか。
俺は時計を見る。もう少しでベルがなる。まあなんとか乗り切ろうか、と思った。
・「寺」
「いまだに抵抗感じるよ」
寺の四脚門をくぐったとき、美谷さんが困ったように笑った。
「美谷さんは別に信者ではないんだよね。昔から」
「まあね、でも体に染み付いてるんだ。何度も教えられたから」
「そんなもんか」
境内をそぞろ歩く。浄土を模しているという池が日の光を跳ね返してまぶしい。
「どう面白い?」
俺は無粋なことを訊く。
「うん、建物も綺麗だね」
と切り妻屋根の瓦を眺めて回す。
美谷さんにとって神社・仏閣はテレビでしか見たことのない世界だったという。それは美谷さんの母親が信仰していた宗教の教義によって決められていた。信者数百人かそこらの小さな新興宗教。でもそれはどんな伝統のある大きな宗教よりも美谷さんの生き方に影響した。
「おみくじ引こうよ」
俺は美谷さんの手を引く。
「え、しょうがないな」
と言いながら、声は楽しそうだ。
しかし残念ながらおみくじは売っていなかった。浄土系のお寺ではおみくじ、お守り、御朱印の類はないそうだ。来る寺を間違えたなとひどく不遜なことを思った。
「ごめん、てっきりどこにでも売ってるものかと思ってたんだ」
「佐々木くんもあんまりお寺のこと知らないんだね」
「そ、そうだよ。だって行けることにありがたみを覚えてないから逆にね! しょっちゅう行ってたから!」
「そっかそっか」
美谷さんは嬉しそうに頷いた。
――前回は俺が美谷さんのところへ俺が行ったから、今度は美谷さんが俺の地元へやって来ていた。今までは視界にすら入らなかった地元観光案内の書を購入し、美谷さんに観光案内をして回っている。だいたいが自分も行ったことのない場所なので純粋に楽しめた。こうでもなけりゃ観光地になど足を運ばない。仏閣だけは、死んだ祖父に連れられて色々回った記憶がある。ただしその大半は買ってもらったものの記憶だ。
日もどっぷりくれて、俺たちは郊外にある自宅に戻った。部屋はいくつも空いている。
今日のお礼に、と美谷さんが料理を作ってくれた。自分のために作られた料理を食べたのは久々だった。
風呂に入るといっきに眠気が襲ってくる。布団を敷いて、冷房を効かせ、なしくずしに同じ布団に入った。
「ここで寝ていい?」
「いいよ」
くすぐったい会話が交わされたが、次に気がつくと部屋には締め切ったカーテンを突き破って光が差し込んでいた。時計は午前六時半を示している。
「おはよう」
耳の横から三谷さんの声が聞こえた。
「うわ、びっくりした」
俺は体を起こす。
「お、おはよう」
「あのさ佐々木くん」
「うん?」
「寝言ひどかったよ」
「悪かったね」
・「宗教」
江戸時代、寺請け制度によるキリシタン弾圧に際し、信仰を捨てない者たちも表向きは仏教式の葬式を挙げなくてはならなくなった。寺請け制度とは民衆にいずれかの寺の檀家となることを義務付ける制度で、幕府は各寺に戸籍を管理させ、無理やり民衆をみな仏教に括りつけたのだった。
しかし裏ではそれとは別にキリシタンの葬式が行われていた。それは当然のことで、仏教式の葬式など挙げられては死者は天国に行けないのである。
それと同じ発想を美谷さんは抱いた。
「あのね、うちの両親離婚してたんだ。もう二人とも亡くなったけど」
以前宗教について漫然と話していたとき、美谷さんはいきなりそう告げた。
「どうしたの急に」
「いやうちの母親、宗教に熱心な人でさ――」
最近では珍しくもないことかもしれないが、美谷さんの家の事情も複雑で、三谷さんの母親の宗教を巡って父方の家庭でずいぶん揉めた過去があるらしい。しかも実家の両親さえも美谷さんの母親の味方をしなかった。どうやらその宗教にのめりこんだのは結婚後のことであるらしく、そんな宗教で家をめちゃくちゃにしてどうするのといった風だ。まさに孤立無援である。
そして家庭で孤立無援になった宗教信者が帰属する先はもちろん宗教だ。無理に引き剥がそうとすることこそが信仰を依存的に深めさせていく。
最終的に美谷さんの両親は離婚。美谷さんは父親に引き取られた。
とはいえ当の美谷さんは両方の間を行き来して、母親との関係は保たれていた。
問題は、母親の死後に起こる。美谷さんが中学生のとき母親が亡くなった。そしてその葬式。呼ばれたのは仏教の僧侶だった。母親の所属していた宗教の人間がやってきて抗議をするという一幕があったようだが、結局は遺族の意向が通る。美谷さんの意見も子供のいうことだからと取り合ってもらえなかった。
美谷さんは、母親の望む葬儀を挙げさせてほしかったのだ。
母方の苗字は「秋山」。母親の遺骨は当然、父親のものとは別に眠る――。
「複雑だね」
うまい言葉が見つからず、しかつめらしく相槌を打つ。
「そうでもないよ。要は宗教でもめただけだから。母親もあたしと同じで精神的にもろい人だったんだね」
「一言で済ましたなあ。そしたらうちなんてもっと単純だ。ある日交通事故で死んだ」
「何行かあれば足りちゃうね。あたしたちの人生って」
要約するのは簡単だが、どれだけ言葉を尽くしても実際の年月を語りきることはできない。
・「優柔不断」
再び千葉へ赴いた際、九十九里浜へ行った。
やや時期外れであったしカナヅチなので足を波打ち際に持っていくことさえせず、ただただ潮の流れを観察し続けた。
同じような間隔で岸を打つ低い波音、潮風のにおいと漂流物に混じって佇む発泡酒の空き缶や花火の残骸。
二人して水平線を注視しているとだんだんと意識が水面深く沈んでいくようだ。
「人類は海から来たんだって」
不意に美谷さんがぼそっと呟く。
「誰から聞いたの?」
俺は訊ねる。
「知らない」
美谷さんは恥ずかしそうに顔を背ける。
「でも俺も聞いたことあるよ。少なくとも俺は来てないけど」
「そうかもね。お腹空いたから何か食べに行こう」
俺たちは浜をあとにした。
何を食べるかについて、運転しながら揉めた。街中に入っていってもなかなか決まらない。店がありすぎるのだ。決められないのは俺だった。無気力な美谷さんだから、退屈そうにされるだけですんでいるものの、それにしても無言の圧力はひしひしと感じた。
長い距離を行ったあと、海沿いのレストランに入った。
「佐々木くんは優柔不断だね」
ぼそっと美谷さんが呟いた。怒鳴られるより辛かった。
「でもさ、ほら見てよ」
俺はウインドウ越しに見える夜の海と沿岸にへばりつく無数の灯りを示した。
「海から来て海に帰ってきたわけだね」
「いいよ、本当に帰っても」
「ごめん」
海はこりごりだ。
・「海外」
美谷さんの家にはたくさんの洋書があった。一部屋まるごと蔵書に宛がわれている。
「美谷さん英語わかるの?」
「ううん全然」
「誰かの?」
「うん、父親が大学で教えてたから」
「それなのに英語わからないの」
俺が少し嘲るように言うと、部屋を出て廊下を歩きながら、美谷さんは流し目で俺にこう返した。
「脳の中に英語が詰まって産まれたわけじゃないからなあ」
「海外行ったことあるの?」
「あるよ。何度か」
「いいなあ、どうだった?」
「テーマパークみたいだった」
「は?」
「言葉わからないからね。父親に付いて回ってただけだからそんな風にしか思い出せない」
「つまんないね」
「うん」
「日本が海外じゃなくてよかったね」
「どういうこと? 意味がわからないけど」
「だって土葬だったら墓暴くの大変だよ」
「はは、それもそうだね」
リビングに戻ってカウチに腰掛ける。
俺は訊く。
「そういや、あれ買った?」
「ううん、まだ」
「そっか、じゃあ俺が買っとく」
「ありがと」
「うん」
わずかな沈黙ができる。だがすぐに次の言葉が現れる。
「映画でも観る?」
「何があるの」
「前言ってたマイ・フェア・レディとかどう」
「面白いの?」
「あたしにとってはね」
並んでオードリー・ヘップバーンを眺める。意外と面白かった。
・「電話」
ある日曜日の午後突然電話があった。ちょうど洗濯物を畳み終わって壁を眺めているところだった。スマホを取る。掛けてくる相手はほとんど二択で、派遣先の工場か美谷さん。九割以上が美谷さんで、今回もスコアを伸ばすことに成功した。
「もしもし、どうしたの」
俺の問いかけに対して、返ってきたのは嗚咽。電話かけてきていきなり泣いているようだった。
「なんかあったの」
「……ない」
ないらしい。しかしこの現象自体ははよくあることだ。なぜか悲しくなったり、苦しくなったり、泣きたくなったりする。その分楽しくなることはそれほどない。
「ないんだ」
「やっぱりある」
「どっちだよ」
「孤独感感じちゃってさ、ごめん」
「そっか」
俺がいる、とは言い出せなかった。
彼女の両親の代わりになれるとは思えなかった。同様に、かつての恋人の代わりにも。
美谷さんの昔の恋人はいまだ生きている。でも、生きているからといっていなくならないわけではない。
美谷さんが一人になったとき、彼女を真に一人にしなかったのは、まだ出会ってもいなかった俺ではなくその恋人だった。恋人は彼女の母親と同じ宗教を信仰していた。そのため彼女とは古くから付き合いがあった。
しかし美谷さんはいつまで経っても宗教を信仰できなかったし、恋人に一方的に寄りかかりすぎた。二人の間には距離が生まれ、いつしか恋人には教団内で婚約者があてがわれた。そのときはお互いに激しい葛藤があったのだろうが、今ではその痕跡はわからない。
「――俺も孤独だよ」
他人の孤独を鎮痛剤とする方法ももう効かなくなってはいるだろうが。
・「家」
家に帰るとまずシャワーで汗を流す。出てから米を研いで炊飯器のスイッチを入れる。
それから仏間に向かい、薄い座布団の上に正座して線香に火をつける。
目の前にはお供えものが山を成す。手を合わせ遺影と顔を合わせる。
遺影に残る笑顔は鮮明だ。
表面がすっかり乾いた仏飯を下げ、りん棒を振るう。祖母が祖父に手を合わせていたときの音がする。仏間は静かで、いつまでも金属音が鳴り響いた
仏間の外もとても静かで、日の当たらない廊下は寒々しかった。
二階のベランダから多くない量の洗濯物を取り込んで、居間でTVを流しながら畳む。
工場の制服はハンガーにかけて、靴下や下着やタオルは引き出しにしまうと、食事の準備に取り掛かる。
安売りの鶏の胸肉をオリーブオイルとニンニクでソテーする。インスタントの味噌汁に沸かしたお湯を注ぐ。炊飯器からご飯を茶碗によそう。
食べ終わると食器を素早く洗う。
何もかもが早く終わる。
自室に向かい、パソコンを立ち上げて美谷さんに繋ぐ。十時頃になって一度中座し階段を降りて洗濯機のタイマーを設定して、トイレに行ってまた部屋に戻る。それからしばらく眠くなるまで話し込んで、夜が更けていく。
・「部屋」
泊まったホテルの部屋は畳の匂いがした。
「和室いいね」
美谷さんがしみじみ言う。
「和室が好きだったんだ?」
「洋室もいいと思うよ」
「なんだよそりゃ」
「誰といるかってことだよ」
「ありがと」
俺は照れる。
「佐々木くんだけじゃないけどね」
「ははは」
・「葬式」
――「私は葬式を感じた 頭の中で」 エミリー・ディキンソン――
「空気漏れてない?」
「大丈夫」
「ありがと、もう眠くなった」
「俺も」
「……許されるのかな」
「多分ね」
「ごめん、ここまできて考えなくていいね」
「気楽にいこうよ」
いつもの調子で答える。山の中に停車した車の中で。冷房は切ってあり、流し込んだ睡眠薬とアルコールのせいで意識は混濁する。車内の温度はいやましに増す。それは照りつける太陽のせいだけではない。
車内の空気の通り道はガムテームで目張りされている。そして酸素濃度は少しずつ下がっていく。
美谷さんは二つの小ビンを握り締める。
「これがあってよかった」
「うん」
「巻き込んでごめん」
「何をいまさら。そんなの気にしなくていい」
初めて会ったとき、あのカラオケボックスで言われたこと。それは――
「佐々木くん、一緒に死んでくれないかな」
予想外の言葉に固まってしまった。以前から死にたいというような言葉は度々交わしていた仲だったが、こう改めて面向かって「心中しよう」なんて言われると思っていなかったのだ。
「本気?」
「もちろん」
「俺と?」
「うん」
「信用できるの?」
「うん」
「わかった」
わかってしまった。
そして俺たちは墓荒らしになった。荒らした墓地は三箇所。
俺の両親と祖父母の墓。美谷さんの母方の墓と父方の墓。
それらの場所で大事な人たちのお骨を集めた。
すべては行路死亡人となり、生きた身よりもない自分たちのの葬式を行うために。
大切だった人たちに囲まれて死んでいくために。
お骨は、亡くした家族たちこそは、この葬式の会葬者なのだった。
こうすればこんな死に方でももう一度会えるんじゃないか。死んだあとのことはわからないが、わからないからこそ淡い想いを抱いた。
何もかもとち狂った愚かな行いなのだろう。たかが観念上の存在。でもそれは俺たちにとって本物だった。たしかに温かみがあった。いるようでいない生きた人々と、いないようでいる死んだ者たち。
意識が途切れだす。美谷さんを見る。目を閉じて体をリクライニングに預けている。もう眠っているのだろうか
俺も……。
美谷さんの指からビンが滑り落ちる。それを見て体が反応する。上体を起こす。気づけば俺はそれを拾おうとしていた。
美谷さんの腿の上に倒れる。
「ん……」
美谷さんが目を開ける。美谷さんの体は温かい。
――俺はやはり優柔不断だった。
一酸化炭素を閉じ込めるために、車内の隙間にしたガムテームの目張りを気力を振り絞って剥がそうとしていた。頭がくらくらして、指先に力が入らない。だが熱で粘着の弱まったガムテープはゆっくりと剥がれていった。
俺はロックを外して、ドアを押し開ける。新鮮な空気が流れ込む。
美谷さんの口元に手を当てる。呼吸はある。力を振り絞って美谷さんを抱きながら車から這い出る。美谷さんを地面に倒す。そのときの前傾姿勢のせいで体が前のめりになり、足がもつれる。ずさっと草の上に頭から転んだ。痛いなあ、と思ったのを最後に俺は意識を失う。
・「結末」
目が覚めると辺りは暗かった。俺は死んだのだろうか。それより美谷さんはどうなった。美谷さんには死んでほしくないという感情だけが、理性を無視して強く存在した。俺の身勝手な行いが美谷さんからすれば裏切りでさえあり、到底許容できることではないとしても。
体中がかゆい。無意識に自分の腕を触るとたくさんの膨らみができていた。蚊に刺されたのか。
俺はうずく頭を揺らさないように、ゆっくりと起き上がる。
「美谷さん?」
恐る恐る闇の中を模索する。
しばらくして目がうっすら慣れてくる。振り返ると車はやけに遠く離れていた。夢中でどんどん遠ざかっていたのか。
美谷さんは車の近くに横たわっていた。血相を変えて飛びつく。体は温かい。
「美谷さん!」
俺は体を揺する。
「ん……」
「よかった!」
俺は美谷さんにしがみついた。
「なに、どうなったの? えっ」
「ごめん、失敗した」
「え、どうして……」
「ごめん」
喉はからからに渇いているのに、どこからか涙が溢れた。
「どうしたのよ」
「ごめん、俺が――」
嗚咽が止まらない。
「うん」
「俺が美谷さんを引っ張り出したんだ」
「……どうして?」
「美谷さんに死んでほしくなった」
俺は美谷さんの顔を見ることができなかった。
「ごめん。許されないとは思う。でも気づいたらそうしてた」
美谷さんは押し黙る。俺は頭を下げたまま動くことができない。
「――骨は」
美谷さんが言った。
「え?」
「骨はどこに行ったんだろう。ポケットにも入ってない」
「あっ、美谷さんのご両親のなら、多分車の座席の上に」
美谷さんは血相を変えて車へと向かう。
「あった!」
「よかった。拾ったときそこに置いたと思ったんだ」
「どういうこと?」
「美谷さんが意識をなくしたときに、ビンが落ちたから拾ったんだよ。そしたら、美谷さんを死なせたくないなって思って」
しどろもどろになりながら俺は説明する。
しばらくの間があった。美谷さんはビンを両手でぎゅっと握り締める。
「佐々木くんのせいじゃないよ」
「えっ?」
「そうさせてくれたんだと思う」
美谷さんの指がほどけて、お骨がビンのガラス越しに顔を出す。美谷さんはビンを見つめた。
「やっぱりさ、葬式に出るのが嫌だったのかもしれないね」
美谷さんは微笑んだ。
――もちろん俺も美谷さんもそれはわかっていた。両親・祖父母が子供や孫の葬式に出たがるはずがないとわかってはいたけれど、あの世の論理ではそうじゃないかもしれない、俺たちがもう耐えられないことを理解してくれるんじゃないか、という都合の良い解釈でそれを塗りつぶした。あまり余裕がなかった。何か自分を愛してくれる大きなものにすがりたかった。
「……今はもう少し生きてみろってことなのかな」
美谷さんは訊ねるように言った。自分になのか、俺になのか、あるいは他の誰かに対してなのかはわからなかったけれど。
鈴虫が鳴いていた。蚊が体の周りを飛び回っていた。
これだって都合の良い解釈なんだろう。でも、
「そうかもしれない」
と俺は思った。