第九話 時子のさとり
第九話 時子の悟り
レポーターとスタッフが物陰からそろそろと這い出してきて、倒れた細川に恐る恐る近寄って行く。愛子はふうっと一息ついて、その場に座り込んでしまった。スタッフに囲まれた細川は暫く介抱されていたが、単に気を失った程度らしい。愛子はぐったりした体を再び立たせて、細川の様子を見に歩み寄った。細川の顔色は元に戻り、奇怪な表情は消え、瘧が落ちたように爽やかでもある。
愛子は細川の顔に纏わりつく乱れた髪を整えて、スタッフの用意したタオルで顔を拭いてあげた。
「時子さん、もう大丈夫! さあ、目を覚まして」
愛子は細川の頬を軽く揺する。
「う、うーん……」
細川は深い眠りから覚めたように、ゆっくり瞳を開けた。
「ああ、きみえ……、うっ、愛子さん……」
細川はそう言って、暫く無言。しかし突然ばっと半身起き上がった。スタッフは驚いて半歩飛び下がった。愛子は落ち着いて細川を優しく見つめる。
「愛子さん、ありがとう。あなたが除霊してくれたのね!」
愛子は何も言うつもりは無く黙っていると、
「私、強烈な霊に縛られて、その霊はあなたを目標にしていたみたい。そして私の力を吸い取って……」
「時子さん、もう終わったのよ。あの霊はあなたと私の心の襞の奥、許せない自分を全部そこに放りこんだところ……、わだかまる無意識の思いの力を使ったのよ」
細川は俯いて涙を滲ませた。やはり、細川も何かを見せられたのだ。
「……。私……、あなたを憎んでいたの、いえ、あなたのお母さんを」
「!……」
「私、昔ね、あなたが生まれる前の話。あなたのお父さんを愛していた。でも良治さんはあなたのお母さん、君江さんを選んだ。そしてね、君江さんと私は仲の良い友達だったの……」
愛子は突然、時子から父母の名前が出たことが信じられずに、呆然とした。
「私は大学時代、君江さんと同級だった。そして、良治さんに出会った」
時子は伏せ目がちな視線を天に少し向けて、柔らかい笑顔を少し寂しそうにした。
「あなたのお父さん、良治さんは私にとって、全てを理解してくれる兄のような存在だった。生まれて始めて、人によって自分が癒されることがわかったの。誰にも話さなかった自分の辛い過去が溶けるようで、辛くて泣いたこと、寂しかったこと、親のこと、育った施設のことみんな、良治さんに聞いてもらった」
時子の目が少し潤んだ。良治の面影を探すように。兄として信頼し慕う気持ちが何時からか恋しい気持ちに変わって行ったのだ。
愛子は父の若い頃の話に引き込まれ、黙って時子を見つめ聞いている。
「君江さんも良治さんに憧れた。愛子さん、あなたのお母さんは素敵な人だった。無垢で素直で怖いもの知らず、でもいつも人の苦しみを労わる人。私の過去の傷を癒してくれたもう一人はね、あなたのお母さんだった」
時子は再び愛子の目を優しく見た。
「あなたのお母さんは、体が弱くても人のことをいつも気遣い心配してくれる人だったの」
時子は愛子の右の手のひらを両手で優しく包んだ。涙で滲んだ瞳は小さな理解が灯っていた。
「君江さんは自分の命が長くないと知っていたのね」
愛子は母の面影を思い浮かべる。子供の頃、愛子を見つめたあの眼差しに本当の母の思いが見えた。そして傍に優しく立つ父、良治の茶目な姿の内側にも、同じ思いが見えたのだ。愛子の顔が崩れて涙ぐむ。
「良治さんは君江さんを選んだ。でもその当時の私には、それがどうしても許せなかったの。そして私は同時に愛する二人の人を失って、また一人になった」
その後の時子にとって、良治から君江と一緒に学んだことは役にたったのだ。審神占いの亜流とも言える時子の評判が高くなるのに時間は掛からなかった。やがて、それに芸能界が目をつけた。
「あなたがテレビに出始めて、私の気持ちは揺れた。あなたは友人の子で、私が愛した人の子。私を一人にした二人の子。そして若くて美貌もある。そんなあなたへの嫉妬心に霊が付け込んで来たのよ。私はそれをどこか心の深いところで判っていて、霊の付け込みを許していた。きっと良治さんと君江さんへの愛の裏返しだったのね」
愛子も周りのスタッフもあっけに取られて細川の独白に聞き入った。それは今まで細川が誰にも見せたことの無い表情で、素直に淡々と語る細川は、今までに無く清楚だった。何がそこまで細川を変えたのだろう。皆が疑問に思ったことだ。
レポーターがカメラマンに言った。
「カ、カメラ回せ! 細川先生を取るんだ!」
「止めてください! 細川先生と私の家族の個人的な話です。番組とは関係ないはず!」
愛子は強く言って涙を振りきり、レポーターとカメラマンを毅然と睨む。
「愛子さん、ありがとう。私ね。はっきりとわかったのよ。私の心とあなたの心、その奥底にある蠢く何かが……。あなたと私の深い心の中にあったものは、両方とも同じようなもの。余り違いは無いのよね。私は霊の目を借りて、あなたの心の襞まではっきりと覗いた。あなたのお母さんが死んで、周りをみんな憎んで、そして怒って……。その怒りと憎しみがあなたの心に奈落を作るのまで見た」
細川は優しい目線を愛子に向けた。そして、直ぐ俯いて言う。
「私はそれを焚き付けた。だって、私にも同じような憎しみと怒りがあったから。そして君江さんへの嫉妬。でもあなたは奈落に向かうその時に、大きな光りに包まれた。その中に君江さんの懐かしい笑顔があったのね。君江さんは私にも友達としての清々しい笑顔を向けてくれた。あの頃と少しも変わらずに。そしてあなたは透明な蒼い虚空になって、鏡のように私を写したの。その鏡に写った者はね……、奈落の底から顔だけだして、呪いの言葉を吐き散らす細川時子の姿だったのよ」
細川の独白にみんなは言葉も無く黙ってしまった。誰の心の奥底にも同じようなものが潜んでいることを無意識に重ねたのだ。
「そう……、辛い幻を見てしまったのね」
愛子は精一杯の思いやりを込めて言った。細川はそれを素直に受けて明るい眼差しになる。
「ええ、でもね。それからが凄かったの」
細川は愛子が蒼い虚空に消え去り、その透明なブルーに写った自分の醜い姿を見たとき、それは自分が心の奥底にしまい込んできた、本当の自分だと感じて絶望感が襲ったと言う。そしてその奈落の穴に沈み込んでしまおうと思った。だが一瞬早く、愛子の虚空が広がって奈落の淵まで包み込んだのだ。それは君江の虚空だったかも知れない。
そしてあっという間に、細川は奈落の底から押し上げられるように淵から放りだされた。その後から黒い塊が穴からどろどろと出てきて、細川の前に立った。奈落は跡形も無く消えたのだ。その黒い塊は碧い虚空の前で瘧が天に気化して立ち昇り、人型に変わった。見えてきたのは長い髪に白い髪留めを揺らす輝くような美しい壮年の男性だった。
「鎮魂帰神の法が説かれ、長きに渡る地の呪縛より解き放たれた。我らは再び自由を手にして、虚空の中に流離い楽しむであろう」
そう言うと、自らからも蒼い虚空になって消え入ったと言う。
「その時ね。私……、ああそうか。本当の私も虚空なのかもしれない。私たちの本体は霊では無いのね……」
細川が思い出していたのは、君江の笑顔だったかもしれない。
「ええ、時子さん。それが私の父母の教え。本当の人は霊ではない。霊とは人の思い。思いが人の心の奥に畳み込まれて、私たちの生き方に影響を無意識に与えているのね」
「そうね。私は人の本体が霊だと誤解していた……」
「人はその機織られる思いにさえ、気づいていられるの。 気づかれるものは人の本体にはなりえない。その気づいているものは何者か?」
細川は木漏れ日の指し込む天を見上げて、
「それを仏陀は『空』と言ったのね」
時子の顔に雨上がりの雨だれがぼつりと落ちる。それと合わせて、時子の目からは大粒の涙が溢れ、些細な誤謬が瓦解して空に帰った。
(了) 第九話 第一部 完
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