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霊能者
作:小説楽土



第四話 愛子の学び


第四話 愛子の学び



 君江がいなくなって十年が経った頃、ちょうど愛子が十五歳の時、田舎の祖父母の家から良治の家に移って一緒に暮らし始めた。地方都市の閑静な郊外にわりと広めの一軒家を借り、そこで父子の二人暮らしが始まった。良治が強く望んだことだが、良治は十年も愛子を放っておいたことに負い目があったのか、最初の内は愛子を腫れ物に触るように扱った。
 一緒に生活してみて、良治と言う父がとても一途な人だと言う事が直ぐに判って来た。普段は寡黙で時間があるといつも、読書をしている。しかしその姿勢は本と距離を置いて読んでいる佇まいなのだ。べつに老眼だからと言うわけではなく、愛子の感じたのはのめり込んで読んでいると言うより、なんだか精神統一をしているみたいなのだ。
 一生懸命さだけが何をやらしても伝わってくる。かと言って、堅物かというとそうではなく、愛子がテレビのお笑いを見てげらげら笑っていると、いつの間にか傍に来て一緒にげらげら笑っている。
 愛子が思春期の多感さで、ちょっとした事で泣いたり怒ったりすると、おろおろして部屋の中を行ったり来たりする。一人で「嗚呼」とか天に向かってため息をついたりするのだ。愛子はなんだかそんな父が可笑しくて、でもその優しさに頭に乗って甘えつくしていた。
 しかしそれも最初だけだった。なんといっても愛子の父、良治は普通の父親ではなかったからだ。二人暮らしが続いたのはほんの数ヶ月のことだった。その後はもう、ひっきりなしに人が訪れてきた。なぜか人々は父を先生と呼び交わし、非常に尊敬しているようだった。愛子が高校生活を送るようになると、父は『教祖』と呼ばれもした。そして多くの信者が率先して愛子の世話もしてくれるようになったのだ。和気藹々とした雰囲気を父が醸し出し、その時、家にいる全員が親類になったようで不思議に楽しかった。
 家に特別な団体の表札があるわけでもなく、人生相談が口コミで広まったらしい。
「良治先生はいつも二冊のノートを大事にされて、それに基づいて相談に乗ってくれるのよ。二冊ともあなたのお母さんが書き残したものと言う話で、一冊は日記、もう一冊は占いの方法が書いてあるの」
 愛子が古参の信者から聞いた話だ。高校生の愛子が父の相談現場に顔を出すことは無かった。それで興味が湧いて聞いてみたのだ。
《ふーん、お母さんのノートが基になっているんだ》
「良治先生の占いは凄いわよ。その辺の当たり障りのない占いじゃないのよ。過去も未来も見据えた上で、本当の幸せになるための確かな指針が語られるの。自分の感情の見守り方や霊の処し方も凄いわ」
「へえー!」
 と、愛子は驚いて見せたが、自分も霊が見えることは伏せた。八歳の時、山の神と出会って以来、心奥の自分が外側の自分を見る事にやっとなれてきた。そこには沢山の人の思いが霊として映った。祖父母に何度か打ち明けたが、母の君江もそうだったから気にしないで、普通にしていなさいと言われただけだった。
 しかし愛子にとって、問題は人の隠された嫌な思いが映ることだった。人は誰もがそう言う側面を持っている。そのことに気づくまでは大分時間が掛かったし、慣れたとは言え、そんなものが見えることは辛いことだった。
 不思議なのは父からそう言った変な思いが少しもしてこないことだった。父を見ると自分と同じように虚空が映るだけなのだ。時には母らしき面影も見えるときもあった。さらには愛子が映る時もあり、まるで鏡の部屋に入ったかのように、愛子がずっと遠くまで無数に映るのだ。そんな時は良治もまた何かを感じているらしく、愛子を優しくじっと見つめているのだ。
 良治も愛子もそのことを話し合うことは無かった。愛子は意図的に良治の活動から遠ざけられて、普通の高校生活を送った。そのために、愛子はいつの間にか自分の力を一時的に封印することを覚えた。しかし、ちょっとした問題は封印を解くとき、一度に様々な感受性が開き圧倒されことだった。
 ちょうど、母と病院の花壇の前で、花に話しかけたときのようだ。心が開いて、世界が言葉でない言葉で愛子に語りかけるような感じがする。愛子は母の思いに満たされるような気がして、しばしば涙ぐんでボーっとしてしまう。
 今日もまた、高校の帰り道に友人達と別れて一人になり、街路樹の道を歩きながら少しずつ封印を解いていた。季節は春。銀杏並木の所々に光りを称えた桜が満開だ。「あぁ」とため息が出る。甘い春の風が愛子の肩まで伸びた髪を梳いて、自分の存在を少しずつその風景に溶け込ませて行く。すると、風が銀杏の葉を一枚一枚楽しませるように揺らせているのに気づいた。中心部が深い緑、周辺が瑞々しい黄緑の銀杏の葉々が日を受けて透けている。それぞれが風を受け、日にきらきらと照らされて、光りと影も重なり、無数の色彩が輝いて揺れている。淡い桃色の桜の花びらが舞いながら風の動きを見せて、空に昇る桜と地に敷き詰められる桜に別れて行くのだ。
 二歳くらいの女の子が、母親に手を引かれ向こうから歩いてきた。赤いリボンの髪留めが揺れ、拙い足取りも揺れている。右の手のひらが虚空に開き、桜の花びらを掴もうとした。手を握り締め目元に持ってきて開く。目が見開かれ笑顔が浮かぶ。一片の桜が手のひらに付いていたのだ。母の顔を見上げて、
「ママ」
 そう言って、手のひらを母に差し出した。母は手のひらと女の子の目を順に見て微笑む。すると春風がまた吹いて、手のひらの花びらを空に運び、舞う桜に混ざってしまう。女の子の笑い声が聞こえた。
 愛子は通り過ぎるその親子を立ち尽くして見送った。
《ほうらね、愛子! 風はお花さんにも、人にも、幸せをいつも運んできてくれるのよ》
 そんな母の声が聞こえたような気がした。
「流離う風がお答えなのね、お母さん」
 愛子はそう呟くのだ。

 大学入学も何とか果たした頃、久しぶりに父が愛子を親子水入らずの旅行に誘った。山の温泉に一泊二日で出かけた。谷川を見下ろす二階の和室、湯気が川岸から立ち昇る。山にはまだ桜があって木々の若い緑との釣合いが美しい。
 部屋に入ると二人とも、畳の部屋に大の字になって天井を見上げた。開け放った窓から山の新鮮な空気が部屋に流れ込んでくる。雪解け水を運ぶ谷川の流れる音や鳥たちの囀りが、遅い山の春を告げていた。
 愛子は畳の優しさに開放感を楽しんだ。忙しい父ならなおさらだろうと思う。呟くように父が言う。
「愛子は本当に母さんそっくりになったな……」
 なぜか天井を見つめる父の声が懐かしい。四十を過ぎた父は今でも母を思っているのが伝わってくる声だ。
「お父さんは今でもお母さんを好きなんだ!」
「ああ、一日たりとも忘れたことは無いよ。愛子のお母さんは本当に素晴らしい人。そして特別な人だった」
「特別な人?」
「ああそうだ。とっても特別な人だった。愛子! おまえも大学生になる。そろそろ母さんがどんな人だったか、おまえに伝えるときが来たようだ」
 父はそう言って、大の字のまま大きく息を吸い込んでふうっと吐き出す。愛子は特別な人の意味が判らず、顔だけ父の横顔に向けた。
「愛子、お母さんは亡くなる少し前に悟りを開いたんだよ」
「……」
 突然、病院の花壇と母の姿が脳裏に強く浮かんだ。あの時の母が悟りを得ていたのかと思うと、母の微笑みが、その優しさがじわりと心に入り込んでくる。
「愛子、おまえが五歳の時、母さんが亡くなる少し前の病院の花壇のことを覚えているかい?」
 父も不思議に同調してその事を言った。
「ええ、お母さんと私が花壇の花とお話した……」
《お花さん、どうしてあなたはここにいるの?》
《愛子、お花さんはお返事したかしら》
《お花さん、なんにも喋らないの》
《そうね。それがお花さんのお答えよ》
《喋らないことがお答えなの?》
《そうよ、愛子》
 愛子はその時の母の顔を思い浮かべた。透き通るような肌に深い優しい眼差しが愛子を包むように見ていた。きっと花は喋れないのではなく、風に吹かれてそこに在ることが、花の言葉だと言いたかったのだろう。おぼろげに感じていたことが、父から言われてはっきりした。
「母さんは若い頃から自分の死期を判っていたらしい。私と結婚しておまえが生まれることまで知っていたんだ」
 父はゆっくり上体を起こして愛子を見つめる。愛子は寝ころんだままだった。
「母さんは子供の頃、山の神に出会っている」
 愛子は驚いた。自分にも山の神が現れて自分の中の虚空を教えた。母もまた同じ神に導かれたのだ。
「その神がおまえの内側にある虚空と同じものを母さんに教えたんだ」
 愛子は二の句が継げなかった。父は愛子の内側に虚空があることを見抜いているのだ。それを山の神が導いたことまで。父は立ち上がり、床の間近くに置かれたカバンを持ってきて愛子の前で胡坐をかいた。愛子も上体を起こした。その古い黒カバンはこんな場面があったかもしれない、そんな既知感が広がるきっかけになった。
 父は二冊の古ぼけたノートを取り出した。
「これは母さんがおまえと私に残した形見だよ。一冊は母さんの日記、もう一冊はおまえがこれから学ぶことが書いてある」
 畳の上に置かれた二冊の大学ノート、そこに窓から桜吹雪が舞い込んで落ちた。谷川のせせらぎに愛子の心が震えた。

 旅館から谷川に道を下ると、川辺に若やいだ緑に囲まれた露天の岩風呂があった。最初に男湯があって、数人の男達が湯につかっている。父はそこへ向かう。少し奥まった道から見えないところが女湯。谷川の水音がさらさらと聞こえ、散った桜が湯に浮かんでいた。
 温い湯に首までつかると、湯の表面に広がる湯気が動いて剥がれ、愛子の周りに立ち昇る。湯船の淵にある窪んだ岩に頭を寄せて、体を伸ばすと空が開けるように目に飛び込んできた。
母に山の神が現れて、自分のこの切ない虚空を同じように感じていた。父もまたそれを知っていた。愛子は母の思いが父と自分に確かに流れていると感じる。目にも見えず触ることできない思いは時も場所も越えて伝わるのだと愛子は思った。すると、湯の中の自分がゆっくり開放されるような気がした。
湯上りで温まった体に浴衣を着て、愛子は父と待ち合わせてそのまま散歩に出かけた。遠い昔の幼い頃が思い出されて、愛子は思い切って父と手をつないだ。父も愛子も照れくさいが、露天風呂から続く林道に人影は無い。
「母さんが嫉妬するかもしれないぞ」
 父が冗談ぽく言う。
「いろいろ、父さんと私に押し付けて先に逝っちゃったんだから、これくらいは良いでしょう。お父さんは十年も私を放って置いたんだし」
「ははは、そうだな。愛子にはもう、頭が上がらないよ。悟った母さんでさえ同じだと思うよ」
 木漏れ日で飾られた林道に、桜の花びらが深い緑を背景に静かに落ちてくる。父の手のひらは厚くて暖かい。子供の頃は父の指を握っていたなと思い出す。
「で、お父さん! これから私は何をすればいいの?」
 愛子はあごを少し上げて明るく言った。父は空を見上げて笑いながら、
「ははは、それはおまえが決めること。でもなあ、大学四年間はまだまだ勉強の時、母さんのノートも良く読んで、教団のセミナーにも参加してご覧! きっと愛子の道が見えてくるから」







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