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Sohmen
作:betymogu


L-1 そーめん

白鳥達を乗せたトランスポーターは、夕方近くになってやっとサーキットに到着した。
自分達のピットの前には、既にチーム員の永田が今や遅しと待っていた。
チームのエースライダーである中島が、勢い良く助手席から飛び降りる。
「おうっ、待ったか?」偉そうな口振りで中島が言う。
この世界で先輩に「待ちました」等とは言えず、永田は気まずそうに「いいえっ」と、顔を小刻みに横に振った。
その横で、小柄な女が会釈をしている。
続いて降りて来た白鳥に、中島が紹介を始めた。
「白鳥さん、こいつが地方選手権で250クラスを走る永田です」
「そして、その横にいるペンギンみたいのが永田の彼女の美幸ちゃんです」
「ペンギン?」思わず白鳥が聞き直すと、
「こいつチョコチョコとペンギンみたいに歩くから、そう呼んでんですよ」
ーと、中島が言うと、美幸は少し不服そうな顔をしながらも白鳥に挨拶をした。
白鳥は、全日本クラスの手伝いは良くしていたが、同じチーム員でも地方選手権クラスのライダーは殆ど知らなかった。

「良かったなお前ら、今回隆二が怪我で出場出来ないお陰でこんなピットに入れて」
中島が恩着せがましく言いながら、荷物を運ぶのを指示していた。
本来ならば、ピットを使用出来るのは全日本クラスだけで、地方選手権クラスはテントを張ってその中で整備をしなくてはならなかった。
テントを張る場所取りから、電気を遠くからコードリールで運んで、薄暗い中で整備をしなくてはならず、雨など降ったら堪ったものではなかったので、今回は中島が言うように彼等にとってはまたとない恵まれた機会だった。

荷物が全てピットに運び込まれると、メカニックはいよいよ整備にかかり、ライダーや白鳥の様な手伝いは殆ど用をなさず、退屈な時間となるのが通常だった。
しかし、今回全日本を出走するのは中島だけとなったので、監督兼メカニックの小田と白鳥だけのこじんまりとした体制になっていたため、カウルの拭き掃除などの雑用が待っていた。
夕暮れ時になると、地方選手権クラスや遠征費のない車泊するプライベートチームの、ヘルパーと呼ばれるライダーの彼女達が夕食の準備に取り掛かる。
そここから、ご飯の炊ける美味しそうな匂いが漂って来る。
いつもだったら、大抵この時間になると知り合いのチームにお邪魔して、摘み食いなどしている時間だった。

「白鳥さん、横風対策用にカウルに穴を開けといてもらえますか?」
そう中島は言うと、カウルとドリルをピットの外に用意すると、ガラガラガラッと、逃げるように勢い良くピットのシャッターを下ろした。
カーボン製のカウルに穴を開けるとファイバーの細かい粉が飛んで、これが肌に突き刺さると痒くて堪らないのだ。
それを知っていて、中島は白鳥を外に追い出したのだった。
白鳥は痒さに少し腹を立てながらも、もくもくと片側200個以上の穴を開けていた。
暫くすると、ガラガラッとシャッターが少し上がると、中島が嬉しそうな顔をしてカップ麺を美味しそうに食べながら、白鳥の作業の様子を覗き込んだ。
「なんだよお前、人に頼んどきながら自分だけ食ってんのかよ」
「えへへ」と、中島は悪戯っ子のように見せびらかして笑う。
白鳥は、馬鹿馬鹿しくなって途中で放り出そうかと思ったが、後もう少しなのでその挑発には乗らず、仕事を片付けるのを先にした。

やっと要望通りの数の穴を開けピット中に入ると、なんと既に全員食事を済ました後だった。
「何という奴らだ」と、白鳥は呆れ返り、再び外に出て腰を下ろし、ふてくされながらタバコを一服していると、「あの、これ良かったら」と声がした。
顔を上げると、美幸がソーメンを手に持って傍らに立っていた。
白鳥は、急に自分が子供染みているように思え恥ずかしくなった。
「あ、どうも」と、照れながらソーメンを受け取った。
今まで味気ないと思っていたソーメンの味が、なんとも美味く感じた。
美幸は、白鳥だけがまだ食事を取っていないのを知り、自分達の分を取っておいてくれたのだった。
殺伐とした遠征先で、そんなやさしい心遣いを受けるなんて思ってもいなかった白鳥は、そんな美幸の些細な思いやりに心を打たれる思いがした。


L-2 セッティング

翌日の練習走行は、良く晴れ渡り路面温度も適度にあったが、ストレートが向かい風で思うようにタイムは伸びなかった。
中島の出走する125CCクラスは、排気量が小さいため風の影響を受けやすかった。
それでも、他のチームとそんなに変わらないタイムだったので、中島は満足げな顔をしていた。
「白鳥さん、あれやっぱ良かったですよ」走行が終わり、ヘルメットを取るなり中島は汗を拭きながら笑顔で白鳥に礼を言った。
「あれだけ穴が開いてると、切り替えしが凄く楽になりました」
中島に笑顔でそう言われると、白鳥の中で少し燻ぶっていた昨日の夕食の件の腹立たしさと、
ファイバーの痒みはスッと消える思いがした。

永田の走行の時間となった。
タイムが伸び悩み、美幸はサインボードを出し終えると、頭を傾げながらタイムを記録用紙に記入している。
そんな様子を見ていた白鳥は、美幸のいるプラットフォームに駆け寄った。
「どう?」白鳥が声を掛けると、美幸は少し驚いた表情で顔を上げたが、
直ぐに笑顔で「駄目です」と首を横に振りながら、ストップウォッチを白鳥の顔の前に差し出した。
トップから5秒以上遅れていた。
これでは、明日の予選を通るかどうかも危ぶまれた。

数周永田の走りを見ても小康状態が続いているので、中島マシンの整備を終えて永田の走行を見ていた小田に白鳥は状況を説明した。
通常地方選手権クラスやプライベートチームのライダーは、専属のメカニックなどいなく、整備も自分自身で行っていたので、少ない練習走行の中でそう何回もピットインを繰り返して整備している時間はなかった。
白鳥は、美幸にピットインのサインを出すよう指示した。
ピットインして来た永田の表情は険しかった。
このままでは、予選落ちの危機にあるのが分かっていたからだ。

小田は永田の話を聞きながら素早くタンクを取り外し、キャブを取り出した。
中島と白鳥は、必用なパーツや道具を小田の手元に揃えた。
まるで、手術を行っているような光景で、次々と先を見計らってパーツを手渡す。
美幸は永田の汗を甲斐甲斐しく拭いながら、その光景を心配そうに横目で見ていた。
瞬く間にキャブ調整をし、サスペンションの調整も行い永田をコースに送り返した。
タイムは一挙に2秒縮まった。
これなら、明日の予選は何とかなる。
一同に、ほっとした表情が浮かんだ。
美幸の顔にも、やっと笑顔が戻って来た。

僅かな時間でも、同じチームとして行動や食事を共にしていると、直ぐに気心は知れてくる。
午後の練習走行になると、白鳥が中島にサインボードを出しているプラットフォームに、美幸の方から顔を出しに来るようになっていた。
「中島さんのタイムどうですか?」
「まあまあだね、ストレートの伸びは良いんだけど、インフィールドで手こずってるみたい」
「永田君の方はどう?」
「お陰様でセッティングの方向出たみたいで、機嫌いいです」
「そうか、良かったな」
何気ない会話にも、徐々に他人行儀なぎこちなさは薄れていた。
背伸びをしながら、見えない最終コーナーから出て来る中島を待っている美幸の横顔を見て、
白鳥は「この子、結構可愛いじゃない」と、思った。


L-3 貝

予選は、中島がトップから0.3秒遅れの4番手。
辛うじてフロントローを確保し、タイム的にも優勝を狙える好位置に着けられた。
永田の方は、トップから2秒遅れの16番手。
優勝の期待は薄いが、この中団からどんな追い上げを見せるか、初めて見る永田のレースに白鳥は期待をしていた。

決勝当日、白鳥、小田、中島の3人は、ホテルを6時に出発した。
途中コンビニで朝食を調達し、サーキットへ向かった。
サーキットのゲートをくぐると、遠くからエンジンの暖気をする音が聞こえて来る。
朝の冷えた空気と共に、前日までとは違ったピーンと張り詰めた意識に身が包まれる。
熱いコーヒーを一杯飲むと、中島はストレッチとランニングを始めた。
小田と白鳥はマシンを押し掛けすると、エンジンの吹け上がりをチェックし、タイヤウォーマーをタイヤに巻いて、朝のウォームアップに備える。
準備を終えると、先ほどコンビニで仕入れた軽い朝食を取る。
テーブルの隅で、永田が強張った表情をしている。
「おはよう、ゆっくり寝れたか?」
「はい、大丈夫です」と言って、永田はぎこちない笑顔を作った。
経験の浅い者としては無理のないことかも知れないが、白鳥はその表情の硬さが少し木に掛かった。

ウォームアップ走行が終わると、地方選手権のレースが直ぐに行われた。
まずまずのスタートを切った永田だったが、集団の中から抜け出るのに手間取り、セカンドグループの先頭に追い着いた時には、既にトップグループ5台からは6秒の差がついていた。
残り5周で先頭に追い付くには厳しいタイム差だった。
何とかセカンドグループの頭を抑え6位入賞をめざして欲しかったが、激しい4台による6位争いの末、最終ラップのシケインで他車との接触により転倒してしまい、
リザルトは残念ながら18位となってしまった。
疵だらけのマシンを押しながら、永田が項垂れて帰って来た。
「済みませんでした監督」と、小田に謝ると、永田はドカッと力なく椅子に体を落とした。
「怪我はないか?」との問いに、
「はい、なんともありません」と、頭をひとつぺこりと下げて返事をする永田を見て、白鳥は体のダメージはなさそうだと判断し、それ以上話しかける事は避けた。
美幸も永田の顔色を伺うだけで、何も言わず冷たいタオルと飲み物を渡すと、少し離れた椅子に腰を下ろした。
次はいよいよ、中島の決勝レースだ。
トランスポーターの中で、何時ものように決勝前のストレッチを中島がしている。
ストレッチを終え軽く白鳥にマッサージを受けると、中島はジンクスとしている赤いパンツに履き替え、革のつなぎに身を包んだ。
何時もはオチャラケタ陽気な大阪人の中島が、レーシングスーツに着替えると何故か凛々しく見えるから不思議だ、と、白鳥は思った。
この辺りから、白鳥は余計な言葉は掛けないようにしていた。
また、迂闊に声を掛けられない空気もあった。
ピットロードには、各車が綺麗に横一列に並べられ、ある者はマシンに跨り、ある者はしゃがみ込んでコンセントレーションを高めている。
取材カメラマンの要望に応え笑顔を見せる中島だが、その目は遠くを見ている。
ゲートオープンの青いランプが点灯すると、一斉にエンジンがかけられマシンはコースへと解き放たれて行く。
急いでタイヤウォーマーや工具、飲み物、冷やしたタオル、パラソルなどを持ってグリッドへ走る。
サイティングラップを終えて、グリッドに帰って来たマシンにスタンドを掛けタイヤウォーマーを素早く巻く。
気温が上がって来たので、ラジエーターのガムテープを一枚剥す。
ライダー紹介のアナウンスに手を振って応えると、中島が小田を呼びヘルメット越しに何か話しをしている。
マシンのセッティングの話しかと思えば、「ねえねえ、白鳥さん」と中島が呼ぶ、
「あそこの黄色いスカートの女の子」
「んっ?」と、白鳥が振り返ると、
「そんなにじろじろ見ちゃ駄目ですよ」
「前列3段目のあの黄色いスカートの子、パンツ見えるでしょ?」
ーと、嬉しそうに目を細めて中島が言った。
この男、さっきまでの緊張感は何処にも無い。
この辺がベテランの切り替えの速さというか、ただの助平というか、白鳥には理解のし難いものがあった。
その横では監督の小田も、さももっともらしい話しをしているような素振りでパンツの中に視線を向けている。
それをパラソルを持って聞いていた美幸は、「信じられない」と言った顔をしていた。
そんな、ふざけた事を言っていられない時間になって来た。
ライダー以外全員コース外に退去して、スタートの時を待った。
シグナルに赤いランプが付くとエンジンの回転数が上がり、青に変わった途端一斉にクラッチミートして、パーンと弾けた音を残して目の前をマシンが通り過ぎて行く。
その中で、一台だけバックしているように見えるぐらい止まっているマシンがあった。
中島だ! クラッチミートに失敗してエンジンの回転数が上がらない。
ようやく加速して1コーナーへ進入する頃には、ほぼ最下位だった。
「あ〜あっ、終わったよ、面白くねえ」
「あいつ貝のように固まりやがって」
小田は、そんな捨て台詞を残してピットの中に入ってしまった。
サインマンの白鳥は、仕方なく一人でプラットフォームに残り、大型のスクリーンに映し出されるマシンの中に中島のマシンを探した。


L-4 あれよあれよ

1周目、さすがに125クラスは混戦だ。
団子状態で目の前をマシンが疾走して行く。
白鳥は、右手にサインボードを持ちながら左手にストップウォッチを持って、上り坂を駆け上がって来るマシンを数えながら中島の姿を探していた。
「いた!」黄色いヘルメットが良く目立つ。
スリップストリームを使いながら、猛然と前のマシンを抜いて来る。
サインボードを横目で見る中島の目は鋭く、出遅れた後悔など感じられない闘志に満ちた目をしていた。
その目を見た白鳥は、27番手という順位ながら闘志が湧いて来た。
1コーナの進入でも2台抜いた。
1周で10台以上抜いた事になる。

1コーナーの先は、もう肉眼では見えない。
サインボードにラップタイムとポジション25を差込、大型スクリーンに映し出されるのを待つしかない。
しかし、スクリーンには先頭集団しか映し出されず、歯痒い思いで先頭争いを見るしかなかった。
2周目、大きな先頭集団が帰って来た。
10台近くで先頭争いをしているのでタイムが上がってない。
お陰で、後続も離されることなく繋がっている。
「これはいつも以上に混戦だ、そのままいけ」と、白鳥は願った。
中島は、自慢のストレートの伸びを生かして、面白いように抜きながら1コーナーへと飛び込んで行く。
また5台抜いて、22番手にポジションを上げた。

毎周、可笑しくなるくらい中島の順位はあがって行った。
白鳥は、これまでこんな経験はなく、ひとりにやにやしながらサインボードの順位を入れ替えていた。
ラスト5周になると、とうとう先頭グループの10台に追い着いた。
さすがにこうなると、ピットでじっとモニターなんて見ていられなくなったのだろう、捨て台詞を吐いた小田も、永田も美幸もプラットフォームにやって来た。
「おいおい、どうなってんだ?」嬉しそうに小田が目を丸くしている。
「中島さん凄いですね」さっきまで落ち込んでいた永田も、目を輝かせている。
「あっ、また1台抜きましたよ!」美幸が小躍りしながら白鳥に言った。
「もうっ、忙しいったらありゃしないよこれじゃ」と、笑いを堪えて白鳥は急いでポジションのカードを入れ替えた。

スリップを嫌うように、先頭のマシンが蛇行しながらストレートを通過して行く。
それをトレースするように2台、3台のマシンが蛇行しながら後を追う。
白鳥は、混戦の中でも見え易いようにサインボードを高く掲げた。
あとの3人は、腕をグルグル回しながら中島を迎える。
スリップを切ろうとする前者を追従することなく、中島は事も無げにまた1台抜いて行った。
小田は、自分のセッティングに満足するように「うんうん」と、頷いていた。

ラスト3周目、相変わらず10台による激しいバトルが続いていた。
中島は、8番手で1コーナーへ進入して行った。
その時、中島の前を行く1台がブレーキングを遅らせ勝負に出た。
1コーナーの先で、黄色い砂煙が上がった。
「やったぁ」一瞬嫌な思いが過ぎる。
みんな、不安そうな目付きで砂煙の向こうを見ている。
スタンドの観客もどよめき、他のクラスのチーム関係者達も一斉にピットロードに駆け出し、1コーナーを凝視している。
2台転倒したのは分かるが、マシンが見えない。
振り返って大型スクリーンを見ると、先頭の5台のマシンから少し遅れて中島のマシンが映し出された。
「よかった、無事だった」
一同安堵の表情に変わり、力無い笑顔になった。

「良かったけど、ちょっと離されちゃいましたね」永田が悔しそうに言う。
美幸は、下唇を噛んでいた。
「大丈夫、あのストレートスピードがあれば、また追い着くよ、ねえ監督?」
ーと、ちょっとからかうように白鳥が言うと、
「おっ、おう、多分」と、気を取り直して小田が控えめに応えた。
「ここまで充分楽しませてもらったけど、折角だからもうひと頑張りしてくれ!」
白鳥は、心の中から中島に声援を送った。

最終ラップの1コーナーで、中島はとうとう先頭グループに追い着いた。
ドキドキしながら大型スクリーンを見入る。
「焦るなよ」小田が呟く。
S字をぴたりと着いて駆け上がって行く。
ハイポイントコーナーも上手く脱出して来た。
「これはいける」誰もが確信した。
馬の背の進入で、予想通り1台抜いた。
4番手に上がった。
「行け!行くんだ、中島!」小田の拳に力が入る。
残るチャンスは、シケインか最後のストレートか?
「中島さん頑張って」美幸が思わず声を出す。
シケインの突っ込み、上手くインを突いた。
どうだ?
2台並んでシケインを立ち上がる。
そこから先は、スクリーンには映し出されない。
やきもきする一瞬だ。

チェッカーフラッグが用意される。
上り坂に、ちらっとヘルメットが見えて来た。
先頭の3台の後ろに、カウルの中に小さく身をかがめた中島がいる。
全員腕を振った。
「行けー!行けー!抜け〜〜!」
中島は、ゴールラインまでの距離を見計らってスリップから抜け出した。
それを邪魔しようと蛇行する前車。
並びながら蛇行する2台。
息を止めて、その攻防を見守る。
僅かに中島が前に出た。
八の字に振られるチェッカーフラッグの下を、中島のマシンが駆け抜ける。
「やったー!3位だ3位」
中島が得意げに、白鳥達がいるプラットフォームのコンクリートウォール擦れ擦れに駆け抜けて行った。
力強く握手を交わす小田と白鳥。
小田の目は、少し潤んでいるようにも見えた。

ウィニングランを終えて帰って来た中島は、ヘルメットを脱ぐなり
「白鳥さ〜ん、ちゃんとポジション出してくれなきゃ駄目じゃない」
「僕、ちゃんと走りながら順位数えていたんだから」と、
茶目っ気たっぷりに白鳥に文句を言った。
「よく言うよ、ストレートであんなに抜かれちゃ変えようが無いじゃない」と、
白鳥も笑顔で応酬した。
すると、横から小田が、「なんだお前、貝になりやがって」と、口を挟んで来た。
さすがにこれには中島も「済みませんでした」としか言いようが無かった。
「でも小田さん、僕頑張ったでしょ?」と、様子を伺うように中島が問い返すと、
「うん、良く頑張った」と、小田が笑顔で中島の方を叩くと、
「でしょう〜」と、何時もの陽気な中島の笑顔に戻った


L-5 蟻地獄

今シーズンは始まってまだ3戦目であったが、中島がお立ち台に上がるのは昨年の最終戦以来だった。
そして、今回のレースは30台近く抜いて追い上げ、3位入賞を果たしたことで、中島を酔いしらせるのには充分なストーリーだった。
優勝者をそっちのけで、ほぼ中島の独演会と化した表彰式は、笑いと冷や汗ものの連続だった。
レース界で、ベテランの部類にならないとなかなか出来ないことだし、また司会者からマイクを取り上げて勝利者インタビューが出来るのも中島くらいだろう。

シャンパンと自分のレースに酔った、赤ら顔の中島がピットに戻って来た。
チーム員一人一人と握手を交わす中島は、握手を済ますと手に持っていたシャンパンを相手に勧めた。
「白鳥さんも飲んで下さいよ」
中島勧められシャンパンを一口飲むと、空腹な胃壁にアルコールが染み渡るのが分かった。
中島は、表彰式でのシャンパンファイトでべとべとになった体のままで、武勇伝を語り始めた。
みんなは中島を囲み、残ったシャンパンを回し飲みしながら、目を輝かせて中島のレース実況に聞き入っていた。
アルコール度数が低いシャンパンの筈だったが、空腹とレースの余韻でみんなの顔は赤く染まり始め、ちょっとした宴会状態にそのピットの中だけはなっていた。

突然、中島が何を思ったか「そう言えばペンギン、お前姉ちゃんしたよな」と、言い出した。
「はい」
「姉ちゃんは幾つだ?」
「私より四つ上ですから、24ですけど・・・」訳の分からない顔をする美幸。
「白鳥さん独身なんだよ、紹介してくれない?」
白鳥は、何を言い出したかと少し驚いた顔で中島を見た。
「白鳥さんはお幾つなんですか?」美幸の事情聴取が始まった。
「え〜っと、もう少ししたら36になるけど」
「お仕事は?」
「寅さん、ですよね」と、嬉しそうに横から茶化す中島。
「寅さん?・・・?」
「馬鹿、寅さんの方が偉いよ、旅先で仕事してるんだから」と、小田が口を挟んで来た。
「何言ってんの、お金も貰わないでこうして手伝っているのに、ギャラくれるなら貰うよ」
ーと、少し口を尖らせて白鳥が反論すると、
「まあまあまあ、そこは友達って云う事で・・・」と、言って小田はその場を離れた。
「この人ねこう見えても業界君なの、ディレクターですよね?」と、中島がフォローに入った。
「えっ、テレビのお仕事ですか?」美幸の目が少し輝いた。
白鳥は、この業界という言葉が好きではなかった。
テレビというだけで、芸能人の知り合いがいると思い込み、華やかな世界を想像されるからだった。
白鳥の担当は主にモータ-スポーツで、芸能人とは殆ど無縁であった。
「フリーで仕事請けているから、仕事の合間にこうして来てる訳」と、白鳥は説明をした。
それでも美幸は、知らない世界に興味津々といった顔をしていた。

荷物をトランスポーターに積み込み、スポンサーさんの挨拶回りを済ませると、白鳥達はサーキットを後にして帰路に着いた。
帰りの車中も、中島のレース回顧録はまだ続いていた。
白鳥と中島を乗せた4トントラックの横を、永田と小田と美幸を乗せたワンボックスが併走している。
抜き様に、手を振る美幸の顔がやけに親しみ深く感じた白鳥は、美幸の笑顔が目に焼き付いていた。
「ねえ、白鳥さん、僕の話ちゃんと聞いているんですか?」
そう言われ、白鳥はハッとした。
「聞いてるよ、あんなに楽しいレース久々だったよ!」
その言葉に満足そうな表情を浮かべ、中島は再び饒舌にレース展開を語り出した。
白鳥も一緒になってその話に乗じていたが、時たま美幸の笑顔とソーメンの味が頭を過ぎっていた。

思わず白鳥の口から「あのソーメン美味かったなぁ」と、独り言のように出てしまった。
「もう、白鳥さんさっきからそのことばっかり言って、僕の話そっちのけなんだから」と、不服そうに中島に言われても、白鳥はその事を口にした記憶は無かった。
しかし、実際は話の相槌のように「ソーメン美味かった」が入っていたのだった。
「もしかして、白鳥さんペンギンの事気に入ったの?」
中島は、冷やかすように白鳥の表情を伺った。
「いい子だよね、あの子」と、無表情を装って白鳥はそっけなく応える。
「駄目ですよ、他人の女取っちゃ」
「分かってるよそんな事、そういう意味じゃなくて・・・」
「どうだかなあ、白鳥さん手が早そうだし」
「よく言うよ、俺はシャイなんだから」
「またまたまたぁ」
白鳥は、仲間内から「女たらし」というレッテルを貼られていたが、実際には仕事だとか条件が揃っていないと、自分から女に声も掛けられない男だった。
だが、一旦自分の懐に入って来ると開けっ広げに話をするので、女の子は気を許しがちになっていたのは確かだった。
白鳥自身、俺は蟻地獄のような男だ、と、思っていた。


L-6 閉ざされた部屋

東京に戻っても、白鳥の頭から美幸の明るい笑顔と、少し低目のハスキーボイスが離れることはなかった。
好きになっていたのは事実だったが、恋をするまでにはまだ至っていなかった。
ましてや、同じチーム員の彼女ということもあって、白鳥は心の何処かでブレーキをかけていたのかも知れなかった。

外の天気がどうなっているのか、昼なのか夜なのか、日にちの感覚さえなくなる薄暗いスタジオに2日も3日も篭っていると、起きている間中が長い一日で、食事の時だけが時間の経過を知らせてくれた。
何回目かの、朝食だか夕食だか分からない食事を済ませると、白鳥は久々に外の空気を吸いにスタジオの非常階段の踊り場に出た。
都内の空気とはいえ、外の空気は美味かった。
外は小雨が降っていた。
薄明るいので日中であることは分かったが、朝方なのか夕方なのかは直ぐには分からなかった。

タバコの煙を一息ふ〜っと吐き出すと、白鳥は腕時計を見た。
「1時か・・・」さっき食べたのは昼食だったことに気付いた。
現実の世界に引き戻されると、再び美幸の顔が思い出されて来た。
「会いたい」と、白鳥は思った。
しかし、電話番号も知らず声さえ聞けない。
チーム員名簿を調べれば直ぐに分かるが、そんなストーカーじみたことなど出来きずにもどかしい思いをしていた。

タバコを消すと、分厚い防音扉を開け、薄暗い部屋の中にスポットライトで浮かび上がるテーブルに白鳥は腰を下ろした。
タバコの臭いが染み付いた部屋の中は、精密機械の為にエアコンがキンキンに利いていて、夏場でもジャケットを着ていなくては長居出来なかった。
ホットコーヒーを一口飲むと、構成表を確認して白鳥はスタッフに声を掛けた。
「さあて、もう一丁頑張ろうか!」
「一之瀬君、さっきの所からもう一度流してくれる?」
オペレーターがVTRを流し始めると、再び時間のない時間が動き出した。

完徹2日なんて当たり前の世界だった。
白鳥は人一倍タフだったが、それでも時折スタジオ帰りの早朝には、信号待ちで気を失うように寝てしまうこともあった。
後ろの車のクラクションの音で目を覚まし、慌てて走り出すことなんてしばしばあった。
ボ〜ッと、上り坂の向こうに広がる低い空を見ていると、命の砂時計の砂がサーッと落ちるのが見える時もあった。
「こんなこと何時までもしていたら、きっと何時か死ぬな」と、白鳥はふと思った。
しかし、フリーのディレクターに仕事の選り好みなどなかなか出来なかった。
仕事があるうちは請けておかないと、何時干されるかも分からない厳しい競争世界だったからだ。
時たま、綱渡りの様な生活が不安に思える時もあった。
でもそれも、独身であるからまだ気が楽だった。

そう云えば、最近恋愛らしい恋愛などしていないな、と、白鳥は思い返していた。
何年か前に、婚約までしていた女がいたけれど、婚約して結婚準備に入ると次第に重苦しくなって来て、その女と一生暮らすことに自信が無くなり、重いため息しか出なくなっていた。
結局婚約は解消し、それ以来真剣に女を愛することを避けていた。
母親の死を目前にした時に取ったその女の行動が許せず、女に対する信頼を失っていた。
母の危篤の知らを聞いても、私用を優先したその女が信じられなかった。
それ以来、自身の綱渡りの様な生活も手伝って、結婚という言葉から遠ざかろうとしていた。
恋愛の延長に結婚という臭いを嗅ぎ取ると、白鳥は別れる方向に軌道修正をしていた。

愛は全てを優先する。
そう信じ続けたい気持ちの裏側に、愛以外のものによって覆されるのが嫌だ、という、強い気持ちが存在していた。
それは、愛とは呼べないものかもしれない。
しかし、苦難をものともせずに乗り越えてくれる愛かどうかなんて、その時になって見なけりゃ分からない。
また、自分自身、そんなに強い愛を持ちえているのかさえ分からない。
その時を待ち、お互いの気持ちを知るしか手立ては無い。
白鳥には、そこまで行く勇気さえ持っていなかった。


L-7 キューピット?

その日は、筑波で全日本ロードレースの最終戦の予選が行われていたが、引越しの日と重なり白鳥は予選は断念していたが、部屋の中が一段楽したら明日の決勝は見に行こうと思っていた。
部屋一面に広がった段ボール箱の山の中で、まず最初にテレビの配線だけは繋ぎ、プロ野球の日本シリーズを歓声が上がる度に、立ち上がって振り返って見たりしながら荷物を紐解いていたのだった。

そこへ、一本の電話が入った。
筑波へレースの応援に行っていた後輩からだった。
白鳥は、時計を見て予選結果の報告かな、と、思った。
しかし、後輩の声は深刻そうだった。
不吉な予感が走った。
また、隆二の奴転倒して怪我でもしたか?
わざわざ電話を寄こすほどの大怪我なのか?
一瞬にして、そんな事が白鳥の頭の中を駆け巡った。

「隆二が、隆二が死んじゃいました」
白鳥は耳を疑った。
「どういうことなんだ? 泣いてないでちゃんと説明してくれ」
後輩は、途切れ途切れの言葉で事情を説明してくれた。
予選の最中、ダンロップコーナーでハイサイドを起こし、マシンから放り出されそうになりながらも隆二はフロントカウルに覆い被さるようにしがみついて、マシンを必死にコントロールしようとしていた。
転倒を免れたものの、コントロールを失ったマシンはハイスピードのまま隆二を乗せてガードレールに突っ込んでしまった。
頭から突っ込んだ為、ほぼ即死だったらしい。

最悪のパターンだった。
転倒していれば、打撲か悪くても骨折で済んでいた筈だった。
隆二が何故そこまで必死にマシンにしがみつき、転倒を免れようとしていたのか、白鳥には痛いほど気持ちが分かった。
隆二は、一発の速さはあるがしょっちゅう転倒ばかりして、監督の小田によく怒られていた。
「人間の体はほっといても治るけど、マシンはそうはいかないんだ」
「金ばっかり掛けやがって!」
ーというのが、小田の口癖となっていたくらいだった。
そのくらい、隆二はよくマシンを壊していた。
ついこの間も、転倒して怪我をした傷が癒えて退院したばかりだというのに、無理をして転倒してまたマシンを壊し、小田に何時もの小言を言われたばっかりだった。
「今度壊したら、お前なんかクビだ!」という冗談を、真には受けていなかったと思うけど、「壊すまい壊すまい」と、必死にマシンに食らいついていた隆二の気持ちが分かるような気がした。

翌日、隆二は無言のまま家へ帰って来た。
夕方から通夜が始まり、チーム員やレース仲間が大勢隆二の家を取り囲んでいた。
みんな言葉数も少なく、俯いたまま焼香の番を待っていた。
白鳥が到着した時、美幸は既にその列の中にいて、お互いに目が合うと無言のまま目だけで挨拶を交わした。
美幸の会うのはあれ以来で、もう3ヶ月以上は経っていた。
玄関に折り重なるように並んだ靴を見るだけで、多くの人が駆けつけているのが分かった。
美幸の順番になると、美幸は靴を脱ぎ玄関に上がると膝を折り、自分の靴だけでなく他の靴も綺麗に並べ替えていた。
その姿はごく自然な動作で、他人の目を意識したものではなく、躾が身に付いている淑やかな女の姿として白鳥の目に映った。
その何気ない動作は、白鳥の心をしっかり掴まえていた。

葬式は翌日、近くの寺院で執り行われた。
チーム員総出で、道案内や受付の持ち場に着いた。
二十歳そこそこの若者の葬儀とは思えないほどの人が参列し、チーム員全員がお焼香を済ますことが出来たのは、かなり遅い時間となっていた。
一段落が着きお酒の席の呼ばれた。
座敷に上がる入り口で、白鳥にお清めの水と塩を掛けてくれたのは美幸だった。
「ありがとう、久し振り」と、白鳥が声を掛けると、
美幸も笑顔で「お久し振りです、お元気でしたか?」と、気さくに返事をして来た。
すると、横にいた小田の奥さんとサポート関係にある会社の奥さんが、
「あら、あなた達面識あるの?」と、聞いて来た。
「第3戦の菅生で一度・・・」と、白鳥がそこまで言うと、
「まあ、ここじゃなんだから私達も上がりましょ」と、奥さん達に誘われて、2階の座敷に上がることになった。

みんな悲しみを振り解くように明るく振舞っていたので、2階の大広間は既に賑やかな宴会場の様相を呈していた。
奥さん二人と白鳥と美幸の4人は、空いている隅のテーブルに着いた。
始めのうちは隆二の思い出話が話題となっていたが、お酒が進んで来ると奥様達の本題に入って来た。
「白鳥さん、ヘルパーの佐竹さんって知ってる?」
「佐竹?」
「佐竹奈津子さん、奈良の人なんだけど」
白鳥は、名前も面識も無かったが、どういう相手だか直ぐに分かった。
小田から以前話に聞いていた、奈良の不倫相手だった。
「僕は知りませんね、最近サーキットに顔出してないし」
ーと、惚けるしかなかった。
「じゃあ、美幸ちゃん、あなたは知ってる?」
「変なこと言うなよ」白鳥は心の中で言いながら、横に座っている美幸の顔を見た。
「私もあった事はないです」
「へんねえ、何で奈良の人がヘルパーになっているのかしら?」

サーキットに出入りしやすいように、小田が不倫相手の佐竹をヘルパーとして登録していたのだった。
「馬鹿」と、白鳥は頭の中で呟いた。
事態を飲み込んだ美幸も知らぬ存ぜぬを繰り返し、奥さん達のカマをかわしていた。
参ったなあという白鳥の表情を察した美幸は、話題を変えるべく白鳥にビールを注いだりテレビの仕事の話を聞いて来た。
暫くして、これ以上何も出てこないと観念した奥様二人は席を立って行った。
ふ〜っ、と二人は息を吐くと、互いに見合わせ笑い出した。
「参ったなあ、いきなり」
「白鳥さんは、本当に知らなかったのですか?」
「会った事はないけど、話しにはね」
「私は何回かお会いしたけど、まさかそんな関係だとは・・・」

「なあに、お二人さん仲良さそうじゃない?」
「もう、姉さん紹介してもらったの?」と、中島がビール片手にやって来た。
「まだだけど」
「早く紹介して上げなよ」
「でも、連絡先も知らないし・・・」と、美幸が言うと、
「なんだ白鳥さん駄目じゃない、名刺持ってるでしょ、さっさと上げたら?」
中島に言われるまま、白鳥は美幸に名刺を渡した。
「ほらっ、美幸ちゃんも電話番号教えて上げなきゃ」
「おいっ、誰か紙と鉛筆持って来い!」と、偉そうに後輩に用を言い付ける中島。
少し戸惑いながら、自宅の電話番号を書いている美幸がいた。
「白鳥さん、お姉さん可愛かったら、俺にも紹介して下さいよ」
嬉しそうな顔をした中島は、役目を果たした満足げな顔をしていた。
この男はただの世話焼きか?
それとも、本当は人を出しに使おうとしている強かな奴なのか?
白鳥には後者にしか思えなかったが、小母さんと中島の出現は、白鳥にとって思わぬキューピットとなったのだけは確かのようだった。
そして、最大の功労者は紛れも無く隆二だった。


L-8 賭け

数日後、自宅で仕事をしていると美幸から電話があった。
まさか、美幸の方から電話があるとは思っていなかったので、白鳥は喜びを隠せずテンションの高い声になっていた。
「こんばんわ、今大丈夫ですか?]
「うん、大丈夫だよ」
「姉の事なんですけど、本当に紹介して欲しいんですか?」
「いや、特別そんなには・・・でも、可愛い?」
「う〜ん、そうとは言い辛いですね」
初めて二人きりで交わす会話にはよそよそしい感じも無く、どちらかと言えば親しみのある会話が続いていた。

「ところで、家はどの辺なの?」
「所沢の方ですけど」
「俺は勘がいいから、大体教えてもらえたら家分かるよ」
「家の近辺は複雑ですよ、道は狭いし」
「じゃあ、賭けしようか?」
「エッ?何を賭けるんですか?」
「う〜ん、食事賭けようか?」
「いいですよ〜」
美幸もその賭けに乗って来た。
「じゃあ、これから行くわ、絶対見つけてやるから」
そう言うと白鳥は電話を切り、美幸に教わった大体の住所を地図の中から割り出した。
後は、二階建ての家というだけの特徴の無いヒントだけだったが、美幸の乗る白いシビックが最大の目印になると白鳥は思った。

白鳥の家から美幸の家までは、夜であれば小一時間で行ける距離だった。
車に乗り慣れ、方向感覚のある白鳥は、大体そんな時間で美幸の家の近くまでは難無く辿り付く事が出来た。
しかし、そこからが問題だった。
幹線道路から一本入った住宅街は、どれもこれも同じ様な造りで「二階建て」のヒントなど在ってないに等しかった。
迷路の様な細い道を、縫うようにそろそろとゆっくり走り、白いシビックを探した。
シーンと静まり返った夜遅い住宅街を、白鳥の車の排気音だけが徘徊していた。

美幸は、本当に来たらどうしようと思う反面、見つけてもらいたいような複雑な思いで落ち着き無く
ベッドに横になったり立ち上がったりしていた。
付き合っていた永田とは別れるつもりでいたが、まだはっきりと伝えていなかったので、少し後ろめたい思いもしていた。
白鳥と出会った後、永田が美幸に断りもなしに永田の実家へ美幸を連れて行く予定を立てていたのだ。
それも、婚約者としてだった。
その計画を知った美幸は、結婚など承諾もしていないのに、勝手にそんな計画を立てていた永田に対して非常に怒りを覚えいた。
その怒りは、それまでの永田の勝手な行動と全て繋がり、別れへと発展させていたのだった。

車の近付いて来る音がした。
美幸は、咄嗟に部屋の電気を消した。
そして、そ〜っと窓のところへ行き、少しだけ窓を開けると、息を殺して下の道路の様子を伺った。
ヘッドライトに照らし出された道と両側の塀が、車が近付くにつれ鮮明に映し出されて来る。
美幸は、カーテンの陰に隠れた。
ドキドキ胸が高鳴って来た。
「家の前で止まるのかしら?」
車はそのままゆっくり通り過ぎ、もう一度引き返して来たが、とうとう止まることなく走り去って行ってしまった。
胸の高まりが次第に治まって来ると、落胆している自分に美幸は気が付いた。
「なんで残念がっているんだろう?」
その意味が美幸自身にも分からず、釈然としないまま美幸は眠りに着いた。


L-9 負けても勝ち

翌日の夜、白鳥は負けを認めて美幸に電話を入れた。
美幸の母親は、見知らぬ男からの電話に少し訝りながらも美幸を呼んだ。
そして、電話が2階の美幸の部屋へと切り替えられた。

「負けた、全然分からなかったよ、悔しいけれど」
「だから言ったじゃないですか、難しいって」
美幸は、家の直ぐ近くまで来ていたことを、今教えるのは止めようと思った。
その様子を見ていた自分の姿を、想像されたくなかったからだ。
(期待してたなんて思われたくない、私そんなに軽い女じゃないもの・・・)
美幸は、昨夜の自分の事を思い出し、胸が高鳴って来ているのが分かった。
(何故、ドキドキしているんだろう?)
「それじゃあ、何時が都合が良い?」
「エッ? ああ、賭けのことですね?」
「こっちは、今週スタジオ入りはないから、何時でも合わせられるよ」
美幸は少し考えた。
休みの日を、わざわざ食事だけの為に空けたくはなかった。
「金曜の夜はどうですか?」

美幸の家の近くの、雑貨屋の前で待ち合わせとなり、白鳥は受話器を置いた。
美幸の家はまだ判明していなかったが、白鳥はその雑貨屋の前を昨晩何度も通り、古い郵便ポストが印象的だったので、直ぐにその場所が分かった。
そこから、美幸の家が近いと言う事が分かるだけに、白鳥には悔しさが甦っていた。
「悔しいなあ、後もうちょっとだったんじゃないか」
「多分、あの細い袋小路みたいな住宅街の一角なんだろうな?」
負けん気の強い白鳥は、何故後もう少し奥まで入らなかったのか?と、自分を責めた。
でも、白鳥にとっては、勝っても負けてもいずれにしろ美幸と会えるので、今回の勝負の負けは勝ちに等しかった。

金曜日の夕方、白鳥は待ち合わせの時間より早目に雑貨屋に着いていた。
「ここまでは、スムーズに来れるんだよなあ」
「あの雑木林の先の住宅街だよな、問題は・・・」
まだ、ちょっと悔やんでいるようである。
そんな事を考えていると、向こうから白い車が近付き、白鳥の車の横で止まった。
そして、運転席の窓が開いた。
「早いですね、直ぐ車置いて来ますから」
美幸はそう言うと、笑顔で手を振ってあの雑木林の先へと消えて行った。
「やっぱり」
白鳥は、自分の詰めの甘さに唇を噛んだ。

5分ほどすると、美幸が小走りにやって来るのがルームミラーに映った。
「お待たせしました」
そう一言ペコリと挨拶をしながら言うと、美幸は助手席のドアを開けた。
美幸は、初めて白鳥の車に乗るのに、全くといって良いほど違和感を感じていなかった。
美幸は、その事にシートベルトをして初めて気が付いた。
(なんだろう、この落ち着いた感じは?)
白鳥も同様に、美幸と初めて二人切りでいることに緊張はなかった。
それは、このシチュエーションが初デートとしてではなく、賭けの代償となっていたのが二人の気持ちを楽にしていたのかも知れない。

「お腹空いてる?」
「まだ、そんなにでもないですけど」
「何か好き嫌いとかある?」
「別にこれと言ってありません」
「あっ、そうそう、それから門限とかあるの?」
「特別ないですけど、12時くらいまでに帰れれば・・・」
「了解、じゃあ行こうか?」
ーと言うと、白鳥は美幸に行き先も告げずに車を発進させた。
白鳥には、往復の時間、食事の時間等を瞬時に計算して、既に行き先は決めていた。

車は関越に乗り、都心へと向かった。
そして、首都高、第三京浜を乗り継ぎ、横浜新道を走っていた。
美幸は、夕食をするのに一体何処まで行くのだろう?と、少し不安な気持ちになりかけていた。
「何処まで行くんですか?」
「もう直ぐ、ほら、あそこ」と、白鳥が指差す先に、丘の上にレストランらしき建物の灯りが見えた。
間もなく車は一般道へ降り、丘の上に向かう細い道を登りだした。

「着いたよ、そろそろお腹空いたでしょ?」
「はい、さっきからお腹が空いて来て、まだかなって思っていたところです」
ーと、美幸は茶目っ気たっぷりな笑顔で応えた。
白鳥は、そんな美幸の正直な態度が気に入った。
美幸は、ちょっと晩御飯食べるのに、こんなに遠くまで来たのは初めてで、
「変わってる人」と、そんな白鳥の行動半径に驚くと共に、理由の分からない気持ちの昂りに戸惑っていた。
(この人ちょっと得体の知れないところもあるけれど、この安心感はなんだろう?)
美幸の目は、レストランの灯りだけではない輝きを帯び始めて来ていた。


L-10 熱い涙

美幸は、高校時代卓球部に所属して選手だったこと、そして、今は週に2回エアロビのスクールに通っていること等を、珍しく自分から進んで話しをしていた。
白鳥は、美幸が自分の事を話してくれているのが嬉しくて、目を細めて聞いていた。
美幸は自分の事を話し終えると、チーム監督の小田との関係を聞いて来た。

最初はただの客だったのだが、ある日クラッチワイヤーを注文に行くと、そこの従業員が何を勘違いしたか、新車を発注してしまったのだ。
店先に並べられていた新発売のバイクが雨に濡れて綺麗に見えて、
「これは、なんていうバイク?」と、質問しただけだったのだが・・・。
3日後くらいに、「住民票と印鑑を持って来て下さい」という電話があり、不思議に思いながらも用意して店へ行くと、既に納車整備されたバイクが店先に置かれていて、狐に抓まれた感じのうちに買わされていたんだ、と、経緯を話すと、美幸は驚いた顔をしながら笑い出した。

「酷〜い、それじゃ押し売りみたいじゃないですか?」
「だろ? 俺も最初は冗談かと思ったけどね」
「カウンターの向こうでは、小田さんと奥さんがニコニコしてて」
「あれ?本気だ。 ・・・ま、いっか、って感じで買ったわけ」
それが縁で白鳥は、小田の店のツーリングに誘われたりしているうちに、プライベートでも良く遊ぶようになり、レースの手伝いもするようになった訳だった。

そんな話しをしているうちに、二人の気持ちが近付いて行ったのは、自然の成り行きのように思えた。
その後、二人はどちらからともなく電話をしていた。
そんな或る日の電話の中で、白鳥は美幸に対する気持ちを唐突に告白した。

「なんか君の事、好きになったみたいだ」
「こうして長電話していると言うことは、少なからずも君も好意は持っているということだよね?」
突然の告白に、美幸は少し戸惑った。
しかし、その言葉を待っていたかのように、喜びが胸の奥から湧き上がって来ているのも感じていた。
「そうですね」と、美幸は恥ずかしそうに小さな声で言った。
「嬉しいなー」白鳥は無邪気に喜んだ。
「でもぉ・・・」

美幸がそこまで言いかけると、白鳥にはその先に何を言いたいのか分かっていたので、
「いいんだよ、好意だけで俺は嬉しいんだから」
「今は、それ以上のことなんか望んでいないから」
ーと、永田の事を思い出しながらそう言った。
すると、美幸は胸の内を明かすように永田への気持ちを話し出した。
「私、この1ヶ月くらい別れようと考えていたんです」
「相談もなく、婚約者として彼の実家に連れて行かされそうになって」
「彼のこと、そこまで好きじゃないのがはっきり分かったんです」
「でも、まだ別れ話が切り出せなくて・・・」

白鳥の中でモヤモヤとしていたものが、すぅ〜っと消えて行った。
「それを聞いて、後ろめたさが少しなくなったよ」
「ごめんなさい、私がハッキリした態度とっていないばっかりに」
「俺の事は別として、永田にはちゃんと気持ちを伝えた方が良いな」
「はい、そうします」
電話を切ると白鳥は、部屋の中が急に明るくなったような気がした。
美幸の心の中には、はっきりとした固い決意が生まれていた。

美幸と永田は、同じ会社に所属していた。
美幸は、オートバイの設計部門でCADを担当していた。
永田は、試作バイクのテストライダーだった。
美幸は、昨夜の白鳥との電話で自分の気持ちに整理が着き、久し振りに心に晴れ間が見えた思いがしていた。
翌日、美幸は内線電話で永田に「今夜話したい事がある」とだけ伝えた。
永田は、このところの美幸の素っ気無い態度に腹を立てていたが、まさか別れ話が待っている等とは想像もしていなかった。

その夜仕事を終えると、会社の広い薄暗い駐車場の片隅で二人は向き合っていた。
「なんだよ、話しって?」
「まだ、あのこと怒ってんのかよ?」
永田は、腹立ちそうに言った。
「ええ、怒ってるわ」
暫くの間、話が蒸し返され言い合いが続いた。

「で、結論として何が言いたいんだよ?」
「もう、別れましょう」
毅然とした態度の美幸を始めて見た永田は、少したじろいた。
「なんだよ急に」
「急じゃないわよ、この1ヶ月悩んだ結果よ」
「あなたは、いつだって勝手なことばかりしてたじゃない」
「もう、耐えられないの!」
美幸の中で、それまで消化し切れずにいた物に一気に火が着いて、興奮していた。

「お前、誰か好きな奴出来たんだろ?」
納得のいかない永田には、それしか考えられなかった。
「何言ってんの?」
美幸は、その言葉に呆れ返っていた。
「あなたは、私の話の何処を聞いてたの?」
「反省とかないの?」
永田は、もう美幸の言葉など耳に入っていなかった。
嫉妬する心は、相手を探す事だけに執着していた。
そして、直感的に白鳥の顔が浮かんだ。

「お前、まさか、白鳥さんの事が・・・」
白鳥の名前が出ると、美幸の興奮した顔に一瞬後ろめたい表情が出た。
「そうか、そうだったんだ」
永田は、その表情の変化に気付いて、自分が振られる原因をやっと見つけた、と、思い込んだ。
「何時からなんだよ!」
「いい加減にしてよ、そんなんじゃないって言ってるでしょ」
「今までの自分がした事、私達の事考えてよ」
「それが分からないのなら、もう話すことなんかないわ」
「さよなら」

そういい残すと、美幸は車に乗り込みその場を走り去った。
走りなれた通勤路が、真っ暗な見知らぬ夜道になっていた。
悲しさではなく、悔しさがこみ上げて来ていた。
「あの人は、私の事なんてちっとも理解しようとしていない」
そう思うと、涙が零れ落ちて来た。
「なんで、あいつのことで泣かなきゃいけないの?」
それでも、熱い涙は流れ続けて来る。


L-11 川の流れのように

美幸と永田が、別れ話で拗れている事など何も知らない白鳥は、来週のオンエア分の作業を自室で夜を徹して行っていた。
すると、明け方近くに電話が鳴った。
「誰だろう?こんな時間に」
「一瞬海外からか?」と、思いながら受話器を上げると、暗い男の声がして来た。

「白鳥さんのお宅ですか?」
「そうですけど、どちら様ですか?」
「永田です」
名前を聞いて、白鳥の心臓はズキンと鳴ったように思えた。
しかし、声は平静を装って「どうしたんだ?こんな時間に」と、応えていた。
「白鳥さんは、美幸の事どう思っているんですか?」
「どうって・・・」白鳥は、さすがに答えに戸惑った。
永田は、後輩の立場であるため怒鳴ることも出来ずに、静かに押し殺した精一杯の語気を込めて言った。
「僕達が付き合っているの、知っていますよね」

白鳥は、黙って永田の話を聞いていた。
そして、昨夜美幸が別れ話を持ち出したことを始めて知った。
永田は、美幸の心が離れたのは、白鳥に気持ちが行ってしまったからだ、と思い込んでいて、
「返して下さい」の一点張りだった。
「確かに、俺はあの子は良い子だと思っているよ」
白鳥は、正直に好意を持っている事と、一度食事に行った事を話した。
「やっぱり、そうだったんじゃないですか!」
「ちょっと待てよ、俺が原因で別れたと思っているのか?」
「お前達の間で、その前に何か原因があったんじゃないのか?」
白鳥は、もう一度自分達に原因があるかどうか、永田に考えるよう託し電話を切った。

「とうとうペンギンは話したんだ」と、白鳥は後ろめたい気分の中で呟いた。
美幸の事を「美幸」と、まだ呼び捨てにする間柄でもなく、そんな自覚の表れとして白鳥は、美幸の事をみんなと同じく仇名の「ペンギン」と呼んでいたのだった。
その日の晩、白鳥は美幸の家に電話を入れた。
そして、今朝の永田からの電話の内容を話し、どういう別れ話をしたのか聞いてみた。
やはり、永田の思い込みであることが分かった。
美幸は、「どうもご迷惑かけて済みませんでした」と言って、電話を切った。

白鳥は、少しほとぼりが冷めるまで、美幸と連絡は取らない方がいい、と思った。
しかし、その後深夜、早朝と関わらず、永田からの電話は毎日続いた。
時には泣きながら白鳥に愚痴を零し、言う台詞は決まって、
「勘弁してくださいよ、お願いしますよ、返して下さい」だった。
そんな話を4日も5日も聞かされていると、その女々しい態度に白鳥は段々腹が立って来ていた。

「お前は、自分に原因がないと持っているのか?」
「そんなに疑うのなら、お前達の前ではっきり約束してやるよ」
「1ヶ月、ペンギンとは会いもしないし電話もしないって」
「そうしたら、俺が原因で別れたんじゃなくて、自分達に原因があったって思えるか?」
「ええ、まあ・・・」
永田は、それを聞いて美幸が戻って来る錯覚がした。 
白鳥の申し出を快く受け、3人で合う日が決まったら連絡すると言って、機嫌良く電話を切った。
「勝手にこんな約束して、ペンギンに悪い事したかな?」
「でも、その方がいい」白鳥は、そう自分に言い聞かせた。

その日がやって来た。
夜7時、美幸の家の近くの例の雑貨屋前で合うことになった。
暗がりの中で、街灯に浮かび上がる三つの影が、ぎこちない格好で立ち竦んでいた。
白鳥が、痺れを切らしたように口を切った。
1ヶ月間電話もせず、それでもペンギンの気持ちが変わらないようであれば、原因は自分達にあったとして別れ話を受け入れる、と、永田は約束してくれた。
そうでもしない限り、永田は納得しないだろうし、永田自身自分を顧みることも出来ないと思う。
そうなると、ただわだかまりが残るだけで、綺麗に別れる事も、別れを解消する事も出来ないと思う。

白鳥の話を黙って俯いて聞いていた美幸が顔を上げると、
「永田君はそれで本当に分かってくれるの?」
「おお・・・」
永田は、ぶっきらぼうに仕方ないと言った風に返事をした。
「言いたいことがあったら、はっきり言ってよ」
永田は、気まずそうに口ごもるだけだった。
白鳥の前では、話し辛いこともあるのだろう。
それを察した美幸は、「ここじゃなんだから、家へ行きましょう」と言って、二人を家に連れて行った。

「ただいまあ」
美幸がドアを開けると、奥からお母さんが出て来た。
「お母さん、この方はチームのマネージャーをしている白鳥さん」
「あっ、今晩は、夜分お邪魔します」
「いらっしゃい、さ、どうぞおあがり下さい」
勧められるままに白鳥は応接間に入った。
すると、美幸が「少しの間ここで待っていてもらえますか?」
「後で、白鳥さんにもお話しがありますので」
そう言うと、美幸と永田は2階の美幸の部屋へと上がって行ってしまった。
一人取り残された白鳥は、落ち着かない様子で何もない天井を見渡したりしてポツンと座っていた。

そこへ、お母さんがお茶を持って入って来た。
「何が始まるんでしょうね、物を壊さなければ良いけれど」と、2階の方を見上げながら独り言のようにお母さんは呟いた。
その茶目っ気のある言い方に、白鳥は思わず笑ってしまった。
「白鳥さんと美幸は、どういうご関係?」
「何回かお電話頂いていますよね?」
「チーム関係者だけの関係とは言わせないわよ」と、白鳥には聞こえた。

このお母さんには、下手な言い逃れは出来ない。
そう判断した白鳥は、きっぱりと「好きです」と、応えた。
「やっぱり」
「最近あの子、様子が可笑しかったのよ」
「ねえ」と、お母さんが後ろの気配を感じたのか振り返ると、
立ち聞きをしていました、と言った感じで、若い女の人が入って来た。
以前、中島が紹介しろと美幸に頼んでいた、お姉さんその本人だった。

二人は、2階の様子と白鳥の事が興味津々、と言った感じで、事情を聞き出そうとしている様子だった。
「私ね、前々から永田さんって好きじゃなかったのよね」
ーと、いきなりお母さんが言い出すと、
「私も、白鳥さん、私達応援するから取っちゃいなさいよ」
ーと、お姉さんも凄いことを言い出した。
白鳥は、嬉しい援軍が出来たとはいえ、どう言って良いか分からず、ただ照れ笑いして誤魔化すしかなかった。

お母さんは、無邪気と言うか面白い人で、白鳥は一発で好きになっていた。
お母さんの方も、お愛想ではなく白鳥の事をひと目で気に入ったらしく、好意的だった。
「白鳥さんは、カラオケとかしますか?」
「はい、上手くはないですけど、たまにみんなと行きます」
「私美空ひばりが好きで、『川の流れるように』を今練習しているんですよ」
「良かったら、今から行きません?」
「上のことなんかほっといて」
突然の意外な申し出だったが、白鳥も、お母さんの事が気に入ったので、快く二人で出かけることにした。
「じゃあ、あそこのスナックへ行って来るから、後頼んだわね」
そう、お母さんが玄関で言うと、
「ごゆっくり」と、お姉さんが笑顔で見送ってくれた。
「なんか変な感じだ」と、思いながらも、白鳥はすっかり美幸たちの事を忘れて、お母さんと連れ立ってスナックへと向かっていた。


L-12 梅雨明け

白鳥とお母さんが懐メロをデュエットしていると、そこへ美幸が入って来た。
美幸は薄暗い店内を見渡し、二人の姿を心細く探していた。
すると、何処かで聞き覚えのある声がスピーカーから流れて来ているので、奥のステージに目をやると、初対面の二人が楽しそうに歌っている姿を見て、美幸は唖然とした感じでその場に立ち尽くした。
美幸の姿を発見したお母さんは、右手にマイクを持ち唄い続け、美幸にニッコリと笑顔を送ると、左手で小さく手を振った。

「あ〜楽しかった、白鳥さんお上手ね」
「そんなことないですよ」
二人の和気藹々とした様子を見て、美幸はちょっと嫉妬する気持ちにも似た感情と、2階の部屋での永田との話し合いを思い出し、馬鹿馬鹿しい白けた思いになっていた。
「白鳥さんも母さんも、楽しそうね」と、嫌味を込めて美幸は言った。
「・・・で、どうなったの話しは?」
お母さんは、少し拗ねている娘の顔を立てるように話を振った。

「別に、どうにもならないわ」
「どういうこと?」お母さんには、事情が良く飲み込めていなかった。
「どうって、戻るつもりなんかないわよ」
美幸が、ちょっとムッとして言うと、お母さんは嬉しそうな顔をして、
「良かったわぁ、この際だから白鳥さんとお付き合いしちゃえば?」
ーと、悪戯そうな顔で美幸の顔を覗き込んだ。
美幸は一瞬目をきょとんとさせると、照れたような顔を背けると、テーブルのビールを一口飲んだ。

白鳥は、その話のやり取りを聞こえてない振りをしていたが、お母さんが強力な援軍だからと言う訳ではなく、そのサバサバとした性格に惚れ、益々好きになっていた。
美幸は、自分の置かれている状況を無視するようなこの二人に呆れると共に、初対面の自分の母とこんなに仲良くしている白鳥が不思議に見えていた。

それから、白鳥は特にやきもきすることもなく1ヶ月を過ごしていた。
お母さんの援護があるからといって、勝ち誇ったようになっていた訳でもなく、美幸の気持ちに確証を
持っていた訳でもない。
何故か、不思議と穏やかな時間が流れていたのだった。

結論が下される時がやって来た。
永田は美幸に電話をしたが、美幸の固い決心が変わることが無いと思い知らされると、ようやく自分の胸に手を当て、手を引く覚悟を決めた。
美幸にとって長かった一ヶ月が過ぎ、受話器を置いた美幸の肩から重いものがふっと取れて、澱んだ胸の中の霧がサァ〜ッと晴れ渡る思いがした。
「あ〜っ、やっと終わった」ため息と共に美幸は呟いた。

美幸はこの一ヶ月間、別れる事に対しての後悔とかは全く無く、あっさりしたものだった。
それよりも、白鳥の心変わりの方が気に掛かっていた。
「好きだと言ってくれたあの言葉、まだ覚えていてくれるのかしら?」
「好きって、どういう好きだったのかしら?」
そんな事ばかりを考えていた。
そして、考えれば考えるほど、白鳥への気持ちが高まって行くのが分っていた。

すると、階下から母親の声がした。
「美幸〜っ、白鳥さんから電話よ!」
美幸は、一筋の暖かい光を浴びた感じがした。
「もしもし、久し振り、白鳥だけど、元気?」
「はい、白鳥さんは?」
お互いに、直ぐには決着の話を切り出せずにいたが、美幸は胸の痞えを取るように話し出した。

「あのぉ、さっき永田君と話して、別れる事になりました」
「そうか、で、永田は自分の事は反省しているようだったか?」
「たぶん・・・」
「なら、良かったってことか・・・」
「・・・・・・」
美幸は、もう永田の事は考えたくなかった。
「白鳥さん、今度の休みは何時ですか?」
「週末は空いているよ、どっか行く?」
「はい、ドライブに連れて行って下さい」
美幸も、もちろん白鳥も、その言葉でやっと解禁日が開けた思いがした。
二人の心の中は、スカッとした梅雨明けの青空が広がっていった。


L-13 葡萄色の朝焼け

週末の土曜の朝は、二人の解禁日を祝うような真っ青な空と葡萄色した朝焼けの雲が迎えてくれた。
黄金色した太陽が煌きながら、東の高層ビル群の上に登って来る。
小鳥達がさえずる中、白鳥は朝露に濡れたバイクのシートを拭いていた。
「今日は、絶好のツーリング日和だ」
東の空に浮かぶモコモコした葡萄の房の様な朝焼け雲が、深い葡萄色から徐々に紫やピンク色を帯びて来る。

今までに見たこともない朝焼けを、白鳥は何度も東の空を見上げていた。
「この朝焼け雲を、ペンギンに見せて上げたい」
白鳥が逸る気持ちでセルボタンを押すと、低い排気音が静まり返った朝を叩き起こした。
フルフェイスの顎紐を締めると、何時も気持ちが引き締まる思いがする。
「さあ、出陣」といった感じがしていた。
グローブを嵌めると、エンジンの暖機もそこそこにゆっくりとアクセルを開け、排気音に気を使いながら静かに住宅街を抜けて行った。

美幸の家に着く頃には、あの鮮やかだった朝焼けもすっかり色褪せていて、白鳥はそれが残念でならなかった。
「おはよう、久し振り!」
「朝焼け見てた? もっと綺麗だったんだよなあ」
ーと、白鳥がちょっと悔しそうに空を見上げながら言うと、
「凄かったですよね、私も見てました」
美幸が目を輝かせながらそう言うと、白鳥は救われた気持ちになった。
美幸は、2階の窓から白鳥を待つ間ずっと朝焼けを眺めていたのだった。
白鳥は、美幸に用意したジェット型のヘルメットを手渡した。
さすがにライダーのヘルパーをしていただけあって、手馴れた感じでヘルメットを装着している。
白取は、ちょっと感心しながらその様子を見ながら、小柄なヘルメット姿の美幸が勇ましく思えた。
そして、銀色のヘルメットの中のきょとんとした美幸の顔が、1ヶ月ぶりに見るせいかとても可愛く見えた。
「お待たせしました、準備OKです」
「じゃあ、行こうか」

エンジンを始動すると、美幸はひょいと後部シートに跨った。
そして、照れる様子もなく、白鳥の腰に密着するように腰を前にずらした。
美幸は小柄というだけではなく、バイクの後ろに乗るのが上手かった。
ブレーキをかけても白鳥に伸し掛かることもなく、バイクをコーナーで倒しても素直に白鳥について来た。
まるで、二人乗りをしているのを忘れさせるほどだった。
「後ろに乗るの上手いな」
「そうですか? そんなに乗ったことないですよ」
そう言う美幸の顔を見ると、少し険しい目付きに思えた。
白鳥は、風のせいか?と、思った。

白鳥は、以前付き合っていた女を乗せていた時に、つい一人で乗っている時のようにコーナーでハングオンをしてしまい、えらく怒られたことがあった。
コーナーの進入でバイクを倒しこみ、膝を擦るように体をバイクの内側に落としたので、ボーッとして乗っていた後ろの女の子からしてみれば、突然前の運転手が目の前から消えたように見えたのでビックリしたのだ。

白鳥は、山道に差し掛かるとつい癖で、再びハングオンをしてしまっていた。
しかし、美幸は上手いこと一緒にそれに合わせて、後ろでハングオンをしていた。
それに気が付いた白鳥は、それを楽しむかのようにハングオンを繰り返し、峠道を登って行った。
「ちっとも怖がりもせず、やるじゃん」
そう思いながらふとバックミラーを見ると、美幸の目付きはさっき見た時以上に険しく見えた。
その目線といい、姿勢といい、美幸はすっかり自分が運転しているような気分になっているようだった。
白鳥は、その表情が可笑しくて、笑いを堪えながらハングオンをしていた。
そして、「可愛いな、この子」と、思った。

頂上の湖に着いて、ヘルメットを取った美幸の表情は清々しい満足げな顔をして、髪を両手でかき上げていた。
「怖くなかった?」
「いえ全然、気持ち良かったです」
「だろうね」
「えっ?」
白鳥は、笑いながら美幸のさっきまでのライディングスタイルを話した。
美幸も、少し照れた様子で笑っていた。

初デートは、車でなくバイクで正解だった。
体を密着させることで親近感は自然に湧き上がり、相手に身を任す気持ちも車以上にあるためか、多くの言葉以上にボディーランゲージは効果を発揮していた。
その為、手を繋いで歩くこともごく自然に、どちらからともなく行われていた。

二人は、湖畔の草の上に腰を下ろした。
キラキラ輝く湖面を見ながら、白鳥はアメリカへ渡った時の珍道中や、ちびっ子ギャングとレース界で呼ばれている小田と中島のこれまでの悪行三昧を、面白おかしく聞かせた。
美幸は、少しずつベールの剥がれて行く白鳥の実像を、微笑ましく聞いていた。
そして、「私はこの人に惹かれている」と、ハッキリ自覚し、しっかりとした目で白鳥の顔を見ていた。
「この人のこれまでの生き様も、感性も、私が知っている今までの人達とは違う」
美幸は、「もっと知りたい」という欲求に駆られていた。

峠の上の茶店で、ジャガイモを磨り潰して油で揚げた芋団子を、バターを着けて少し遅い朝食とした。
二人を乗せたバイクは、何処へ行くとも定めず森の中を、高原の上を走り去っていた。
夕闇が迫る帰り道、二人は山の上から沈む夕陽を眺めていた。
黄昏が二人を包みだすと、少し肌寒くなって来た。
白鳥は、タンクバックからトレーナーを取り出すと、それを美幸に着せた。
「ありがとう」美幸はそんな心使いが嬉しかった。
白鳥は、優しく微笑みながら美幸の手を取って、崖の上に設けられた柵を跨いで腰掛けた。

次第に遠くの山並みが黒く染まり出すと、眼下には宝石を散りばめた様な街の灯りが瞬き出していた。
時折流れる山の冷たい風を遮るように、白鳥は美幸の腰に手を回して体を密着させ、無言のまま夜景を眺めていた。
トレーナーの乾いた肌触りの中から、暖かい美幸の温もりが伝わって来る。
白鳥にはその温もりが掛け買いのないものに思え、美幸が愛しく思えて来た。
「キスして良い?」
白鳥の突然の言葉に一瞬美幸は驚いたが、美幸も心の何処かでそれを待っていた。
美幸は黙ったまま白鳥の顔を見上げると、そっと目を閉じた。


L-14 諦めなさい

白鳥と美幸は、どちらも交際宣言などすることも無く、初デートの日から交際が始まっているようだった。
その後、二人は毎日のように電話で話し合い、美幸が白鳥の家に訪ねる機会が多くなっていった。
白鳥の家は、母親が10年前に亡くなっており、定年間際の父親と二人暮しであった。
父親は、美幸の事が気に入っているようで、旅行へ行く度に美幸用のお土産を買い込んでいた。
もちろん、今だかつて白鳥にお土産など買って来た例はなかった。
美幸が訪ねて来ると、白鳥などそっちのけで旅行の話しなどを美幸と話し込んでいた。
そんな父親の姿を見ていて、白鳥は、「女が一人いるだけで、家庭ってこんなに明るくなるものなのか」と、実感し、家庭と言うものに少し憧れを持ち始めて来ていた。

二人が付き合い始めて、3ヶ月ぐらいが過ぎようとしていたそ或るドライブの帰り道、美幸は話しの脈絡など全く無く唐突にこう言った。
「諦めなさい」
当然、白鳥にはさっぱり訳が分からなかった。
「えっ、何が?」
「諦めなさい、あなたは私と結婚するんだから」
美幸は、ハンドルから手の離れた白鳥の左手を握りながら、きっぱりとした口調で言っていた。
呆気に取られている白鳥が美幸の顔を見ると、ニッコリ微笑みながらもう一度念を押すように、「ねっ、諦めなさい」と、優しく諭すように、そして、「拒絶なんて許さないわよ」と、いた意味も込めて言った。

美幸の意志の固い決意の言葉は、当然白鳥を喜ばせていた。
しかし、白鳥はフリーと言う明日をも知れぬ、綱渡りの様な職業に不安を感じていた。
そんな人生の道連れにする勇気は無かった。
「そんな生活でも良いのか?」
白鳥は、一応聞いてみた。
一応というのは、最初のうちは誰だって「貧乏でも構わない」って、言うに決まっていたからだ。

「構わないは、私は、あなたがあなたであれば良いの」
「ヤクザだろうが、何をしていようが良いの」
「私は、あなたと一緒に暮らしたい、それだけ」
美幸の毅然とした態度と、「何をしていても構わない、一緒に暮らしたい」
その言葉が白鳥の心をしっかり掴んだ。
白鳥が、長い間女の言葉として待っていたものに感じた。
そして、ふっと、美幸と楽しそうに話している父親の顔が浮かんだ。
「お袋には出来なかったけど、せめて親父には親孝行しようか・・・」
ーと、白鳥は、しみじみそう思うのだった。

「分った、諦めた」
白鳥は微笑んでそう言うと、美幸の手から振り解いた左手で、美幸の顔を引き寄せ唇に軽くキスをした。
甘い空気に包まれた車は、対向車も来ない細い山道を、ゆっくりと峠を越えて行った。

「しかし、何で俺と結婚しようと思ったの?」
「それはね、あなたといたら、きっと一生飽きないと思ったから」
美幸はぺロッと舌を出して言った。
それを聞いて、美幸がこうも早く結婚を決意した訳は、多分珍しい玩具を手放したくない、そんな子供の様な感覚と一緒なのかな?と、白鳥は思った。
そう思うと、さっきまでの毅然とした態度とは裏腹で、美幸の事が妙に子供のように感じて可愛く思えて来た。

白鳥の家に着くと美幸はご機嫌で、手料理を振舞うと言い出した。
それは、唯一のメニューと思われるカレーだった。
テーブルには、嬉しそうにカレーを待つ父親がいた。
得意げな顔をして、美幸がカレーを運んで来た。
「さあ、どうぞ」
「いただきま〜す」
味はそう不味くはなかったが、少々水っぽかった。
白鳥は、ほんの冗談のつもりで、「このカレースープ美味しいね」と言った。
父親は、ハラハラするように「美味しいよ」とフォローしていたが、美幸の顔は明らかにムットしていた。

それから直ぐに、美幸は料理教室に通い始めた。
口では花嫁修業だと言っていたが、かなり頭に来ていたようだった。
白鳥は、仕事が空いている時はそんな美幸のご機嫌を取るように、料理教室が終わる時間を見計らって迎えに行っていた。
休みの日には、覚えたての料理を本とノートを広げながら作り、「どう、腕上げたでしょ?」と言わんばかりに腰に手を当て、白鳥に味見をさせていた。

確かに、料理の腕は上げているようだったが、白鳥にはまだ不満があった。
メニューは洋食ばかりだったので、「たまには和食も食べたい」と、言いたい気持ちは山々だったけれど、また怒らせるといけないので我慢していたのだった。
しかし、負けん気の強いその性格と頑張る姿を見ていると、結婚生活に耐えうる逞しさを感じて、白鳥は安堵する気持ちにもなっていた。


L-15 危機を乗り越え

二人は、その後喧嘩一つすることもなく順調に気持ち確かめ合い、お互いを良きパートナーとして信頼関係を深め、2年の月日が瞬く間に流れ去って行った。
その間、白鳥の仕事の方は、放映権を他局に取られ、収入源を失いかける危機があった。
安定した収入を得る為に、白鳥は三島の先輩を訪ね、外壁の張替え職人になることも真剣に考えていた。
住いも、先輩の知り合いの地主さんの口利きで、山の麓の朽ち果てそうな一軒家を、何時でも借りられる手はずが整っていた。

そんな生活環境の変化を見ても、美幸は全く文句一つ言わなかった。
「あたしは何処でもついて行くよ、あなたの好きなようにして」
そんな美幸の言葉がありがたく、心強かった。
内心では、それなりに不安はあったと思うが、美幸は暗い影一つ見せなかった。
美幸の母親も、「生活の為なんだから、仕事は何だっていいじゃない」と、白鳥の背中を押してくれていた。

白鳥が、二人の後押しを受けて新境地に足を踏み入れようとしていた時、知人の紹介で放映権を取った他局からご指名が掛かった。
ギャラも、一気にそれまでの4倍になった。
三島の先輩に事情を説明すると、快く了解してくれて、白鳥は再びテレビの仕事に打ち込んだ。

レースの現場でも、当初は白鳥と美幸の関係を気遣う空気もあったが、直ぐに美幸の事を永田の元彼女としてではなく、白鳥の彼女として見るようになっていた。
白鳥にとって少し気に掛かることといえば、時折地方選と併催される時に永田と顔を合わすのだが、白鳥が「おはよう」と言っても、顔を背け逃げるようにその場から立ち去られることだった。
立場の違いがあるとはいえ、白鳥にはそれが残念に思えてならなかった。

いよいよ、結婚の話が具体的になって来た。
白鳥は、普段滅多にスーツなど着ない仕事場だったので、急いでスーツと靴を買い揃え、美幸の家に挨拶をしに行った。
テレビのドラマでしか見たことのない、あの光景の主役になる為だった。
今まで、チラッとしか挨拶を交わしたことのない父親が、テーブルを挟んできりりと座っている。
その隣には、お母さんとお姉さんがニコニコしながらその言葉を待っている。
美幸は白鳥の横で、まるで人事のようにリラックスしている。
緊張しているのは、父親と白鳥だけのようだった。

白鳥は、なんと言って切り出して良いのか迷っていた。
「お父さん」と、切り出すと、
「お前なんかに、まだお父さんなんて呼ばれる筋合いはない」
ーなんて光景を、ドラマで見た事もある。
「なんて言えばいいんだろう?」
他愛もない世間話の切れ間を狙って、白鳥は意を決して言った。
「お父さん、お嬢さんを頂けませんでしょうか?」
「不束な娘ですが、こちらこそよろしくお願い致します」
言ってしまえば簡単なもので、ごく在り来たりの挨拶を交わすと儀式は恙無く終わった。

仲人は、長い付き合いのある長野の池田夫妻にお願いすることにした。
白鳥が美幸と結婚を決めた後、夫婦に美幸を見せに言った時、「あの子は良い」と、太鼓判を押してくれていたので、快く仲人を引き受けてくれた。

着々と準備が進んで行く。
白鳥は、仰々しい結婚式はしたくなかったので、披露宴ではなく食事会程度のものにしたい、と、提案した。
お母さんも、今後の生活にお金が掛かるんだから、馬鹿馬鹿しいお金の使い方なんかしない方が良い、と、賛成してくれた。
しかし、やはりその辺は女であり、娘を持つ母親だった。
ウェディングドレスの衣装合わせになると値段は関係ないものとなり、記念撮影の写真やビデオも、結婚式場の営業の思う壺に嵌っていた。
白鳥は、そんな美幸と母親を見ながら、「女にとって花嫁衣裳は特別だからしょうがない」と、笑みを浮かべて見ていた。

結婚式をあと1ヶ月となったところで、白鳥の父親が急死した。
それは、本当に突然の事で、急性心筋梗塞であっという間に亡くなってしまったのだ。
「やっと、親孝行出来るかと思っていたのに・・・」
白鳥は、それが一番心残りだった。
美幸のご両親は、普通だったら縁起でもないので延期しましょう、と、言っても可笑しくないところを、
逆に、「白鳥さんさえ良かったら、予定通り式は挙げましょう」
「お父さんも、きっと早くみたいでしょうから」と、言ってくれた。
そんな訳で、葬式の後は結婚式と、慌ただしい一ヶ月となった。


L-16 ひっちゃかめっちゃか

結婚式は、とんでもないものとなった。
教会での式はまあごく普通で、花嫁の入場の時にお父さんが緊張のあまり、足の運びが可笑しくなってつまづきそうになっていたのと、神父さんの説教の合間に「アーメン」と言うのが、
「ア〜ァ〜メン〜〜」と、変なイントネーションで情感たっぷりに言うので、その度に後ろの席で中島達が失笑しているのが聞こえ、白鳥は笑いを堪えるので必死だったくらいだった。

その後、仲間達の手荒いライスシャワーを浴びると、問題の食事会が始まった。
小田には仲人の紹介だけを頼んでいたのに、「え〜っ、ではここで、仲人のご挨拶をお願いしたいと思います」と、マイクを池田さんに手渡すものだから、乾杯の音頭だけをお願いされていた、と、思っていた池田さんは、突然の挨拶にうろたえ声はひっくり返るし、見ている方が可哀想になるくらいの有様だった。

何とか乾杯に辿り着くと、間もなく食事が運び込まれて来た。
すると、小田は雛壇の白鳥の前に椅子を運び、テーブルの上にビール瓶を5〜6本並べて、白鳥に一気飲みをさせ始めた。
それを横目で、美幸は笑いながらフランス料理のフルコースをしっかり食べている。
目の前の席では、乾杯の挨拶を終えてほっとしている池田夫妻も、それを見ながら笑い、大いに飲み大いに食べていた。
そのうち、白鳥の下の妹にそそのかされた上の妹の子供が、白鳥に向かって「パパア〜〜!」と、声を上げると、一気に宴会のボルテージは上がって行った。

頼みもしていないのに、次から次へと出てくる友人達は、白鳥の過去の女遍歴を尾ひれはひれたっぷり付けて、笑いを買おうとする。
それを煽るように、中島が突撃レポーターと称してマイクを持って、
「あんな男に娘さん上げていいんですか?」等と、新婦側の席を走り回りだした。
大半は冗談を理解して大笑いしてくれていたが、美幸の親戚の、特にご年配のご婦人の中には、白鳥に本当に隠し子がいたのか、と、勘違いをしているかの様に眉をしかめ眉間に皺を寄せている人もいた。
唯一の救いと言えば、美幸のお母さんとお姉さんが大受けしてくれていたことだった。
白鳥は、「もう止めてくれ」と、心の中では叫んでいたが、空きっ腹にたっぷり注ぎ込まれたビールに
酔って真っ赤な顔をして居眠りを始めていた。

なんやかんやの大騒ぎのうちに、無事?食事会もお開きとなった。
「こんなに楽しい結婚式はなかった、もう一度出たいものだ」と、好評だったが、
白鳥は、「もうこんな集中砲火を浴びるのは真っ平だ」と、思っていた。
会場の外には、食事会に入れなかった山の友人達が2次会のために集まっていた。
本来は、仲人と新郎新婦のためにホテルの部屋が用意されていたのだったが、急遽やって来た友人のために、白鳥はその部屋を使わすことにした。
当然、そうなると家に帰ることになるわけで、流れのままに3次会は新居で開かれることになってしまった。
夜が開ける頃まで酒盛りは続き、新婚用に買った真新しいベッドでは、既に酔い潰れた奴が寝ていた。

ようやくお開きとなって、二人がやっとベッドに入ろうとすると、電話が鳴った。
「はははーっ、今日は、初夜なんかさせないよ〜!」
中島からだった。
電話を切ると、直ぐにまた電話が鳴った。
「朝を迎えたら、初夜はなしだ!」
小田だった。
そんな悪友らの電話が、次から次へとまるで申し合わせたように掛かって来た。
「どうせ、帰り道の暇潰しだろう?」
もう、苦笑いするしかなかった。
美幸も隣で、「困った友達が多いわね」と、笑っていた。

翌朝には、早々と池田夫妻とホテルに泊まった山の友人達が押しかけて来た。
白鳥の部屋は、まるでペンションでアルバイト達で鮨詰め状態になってテレビを見ていた帳場のようだった。
もう既にこの時から、新婚家庭という雰囲気はなくなっていた。
唯一新婚らしい雰囲気がしたのは、昨夜部屋に入る時に、みんなに冷やかされながらさせられた、
美幸をお姫様抱っこをしてドアを開けて入ったことぐらいだった。

その後も、暫く友人達の悪戯は続いていた。
夜の11時くらいになると、呼び出しの電話が掛かって来た。
その度に、白鳥は「ちょっと出かけて来る」と言って、誘いに乗っていた。
「お前は結婚しても、全然変わらないなぁ」と、小田に感心して言われた。
普通は、結婚した途端に付き合いが悪くなるものだそうだ。
それが良いのか悪いのかは分からないが、白鳥には全くそんな変化は見られなかった。

美幸も、そんなことは全く気にしてはいなかった。
自宅で仕事をしている白鳥とは、普通の家庭より一緒に過ごす時間は多いと感じていたし、会話も多い方だと思っていた。
それに、結婚するまでの間も、一度も浮気の心配をさせられたことがなかったからだ。
ただ、風俗とかは諦めていた。
「それは、幾ら私が止めたって、あまりにも環境が悪過ぎるから・・・」
「小田さんや中島さんといたら、無理でしょう?」
「だって、あの人達病気みたいなものだから・・・」
「心配するだけ馬鹿馬鹿しいもの」
「だからと言って、行って来たから、なんていちいち報告しなくて良いからね」
ーと、美幸は白鳥に念を押していた。


L-17 種馬?

結婚して暫くすると、ふと白鳥は美幸の変化に気が付いた。
15歳年下の美幸が、それまでとは違って強くなっているような気がしたのだ。
具体的に何処が、と言うのではなく、漠然と恋人から妻に変わっているような気がしていた。
白鳥の家に住み慣れて来たということもあるだろうが、それとは別に妻という自覚が目覚めて来ているようにも思えた。
それは、言葉の端々やでんとした趣きに表れていた。
それまでも、白鳥に絶対服従という美幸ではなかったが、きっぱりと「ダメ」と、否定をするようになったり、子ども扱いをするような口調になっている時もあった。
白鳥は、そんな美幸に対して不満ではなく、逆に感心して見ていた。
小田にそんな事を話すと、「女は結婚した途端に強くなるもので、子供が出来るともっと強くなるぞ」と、忠告してくれた。

男の方も不思議なもので、結婚した途端に何故か体をそんなに求めなくなっていた。
別に、自分のものになったからとか、何時でも出来る、なんて思い上がった考えなどないが、女として以上に一人の人間として見るようになっているのではないだろうか?と、白鳥は考えていた。

それでも若い男と女だから、それなりには性交渉はあった。
しかし、仕事で朝の早い美幸は、眠さに負けて時折白鳥の求めを拒んで寝ていた。
「ぐれてやる」と言う、拗ねた白鳥の脅し文句など相手にせず、
美幸は「静かに寝なさい」と言って、背中を向けて寝るのであった。
そんな時白鳥は、仕方なく、飼い始めた子犬と遊んでいた。

或る日の朝、美幸が体温計を口に銜えているのを見て、白鳥は風邪でも引いたのかと思い「大丈夫か?」と、聞くと、それは、基礎体温を測っていたのだった。
「女はみんな、こんな事しているのか?」と、さほど白鳥は気にも留めていなかった。
しかし、それは、後々になって意味が分かって来た。
セックスに対して淡白な美幸が、日によっては積極的に求めてくることもあった。
白鳥は、どんな風の吹き回しか、と、思いながらも喜んで求めに応じていた。
以前、美幸はまだ子供を欲しがっていないような事を言っていたので、白鳥は安全日を狙っての事だと勝手に思っていた。
だが、それはまったくの逆だった。

ある晩、珍しく白鳥と美幸が同時にベッドに入っていると、美幸は枕元に置いてある基礎体温表と睨めっこをしていた。
すると、ハッと思い立ったように手帳を閉じると、「ねえ、しよう!」と、白鳥に覆いかかって来た。
驚いた白鳥は、思わず「なんだよ?いきなり」と言った。
すると、「だって、そろそろ排卵日なんだもの」と、嬉しそうに美幸が言うのだった。
それで、白鳥には美幸の思惑をようやく理解した。
白鳥は、子供をまだそんなに望んでもいなかったが、かといって拒絶もしていなかった。
ただ、愛情の延長で体を純粋に求め合うのではなく、妊娠だけを目的としたセックスには少し違和感を感じた。
行為が終わると、美幸は満足そうな笑みを浮かべて直ぐ眠りに着いていた。
そこには、結婚以前の甘い時間などはなく、淡々とした作業終了といった空気があるだけだった。
「なんか、種馬になったような気がするな」と、白鳥は心の中で思った。

白鳥にとってのセックスは、ある意味義務の様なものとなっていた。
それが特別不満には感じていなかったが、次第に結婚以前の様な甘い時間というものが、日常の生活の中でも失われていったように思えた。
ーかと言って、不仲になった訳ではなく、男と女から仲の良い人と人が同居している、といったところだろうか?

休日の日程がある程度自由の利く白鳥は、美幸にあわせ土日を空けるよう努力はしていたが、それでも大半の週末はスタジオに缶詰となることが多かった。
数少ない週末にレースがあると、白鳥はレースに美幸を誘ったが、美幸は以前の様なレース熱は冷めていたようで、白鳥は一人でレースの手伝いをしに行っていた。
美幸は美幸で、週に2〜3回のエアロビ教室と、会社の仲間達との飲み会やスキー旅行に出かけていた。
そんな時白鳥は、快く美幸を集合場所まで送り迎えをしていた。
それはまるで、擦れ違いの償いをしているかのようだった。
そんな健気な白鳥を見て、美幸の友人達は、「良いご主人ね、羨ましいわ」
「それに、業界君でしょ?」と、常々美幸にそう言って羨ましがっていた。
美幸もそんな友人達の言葉を、まんざらではない気持ちで聞いていた。
何一つ束縛されえることなく、好きなことは自由にさせて貰い、通勤用に念願だった発売したてのオープンカーも買ってもらっていたし、美幸にも何も不満はなかった。

美幸のご両親の家にも度々訪れ、隣に住むお母さんの妹さんとおばあちゃんとの交流も増えていた。
寝たきりのおばあちゃんは、白鳥が旅先で撮って来る8ミリビデオを見るのが楽しみとなっていた。
そんなこともあり、ドライブ好きな白鳥は益々活発に行動するようになっていた。
突然思い立つと、「旅に出ます」と、簡単な置手紙を書いて、8ミリと愛犬のベティを連れてふらっと車で出かけていた。

美幸は、そんな白鳥の予測の付かない行動に、少し呆れ返っていた。
帰宅して、そんなメモを見ると美幸は母親に電話をしていた。
「お母さん、またあの人突然出かけちゃったわ、行き先も告げずに・・・」
「そう、困ったわねえ」
「でしょう、電話ひとつもくれないで・・・」
「でも、白取さんのいる場所は、何時ものように山の中だから、きっと電波も届かないから、連絡を待つしかないわね」
「本当にいい気なものだわ、自分だけ」
「本当に、寅さんみたいだわね」
母親は、笑いながらそう言うと、「でも、今度はどんな景色が見れるのかしら、ちょっと楽しみだわ」と、期待した。
「もう、お母さんはあの人に甘いんだから・・・」

実家に帰った時はいつも、みんなが寝ても白鳥と母親だけが夜遅くまで仲良く話し込み、自分には作ってくれた事のない夜食を白鳥に嬉しそうに作っている母親の姿を見て、美幸は、母親と何時も白鳥の傍にいるベティに少し嫉妬していたのだった。


L-18 コンパニオン登場

夏が近付いていたとはいえ、まだお中元の時期には少し早いのに、お菓子の詰め合わせが白鳥宛に届いた。
贈り主を見ても、白鳥には「石田 由香子」という、その名前に覚えがなかった。
思い当たるふしがないまま包装紙を開けると、1通の手紙が入っていた。
子供の様な字で、鉛筆で簡単な挨拶文が書いてあった。
「先日は、どうもありがとうございました。 中島さんや小田さんに・・・」
ここまで読んで、ようやく相手の顔が浮かんで来た。

「誰からだったの?分った?」
美幸が台所から、お菓子の匂いを嗅ぎ付けテーブルにやって来た。
「ほら、このあいだ、中島が菅生で予選落ちしてしょげてたって話したじゃない」
白鳥は、石田 由香子との出会いの話を始めた。

久し振りに予選落ちをして、珍しくしょげている中島を見て、チームスタッフもみな気を使うように暗い面持ちで宿に戻って来ると、玄関の隣の大広間がやけに盛り上がっていた。
白鳥達は、その宴会の盛り上がりを余所目に、その反対側にある電気も半分消えている食堂で、冷え切った遅い夕食を食べていた。

そこへ、黒いロングドレスを着た若い女の子が2人入って来て、食堂の奥のカウンターの中に向かって声を掛けていた。
どうやら、宴会場のビールの追加を取りに来ている様子だった。
それを見ていた小田が、その子達に声を掛けた。
「お姉ちゃん達は、あそこの広間に来ているコンパニオン?」
「はい、そうです」一人が明るく振り返って返事をして来た。
それが、石田 由香子だったのだ。
「宴会終わったら俺達の部屋に来れるかな、鶴の間なんだけど?」
「ありがとうございます、マネージャーに聞いてみます」
そう言うと、会釈をしてビールを持って食堂から出て行った。

それを聞いて、中島は俄然元気を取り戻して来た。
「ねえねえ、小田さん、あの手前にいた子可愛いですね〜」
「そうだなあ、若かったよなぁ、二十歳そこそこか?」
「いや、10代かもしれませんよ、くっくっくっく・・・小田さん」
はっと、周りの視線を感じた小田は、慌てえて言い訳をしだした。
「中島、お前があまりにもしょげているから、呼んで上げるんだからな」
「ありがとうございます、監督」

中島は、もう5分前の同じ人間ではなかった。
もう、全く何時もの女に目のない中島に戻っていた。
そして同様に、小田も中島の為だけとは思えない崩れた顔をしている。
「この変わり身の早さ・・・」白鳥は、二人の顔を見て呆れていた。

少しすると仲居さんが、「コンパニオンの件はOKで、後1時間ぐらいしたら部屋に来る」と告げに来た。
「小田さん、何時まで食べてんですか、今のうちに風呂入っときましょう」
「白鳥さんも、早く」
中島は、もうハイテンションになっていた。

「お前達は、明日早いから早く寝るように」
そう小田に言われた予選通過組みのライダーとメカニックは、否応なく要求された「はいっ」という返事をすると、浮かれながら食堂を出て行く中島達を恨めしそうな顔で見送っていた。

慌ただしく風呂から上がると、中島と小田は何時もの風呂上りのラフなジャージ姿ではなく、髪もドライヤーをかけめかし込んでいる。
そんないそいそしている二人を半ば呆れ顔で、白鳥は寝転びながら見ていた。
程なくさっきの若いコンパニオンが、明るく元気な声で「お邪魔しま〜す」と言って、入って来た。
二人は直ぐに帰れるように、既に私服に着替えており、先程よりもっと若く見えた。

その子達に、中島が取り仕切るように紹介を始め、その時確か名刺を渡したのを、白鳥は思い出していた。

「若いねえ、幾つ?」と、中島が石田に話しかけた。
「17です」
「え〜〜っ、17だって、小田さん!」
中島は、嬉しそうに小田の肩を叩いて半オクターブ高い声でそう言った。
もう早くも、小田も中島も見ていられないくらいの、デレデレ状態になっていた。
「しかし、胸大きいねぇ、触らせて?」
「馬鹿!何を言ってんだ、中島」
「いいじゃないねぇ」
「いいですよ」
「えっ、ほんと!?」
喜ぶ中島を制するように、小田が「じゃんけんだ」と言い出した。
白鳥もそのじゃんけんに参加させられ、なんと勝ってしまったのだ。

「もうっ、白鳥さん良いとこ取り!」と、拗ねる中島だったが、
いざ白鳥が立ち上がって、石田の胸を触ろうとすると、
「やっぱだめー!」と、後ろから白鳥の服を引っ張り、部屋の隅に詰まれた布団まで投げ飛ばした。
そして、中島が起きて破りの行動に出ると、小田も黙ってはいなかった。
そうなると、もう乱痴気騒ぎの始まりだ。
キャーキャー言って逃げ回る女の子二人を、小田と中島は部屋の外まで追い掛け回した。
明日の決勝を控えた、チームメイトの隣の部屋のドアが開く音がした。
部屋に中島が乱入しているようだった。
もう一方では、寝静まった旅館の廊下をドタバタ走り回る足音が鳴り響いている。
白鳥は冷や汗をかく思いで、一人部屋に残ってビールを飲んでいた。

翌日、仲良くなった石田が、サーキットに差し入れを持って顔を出しに来た。
それ以来、菅生でレースがある度に、石田は応援に駈けつけるようになっていたのだったが、白鳥は、中島が石田に付けた「ポン」という仇名しか頭になく、本名を忘れていたのだった。
美幸は、贈られて来たそのお菓子を頬張りながら、呆れた顔をして白鳥の話を聞いていた。


L-19 トロッコに乗って

翌日、白鳥が送り状に書かれていた電話番号に電話をすると、直ぐにポンが出た。
白鳥がお菓子の礼を言うと、ポンは何故かキャーキャーと大喜びをしていた。
「そんなにお礼の電話が嬉しいのか?」と、思いながらも、「若いから少しのことでも大騒ぎするのだろう」と、思った。
今はもうコンパニオンは止めて、仙台の国分町のスナックで仕事をしているらしかった。
中島の、今シーズンの成績などを話してその日は直ぐに電話を切ったが、その後ポンからは、大した用事でもないのに電話が掛かって来るようになっていた。

数日後の夕食前、またポンから電話があった。
台所で美幸が夕飯の支度をしている近くで電話を取った為、白鳥は何故かしら一瞬後ろめたい気持ちになって、台所から離れたリビングでコードレス電話で話しをしていた。
用件は、お店の女の子の部屋に下着泥棒が入って困るので、白鳥に監視用のカメラとかのアイデアを聞いていただけのことだったのだが、白鳥は、最近ポンと話していた事を美幸に告げてなかったので、少し疾しい気持ちになっていたのだった。

普段他所の女から電話が掛かって来ていても、一度も「誰?」とも聞いたことの無い美幸だったが、白鳥が受話器を置くと、ツカツカと歩み寄って「誰から?」と、聞いて来た。
初めて美幸にそんな事を聞かれた事と、美幸の疑ったような態度に押されて、白鳥は何故かどぎまぎするのだった。
それは、余計勘ぐられる態度だった。

「俺は、何か疾しいことをしていたか?」と、白鳥は自問自答した。
「うん?ああ、ポンからで・・・」白鳥は、下着泥棒対策をしていたことを正直に話した。
「なんで、監視カメラがあなたなの?」
「知らないよ、テレビ業界だから、カメラの事だったら知っていると思ったんじゃないの?」
まさしくそうだったのだが、美幸の中では小さな疑惑の渦が回りだしていた。
「参ったなあ、今更お礼の電話の後も何回か話したなんて、もう言えないし・・・」
白鳥は、そのまま美幸の冷たい視線を浴び続けるしかなかった。

その後も、何も知らないポンは、店が引けて家に帰った夜中でも、平気で電話をかけて来るようになっていた。
白鳥にとっても、この間の様に美幸の前では話し辛いこともあったし、仕事の合間の暇潰しにもなっていたので、夜中であっても拒むことなく話し相手になっていた。
中卒がコンプレックスになっているようで、卒業後、直ぐに水商売の世界に入らざるを得なかった生い立ち話や、お店の女同士の軋轢など、白鳥はそんな愚痴話の聞き役になっていた。

しかし、そういう時に限って間が悪いというか、普段一度寝たら起きない美幸がトイレに起きて来たりするものだった。
白鳥の話し声で目が覚めたのか、女の勘が働いたのかは分からないが、美幸はトイレの行き帰りに、ドアが開け放たれた白鳥の仕事部屋の前を、しら〜っとした目付きで、何も言わずに通り過ぎるだけだった。
そんな美幸と目が合うと、精一杯の演技力で白鳥は平静を装い、明るく仕事の電話の様な振りで、顎をしゃくり上げ美幸に挨拶を送ったりしていた。
余程機嫌が良い時は、小さな声で「コーヒー飲む?」と聞いてくれたが、大抵は素通りだった。
しかし、逆にコーヒーなどを入れてもらったりすると、無言で左手を上げて、何回もすまんすまんと手で拝み、そんな時は何時までも話しなどしている気にはなれず、早々に電話を切るものだった。
妻に疑いも無い健気な行動を取られると、逆に申し訳ない気持ちになるのは、人の常なのだろう。

或る日、旅行の話になった。
北海道に行ってみたいとかそんな話しをしていると、白鳥の頭の中に黒部のトロッコ電車が走る光景が浮かんで来た。
2〜3日前に、テレビの旅番組で見たばかりだったのだ。
そんな話しをしていると、ポンが「行きたい、連れてって」と、言い出した。
18になったばかりの女の子に旅行に誘われるなんて、夢のようだった。
しかも、白鳥の20歳も年下だった。

白鳥は、結婚すると決めた時に、ひとつの言葉が頭に浮かんでいたのだった。
それは、不倫という言葉だった。
浮気もした事のない白鳥だったが、結婚して初めて使える言葉「不倫」が、なんとも艶めかしく思えて、憧れの世界のように思えていたのだ。
それが結婚をして、「俺もこれでやっと不倫が出来る」と、権利の様なものを掴んだ気になっていたのだった。
「それがもしかしたら・・・」
そんな事を思うと、白鳥はただの興味本位から、俄かに現実味の出て来た話しに心が躍る思いがしていた。
その時の白鳥には、後ろめたさより好奇心の方が遥かに勝り、わくわくする思いで躊躇なく、直ぐにポンと黒部行きの約束をしていた。
丁度その週末はレースがあったので、白鳥は美幸にレースに行く、と、嘘を言って、黒部旅行をすることにした。
大宮まで東北新幹線でやって来たポンを車で拾うと、そのまま関越に乗り、北陸道を経て宇奈月へ向かった。
駅前のビジネスホテルにチェックインすると、二人は直ぐに憧れのトロッコ電車に乗り込んだ。
渓谷を登る屋根のないトロッコ電車は、夏でも肌寒いくらいだった。

もうここまで来れば、二人を知る者など誰一人いなく、そう考えると白鳥は、急に自由になったような気分になり、子供のようにはしゃぎたくなっていた。
8ミリを回し続ける白鳥、映像の中に証拠を残さぬように、レンズから逃れるように身を隠すポンがいた。
そうこうしているうちに、二人は次第に打ち解け始めていた。

夕食を済ませ部屋に帰った白鳥は、寝不足の為にビールの酔いが回って、直ぐに寝てしまっていた。
暫くすると、「ねえ、起きてよぉ」と、ポンが、白鳥を揺り起こした。
「なんだよ?」白鳥は、寝不足で少し不機嫌だった。
「一人で先に寝ちゃいや」ポンが、甘えたように言う。
ポンは、見知らぬ土地で、一人取り残されて退屈しているのが嫌なだけだった。
白鳥は、少し意味を取り違えていたようだった。

「しょうがないなあ、こっちへ来いよ」と、ポンを自分の隣に呼んだ。
「なあに?」と、良いながら、ポンは自分のベッドから立ち上がると、隣の白鳥のベッドに腰を下ろした。
すると白鳥は、「腰マッサージして」と言って、笑顔見せるとうつ伏せになった。
「もうぉ」と、良いながらも、ポンは少しの間腰を揉んでいた。
そのうち、飽きて来たポンが悪戯で擽ると、白鳥は堪らず飛び起きて反撃に出た。
そんな事をしているうちに、二人は抱き合う形となった。

少しの間、二人は無言で向き合っていた。
旅先の、何時もと違う夜の空気に包まれていた二人は、もう日常から抜け出していた。
白鳥は、ポンを抱き寄せキスをした。
ポンもそれを情熱的に受け入れ、二人は求め合うように互いの浴衣を剥いだ。
白鳥はとうとう一線を越え、念願だった「不倫」を現実のものとしていた。


L-20 分身が出来た?!

翌朝目が覚めると、白鳥は罪悪感の空気に包まれていた。
早々にホテルをチェックアウトし、帰途に着いた。
途中立ち寄った湖畔のレストランの景色も、白鳥の目には虚ろにしかにしか映らなかった。
はしゃぎながら話しかけて来るポンの言葉にも、相槌を打つ程度で会話は弾む事はなかった。
それよりむしろ、無邪気にはしゃぐポンの姿を見ていると、無性に腹が立って来る思いがしていた。

「白鳥さん、どうかしたの?」
「否別に、少し疲れたみたいだ」
「ならいいんだけど・・・」
「そろそろ帰ろうか?」
「え〜っ、もうぉ、だってまだ早いじゃない」
そう名残惜しむポンを帰りがけの駅で降ろすと、白鳥は少し気持ちが軽くなる思いで自宅に帰った。

「あら、お帰りなさい、早かったのね?」
「うん、道路空いていたから」
白鳥は、明るく迎える美幸の目を、まともに見ることは出来なかった。
荷物を置くと、そのまま力が抜けたように、テレビの前のクッションに寄りかかった。
子犬のベティが、膝の上に乗ってじゃれついて来る。
ベティと遊んでいると、白鳥の後ろめたい気持ちは徐々に薄れて行った。

その日の夜も、遅くになってポンから電話があった。
無事に家に着いたとの報告だった。
「そんな事、いちいち報告しなくたっていいのに」
ーと、白鳥は思ったけれど、話しをしているうちに、変な所に律儀なポンが可愛く思えて来たりもしていた。
その後も、週に1〜2度の間隔でポンから電話があったが、次に合う約束をすることもなく、ただ電話で他愛もない会話をする日々が続いていた。

白鳥の中にあった、重い「不倫」という空気は、何時しか消えていた。
それは、一回きりだった、という、自分への情状酌量だったのか、それとも、度重なるポンとの電話によって、鈍感になっていたのかは分からなかった。

それ以外は全く平穏な日々が続き、そろそろ結婚して一年が過ぎようとしていた。
仕事も順調で、以前にもまして収入は増えていて、白鳥の中であれ程あった将来への不安というものは、嘘のように消えていた。
ただ、何か物足りない思いが白鳥の心の中を吹き抜けていた。
それは、漠然としたものだったが、物悲しい匂いがするものだった。
白鳥は、それが何か気になって仕方がなかった。
「結婚生活に対する不満があるのだろうか?」
言い争うこともなく、互いに束縛しあうこともなく、心に負担が掛かる事等一つも思い当たらなかった。
逆に、怖いくらいに、全てが順調過ぎるくらい順調だった。

或る日、白鳥が仕事から帰ると、美幸がテレビも付けずにカーペットの上に座り込み、何か小冊子の様なものを食い入るように読んでいた。
「何読んでんだ?」
「うん? あ、これ?」
振り返って白鳥を見上げながら、美幸は特別喜んでいる風でもなく、ごく当たり前といった感じで、「子供出来たの」と、言って、母子手帳を白鳥に手渡した。
白鳥には一瞬、何を言っているのか分からなかった。
母子手帳を受け取っても、他人事のようにしか感じなかった。
よくドラマであるような、「よくやった、ありがとう」等と言う気の利いた言葉など、白鳥には何一つ思いつくことはなかった。

「何時分ったの?」
「今日」
「ふ〜ん」
ボーッとした頭で、味も素っ気もない会話で終わった。

白鳥には、子供が出来た喜びはなかった。
それ以上に、自分に子供が出来たという事実が信じられないでいた。
「俺が父親? 全くピンと来ない」
美幸の方は、ウキウキしている様には見えなかったが、少し誇らしげにしているようには見えた。
時間の経過と共に、白鳥の中では父親になる不安が湧き上がって来ていた。
「俺で大丈夫なのか?」と、いう思いと、自分の分身が怖かった。
自分と似たような性格を持ってしまったら、とんでもない無茶をするだろう、無事に生き残れるか心配でしょうがない日々を送る事になるだろう。
生意気な口も利くようになるだろう。
想像すればするほど、自信がなくなっていった。
父親の自覚など全く生まれない白鳥に対して、美幸の方は、「フンッフンッフン」と、鼻歌を歌いながら赤ちゃん用の靴下を編み始めていて、着々と母親の自覚を身に付けているように見えた。


L-21 隙間風

夕食後、白鳥と美幸は二人でテレビを見ていた。
番組が終わり、エンディングテーマ曲が流れて来た。
『♪この樹なんの樹気になる樹〜名前も知らない樹ですけど〜♪』
それを聞いて、白鳥は思わず替え歌を口ずさんでしまった。

「♪この子誰の子気になる子〜名前も知らない子ですけど〜♪」
全く悪気もなく、ごく自然に口から出ていたのだった。
笑いながら美幸の顔を見ると、笑っていない。
どちらかというと、怒っているか見下したような表情に見えた。
白鳥は、「あれ?すべった?」と、そのくらいの感じであったが、身篭っている当の美幸にとって見れば、不愉快な替え歌であったことには間違いなかった。

ギャグを失敗した程度にしか感じていなかった白鳥だったが、ふと、素朴な疑問が過ぎった。
「あれ?最後にあいつとしたのは、何時だっけ?」
幾ら思い出そうとしても、記憶から出てこなかった。
この一ヶ月くらいの間にしたのは、ポンとだけだった。
「本当に、この子誰の子気になる子〜に、なって来たぞ」
しかし、美幸は不倫をするようなタイプには思えず、白鳥はそこまで疑う気にはなっていなかった。
ただ、自分にやった記憶がないことの方が気に掛かっていた。
もやもやとした頭の中に、釈然としない妊娠という事実だけが残った。

謂れのない言いがかりを付けられた気分の中に、再びあの漠然とした物悲しい空気が流れ込んで来た。
「なんだろうなぁ、この感覚は?」白鳥は、ぼんやりと考えていた。
目の前では、美幸がアイロン掛けをテレビを見ながら淡々と行っている。
ごく日常的な光景であったが、白鳥には何か違和感の様なものを感じていた。

現実の世界で妻から母へなろうとしている美幸と、現実をまだ理解できずにいる自分は、まるで現実の世界にはいない様な、美幸との間に何か隔たりの様な、まるで隙間風が吹いているような感じがして来た。
白鳥は、その隙間風の原因は何かを考え続けた。

夜中に白鳥は、仕事部屋で次回の番組の構成を思案していたが、隙間風の事が気に掛かり、作業は捗っていなかった。
そこへ、ポンから電話が入った。
あまり気乗りもしないまま話しをしていると、いきなりポンが「白鳥さんの子供が欲しい」と、言い出した。
その言葉を聞いて白鳥は一瞬動揺したが、何故か嬉しい気持ちになっていた。
白鳥は、喜んでいる自分が妙に思えて来た。
美幸に「子供が出来た」と、聞いた時は、こんな感情は湧かなかったのに、何故、今はこんなに嬉しく感じているのだろう?
種馬の様にただ妊娠を目的としたセックスと、自分の子が欲しいと望まれてセックスをした結果が、同じ妊娠であっても気持ちの上で大きく違って来るように思えて来た。
子供を望む気持ちプラス、相手を愛する気持ち・・・
白鳥の中で付き纏っていた、隙間風の糸口が見えて来たように思えた。

相手を愛する気持ち、思いやる気持ちが、俺達の間で少しずつ薄れて来ていたからなのかも知れない。
白鳥は、美幸と付き合いだした頃から、現在までの何気ない行動の変化を探った。
月日を重ねるほどに、些細な気遣いや言葉にならない言葉を推し量る事が、日常の中で埋もれてしまっていたように思えた。

翌日の夕食の時に、白鳥は美幸に、「俺達の間に、隙間風の様なものが吹いている感じはしないか?」と、問いかけた。
きょとんとしている美幸に、白鳥は互いに思いやる気持ちが薄れて来ているのが原因ではないか、と、自分の考えを説明した。
突然そんな事を言われて、美幸に直ぐ答えなど出る筈もなかった。

翌日からレースで3日家を空けるので、白鳥は美幸に宿題として考えるように、そして、帰って来たらもう一度その事を話し合おう、と言った。
白鳥にとっても、隙間風の原因が全て思いやりが欠けて来た事だけとも思えず、また、その解決法もまだ見つかっていなかったで、お互い離れて考えることが大切に思え、今回のレースは丁度良い機会だと思った。


L-22 幸せって

結婚とはなんだろう? 愛するとはなんだろう? 思いやりとは・・・?
白鳥は、答えの出ない疑問を頭の中でぐるぐると廻らせていた。
小田とも、珍しくそんな事を真面目に話し合った。
周りの先輩達の結婚生活を見ていると、どうして続けていられるのか不思議に思えて来た。
互いに愛していると実感しあっているようにも見えず、子供がいて、ただ生活を共にしているようにしか見えなかった。
「結婚なんて、そんなもんだよ」と、小田がぽつりと言った。

「そんな結婚生活など望んではいない」白鳥はそう思った。
しかし、微かだが隙間風を感じている白鳥には、長い人生を美幸と共に理想を貫く自信などはなかった。
考えれば考えるほど、次第に及びの付かないものとなっていた。
疑問だらけの白鳥の頭の中に、ふっと、「離婚」という文字が浮かんで来た。
「結婚する以前の別れと、以後の離婚とは、どんな違いがあるのだろう?」
「法的以外に、何か違う意味があるのだろうか?」
次から次へと、新たな疑問が湧いて来た。

白鳥は、ホテルの自室に戻るとシャワーを浴び、髪を拭きながらぼんやりと窓の下の街灯りを眺めていた。
冷蔵庫からビールを取り出し、グラスに注いで一気に飲み干した。
一人の部屋が、何時も以上に静まり返っているように思えた。
しかし、テレビを付ける気にもならなかった。
ベッドに寄りかかりながら、小田との話を思い返していた。

「そんなもんなのかな、結婚って?」ため息のように白鳥は呟いた。
ビールが何時もより苦く感じた。
グラスをサイドテーブルの上に置き、タバコに火を着け、ぼんやりとビールの小さな泡を見ていた。
何思ったのか、白鳥は左手の薬指のリングを抜いて、飲みかけのグラスの中にそっと落としてみた。
小さな泡を引き連れて、グラスの底に沈んでいくリングを白鳥は見つめた。
左手が妙に軽くなったように感じられた。
それはまるで、自由を勝ち取ったような気分にも似ていた。
しかし、同時に開放された筈の左手は、日焼けの後が白く弱々しく、悲しげに浮かび上がって見えた。

二人切りならまだしも、子供が出来た今、そう容易く離婚など決意出来るものではなかった。
白鳥の頭の中は、隙間風の原因であろう思いやりを回復する考えから、何時しか離婚か継続かの
二者択一を迫られているようになっていた。
結局答えが出ないまま、重苦しい思いで、白鳥は帰途に着かなければならなかった。

駐車場に車を止め、大きな荷物を肩に掛け、白鳥は思い足取りで階段を上がっていた。
「宿題の話をどうすれば良いのだろう?」
迷いながら、白鳥は沈んだ気持ちでドアをゆっくり開けた。
すると、部屋の明かりが何時もより明るく白鳥を迎え入れてくれた。
白鳥は、その明るさにハッとする思いがした。
「これだよ!」全ての答えが一瞬のうちに出たように思えた。
「家庭って良いものだ」と、白鳥はしみじみ思った。

「お帰りなさ〜い」と、明るい美幸の声が台所から聞こえて来た。
そして、リビングから勢い良く飛び出し、シャカシャカシャカっとフローリングの上を滑りながら、玄関の白鳥に走り寄って来るベティがいた。
尻尾を激しく振りながら、何時ものように粗相のお漏らしをしながら喜ぶベティ。
それを見ながら、「もうベティったらぁ」と、小走りに玄関へ笑顔で出迎える美幸。
しゃがみ込んで、ベティの歓迎に応えていた白鳥は、近寄る美幸の顔を見上げて、
明るい笑顔で「ただいま」と、言った。
狭い玄関の空間には、幸せが充満していた。

一家団欒の夕飯の時、重苦しい呪縛から開放された白鳥は、何時になく上機嫌でレースの話を美幸に聞かせていた。
美幸はその話を聞きながら、何時もの明るい高らかな笑い声を時折上げていた。
その夜、白鳥は満足感に包まれて、久し振りにぐっすりと眠りに着くことが出来た。


L-23 予想外の応え

白鳥は、隙間風の事などすっかり忘れ、何事もなかったような3〜4日を過ごしていると、義母さんから電話が掛かって来た。
「あなた達、今度の土曜日結婚記念日よね?」
「はい、早いですね、もう1年経ちますね」
「あたし達も結婚記念日近いから、一緒にお祝いしない?」
「ええ、喜んで」
「じゃあ、土曜日に家に来てくれる?」
「ありがとうございます、じゃあ、土曜日に」

美幸にその事を伝えると、美幸はあまり乗り気ではなさそうな顔をしていた。
実家へ帰ると大抵退屈そうにして、白鳥の前では見せないちょっと我侭な娘の顔を覗かせていたので、白鳥はその表情をさほど気には留めていなかった。

実家へ行くと、義母さんが腕によりを掛けた手料理とお寿司が、テーブルの上に所狭しと並べられていた。
義父さんも、何時に無く穏やかそうで嬉しそうな顔に見た。
和やかな雰囲気で、合同結婚記念日のお祝いが進んで行った。
会話は何時ものように義母さんと白鳥がメインで、時折義父さんが口を挟む程度で、美幸は殆ど会話に参加することなく聞き役に回り、ひたすら食べている、と、いった光景だった。

ベティはと言えば、人間様の料理を時折おねだりに来ているか、実家で飼っているシェルティーを追い掛け回し、まるで我が家の様な勝手な振る舞いをしていた。
何時もの事ながら、それを見ているこっちの方が恥ずかしくなるような、傍若無人な振る舞いだった。
そして、何より困る悪い癖が、喜ぶと一体何処にそれだけのものがあるか不思議になるほど、際限なく何回でもちょろちょろと粗相をしてくれる。
義母さんはそれを見て笑っているが、義父さんはぎこちない笑いをするものの、目は決して笑っていないくて、困り果てている寂しい目に見えた。

そんな感じで、賑やかな結婚記念日の食事会も終わり、翌日の夕方白鳥と美幸は実家を後にした。
首都高を降りて家に近付いた頃、白鳥はようやく美幸の暗く沈んだ表情に気が付いた。

「どうしたんだ、具合でも悪いのか?」
「ううん、そんなんじゃない・・・」
「そういえば、昨日から少し静かだよな?」
「・・・・・・」
「機嫌悪いのか?」
「ううん・・・」
「じゃあ、なんだよ? へんだぞ」
「この間のことずっと考えたんだけど・・・」
「この間?・・・?」

白鳥は、美幸にそう言われて初めて隙間風の宿題を、まだ美幸から聞いていなかった事を思い出した。
「ああ、そうだったな、宿題の事か?」
「うん・・・」
「で、美幸はどう考えたんだ?」
「・・・離婚しようとか思う・・・」

美幸が思わぬ言葉を発した為、白鳥は一瞬何を言っているのか分からなくなった。
「離婚って、それって一体どういうこと?」
「あれからずっと考えてた、思いやりのこととか・・・」
「・・・もう、疲れちゃったの」
暫くの間二人を沈黙が包んでいると、車は間もなく家に到着した。

部屋に入ると、白鳥は美幸の言い分を静かに聞いた。
「何をしても、あなたには叶わない事は分っていた」
「けれど、気が付くと自分がずっと背伸びをしていたことに気が付いたの」
「もう、疲れちゃったの」
白鳥には、美幸に無理をさせていた実感は全く無かった。
「何時もあれだけ話しをして、お互いの気持ちを確かめ合っていたと思うけど?」
「そうなんだけど、言いたい事が上手く言えなくて」
「気が付くとなんか変だな、と、思いながらも納得せざるを得なくなっていた」
「それじゃ、まるで俺が言い包めていたみたいじゃないか?」
「良く説明出来ないけど、悔しさだけが残る時もあったの」
「しこりに残って、溜まっていたということか?」
「結果としてはそうかも知れない」
「何でもっと早く言ってくれなかったんだよ」
「だって、口じゃ勝てないもの・・・」
「勝ち負けの話しじゃないだろ?」
「・・・分ってる」

白鳥は、コミュニケーションは充分取れていたと思っていたので、美幸のその言葉はショックだった。
美幸はその他にも、白鳥側の人間ばかりに会っていて、自分の友人には会おうとしてくれなかった事が不満だった。
それから、風邪を引いて具合が悪い時に洗い物を手伝ってくれなくて、前日の食器が流しにあったのを見た時に、「ああこの人は私を守ってくれない」と、思った、と、言った。

白鳥には白鳥の言い分もあった。
フリーの仕事なので、休みを融通出来る範囲内で美幸の休みに合わせ、望む所へ出かけようとしていた。
しかし、白鳥の友人達と合う以外の休みの日は、美幸は会社の友人達と過ごすのを選んでいた。
白鳥に出来ることは送り迎えぐらいで、招待もされていない会社の旅行や飲み会に出られる筈も無かった。

洗い物の件は、手落ちがあったかも知れない。
しかし、白鳥は長いペンションでの経験から、ある程度の料理の知識や洗物程度は苦も無く出来た。
何故敢えて手出しをしなかったと言えば、女の最後の砦として、そこには口を挟まず逃げ場として残しておこうと思っていたのだ。
頼まれれば、買い物だって食事の手伝いだってしていたのは事実だった。
それに、掃除洗濯は進んでやっていたのも事実だった。

白鳥の言い分を聞いても、それでも美幸は不服そうだった。
また、言い包められると思っていたのかも知れない。
何時もだったらじゃれ付いてくるベティも、この時ばかりは何かを察していたのか、大人しく自らゲージの中に入って、二人の様子を心配そうに上目使いで見ていた。

埒の明かない平行線の話し合いに、白鳥は「子供はどうするんだ?」と聞いた。
「堕胎するしかないでしょ」と、美幸は小さく吐き捨てるように言った。
白鳥は、その言葉に愕然とし、徐々に腹が立ち始めて来た。
「子供を犠牲にしてまで、そこまで嫌になったんだ?」
「・・・・・・」
「一体こんな風に思っていたのは何時からなんだ?」
「付き合いだして直ぐかも知れない」
この言葉にも、白鳥はまたもや愕然とした。
「諦めなさい」と、結婚を迫って来たのはお前の方だろ?
白鳥には、付き合い出してからの3年と、結婚してからの1年が全て無駄に思えて来た。
「だったら、何で最初から言ってくれなかったんだよ」
「結婚なんかすることもなかったじゃないか?」
「時間を返してもらいたいぐらいだよ!」
白鳥は、悔し紛れにそう言い捨てた。

そう言いながら、白鳥の頭にふと美幸の歳が浮かんだ。
「こいつは今27歳か、なら、まだまだやり直せるな・・・」
「今ここで説き伏せても、何年後かにまた同じ事を言われるかも知れない」
「だったら、早い方がやり直しが利くだろう」
そう判断した白鳥は、離婚を受け入れることにした。

それを聞いて美幸は、「アパートが見つかるまで一ヶ月くらいここに置いてくれる?」と、聞いて来た。
それに対し白鳥は、「それは構わないよ」と、力無く応えた。
ほっとした様子で美幸は、何時ものように白鳥の布団の中に入って来た。
それを見て、白鳥は妙な違和感を感じた。

「子供が要らないくらい嫌いな男と、良く同じベッド寝れるな?」
意地悪なつもりではなく、素朴な質問として白鳥は聞いていた。
「そうね、じゃあ、隣の部屋で寝るわ」
美幸は、プイッと膨れた感じでベッドを出て、隣の部屋に布団を敷き出した。
その態度を見て白鳥も、つい意地悪な言葉を投げかけた。
「俺だったら、そんなに嫌な奴とは同じ屋根の下でも嫌だけどな!」
「そうよね!」
美幸はそうひと言言い捨てると、まだ夜が明け切らぬ暗い街へ、当ても無く車を走らせて行った。
静まり返った部屋の中は、遠ざかる車の排気音だけが余韻を残していた。


L-24 掴み損ねたものは(完)

美幸は、朝家を出て行ったきり、家には戻らず実家に帰っていた。
千葉の実家から、埼玉の会社まで車で2時間以上かけて通っていた。
義母さんも心配して、美幸を説得したそうだが、がんとして聞き入れず、離婚は避けがたいものとなっていた。

白鳥も、毎日のように電話をし、美幸に思い止まるよう説得をしていた。
会話は、不思議とそれまで以上にスムーズで、美幸はハッキリと素直な気持ちを白鳥に伝えらていた。
「こんな話しが出来るんだったら、上手くいけそうなのにな?」
「そうね、可笑しいわね」
そんな和やかな会話をしていたが、美幸の気持ちはもう既に固まっていた。

あの朝、追い出されるように家を飛び出した時、「お腹に子供がいるのに、この人はあたしを守ってくれない」美幸は、そう強く感じていた。
「引き止めて欲しかった、あたしの体の事をもっと気遣って欲しかった」
「あの人は、あたしとこの子を見捨てた」
「だから、あたしはもうあの人のところには帰らない」
白鳥が、幾ら「子供の為だけでも頑張れないか?」と言っても、もう美幸には、そんな言葉に耳を貸す余地は残っていなかった。

白鳥は、子供を堕胎することが耐えられなかった。
若気の至りで既に何人か子供を堕胎していて、「もう二度と子供は堕胎させない」と、心に誓っていたからだった。
普通なら、みんなに祝福されて生まれて来るべき子が、自分達の行き違いで見殺しにしてしまうのが辛かった。
白鳥は、電話口で泣き出した。
泣きながら、何度も何度もお願いをした。
「子供の為にも、もう一度やり直そう」
「子供の為なら、何でも努力出来るだろう?」
しかし、美幸の心にはその言葉は届かなかった。

数日後、美幸が義姉と一緒にやって来た。
その手には、一枚の紙が持たれていた。
離婚届の用紙だった。
「ここに名前を書いて、印鑑押してくれる?」
白鳥は一瞬、ドラマの中で見た光景を思い出していた。
「自分がその当事者になるとは・・・」
白鳥は用紙に記入しながら、ドラマの中に自分がいるような、妙な感覚に陥っていた。
印鑑を押す時に、もう一度白鳥は美幸に尋ねた。
「本当に、これでいいのか?」
美幸は、黙ったまま口をきりりと閉めて、小さく頷いた。
「ベティはどうするんだ?」
白鳥がそう尋ねると、美幸はちょっと困ったような顔をして考えた。
ベティは白鳥に懐いていて、美幸はそれに嫉妬していたぐらいだったからだ。
少し考えた後、美幸は意を決したようにきっぱりとした口調で言った。
「あたしは当分実家で暮らすから、ベティは連れてくわ」
「あなた、一人暮らしじゃ面倒見切れないでしょ?」
「お姉さん構わないでしょ?」
「私は構わないけど、白鳥さんはそれでいいの?」
「ベティにとっては、その方が良いかも知れないな」
「遊び友達の、義姉さんのシェルティーもいることだし・・・」

離婚の話も、ベティの事も簡単に話が済んだ。
白鳥は、離婚届の証人の印鑑を貰う為に、小田の店に向かった。
小田は話を聞いて、驚いていた。
仲人の池田さんも驚いて、みんな同様に理由を聞いて来た。
しかし、白鳥には上手く説明が出来なかった。

隙間風の事、擦れ違いの生活、どれも些細な理由にしか思えなかったからだ。
みんな口を揃えて「どうせお前が悪いんだ」と、説明を聞くまでもなく決め付けていた。
そして、簡単に離婚届に判を押したことを責められた。
白鳥も、それには反論はしなかったが、ただ、子供を堕胎してまでも離婚しなくてはいけない理由が、
まだハッキリと分からないでいた。

市役所へ離婚届を提出に行くと、白鳥はその足で美幸の実家へと向かった。
義父さんと義母さんは、穏やかな表情で訳を聞いて来た。
白鳥自身納得していない説明に、ご両親も理解出来る筈もなかった。
「あの子に聞いても、さっぱり理由が分からないのよ」
「それに、あの子頑固でしょ、一度決めたら言うこと聞かなくて・・・」

白鳥は、子供の事はとうとう口にすることは出来なかった。
「今回こんなことになったのは残念だけれど、お互いに若いんだから、寄りを戻すことも出来るんだから、その時は意地を張らずに戻ればいいのよ」
ーと、義母さんは、白鳥を慰めるように言ってくれた。
「今回は、自分が到らないばかりにこのような事になって、申し訳ありません」と、白鳥も深く侘びを入れて帰った。

白鳥は、その後長野の仲人の池田夫妻にもお詫びに行った。
何時もなら、2〜3日泊まっていくのだが、今回はそんな雰囲気でもなく、とんぼ返りをして家に帰った。
家に帰ると、白鳥は義母さんに電話を入れた。
仲人さんへお詫びに行った事を伝え、そして、子供の事を話した。
義父さんには内緒にしてあるらしいが、義母さんは既に美幸から聞いて知っていた。
その話になると、さすがに義母さんもしょんぼりと残念そうだった。
白鳥は、何処の病院かを義母さんに尋ねた。
美幸に聞いても「来なくていいから」と、教えてもらえなかったからだ。
実家の近くの病院だと、義母さんは場所と日時を教えてくれた。

白鳥は、ひっそりと静まり返った部屋で、後数日の別れを名残惜しむかのように、ベティと夜遅くまで遊んでいた。
週末の朝、美幸が引っ越し屋さんのトラックに乗ってやって来た。
その日は丁度筑波でテストがあったので、白鳥は駐車場で出かける準備をしていた。
荷物を引き取るその場に居合わせるのは、良い気持ちがする訳もなく都合が良かった。
「じゃあ、あと頼んだな、ベティのこと頼んだぞ」
「分った」
そんな簡単な会話を交わして、白鳥はその場をあとにした。

サーキットでは、中島も気を使って離婚の件には触れて来なかった。
「白鳥さん、大丈夫? まるで病みあがりみたいだよ」
中島にそう言われてトイレの鏡で自分の顔を見た白鳥は、老けた自分の顔に驚いた。
髭を伸ばし始めていたこともあったが、白髪が増えていることに初めて気が付いた。
「冴えない顔しているな」と、白鳥は思った。

夜遅く、白鳥は家に帰って来た。
憂鬱な気持ちで鍵を挿しドアを開けると、そこには宿題を出して悩んで帰ったあの時の、あれほど明るく暖かく感じた灯りはもう付いていなかった。
部屋に上がり電気をつけると、タンスや鏡台の無くなったカーペットの跡が、白く痛々しく浮かんで来た。
じゃれ付いて、走り寄るベティの姿も無い。
「お帰りなさい」の、美幸の声ももう聞こえない。
全てが、ガランと空虚な世界に変わっていた。

白鳥に、孤独の黒い影が押し寄せる。
蝉の抜け殻のようになった部屋に、白鳥は一人でいることは出来なかった。
当ても無く、夜の街へ車を走らせた。
白鳥は、その後も暫く家に帰っても直ぐに家を出ていた。
テレビを付けても落ち着かず、音のない空間が耐えられなかった。
音楽やテレビの音では満たされない。
生身の美幸の声や、ベティの温もりが欲しかった。

とうとうその日がやって来た。
白鳥は、車を千葉に向けて走らせていた。
義母さんに教わった病院に着くと、駐車場の隅で身を隠すように病棟を見つめていた。
どの部屋かも分からずに、ただ闇雲に幾つもの白いカーテンに閉ざされた、窓の奥を探っていた。
何時間も、車の中で白鳥はぼんやり病棟を眺めていた。
「ごめんな、ごめんな」ひたすら謝り続けていた。
そして、「どうか、美幸の体が無事でありますように」と、祈り続けていた。

夜が辺りをすっかり静めると、白鳥はようやく踏ん切りを付けるようにエンジンをかけた。
「さようなら」
そうひと言呟くと、白鳥は走り去って行った。

夜の国道を、西へ向かって走っていると、涙が止め処も無く流れ落ちて来た。
今になって、ようやくとんでもない事をしてしまったことに気が付いた。
ひとつの命を失ったこと。
愛する者を失ったこと。
あれだけ気軽に接してくれていた義母さんとも、もう気軽に話すことも出来なくなった。
おばあちゃんの顔も、もう簡単に見ることは出来ない。
全てが、悔やんでも悔やみ切れない、過去のものとなって行く。
たった一枚の離婚届という紙切れが、こんなにも高い塀となって立ちはだかるとは想像もしていなかった。
みんな、高い塀の向こうに消えて行く。

掴み損ねた代償は、白鳥の胸に大きな穴を開けていた。
カーペットに残る家具の白い跡は、もう帰ることのない時の足跡だった。


恋は鬼ごっこの様に追い駆ければ逃げ、愛は流しそうめんのように掴み辛い。













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