「頼む。もうこれ以上、信じないでくれ」
唐突な言葉に、私は眼を丸くした。
意図を探ろうにも、ソファーに座って俯いたままの彼の顔は、ミルクの入ったカップを手にキッチンから戻ったばかりの私からは見えなかった。
「何があったの」
膝をついてその顔を覗き込んで、そして視線を合わせることなど造作もないことだった。
けれど、無理強いしたくなくて、代わりに言葉を紡いだ。
「もう、嫌になったんだ」
返ってきた言葉は平易で、それでいて具体的な理由を何一つ示していなかった。
「何が」
カタリ、と。ソファー脇の小さなテーブルにカップを揃えて置く。近づけば、彼の身体が震えているのがよく分かった。
「ぜんぶ、が」
答えになっていないことは分かっているだろう彼の隣に腰を下ろす。抱きしめていいものか、少し迷った。
「私が、ここにいることが?」
ハッとしたように私の方を見た彼の眼は、今にも泣きそうなほど潤んでいる。何があったというのだろう。ミルクを温めていた数分の間に。
「違う。そうじゃない」
否定されて、正直ほっとした。ここで終わらせてしまうのは嫌だった。
でも、だったら何故、こんなに震えているのか。
「なら、何が?」
詰問にならないよう、やわらかな口調でたずねる。その背中をさすってやりたい気もした。そうしてしまえば彼がますます口をつぐんでしまう気もして、しなかったけれど。
「……」
再び俯いてしまった彼が、投げ出していた膝を抱えて顔をうずめる。それほどまでに、言いづらいことなのか。
「何を信じるな、と言いたいの?」
質問の矛先を少し変える。ピクリと震えたその肩に、かすかに触れた。促すように、さする。けれど、それ以上は近寄らない。
「…を」
くぐもった小さな声は、聞き取れるレベルからは程遠くて、やむなく聞き返す。ためらう気配に、もう一度肩をさすった。
「僕を。これ以上信じないでくれ」
そうでなければいい、と会話の間中思っていた答えを耳にした身体が、勝手に動いた。気づいたら抱きしめていて、彼の震えがますます酷くなっていることを知る。
「どうして、そんなことを?」
泣きそうな声だ、と自分で思った。私が泣いてどうする、と叱咤する。むりやり抱きしめた身体が、腕の中で跳ねた。信じない、という選択肢は、とうに捨てているのだ、と。何度言えば信じてくれるのだろう。
「嫌なんだ」
堂々巡りだ。
思いながら、言葉を捜した。考えるという動作を一つ置かなければ、何を言ってしまうか分からなかった。
「何が?」
抱きしめたまま、背中をさする。私には彼の顔は見えない。けれど、かみころしきれない嗚咽が聞こえて。私のほうが泣きたくなった。彼の唐突な行動には慣れたつもりでいたけれど。ここまで脈絡もないとどうしようもなかった。
「……君が、僕を信じてることが」
泣いていることを悟られることすら苦手とする彼は、普段どおりの口調を保とうとして失敗していた。私がここにいることは嫌ではない、と動いた口で、けれど正反対にとれる言葉を重ねられて、判断に迷う。別れたいわけではないのだろう。だが、どんな経路でその言葉が出てきたのか、私は見当もつけられずにいた。
「私が貴方を信じているということが、そんなに苦痛なの?」
かすかに頷くそぶりで肯定した彼に、どんな言葉をかけるべきか迷って。結局、どうにも選べずに思ったままを紡ぐ。
「それでも、私には貴方を信じて愛することしかできないわ」
それが、どんなに邪魔で迷惑でも。私にできるのは、その二つだけで。いや、違う。そうしなければ、生きていけないほどにしていたいのが、その二つなのだ。
「……ズル、イ」
かすれた声が、腕の中から響く。はじかれたように顔を上げた彼と、視線が合った。
「そうやって、いつも君は言うんだ。信じてるって!逢うたびに!!その真っ直ぐな視線で、この僕に!!!」
それのどこが、間違っているのだろう。分からないまま、せきとめていた何かが切れたかのように言葉を紡ぐ彼を、じっと見つめる。
「信じてる、って。なんども、なんども。信じてる、って!」
その頬を伝う涙を、今すぐなめとってしまいたかった。私が、彼を泣かせている。いつも笑っていてほしいのに、泣かせている。自分を罵って、殴り倒してやりたい気がした。
「……信じてる、って。言われるたびに、泣きたくなる。そんな風に、疑うことすらしない君に言われたら!」
上気して紅い彼の頬を、次から次へと雫が伝う。どうして、こんな時ですらこんなに奇麗なのだろう。こんなに、愛しくなるのだろう。抱きしめて、もう何も言わなくていい、と言いたくなる。
「そのたびに、汚くて、怠惰で、ズルくて、そのくせ奇麗にみせようとしてるだけの最低な自分を思い知らされる」
震える声が紡いだ言葉に、私は愕然として何も言えずにいた。そんなことを、彼に強いているなど思ってもみなかったのだ。
「君に信頼されてるんだから、もっと立派で、誠実で、完璧で、奇麗な人間にならなきゃ、って。でも出来なくて、結局こんな僕のままで。こんな風に君を困らせて」
それは違う、と言いたかった。けれど、言えずにいた。彼を再び傷つけてしまうことを、私は恐れた。
「本当は、そばにいるのも恐いんだ。君を汚しそうで…いや、いつ君が僕を嫌うか、それが恐くて」
思わず、抱きしめる腕に力をこめた。どうして、気づかなかったのだろう。彼が、不安でないはずなどなかったのに。
「あぁもう、何言ってんだろ。君を困らせる気はなかったんだ。ほっといてくれたら適当に泣き止むから、気にしないでくれ」
作り笑いに信憑性は全くなかった。ポロポロこぼれ続ける涙に、舌を寄せる。腕の中で暴れる彼を、離す気などない。
「や、めてくれ!頼むから!!」
残念ながら、と私は言った。
「やめない」
腕の中で俯いた彼の頬に、触れるだけのキスをする。いくどか繰り返して、もがくことをやめた彼の耳に口を寄せる。
「それでも。たとえ貴方がどんなに嫌がっても、私は貴方を信じているし愛してる」
腕の中でゆれる身体をなだめるように、その背中をさする。それがどんな我儘か、分かっていて言葉を重ねる。
「人が生きていることに、奇麗も汚いもないわ。そこには、生きているという事実があるだけで。だから貴方が汚れているはずはない。だから、私を汚すことなんてありえない」
届くだろうか、と思いながら、届けたい言葉を続ける。いっそこの心をすべて彼に見せてやれたらよかった。数えきれないほどの怠惰でズルい自分と、彼を失うことに怯える自分を含めて。
「そうやって、泣くほど一生懸命に生きている貴方を、私はとても愛しいと思う」
永遠を。誓うことは私にはできなかった。愛しくて、愛しくて、愛しいからこそ、できなかった。彼に対するときは、誠実でありたい、と思えば。いつ果てるともしれない誓いなど、彼に対する冒涜でしかなかった。
「私が貴方に、信じてる、と言うのは」
ビクッと、大きく震えた身体を強く強く抱きしめる。耳をふさぐことなど、させたくなかった。眼を閉じても、耳は閉じられない。
「貴方が、泣くほどに人であろうとするからよ」
どれほどの痛みを私は彼に強いるのだろう、と思いながら、とめどなく流れる彼の涙を舌でたどる。見たいのは笑顔なのだ。いつも、笑っていて欲しいのに、どうして私は、泣かせてばかりいるのだろう。
「貴方の、その。完全でないことを恥じるその姿が。私には眩いばかりだわ」
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