断続的に鼓膜をゆらすかすかな水音に、あたしは目を覚ました。
いつの間にか気を失っていたらしい。
薄暗い視界に目をこらせば、村のそばに流れる干上がりかけた川とか、しまりの悪い扉の向こうから吹き込んでくる雨とかじゃなく、いつ磨かれているのかもわからない格子が黒光りするのが見えた。
その圧迫感と威圧感が、あたしを納得させる。
そうだった。
ここは、牢獄なのだ。
息を一つ吐いて、あたしは自分に与えられた横になるのがやっとのような狭い空間を見回した。
後ろ手に縛られてた腕を解かれているのがもっけの幸いだった、と言えるのかどうか。
生まれたときから暮らしてたちっぽけな小屋よりよほど寝心地の悪い石の床のせいで、身体のあちこちが悲鳴を上げる。
肌にまとわりつく湿気の不快さにはもう慣れた。
牢獄特有のすえた臭いも、もう感じない。
あたりの獄から響きつづけてるうめき声も、そんなに特異な感じがしなくなった。
・・・そんなわけ、ないけど。
そうしないと、ここにいることすら耐えられそうになかった。
獄吏が壁のロウソクを取り替えた回数なんかを頼りに改めて考えてみれば、投獄されてから2日以上は経ってるんじゃないかと思う。
その間、食事は一切与えられていないから、定かではないけれど。
食事。
何気なく思い浮かんだその言葉とともに、おなかが鳴らないほどのひもじさがあたしを襲った。
もしかして、このまま飢え死にさせられるんだろうか。
3年前の、あの大飢饉で死んだ妹たちみたいに、あたしも死んでいくんだろうか。
不安になった自分に、乾いた笑いがこぼれる。
そもそも、こうして生きていて、ひもじさを感じていられることがありえないのだ。
だってこれまで捕まった仲間は一人も帰ってこなかった。
捕らえられた者はすぐに処刑される、と誰もが言ったし、あたしもそう思ってた。
なのに、どうしてあたしは生かされているんだろう。
定期的に水が与えられることすら、罠のような気がしてならない。
だって、あたしは知ってる。
この国は何年も前から歪んでいるし、ここの獄吏だってそうだ。
鉄格子を揺さぶって泣き叫んだ隣の獄の男は、酷く殴られた。
何かよくわからない言葉で延々と独り言をつづけてた向かいの獄の女性も、やっぱり殴られてた。
耳を塞いで、丸くなって。
聞かないフリでやり過ごしたあたしは、卑怯者だ。
隣の牢から響く呻き声は、段々と小さくなっていた。
血の臭いさえ、漂ってくる。
手当てなんて、してくれるはずもない。
あたしたちは罪人としてここに入れられているのだ。
しかも、この国で二番目の重罪・・・反逆罪で。
じゃあ、あの男の人は死んじゃうのかな・・・アタシも?
考えまいとしてたことが不意に明確になって、あたしは震える両腕を身体に回した。
嫌だ・・・死にたくない。
だってまだ何もしてない。
あの暴君さえいなくなれば、皆で幸せに暮らせるんだって、だから叛乱に参加したのに、幸せになろうって約束したのに。
よみがえる悪夢に、あたしは身体を縮こまらせた。
叛乱は、成功した・・・はずだった。
ゲリラ的な戦法で少しずつ武器や食料を奪って、ビラを巻いて色んな情報を伝えて。
あたしだって、スパイとしてあちこちにもぐりこんだ。
そうして、あの日の蜂起。
軍の半分だって味方につけた。
隣の国とも手を結んだ。
・・・なりふりなんて、かまっていられないのだ、とリーダーは言ったし、あたしたちもそう思ってた。
とにかく、あの暴君さえいなくなればもっと暮らしは楽になるのだ。
それだけを支えにしかけた終わりの見えない戦いが、あの日ようやく終わった・・・はず、だった。
リーダーだって、予想もしてなかったはずだ。
血祭りにあげたはずの暴君は偽者で、その首を囲んで祝っているその夜に、襲撃を受けて捕まるなんて。
肝が据わってるな。
思考の世界に没頭してたから、気配に気づけなかった。
牢の前を通り過ぎながら、獄吏がこっちを見て笑った。
あたしが笑ってるからか。
泣け叫ばないからか。
哭けないくらい、死にたくないんだよ!
と叫びかえすことはできなかった。
だって、まだ死にたくない。
唐突に、光が見たいと思う。
それは、狂おしいほどの渇望だった。
あの、角の向こうで揺れるロウソクの灯でもいいから。
もっと近くで光に触れたくてならない。
一昨日までのあたしは、あんなに自由だったのに。
お天道さまの下で、好きなだけ光をあびていられたのに。
こぼれそうになる嘆きを押し殺して、あたしは目を閉じた。
こんなところで、体力を無駄にするのは馬鹿だ。
また、足音が聞こえる。
獄吏の足音じゃない。
そのくらいは、あたしにだって分かった。
だって、獄吏は革靴なんて高価なもの、履いてない。
じゃあ、誰だ。
拷問吏か。
それとも処刑の順番が回ってきたのか。
とっさに思いつく可能性はどれも先が黒く塗りつぶされていて、あたしは思わず呟いていた。
「嫌だ」
獄に響くしわがれた声に、あたしは愕然と目を見開いて、首を横にふった。
何の財産もないあたしが、唯一誇れるもの。
それは、転がる鈴のようだと人がほめてくれた、この声しかなかったのに。
でも今は、それもどうでもいいことだった。
死にたくない。
その思いだけが、身体を支配する。
どうしても死にたくない。
でも、逃げられるはずのないことも、あたしは分かっていた。
ここは、よりによってあの暴君がいる城の地下牢なのだ。
助けだって、来ないだろう。
あの蜂起で、たくさんの人が死んだ。捕らえられた者だって、多いはずだ。
ここで助けにこようものなら、共倒れになるだけだ。
そのくらい、捕まったその瞬間には理解できていた。
なら、このまま笑って死ぬしかない。
何も言わずに、死ぬしかない。
泣き叫ぶよりよほど、認めてくれるだろう。
誰が?
死んでく様が立派だと。
認められて?
で? それで?
嫌だ嫌だ嫌だ。
生きたい。生きたいんだ。
生きて、生きて、生きて、生きたいから生きたいんだ。
泣こうが喚こうがどうしようもないことなんか分かっていたから、あたしはうなだれたまま床を見つめた。
ゆったりと、それでも確実に、足音は近づいてきていた。
来るな! 来るな! 来るな!!
内心の悲鳴を、唇を噛んで押し殺す。
口の中に広がる鉄の味に、吐き気がした。
捕まったその日なら、まだしも笑って死ねたのかもしれない、と益体のないことを思う。
あれから2日も経ってしまえば、命にしがみつきたくなるのは当たり前だ。
それすら、暴君の計算の範囲内だった、ということなのだろうか。
思う間に、足音が止まる。
よりによって、あたしのいる牢獄の前で。
顔をあげることはできなかった。
たとえば、リーダーだったら。
こんなときも顔をあげて大胆不敵に笑うのかもしれないけど。
あたしには、できそうもなかった。
拷問だろうか、と誰かが頭の中でささやく。
それとも、処刑だろうか。
「囚人」
低い声とともに、軋んだ音が辺りに響いた。
聞き覚えのあるその音に、はじかれたようにあたしは顔を上げた。
二度と開かないだろうと勝手に思っていた、鉄格子の扉が開いているのが見える。
その向こうに、鍵束を片手にたたずんでいるのは、鎧姿の・・・騎士だった。
下層階級の庶民の処遇に騎士が関わるなんて、そんなのありえないはずなのに。
第一、牢獄なんかの仕事は、けがれるからって上層階級の人はしないって聞いたことがあるのに。
膨れ上がる疑問が、一瞬、恐怖を追いやった。
そのまま見つめた“死神”は、下層階級のものを見るときに多くの騎士がそうするような、汚いものを見るような顔つきじゃなく、それもまた、不思議に思う。
「出ろ」
命令することになれた口調に、あたしはあわてて立ち上が・・・ろうとして、膝をついた。
フラフラするのは、食べてないのと、眠っていなかったからだと自分で分かっていた。
目を閉じたって、こんな状況で眠れるはずがなかった。
死ぬのかな、と不意に思う。
嫌だ、と誰かが叫んだのが聞こえて、あたしは壁にすがるように立ち上がった。
どこに連れて行かれるのか分からないけれど、それでも今ここで死にたくはない。
だって、相手は騎士なのだ。
あの暴君の手足として、税金を払えなかった村を容赦なく焼き払ったあの騎士たちの仲間なのだ。
座り込んでたら、間違いなくここで殺されるだろう。
・・・ここから出て、やっぱり殺されるのかな。
確実に迫りくる未来に、あたしは息をひとつついて、のろのろと鉄格子のほうへ向かった。
ここを出て、連れて行かれるのは処刑場だろうか。
たとえば、反逆者をかくまったかどで処刑された隣の村の幼馴染のように、あたしも生きたまま虎に喰われるんだろうか。
それとも、反逆者同士で戦わせるほうだろうか。
歓迎できるような想像は、なにひとつ浮かばなかった。
でも、そのほうがいいのかもしれない。
希望から絶望に突き落とされるのは、もう嫌だ。
腰をかがめて、鉄格子の扉をくぐる。
まさか、自分の足で出る日がくるなんて思わなかった、と苦笑いしてあたしは騎士を真っ直ぐに見た。
これも不敬罪になるんだろう、と思う。
ここまできたら、どうでもいいことだけれども。
あぁ、でも。せめて光が見たい。
違う。死にたくない。
生きたい。一瞬でも長く?
違う。ずっと、ずっとだ。
できるだけ、長く生きたい。
身体の中であがる悲鳴にも似た渇望を、外にはもらさないように笑みを浮かべる。
一世一代の、意地のようなものだった。
あたしよりずっと背の高い騎士が、口を開く。
「お前は釈放だ」
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