長い時間の過ごし方:下PDFで表示縦書き表示RDF


 これをお読みになる方は、 『長い夜の過ごし方』 と 『長い時間の過ごし方:上』 をお先に読んでいただけると幸いです。
長い時間の過ごし方:下
作:田中太郎


「遅い! 遅すぎる! 君の上官はいつも言ってなかったかね!? 何時、如何なるときであろうと警戒をとく事なく、常に敵の攻撃に目を光らせおけと、あの方は仰っていなかったのか!?」

 吐き出す言葉は脳を経由せずに喉から外へと出ていく。不自然なまでにハイテンションな言葉は、自分以外の誰かが発した言葉みたいに遠くから聞こえてきた気がした。
 表情は上手く作れているだろうか、目から涙は流れていないだろうか。浮かんでくる不安の数々は決して沈む事無く、不必要なまでに私にその存在を主張しようと嘲笑っている。目を背けたくなるような現状に、それでも数年間かけて貼り付けた ”いつもの私” というメッキは上手く機能してくれているらしい。
 田中さんは不機嫌だと言いたげに眉を潜めている。基本的にどんな事をしても乗ってくれる浮沈艦の様な彼の気性をここまで貶めるという事は、つまり私が普段と同じかそれ以上のウザさを発揮できているという事だ。
 少しだけ安心してひと息分だけ息を吐いた。大丈夫、私はまだおかしくなんかなっていない。

「うっさい近所迷惑だ。それと、俺は生まれてこの方上官なんて物を持ったことが無いし、そもそも今は戦時中じゃねぇ」


 なんとも間の抜けた突っ込みの言葉が突き刺さる。その鈍臭さとか、呆れる位に容赦の無い辛辣の言葉が今は居心地が良い。自分を異性としては見てくれないその態度に昔は腹が立った物だったが、それは本来侵すこの出来ない大切な宝物だった筈なんだ。
 でも、それはほんのひと時の気の迷いや油断で手から零れ落ちてしまう程にはかない物だ。田中さんと言う、そういう配慮に対する鈍臭さを極めきった様な人を持ってして、それでもいつ離れるか判らない均衡があるほど、男女間の友情は難しい。
 今度は意識して大声で笑ってみる。途中で1度だけ声が震えてしまったけれど問題は無い。大海の如き笑い声に奔るひと筋の波紋に反応するほど、田中さんはこの会話に意味を感じてはいないのだから。

「今日は乗り悪いっすよ田中さん? 今のところはそのまま流れに乗っかって、私たちの記憶の果てに消えていった上官”ジョン=コナン”に再びあの日の誓いをたてるべきポイントだった筈っすよ!!」

 うぉー! と叫びだす声は興が乗ったからなんていう安直な理由ではない。お腹の底から気合いを入れた声を発さなくては、今の私が崩れかねないと判断した為である。
 この家に来て未だ5分と時間は経っていない。それなのに私のメッキはもうボロボロで、注意深く見れば既に剥がれている部分すら有るほどだ。あと数時間、少し位剥がれても良いから、なんとかその永遠とも思える夢幻の時を過ごせるようにと祈ってもう1度声を張り上げた。

「今日はってもな、今日はまだ始まってからほんの2時間程度しか経ってないんだぜ? それで今日1日の俺のテンションを決定するのはどうかと思うんだ」

 ニヤリと、不敵な笑みがその唇から覗く。普段の田中さんとの差異は余りにも大きく、ついさっきまでの自制をその場に放ってしまって、今度こそ本当の笑いを上げてしまいたくなる程だった。
 それにお返しをする意味も兼ねて私もぎこちなく笑みを形作った。イメージするのは高校時代の田中さん。誰にも言う事は無かったが、ほのかに憧れていたあの頃の彼を瞼の裏に宿して、ふてぶてしく笑ってみせる。

「という事は、これから田中さんは右肩上がりにテンションが上がっていくという事ですね!! 所望する! 我は所望する! その右肩上がりは、是非限りなく90度に近い物であるべきだと!!」

 いい加減、自分の口から叩きつけるように放たれる他人の言葉にも慣れてきたという物だ。笑えていない瞳を隠すために田中さんには背を向けるけれど、しかし彼はそれに動揺する素振りを見せる事は無かった。
 少しの間、先程までの喧騒を塗りつぶすかのような分厚い沈黙が流れた。その時間はそんなに長くは無かったのだけれど、今はその束の間が遠すぎる。剥がれかけたメッキは、最早もはや喧騒と言う突風に吹かれて私の体に押し付けられているだけなのだから、1瞬でもその風が止んでしまえば、メッキが零れ落ちていくのは当然の話だ。

「取り合えず、こんな夜中に女が男の1人暮らしの部屋に来たって事は、それ相応の覚悟があると見て良いべきなんだよな?」

 ――最悪のタイミングで、最悪の言葉が耳に響いた。
 零れ落ちそうになる嗚咽おえつを必至に飲み込んで、親の死に目でも見るかのような悲壮感に耐えながらも前を見る。気合いを入れる様に一気に飲み干した缶ビールの奥から覗く田中さんの瞳は、この部屋に来てから初めての真剣な色で満ちている。
 知っている。長い付き合いのおかげで、これが田中さんなりの冗談なのは頭では理解している。現に私は表情を崩す事無く、意識しながらでは有るけれど軽口を叩いて、田中さんの背中を友達にするみたいにバンバンと叩いている。
 それでも、頭じゃなくて胸の奥から痛みが滲み出る。アレは冗談なんだと理解している筈の理性を、アレは本物なんだと叫びだすトラウマが喰いつぶしていく。自分が今立っているかすら判らない程に虚ろな頭をどうにかバカに戻すために、藁にも縋る思いで目の前の缶ビールに手を伸ばした。
 思ったよりも量が少ない。アルコールに対してはそんなに強くない自分にとって、普段ならば目を背けたくなるような多量のビールは、何かしなければ崩れ落ちてしまう現状から考えると蜘蛛くもの糸よりも頼りない。するべき事を探して、縋るように手を伸ばした先にあった500mlの缶ビールを、先程よりももう1つ勢いをつけて飲み干した。
 何度かそんな事をしていると、田中さんは慌てて私の手を止めようとしていた。気付けば空の缶は既に4本を越えており、普段から余りお酒を飲まない私ならば、急性のアルコール中毒になってもおかしくは無いであろう量であった。
 何で止めるんだ、と口にしようとしたけれど、それよりも今は尋ねなくてはならない事がある。口にするべき事なんかじゃないなんていうのは判りきっているはずなのに、私は何かに突き動かされるみたいな確固たる意思を持って、滲む視界の先で呆れたようにこちらを眺めている田中さんにひと言尋ねた。

「……さっき言った言葉、田中さんは本当なんっすか?」

 口にした瞬間、初めて自分に対して本気の殺意が芽生えた。思いつきで行動するだなんて、今はもう殆ど剥がれている筈のメッキで塗りたくられた自分の筈だったのに。
 田中さんは目に見えてうろたえている。普段から勤めて性別を意識させない様に過ごしていた私が見せてしまった異性としての側面に、コイツは本物なのだろうかという疑惑の目を向けている。
 その目が次第に好奇心を持った物に変わっていき、終いには頭を抱えて突っ伏してしまった。私が誘っているとでも勘違いしたのだろうか。田中さんは、今までの友人としての私と異性としての私の間で激しく揺れているようだった。

「……田中さんもやっぱり、他の奴と同じように異性の友人になんかはなってくれないんですね」

 最後に、ひと言吐き出した。もう終わりなのだと諦めに埋め尽くされた頭に対する最後の報復として、この世の終わりを告げる預言者みたいなありったけの絶望を込めて、全ての終わりを口にした。
 喧騒は完璧に殺されて、初めてこの部屋の熱気を外に送り出そうとクルクル回っている換気扇の音に気が付いた。しかし、ソレは暗く沈んだこの空気は愚か、もう考える事を止めてしまえと急きたてる熱気を吐き出すことさえできずにいて、気軽に回り続けているその羽根に殺意を覚える事しかできなかった
 殺意に気を取られたせいで1瞬心が揺らいだ。強く抑え付けていた心から開放された涙腺は、まるで堰を切ったかのようにとめどなく溢れてきた。その頬を伝う涙の冷たさでハっと我に帰って、今からでも死んでしまいそうな位に掠れて震えている喉元から、決死の思いでひと言手繰り寄せた。

「田中さんもやっぱり下半身と脳髄が直結してるケダモノの雄なんっすね!! へっへーん、でも残念でした〜。私はもう生理も来ないような干上がった老婆のようなダメ女なのでしたー!!」

 絞り出した声は微かに震えていたけれど、充分に許容範囲の筈である。ただ、先程までの異質から、少しばかりこちらの動向に敏感になっているのかも知れない田中さん相手に誤魔化せたかと聞かれると、やはり自信は無くなってしまうのだけれど。
 少しでも気を紛らわせる為に、手を伸ばせば届く距離にあるティッシュを取ってもらった。未だ涙は止まる事は無く、不審そうにこちらを眺めてくる田中さんの視線から逃げるようにして目元の涙を私は拭った。
 張り詰めた空気が僅かに緩み始めた。峠を越えてようやくひと息吐ける頃になっても、私は失った目標を何処に定めるかなんていう面倒臭い事からは目を逸らしたくって、少しでも今の絶望から気を逸らせるようにと目の前の缶ビールに再び手を伸ばした。幾ら問題を後伸ばしにした所で、それは私との距離を助走距離に変えて、以前とは段違いの勢いで私に飛び掛ってくるのは判っているのに、それでも今だけは何も考えたくは無かった。
 沈んだ心は2度と浮かび上がることはない。剥がれただけならばどうにか持ち直せた筈のメッキは、しかし余りの熱量で溶けてしまったが為に2度と復帰は無理かと思われた。

「ばーか、酒の入りすぎだよ。俺とお前はお前の言うところの戦友だぜ? 友達をそんな相手の対象としてみるようアホなんて、いると思ってんのか?」

 ――その沈んだ心が、そのひと言で再び浮かび上がってくれた気がした。ひどく安定の無い、まるで嵐の海に投げ捨てられたイカダみたいに揺れている、神様のひと言が私の耳元に突き刺さる。
 しかし、揺れているという事はつまり本物では無いと言う事なんじゃないだろうか。1瞬浮かんだ心は再び重しを乗せられて、しかし顔を上げた次の瞬間に、そんなうざったい重しは元から無かった見たいに取り払われていった。
 眼前には、眩暈めまいを起こしそうな位に懐かしい顔がある。どこか間の抜けていて、年上に見えない位に幼くて、だけどそれだけ純粋な瞳に似合わない、いつだか瞳の裏に焼きついてしまったふてぶてしい笑顔が、ソコにはある。
 それを見て、私はここ5年位の内で初めて意識せずに笑いが零れた。染み付いてしまった作り笑いとは違う、自分でも今どんな表情をしているのだろうかと気に成る程に自然な笑顔が浮かび上がってくる。
 外の世界は、宵は未だ深みを増していくばかりで明けていくような様子は見えてこない。迎える事は無いであろうと目を逸らしていた朝日が、しかし今ではもう目の前に見えてくる。
 外の朝日が見えてくるまで後4時間は時間があると見ていいのだ。ならこの長い夜の過ごし方を、1人の知り合いを親友にまで繰上げをするのに使ってしまっても良いのではないのだろうか。今では両親にすら見せることの無い仮面の裏の自分を、彼には見せても良いのではないだろうか。

「……ありがとうございます、田中さん」

 同じタイミングで彼が何かを呟いたけれど、それには気が付かない振りをしてやる事にした。そういう細やかな気配りをする事が、つまりは友情の長続きに繋がるのだから。
 何をするのか田中さんは思い立ったように立ち上がって、台所へと足を向けていった。取り出してきたのは私の頭と同じくらいの大きさのある大ジョッキで、その中に景気良くビールを投げ込んで、その行為すら霞む位の豪快さで、大ジョッキの中身を一気に飲み干した。

「田中さん、その量のビールを一気に飲むだなんて、頭の悪い子がする事っすよ?」

「気にすんな。今の俺は、珍しく頭の悪い子で良いかなー、って気分なんだよ」

 アハハと笑う声が、暗雲を吹き飛ばすように大きく響いていった。消え去りそうな思考の中で、それでも今では手の届く場所にある宝物の存在が心地良い。
 長年貼り続けてきたメッキは、深い夜に似つかわしくない2人の騒がしい叫び声に解けていくのだった。


 いやぁ、偉く間が空いてしまいましたが一応完結しました。個人的にはスランプは抜け出せたかなー、と思っているのですが、そこら辺どうなんでしょうかね?













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