いつの日だったか覚えていないが、林檎売りの老婆から聞いた話。
ある階段の隅に、黒い固まりが達磨のように座っていたらしい。
その黒い固まりは、それはそれは忠実なるクリスチャンであったそうで、首に提げたやたら大きな十字架を握り締め、階段の隅で一人、ぼそぼそ何か呟いていた。
階段を上った所には大きな寺院があり、それはそれは忠実な仏教徒が暮らしていたのだが、達磨のクリスチャンは知ってか知らずか、その階段に住み着いて、昼間は何かを呟き、日が暮れればまた達磨のように丸くなって寝てしまうのである。
そのせいで門下の僧達は階段を気味悪がって上れなくなり、門上の僧達は階段を気味悪がって下りれなくなってしまった。
夜の間使いに出した弟子達が帰って来ないのを不思議に思った師匠が、自ら階段を下りていくと、階段の丁度中段あたりに、黒い達磨のような固まりが隅に置かれているのを見つけた。 やはり彼は弟子を従えるに相応しい師匠であった。隅に張りついている達磨に近づくな否や、懐から翡翠の数珠を取り出して、達磨の膝に置いてこう言った。
「釈迦様ならば、あなたにこのような事をさせないであろう。お目を覚ましなされ。」 延々呟いていた声を止め、達磨は顔を上げた。長い前髪に長い髭。僧達が梯子を持ち出す理由がわからなくも無く、人間、不審な物は極力避けて通ろうという気で生きているという事実を改めて思い知らされた。
膝に置かれた数珠をまじまじと見つめた達磨は、自分が握り締めている十字架に目を向けた。その姿を目の前で見る師匠は、なんとなく、紫陽花の葉の上を這う蝸を想像した。
達磨は、見つめていた十字架に数珠をうまく括りつけた。
師匠は困惑した。
「そのようなこと、釈迦様にご無礼です」
聞く耳持たず、達磨は顔を上げると師匠に言った。
「無理にどちらかを決める必要はないのだ。この翡翠は高く売れるだろう。」
言うなり達磨は立ち上がって、商店の方へ歩きだした。
師匠は口を開けたまま、その背中を見送る事しかできなかった、とさ。
親切が仇になった瞬間である。 |