その日の夕日は冷たく教室を染めた。底なしの闇はすぐそこ間で迫っている。それは、皮膚を撫でるような、優しい誘惑をする風でわかること。君は闇を求めるような孤独な目で窓の外を眺めている。僕は暗くなる前に帰りたい(のに、帰れない)。
「私、死ぬことってすごく簡単なことなのだと思うわ」
風の誘惑に負けるような発言は、根拠はないのにしっかりとしていた。
「気管を圧迫しちゃえば、終わり」
キミは振り返ったかと思うと、僕のそばに近寄って、氷のように冷たい手を伸ばし、僕の喉仏に親指をそっと添えた。
「あなたを殺したい」
「」
「あなたに殺されたい」
親指に力が込められ、噎せかえる。僕には決して簡単ではないことだ。
*
「おい、友希。いつまで寝てるんだ」
張り上げられた大声は僕の脳を唐突に震わせた。一気に眠気がぶっ飛び、何度も繰り返される窓を叩く音を訝しく思って窓を開けた。屋根に足の裏を必死で引っ付け、バランスを何とか保とうとする奴の姿がそこにあった。
僕は驚きと呆れのあまりに絶句する。
「今日から海開きだぜ、早めに行かねえと、混むだろ」
奴は変質者かと疑いたくなるくらい露出度の高い服装だった。短めの海水パンツと、真っ白なランニングシャツ。胸にはミズノのワンポイントが刺繍されている。
「とりあえずさ、お前早く屋根おりろよ。変態みたいだぜ」
「お前が準備できたらおりる」
溜息を吐いた後、渋々僕は衣類が入ったタンスを開けて、シャツとジーンズ、そして膝までの海水パンツを引っ張り出した。強引に引っ張り出したせいか、タンスをみごとにぐちゃぐちゃだ。
窓の外では「早く早く」と奴が執拗に僕を催促している。
半開きの窓から、夏の太陽に暖められた生ぬるい風がぶあっと室内に流れ込んできた。突然のことだったので、僕は思わず窓の向こうに目をやった。風の流れる向きに体を傾かせて、足元をよろつかせる奴の姿が目に入った。奴はとっさに窓枠を掴み、何とかバランスを取り戻した。無鉄砲な奴でもいい加減焦ったのか、無理に笑いながらも息を乱している。
「だから言っただろ。おりろって。落ちたら死ぬぞ」
「構いやしねーよ。死ぬことなんて怖いもんか」
*
荒れ狂う海は、戦う闘牛のよう。片足を突っ込めば、簡単に命をさらわれるのだろう。天候は、雨。台風は接近もうすぐ上陸するのだろう。彼女は僕のシャツの袖を力強く握っている。衣類には、細く細かい皺がたくさん刻まれている。
「早く」
積み上げられたテトラポットを眺めながら、何も障害物の無い崖っぷちに立つ。そんな自分を、僅かながら果敢に思った(同時に、情けないとも)。彼女はよろめきながらこっちに近寄り、サンダルをゆっくりと脱ぎ、丁寧に揃えて地面に置いた。彼女の真っ白で華奢な足を隠すものが何も無くなる。白いワンピースが暴風に激しく揺れて、雨に濡れた衣類の下で、彼女の下着がぼんやりと浮き出している。僕は今にも風に飛ばされそうな彼女の手をとった。スニーカーを簡単に脱ぎ捨てる。
「この海に飛び込めば」
「……」
「ゴミくずみたいになっちゃうのね」
「これだけ荒れていれば、死体も見付からないだろうよ。葬式も数年は行われないだろう」
「……」
彼女は濡れて額に張り付いた前髪を指先で摘み、後ろの方に流した。寒さか、恐怖かでがちがちと体が震えてる。僕はいよいよ飛び込もうと、彼女の手首を更に引っ張った。すると、思いもよらぬ力が反発し、彼女の体を前進させる事を拒んだ。真っ青な顔をした彼女は僕からさっと目を逸らしている。体の震えは、先ほどよりも大きくなっている。
「死にたく、ない――」
僕は彼女を誰よりも情けない人間だと思った。 |