第5章
このようなわけで、俺は週に一本、月にひとつだけコラムの連載を続けることにし、その年、日本でもっとも優秀なコラムニストとしての賞ももらうことができた。
連載を減らして収入が減ったかといえばそのようなこともなく、代わりに新しい世界が開けた上、不定期でいいから武宮英治の記事が欲しいというような依頼も多く、俺はそんなふうにしてより働きやすい、自分に適した活動の場を得るに至った。
妻とは、日本中の温泉をめぐる旅というのをしてみたり、娘とは一緒に東京までオアシスのライブへ出かけたり、息子とはお互いに共通の趣味である競馬へ時々いくようになった。
もっとも、俺の人生に起きたこのような変化は、野々宮春枝さんとイアン・バーンスタインの間に起きた出来ごとに比べたら、極めて地味で、少しもドラマチックなものではない。だがイアンが最初にメールしてきたとおり――俺の身に起きたこの変化は、確かに『宝くじで三億円当たるよりも』素晴らしい出来ごとだった。俺はここに断言しよう。人間というのは自分の生き方や考え方を変えたりするより――ひとつの山の森林を伐採し尽し、その山を切り崩してしまうことのほうがよほど、簡単にできるものなのだ。俺はそんな、ボタンのかけ違い的勘違いに一生気づかないようなアンポンタンに自分がならなくてよかったと、心から本当に灰色職人に感謝していた。
さて、俺にも灰色職人がそろそろ「引っ越したい」という意向を伝えてきたので――彼の示したとおり、ある人物に一通のメールを送ることにした。文面の内容はほぼ、イアンが俺に送ってきたのと同様のものだ。
<昆 一洋さま
お久しぶり。お元気ですか?突然このようなメールが届いて、さぞ驚かれていることでしょう。このメールは、灰色職人さまからの指示により、わたし武宮英治が昆一洋さまに個人的に送るものです。何を隠そう不肖この武宮英治もまた、灰色職人さまに人生を変えていただいたひとり……もしかしたら何をふざけているのかと、昆さんはそうお思いになるかもしれませんね。でもわたしはつい先日こんな夢を見たのです。灰色職人さまが坊主の姿をして現れ、昆さんと共に寺にこもって修行しているところを……いや、これ以上は何も申しますまい。わたしがいかに言葉巧みに昆さんに灰色職人さまのことをお話したところで――超現実主義の昆さんには、とてもその存在を信じられはしないでしょうから。
ただ、宝くじで三億円に当たるようなラッキーなチャンスを昆さんが逃したくないと思っておられたら――明日のお昼頃、千歳空港内にある喫茶店Zまでお越しください。
P.S.来札の際には、できればトレッキングシューズを履いてこられるのがよいでしょう。
武宮 英治>
実をいうと彼とは、一度だけ面識があった。昆さんは父方が韓国人で母方が日本人という、いわゆる二世の作家で、在日韓国人の日本における立場について、雑誌の企画で対談したことがあった。その時はただ、暗くて真面目な大人しい、コンプレックスの強い青年としか、俺は思ってなかったけれど――灰色職人はどうやら、彼と一緒に韓国の釜山へいきたいらしい。そこに彼の仲間である精霊のような存在がおり、自分と似たような困った状況に陥っているので、助けてやりたいのだという。
<何かよくわかりませんが、武宮さんのような方がそのように言われるのであれば、よほどのことなのでしょう。おっしゃられたとおり、トレッキングシューズをはいて、北海道へ向かいたいと思います。
それでは千歳空港内にある喫茶店Zで、明日の十二時頃、お待ちしています>
その簡潔な文章を読んで、彼は相変わらずなのだろうな、と俺はなんとなくそう感じた。昆くんは四度直木賞の候補になっていたが、受賞に至らなかったのは『自分が二世だからだ』とそのように民族的な理由に帰しているところがあったし、はっきり口にはださないまでも、やはり心の底ではそのように堅く信じきっているというような、気配のようなものが感じられた。果たして、彼が悲願の直木賞をとることが昆くんの幸せだと灰色職人が判断するかどうかはわからないが、ただひとつこれだけは言える。明日俺は灰色職人に指示されたとおり、彼と藻岩山へ登山をしにいく。これまでの経験上よくわかるのだが――俺は灰色職人が勝手にしゃべるのにまかせて、彼の<引越し>を無事完了することができるだろう。
さようなら、灰色職人。そして俺の人生の軌道修正をしてくれて、本当にありがとう。あなたが何者なのか、俺はあえて訊ねようとは思わないけれど――もし俺が死んだあと、死後の裁きというのがあって、神さまが許してくださるのであれば、俺はあなたが裁きを受ける時に、喜んであなたを弁護したいと思う。
人間のような、たかが百年生きるか生きないかという程度の、塵あくたに過ぎない灰のような存在に、あなたが真心を尽くしてくれたことを、俺は決して忘れることなどできないから。
終わり