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灰色職人  作者: ルシア
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第4章

 ……信じられないことだが、その夜、俺は女房と久しぶりに寝た。悪くないセックスだった。夏江は上の娘に感づかれたくないと思ったのかどうか、すぐに自分の寝室へと戻っていった。母親の顔ではなく、女の顔をして。

「まいったな。一体どうなってるんだ」

 うまく説明できないが、俺には<これが灰色職人の業なのだ>ということがはっきりわかっていた。あの日、たぶん――いや、たぶんもおそらくもなく、確かに彼は俺と一緒に山を下りてきたのだ。今ならばはっきりとわかる。闇の中、彼は俺を案内しながらあの林道を歩いていったのだ。何故あの時すぐに思いださず、今ごろになってこんなことを思いだすのかさっぱり説明がつかないが、俺はあの時夢を見た。いや、現実が夢で、夢が現実だったのかもしれない。


 さらさらと流れる川を泥で汚れた黒い長靴をはいたじいさんが渡ってくる――本当に、普通のただの作業服を着た、白髪頭のじいさんだった。薄い緑色の、造園業の職人がよく着ているような、作業服姿だった。土木現場で「じいさん、しっかり働けよ!」なんて言われてそうな雰囲気の、か弱そうな、目の落ち窪んだおじいさん。

 俺は彼の気配に気づいて、うっすらと目を開けたが、とにかく一番最初に感じたのは(ああ、この人はまるきり害がないから、全然問題ない)ということだった。そこでとてつもない眠気にそれ以上まぶたが上がらず、再び蜜のような甘い眠りの中へと落ちていったのだった……。

 奇妙に聞こえるかもしれないが、灰色職人というのは、俺が「おおい!灰色職人さんそこにいるかい?」と呼びかけて返事をするといったような、そういう存在ではない。うまく説明するのが困難だが、あたりの空気に溶けて幽霊のように存在しているというのでもなく――とにかく今、灰色職人は<俺>という存在を構成する一部分だった。かといって、守護霊のように右の肩に乗っかっているというわけでもなく、俺は今彼のことを、自分の脳細胞の一部であるかのようにとても近しく感じるという、ただそれだけだ。

「……これから一体、どうなるんだろうな」

 俺は裸のまま、ひとり呟いて、そのままベッドの中で眠りに落ちていった。枕から、夏江の残していったニナ・リッチの香水の匂いが微かにしている……俺は何故か昔から、香水をつける女と、マニキュアをしている女に好感を持つことがあまりできなかった。ついでに、ブランドものに拘る女というのも大嫌いだ。だが、妻の夏江も娘の純子も――やたらクリスチャン・ディオールだのドルチェ&ガッバーナだの、ブランド物の品物ばかりを買い漁っている。娘の純子に至っては、ネイル・サロンに勤めているといった始末だ。

(俺の母さんは、あんなゴテゴテした変な爪をしていやしなかった。いつもガサガサで、皺だらけの、冬には赤切れた手をしていた……俺は決してマザコンではないが、女性と会う時には必ず、つい指先を見てしまう。それでその手や指に皺が色濃く刻まれたりしていると――やたらその女と寝たくなった。そうだ。俺は苦労をしている女というのに弱い。だが結婚相手には、苦労知らずの箱入りお嬢さまだった夏江を選んだのだ。そのことを後悔したことはない。だが、娘のことはもう少し、どうにかしてやるべきだったのかもしれん。純子が、あの紫色の髪をしたイカレパンクロック野郎を家に連れてきた時――本当は俺にはわかっていたのだ。うまくいくはずがないと。にも関わらず、さも理解のある父親のような振りをして、ふたりの結婚を許してしまった……)

 その夜、俺は眠りに落ちてから、<夢の中で>そんなふうにずっと、考えごとをしていた。夢の中の視点はベッドの上で、そこからもうひとりの自分の意識が、肉体を持つ裸の自分を見下ろしている。そしてそことはまったく次元のことなる部屋で、灰色職人は例のあまりパッとしない服装のまま、コンピューターに向かって何かを計算していた。そして最後に<RUN(実行)>のボタンを押すと、よくわけのわからない文字や数字がびっしり並んだA4の紙が、コンピューターから出力されてきた。俺はそこで本当の意味で目が覚めた。


 翌朝、七時に目が覚めると、俺は「くしゅん!」とくしゃみをひとつした。筋肉自慢をしたいわけではないが、俺は週に二度は必ずスポーツ・ジムに通い、体を鍛えている。夏は登山、冬はスキーをするのが趣味だ。他に友人の陶芸家のところで陶芸を教えてもらったり、これまた友人の畑の一隅を借りて、作物を育てたり……興味のあることにはなんでも、積極的に取り組んできた。だが、俺は旅行をすることも取材も趣味も、他の何もかもを<男の美学>として自分ひとりだけで実践してきたのだ。

 この日、よくわからないが、俺は突然にしてそういう生き方はもうやめようと思った。もちろん子供たちが小さかった頃には、夏にキャンプをしたり、冬にはスキーを教えたり、といったような記憶はある。圭太が小さかった頃、渓流に魚釣りをしにいって、俺は魚釣りに夢中になるあまり、息子のことを山奥にひとり置き去りにしたことがあったっけ……ようするに俺は、昔からそういう人間だった。家庭サービスとかなんとかいうのではまったくなく、ただ自分の楽しみに妻や息子や娘のことをつきあわせていただけだったのだ。


「おはよう」

 広いダイニングキッチンにある食卓で、そう朝の挨拶をすると、パンを食べていた娘は、ぎょっとしたような、変な顔をして俺のことを振り返った。あまりに驚いたせいなのかどうか、純子はおはようとも言わない。俺は娘の向かい側の席に腰を下ろすと、夏江が朝食を運んでくれるのを待った。

「今日は仕事か?」

 見ればわかるでしょ?というように、純子は目さえ上げなかった――そうだ。俺が家族と一緒に食事をしなくなって、もう随分になる。しょっちゅう取材だなんだと言っては、家を空けてばかりいるし、締切が迫っている時には夏江がいつも書斎に食事を運んだりしているから。

「最近、どうなんだ?つらいこととか、嫌なこととかないのか?」

 もうすっかり綺麗に身仕度を整え、お気に入りのヴィトンのバッグを持って出勤するばかりになっている娘は、手入れのいき届いた細い眉を、露骨にしかめていた。

「どうしたの、お父さん?マジでキモいんだけど。べつに嫌なこともつらいこともないけどさ、今日も一日ニコニコして、他人の爪をヌリヌリして終わるんだなっていう、ただそれだけよ。でも週末にはオアシスが札幌にくるからね、まああと三日の辛抱ってとこ」

「彼氏と、いくのか?」

「いんや」とカプチーノを飲みながら、純子は首を振った。「女の友達と。でもノエルがもし、最前列の一番可愛い女の子と寝たいなと思ったら、一緒についていっちゃうかもね」

「ふうん、そうか」

 俺はオアシスというバンドも、ノエルという野郎がどこのどいつなのかも知らなかったが、ただなんとなく頷いていた。そしてふと、イアン・バーンスタインのことを思いだした。<そういう可能性が、まったくゼロとは言い切れない>ということを。

「純子はそのう……これからどうするつもりなんだ?やっぱり三十くらいまでにはもう一度結婚したいなとか、そんなふうに思っているのか?」

「うわー、お母さん。きのうお父さんに一体なにしたの?あたし、そろそろ鳥肌立ってきたから、会社にいくけど、マジ寒いよ」

 純子はノースリーブのワンピースに、薄い半袖のカーディガンを羽織ると、やたらごちゃごちゃ飾りのついた携帯をヴィトンのバッグに突っこんで、出かけていった。綺麗に巻いた半茶の髪に、メイク術を駆使した我が娘ながら可愛い横顔……確かに「こんなふうに育ってほしい」と親が思ったとおりにはいかなかったが、純子は純子でそれでいいと、俺はそんなふうに思っていた。

「圭太は、仕事のほううまくいってるのか?」

 厚焼き玉子にウィンナー、それからきのうの晩ごはんだった鯖の味噌煮などが食卓には並んでいる。俺は夏江が運んできたごはんやほうれん草の味噌汁なんかに口をつけ、機嫌のいい夏江に向かってそう聞いた。

「営業部長なんていってもね、ああいう携帯電話の会社の営業部長ってどうなのかしらってあたしは思ってるわ。今のところ二年続いてるけど、また以前みたいにフリーターになるかもわからないし」

 夏江は溜息を着いているが、俺は圭太のことはあまり――というか、ほとんど――心配していない。結婚こそしていないが、ここ暫く家にも金の無心にはきていないようだし、サラ金から借りた借金もほぼ完済したようだったからだ。痛い人生経験を通して、これからまともになってくれればそれでいいと、そんなふうに思っている。

「そうか。まあ、これからは子供のことはともかくとしても、お互いの時間をもう少し大切にすることにするか。純子は気味悪がるかもしれないが……おまえの言うとおり、少し仕事を減らすことにするよ。正直、週に四本の連載はつらいと思ってたところだから。これからは今流行りのスローライフとやらを実践してみようかと思ってるんだ」

 夏江は、純子の座っていた席に腰かけると、心底驚いたというような顔をしていた。奇人を見るような目つきで、じっと俺の顔を見つめている……まるで、何か悪いものでも食べたか、浮気でもしているのかと疑うように。

「この間、釧路のほうへいっただろ?向こうに取材で、標茶というところに行ったんだ。そこの山にある林道を歩いている時に、転んで頭を打ったんだよ。そしたら急に何故か、これまでおまえがしつこく言い続けてきたことの意味が、少しずつわかり始めるようになってきたんだ」

 この説明は嘘ではない。ついでに言うと、またしても例のあの力――口が勝手に動いて喋りだす力――が、娘の純子と話している時から発動しているのを、俺は感じていた。はっきりしたことはまだよくわからないが、たぶん俺の場合は、フランス語やスペイン語がある日ペラペラに、というようなことはないだろうという気がした。灰色職人はどうやらあくまでも、イアン・バーンスタインの言っていたとおり、その人間に必要な最低限の手助けだけをしてくれる存在のようだったからだ。




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