第3章
目が覚めた時、あたりは夕方どころか真っ暗闇だった。おまけに、やたら寒い。俺は灰色職人がどうのなどということはすっかり忘れて、デイパックを片手に、急いで元きた道を戻っていった。
(……イアン!あのろくでなしの詐欺野郎め!)
最初、あたりは暗くて足元もおぼつかないにも関わらず、俺は威勢よく林道へ駆けだしていった。早く山を下りてあのろくでもない毛唐に、灰色職人などどこにいる!と怒鳴り散らしてやりたかった。だが、何度目をこらしても、道と雑草の見分けすらつかない暗闇では、次第に心細くなり、ホウホウという梟の声やギャアギャアという不吉で不気味な鳥の鳴き声が聴こえるたびに、身の縮こまる思いだった。おまけに、一体何度木の根に足をとられて転んだかわからないくらいだったし、一度など、藪の中へ倒れこんで、ぐにゅっと何かよくわからないものに触れてぞっとしたりもした。人間は感覚の80%を視覚に頼って生きていると、昔何かで読んだ記憶があるが、まったくそのとおりだった。
嗅覚は濃い密度の自然の夜気を嗅ぐだけで、耳には昆虫と鳥の鳴き声しか聞こえず、腹は減り、触覚などはまるで役に立たず、とにかく頭は無事林道の入口まで歩いていくことしか考えられない。
(こんちくしょう!こんなところでサバイバル気分を満喫してどうする!)
俺は時々ガサガサと雑草の茂みに入りこみながら、またよろよろと道のような道でないような土を踏みしめ、ほとんど自分の第六感に頼るような感じで、道なき暗き闇の道を歩んでいった。いや、最初は早歩きだったのだが、やたらと藪の中に踏みこむので、ゆっくり確実に一歩一歩を踏みしめるように歩いていくことにしたのだ。そして感覚がぎりぎりまで研ぎ澄まされ、この歩みが一生続くのではないかと思われた頃にようやく――林道の入口へと辿り着いた。
だが途中で予測していたように、そこにすでにイアン・バーンスタインの姿はなかった。畜生!自分はただ単にアホな外人の壮大な法螺話につきあわされただけなのか?俺は林道の入口にある、赤錆びた鉄の扉とその前にある白いぼんやりした看板に蹴りを入れてやりたい気持ちになりながら、そこから遥か下方に見える小さな乳白色の光に、文字どおり希望の光を見出していた。
あの農家の明かりのところまでいくのに、ここからまだかなりあるが――それでも、ここからはほぼ一本道だ。あそこの農家で電話を借りて、タクシーを呼んでもらうことにしよう。そして空港までいって、札幌へ帰ろう……確かにコラムのネタになったことにはなったが、それにしてもひどい代償を支払わされたもんだ。
俺はデイパックを左の肩にかつぎ直すと、よろよろしたようなおぼつかない足どりで、闇の中を真っ直ぐ歩いていった。こんなにも光がありがたいだなんて――身をもってたった今経験したことを、コラムの主要なテーマにしようと思った。そうなのだ。ライターという生きものは、何がどうあっても、とにかくただでは起きない種族なのだ。
<そのようなわけで、私は愚かにもまんまとその外人に一杯食わされたというわけだ。灰色職人とは一体なにものなのか?それは私にもわからない。私にわかっているのはただ、あの闇の中、自分が野性の動物になったように、五感を研ぎ澄ませて必死の思いで『何か』から逃げたように感じたことだけだった。
林道の入口から見た、農家のあたたかい、柔かな光……私あの灯を、これからも忘れることはできないような気がする。また親切にも見ず知らずの私を家に迎え入れ、肉そぼろのごはんと秋刀魚、それから味噌汁を食べさせてくださった標茶の農家のN夫妻に、心から厚く御礼申し上げたい>
そうなのだ。あの明かりの見えた農家は、実は野々宮春枝の実家だったのだ。だが俺は彼らの娘の旦那のことは何も言わず、ただタクシーを呼んでくださいとだけ頼んだ。もうすっかり疲れきっていて、とにかく早く札幌の自分の家へ帰りたいとしか思えなかった。灰色職人のことも、北海道製紙のアイスホッケーチームの監督、イアン・バーンスタインのことも、どうでもよかった。とにかく早く札幌の家へ帰って自分のベッドでぐっすり眠りたい、ただそれだけだった。
だが野々宮夫妻は、あちこち土だらけで、腕にはすり傷さえある俺のことを、とても気の毒がってくださり――俺は特に事情のようなものは何も話さなかったし、彼らもまた特に何も聞いたりしなかった――とても不思議なことに――タクシーがくるのを待つ間、何かメシでも食って待つといい、と彼らは親切にも夕食を御馳走してくれた。俺は遠慮なく差しだされた食事をむしゃむしゃと食べて最後にはげっぷまでしている始末だった。
あとはただひたすらお礼を言ってタクシーに乗り、自動的に飛行機に乗るような感じで、札幌まで帰ってきた。
(ふう。やれやれ。それにしてもひどい目にあったものだ。なんとかぎりぎり締切には間にあったものの……)
俺は原稿を週刊誌の編集部にファックスしながら、またすぐに次の締切が明日に迫っているのを思いだし、再び机に向かった。ネタはアイスホッケーのことで、何故これほど面白いスポーツに日本人が夢中にならないのか、不思議に思うといったようなことを書いた。また来週の水曜日に迫った新聞の原稿の締切のためには、森林の伐採についての記事を書くつもりでいた。
(ありがとうよ、灰色職人さん。俺はあんたがいようといまいと、はっきり言ってどうでもいいよ。ただ、あの闇の中――自分は確かに<何か>をつかんだような気がする。それが一体なんなのか、今はまだはっきりとはわからないが……)
その時、書斎のドアを二度ノックする音が聞こえ、俺は「どうぞ」と言った。俺の部屋は書斎兼寝室になっていて、女房は別の部屋で寝起きしている。
結婚当初からそうだった。だから、女房の夏江が寝間着姿で部屋に入ってきた時、俺は珍しいこともあるもんだと思った。彼女は近ごろ更年期障害とかで、顔を合わせれば体の不調ばかりを訴えている。
「まだ起きてたのか」
「まだって……時計をよく見てみたら?まだ十一時じゃないの」
部屋中をぐるりと囲むように並ぶ、書棚の上の時計に目をやって、俺は頷いた。十一時ジャスト。原稿に夢中になっていたせいか、そろそろ一時頃かなと、そんなボケたことを思っていた。
「どうした?圭太がまた問題でも起こしたか?それとも純子がまた変ちくりんなクレイジー野郎と結婚すると言いだしたか?」
「そういう言い方やめて。あたしはあなたと違って、母親として本当に真剣なのよ」
俺は軽く肩を竦めた。なんだか、俺が父親として一度も真剣じゃなかったような口ぶりだと思った。
「べつに……あの子たちのことはいいわ。もうふたりとも二十五を越えた大人ですもの。でもあたしたちは……これから先、夫婦として長く一緒に暮らしていかなくちゃいけないでしょ?その話をしにきたの」
「熟年離婚っていうやつか」
やれやれ、いつもの面倒くさいくだらない話か、と俺は思った。結局のところ夏江は――自分と離婚する気などない、俺はそう高をくくっていた。これまでに俺が浮気をしていても、薄々そうと気づいていながら、黙殺してきた女だ。いまさら別れて慰謝料も何もあるまい、俺はそう思っていた。
「この間、あたしあなたに言ったわよね?もう少し仕事を減らして、夫婦の時間を増やしてほしいって……」
そんな話、したっけか?俺は思いだせなかったが、とりあえず適当に相槌を打っておくことにする。
「そうだな。でも今すぐっていうのは難しいよ。突然もうやめますって言って、じゃあ来週は違う人っていうわけにもいかないからね。それに、俺が仕事を減らして家にいて、君に一体どういうメリットがある?仕事が減れば当然収入も減るし、夫婦が黙って顔を突きあわせていても、喧嘩になるだけなんじゃないか?」
「前にもまったく同じことを言ったわよね、あなたは」夏江は怒り心頭に発した、というような顔つきになると、突然本棚の分厚い本を、これでもかとばかり、俺に向かって投げつけだした。
「あなたはいつもそうなのよ……っ!自分ひとりで旅行にいって、たくさんいい思いして好きなこと書いてっ!金太郎飴みたいにどこを切っても自分自分自分なんだわっ!もうたくさんよっ!わたしはあなたの飯炊き女じゃないんですからねっ!」
俺は猛烈な本の嵐にあいながら、それでもあることにふと冷静に気づいていた。確か先々週あたりに、コラムに夫婦のことを書いたのだ。<夫婦というものは……このようにありたいものだ>というような内容だったと思う。締切に追われて苦しまぎれに書いた内容だったが、おそらく彼女はそれを読んで、こんな偉そうなことを書くのなら、自分の家庭のことも少しは振り返れと、そう言いたくなったのだろう。
「わかったよ。旅行に連れていけばいいんだろ?それじゃあ温泉にでもいこうじゃないか。どこがいい?おまえの好きなところに連れていってやるから……」
「そんな投げやりに言われても、嬉しくもなんともありませんっ!」
ぜえはあと荒い息をつきながら、夏江は長い髪を振り乱していた。まるで鬼婆のようだったが、あえてそれは言うまい。俺も命は惜しい。
「まあ、落ち着けよ。ものは考えようだって、いつも俺は言ってるだろ?立派な庭付きの家があって、多少問題はあるものの、ふたりの子供も健康に、まあそれなりに暮らしている……これ以上、おまえは一体なにが不満だって言うんだ?」
夏江はぽろっと泣きだすと、今度は子供のように寝間着の袖で繰り返し、涙をぬぐっている。俺はこれも更年期障害とやらの一症状なのだろうと考え、夏江のことをベッドの縁に座らせると、もう一度落ち着くように言った。
「俺は今四十九で、おまえは四十……えーと、七だよな。定年になったらさ、嫌でも毎日顔を突きあわせなきゃならないだろ?当然金だっている。稼げるうちはなるべく稼いでおかないとな。純子もまたいつ、結婚するかもわからないわけだし」
「……どうしてそういう言い方するのよ?あたしはべつに、純子にまた結婚してほしいだなんて全然思ってない。そりゃいい人がいたら結婚すればいいとは思う。でもそれまで家にいたって全然かまわない。あんたは同じ家にいたって、ろくに家族らしい会話なんかしやしないんだから。自分の物書き言葉に集中してばかりいて、あたしとは残りカスの言葉だけで喋ってるみたい」
「そんなことはないよ」
と、言いながらも、本当は実にまったくそのとおりだった。痛いところを突かれた俺は、これはまずいなと思い、彼女が機嫌を直すような手立てを、早急に考えつかねばならなかった。
「……最近、夏江は綺麗になったな」
なに言ってるのよ、あんた馬鹿じゃないの?という鋭い目線が痛い。だが俺は勝手に口が動くのを止められなかった。
「そりゃあお互い、若い頃よりも確かに見てくれは悪くなった。俺は白髪染めを使うようになったし、おまえはなんだっけあれ……しわを引っぱって伸ばすリフティングだかなんだか、エステでやってるって言ってたよな?でも夏江はそのせいかどうか、全然若いよ。肌年齢はどう見ても三十代だろう。この間も編集部の岩永くんに言われたよ。武宮先生の奥さんはとても若くて綺麗ですねって。不倫されたりしないかどうか、心配じゃないですかってそう言ってたよ」
単純、と言うべきかどうか、夏江のやつはまんざらでもないような顔つきになった。そして乱れた髪を整えながら言った。
「そうよ。わたしだって、浮気しようと思えばそうできる機会はあったのよ」
「じゃあ、なんでしなかった?」
「それは……子供のことだってあるし、やっぱりわたし、箱入り娘だったから、親がそういうことに、すごく厳しくわたしを育てたから」
それだけじゃないだろう、と俺は言いかけたが、またしても勝手に口が動きはじめた。それにつられるように、ついでに何故か体まで。
「服、脱げよ」
え?という眼差しで、一瞬夏江がこっちを見る。
「いいから、脱げ。さっさと脱がないと、してやらないぞ」