第2章
「ミスター・タケミヤ。灰色職人の指示どおり、これからアナタをシベチャにある山まで案内します。その山の麓に車を停めて、そこから林道をえっちらおっちら一時間ばかり歩いていくことになりますね。そして、その場所にまであなたを送り届けたら……ワタシの役目は終わりです」
俺はふと、彼の日本語が途中からとても滑らかなものになっていることに気づいた。最初はいかにも外人らしい、ところどころとんがった発音だったのだが……そのことについてもよくわからない、と思った。彼は本当はもともと日本語も英語もペラペラであるにも関わらず、手のこんだ法螺話をするために、白々しい外人のような話し方をしていたのだ、という気がしないでもなかったし、かといってそんなことをして一体彼になんのメリットがあるのかと問われれば、答える言葉を失った。
標茶まで一時間ほどかかっただろうか。空港からの道とよく似た、どこまでも広がる牧草地が視界を支配している。時々見られる、馬や牛が草を食む姿。空は夏らしく水色とも青ともつかない中間の色をたたえ、雲が時々、その色を微妙に変化させているような気がした……太陽の光が容赦なくオープンカーの頭上に降りそそぎ、俺はかつて自分にもあった青春時代を、イアンの車の助手席で思いだしていた。
しかもカーステレオから流れてくるのは、六十年代や七十年代に流行った曲ばかり。アースウィンド&ファイヤーや、ビートルズやローリングストーンズ、ドナ・サマーにアバのヒットソングの数々……そういえば、俺が女房と知りあったのはススキノのディスコだったっけな。あの頃はあいつもまあまあ可愛かった。愛の幻想がとけてからは、やたら怒りっぽくなって、しょっちゅう愚痴ばかりこぼすつまらない女になってしまったが。
(まあ、そうさせたのも、俺が悪かったのかもしれんな。これまで俺は、ろくすっぽ家庭をかえりみたことなんかなかった。そのせいかどうか、息子は親に借金ばかりを繰り返すようになったし、娘はバツイチの出戻りで、休みの夜には一体どこへいっているのやら、さっぱりわからんような感じだしな……俺はこれまで、世界中のありとあらゆる国を旅行し、また取材し、リポーターとして危険な土地からのTV中継とか、そういう仕事ばかり請け負ってきた。確かに家庭人としては失格だったかもしれないが、それでも俺は少しも後悔していない。女房は女房で亭主が留守の間に好きなことをやればいいんだし、息子はまあ馬鹿な息子だが、金のことなら多少は融通してやれる。娘は……俺が何を言わなくても自分のことは自分が一番よくわかっているだろう。また次もろくでもない男に引っかかるかもしれないが、それも女の人生としてそう悪いものではないだろう)
「ミスター・タケミヤ。ここですよ」
イアンは三キロくらい離れた間隔で農家がぽつりぽつりと五軒ほど途中にあった舗装道路を走り抜けると、雑草が両脇に丈高く生い茂る砂利の坂道をゆっくり上っていった。そしてここからは車が痛むので、と言って林道の入口から少し外れたところに車を止めたのだった。
「ここから一時間ちょっと歩いたところが目的地です。たまにはこういうのどかな散歩もいいものだと思って、のんびり歩いていきましょう」
俺は一時間ちょっとかと思い、時計をちらと眺めやった。二時三十分……つまり、行って帰ってくるのに最低でも二時間かかるわけだから、戻ってくるのは四時半頃か。しかし、それにしても灰色職人とは。俺もとうとう焼きがまわったか、年をとったということなのかもしれんな。
イアンはといえば、革靴からトレッキングシューズに履きかえて、オイッチニ、などと言って軽く柔軟体操をしている……俺の服装はボタンダウンのシャツにジーンズで、靴はスニーカーだった。山のほうへきたせいなのかどうか、突然気温がぐっと上がり、黙っていてもじんわりと額に汗が滲んでくるのを感じる。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか」
俺は無言で頷くと、イアンと並んで両脇に雑草がぼうぼう伸びている埃っぽい道を、ゆっくり歩いていくことにした。時々、白やピンクの素朴な花を見かける以外は、笹や蕗や羊歯などの緑しか視界を彩るものはない。あとはミズナラやシラカバやカエデなどの樹木が、陽当たりのよいところでは幹も太くどっしりと、日陰では気の毒なくらいほっそりと、どちらも天に向かってそよ風に葉をそよがせていた。
雑草の中ではキリギリスなどの昆虫がせわしなく、うるさいくらいに鳴き続け、時折、アゲハ蝶やキアゲハ、あるいはモンシロ蝶なんかが視界を横ぎっていく。あるいは珍しい野鳥の可愛らしいさえずりや、聞いたこともないような変てこな鳴き声が聴こえる……俺はそのたびにイアンに「あれはなんの鳥の鳴き声だろう?」と聞いたが、彼は首を振るばかりだった。
「すみません。たぶんハルエだったらわかると思うのですが……何分、灰色職人が案内役として選んだのは、ワタシのほうだったものですから……でも、なかなか悪くないでしょう?たまにはこういう<何もない>ところへくるのも?」
「ああ、そうだな」
俺は額の汗を手の甲で拭いながら言った。暑い。昼前に空港へ降り立った時には、涼しいとさえ感じていたのに――最初は埃っぽかった道は、今は茶色くなり、ところどころ木の根が見え隠れしている。空気がとても綺麗で濃厚で、煙草のニコチンに汚れた肺が、肺胞単位で潤っていくようだった。
「タケミヤさんは、煙草をお吸いになるのですか?」
またしても心の中を読まれたような気がして、俺は一瞬どきっとした。
「まあ。一日に多い時で三十本くらい吸いますね。禁煙しようとしたこともあったけど、つい食後になると一本吸いたくなって……でも不思議と、こういう美味しい空気を吸ってると、自分がいかに薄汚れて炭化しているかってのがわかってきますね。自分が本当は<すす>だらけなのに、そのことにこれまでまるで気づいていなかったような……」
そうでしょう、そうでしょうというように、イアンは繰り返し頷いている。かつては自分もそうだった、というように。
「でも大丈夫ですよ。灰色職人がきっと、タケミヤさんのその<すす>を、洗い落としてくださるでしょうから」
俺はつい苦笑しそうになったが、イアンがもう少しで目的地だと言ったので、口許のゆがみをごまかした。やれやれ。一時間くんだりもこんな何もないようなところを変な外人と歩いてきて、自分は一体なにをしてるんだろうな?と思った。そして、もう少しの辛抱だし、これはもう乗りかかった船なんだからと溜息を着きそうになった時、濃密な樹液の匂いが、強く鼻孔を刺激した。
「これは……」
「ここですよ。この野っ原が、灰色職人の指定した場所です」
さあっと、涼しい一陣の風が舞い踊り、透明な空気の色が見えるかのようだった。目の前を川が流れていて、さわさわという樹々のそよぐ音色と、さやさやという川のせせらぎとが、美しいハーモニーを奏でている……ただ、あたりの樹木は伐採されて黒や茶色の土が剥きだしになっており、幾つも束になった材木から、香ばしい樹液の匂いが漂ってきているのだった。
「あれですよ」
イアンが指さした先には、ブルトーザーやユンボなどの重機があった。情け容赦なく雑草をめりめりと倒した場所に何十キロもの重い鉄の塊が乗っかっているかのようだった。普段、都会の工事現場や建設現場などでこうした重機を見てもなんとも思わないものだが……ありあまるほど溢れる自然の中では、彼らの姿はあまりにそぐわなかった。痛々しいとさえ感じた。俺はこれまで、そうした詩的な文章を雑誌に載せたことはなかったのだが、俄かにルポライター魂が燃えあがり、自分はこれまで一体何を書いてきたのだろう、という気にさえなった。
「ようするにこれが、ワタシが監督を辞める理由みたいなものですね」
イアンは材木として使いものにならないと判断されたらしい、倒木の上に腰かけると、ひとつの看板を指さした。そこには彼がアイスホッケーの監督をしているチームの、会社の名前があった。<北海道製紙工業 社有林>
「そして灰色職人の引っ越しの理由でもあります。ワタシと妻と子供たちは、しばらくの間アメリカで暮らそうと思ってるんです……灰色職人もそうしたほうがいいと言ってくれました。ただ最後に、自分の<引っ越し>を手伝ってくれと。そうして選ばれたのがあなた、タケミヤさんというわけなのです」
「ちょっと待ってくれ」と俺は混乱しかけながら言った。「ようするにあんたは<ここに>灰色職人がいるって言うんだな?それで灰色職人っていうのは、目に見えない精霊みたいな存在なんだろ?にも関わらず、俺にそれを信じろっていうのか?第一、どうやって俺はその目に見えない灰色職人とやらと、知りあいになればいいっていうんだ?」
「簡単ですよ」イアンは事もなげに言い切った。「ワタシはこれから林道の入口まで引き返しますから、タケミヤさんはここで、灰色職人が姿を現すまで、ただじっとしていてください。それで彼が姿を現したら、一緒に山を下りてきたらいいんです」
「……………」
俺はもはや返す言葉もなく黙りこんだ。馬鹿馬鹿しいことこの上ないが、彼の言葉に従うしかないようだった。果たして、夕方になっても灰色職人が姿を現さなかったらどうするのか?俺はひとりで勝手に元きた道を引き返すからな、とそうイアンにきつい口調で言った。
「ノープロブレム、ノープロブレム」
イアンは両手を持ち上げて首を振り、樹々の葉が風にそよぐ中を、何故かさわやかに笑いながら去っていった……俺はなんとなくムカつくものをあのヤンキーに感じながらも、しょうがねえなと観念した気持ちになり、倒木の上にとりあえず腰かけた。
(やれやれ。一体なんだってこの俺がこんな目に……)
自慢じゃないが俺は、これまでずっと時間に追われるような感じでこの二十数年生きてきた。フリーランスのライターになってからも、分刻みのスケジュールに毎日追われるような感じだった。そのせいかどうか、こんなふうにぽっかり、何もしないでいいという空間を与えられると――なんとも座り心地が悪かった。正直いって、ケツのあたりがむずむずする。この地上という場所に生まれ落ちたからには、できるだけ多くのものを世界中見てまわって、できるだけ多くの――色々な民族や人々の――生の話を聞き、並の人間が経験するよりもより多くのことを体験したいと思ってこれまでずっと生きてきた。そうだ。その考えは十代の頃からずっと変わらず、俺は自分自身の生き方を貫き通してきた。
それなのに灰色職人とは……まあ俺もこれまで、世界の旅先で色々不思議な出来ごとに遭遇したり、奇妙な民族の風習や宗教行事などには多数お目にかかってきたが――自分の生まれ故郷のここ日本で、よもやこんな事態に巻きこまれることになろうとは。
「やれやれ。参ったな」
俺は溜息とともに呟き、前方の、清らかな川の流れに目をやった。その静かで激しい川のたゆみない流れを見ていると、なんだか時間がとまっているように感じた。こうとわかっていれば、釣り竿を持ってきたのにな、ととても残念に思う。だが今は考えを切りかえよう。ようするに俺はここで、灰色職人があらわれようと現れなかろうと、とにかく夕方まで過ごせばいいのだ。
そう考えると、俺は突然肩の荷が軽くなったように、気持ちが楽になるのを感じた。そうだ。灰色職人が実在しようとしなかろうと、もともとは俺にはまるで関係のないことなのだ。まあそれまで、何もすることがない以上、昼寝でもして待っていればいいのじゃないか?
そう思いついた俺は、あたりに木の樹液の匂いが満ちる中、デイパックを枕がわりにして、川辺に横になることにした。虫の声と野鳥の鳴き声、また川のせせらぎやさわさわと風にそよぐ葉の音色は、ちょうどいい子守歌がわりで――俺はたちまちのうちに、眠りの国へと誘われていった。