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恋桜~さくら~ 作者:玉紀 直

第3部

花びら十二枚*『御機嫌直りましたか?』



「一さん、さくらです。入ります」
 ノックをしてドアを開けると、広い書斎の中、デスクに着いた一さんが目に入り、私は少しだけ息を詰めた。
 一さん用の書斎は、彼のお部屋のすぐ隣。お仕事用の本や書類が沢山あるお部屋。
 ここへ入れば自然と仕事モードになるのは分かる。表情も真剣なものに切り替わるだろう。
 でも、それに加えて一段と厳しい表情をしているように見えてしまうのは何故なんだろう……。

(よほど、お仕事で大変な事が有ったのね……)

 そう考えると少し切ない……。
 だって、私には力になってあげられる事が無いから。

 私がコーヒーを乗せたトレイを持ったままドアの前で一さんを眺めていると、顔を上げた彼が無言で手招きをした。
 コーヒーを持って来てくれって頼まれたのに、出さずに立っているのもおかしな話。私はデスクを挟んで一さんの前に立つと、書類の邪魔にならぬよう、少し離してカップを置いた。
 私の様子をじーっと眺めていた一さんが、無言で手招きをする。こっちに来いという意味だろう。私はデスクを回って彼の横に立った。

 労いの言葉をかけようとするものの、出かかった言葉を喉で止める。つい「何か有ったんですか?」って訊こうとしてしまった。
 それを訊かれるのは、きっと嫌よね?

「あの……、一さん」
 せめて、「まだお仕事は終わらないんですか」とか訊く方が、気が利いている。彼の無表情を気まずい思いで見詰めながら口を開くと、腰かけた大きな椅子がくるりと回って私と向き合った。
 一さんの方から何か言ってくれるのだろうか。ちょっとした期待感で胸に抱くトレイをキュッと握り締める。すると、伸びて来た両腕が私を引き寄せた。

「きゃっ……」
 何なのか問いかける間もなく、私は一さんの膝に横向きで乗せられ、そのまま抱き締められたのだ。
「はっ……、一さん……」
「いいから。黙っていなさい」
「……はい……」
 いきなりの事に驚いて固まった身体の力を抜き、私は大人しく一さんの腕に収まる。
 別に抵抗をするつもりはない。だって、一さんの腕の中はとても心地が良いから。

 頭の上で一さんが息を吐く。それは、イラついたものではなく、どちらかといえば安堵の吐息。
 恐る恐る一さんを見上げた私の目に映ったのは、さっきとは違う穏やかな瞳。見慣れた優しい表情に、私の胸は高鳴った。
「やっぱり……、こうしていると落ち着くな」
 更に力を入れて抱き締めるけれど、どうやら私が胸に抱いているトレイが気に入らないらしい。手から取り上げてデスクへ置き、再びキュッと抱き締めてきた。

 そして、安堵の吐息……。
 実のところ、一さんがこういった行動に出るのは初めてじゃない。
 “御機嫌が悪そう”と感じる時、いつもではないけれど、私を膝に乗せて抱き締める。

 そして……。

「あっ、あの……、一さん……」
「何だ?」
「くすぐったいんですけど……」

 私は身体を少し捻って背筋を伸ばす。言葉通り、背中を撫でる一さんの手がくすぐったいのよ。
「一さんっ」
「ん?」
「くっ……、くすぐったいってばっ……」
 クスクスクスクスと、一さんは楽し気に笑い出す。私が困ってモゾモゾ動くのが楽しいらしいのだけれど、そ、それって、酷くないですか!?

「一さんっ」
 本気でくすぐったがる私を見て、一さんの笑いは止まらない。
 ほら! ツボに入って笑いが止まらなくなっちゃったらどうするの!

 ふと、くすぐっていた手が止まり、その手は優しく私を抱き締めた。
「さくらが、傍に居るだけで、落ち着くよ……」

 私は特に返事はせず、寄りかかった胸の中で身体を預けた。
 御機嫌が優れない時、私を膝に乗せて抱き締めたり悪戯をしたりする一さん。
 でもその後には、必ず笑ってくれる……。
 もしかしてこれは、一さんのストレス解消法なのかしら。だったら、いくらでも膝に乗っているわ。

「今夜は、眠る前にお祈りしておきますね」
「ん? 何をだ?」
「一さんが心を痛めていらっしゃる問題が、早く解決しますように、って」
 言葉無く強まる腕の力。
 抱き締められる事で、私の悩みも解決すればいいのにと、刹那、心が欲張った。
 昨日からずっと気になっていた事柄は、私が、考え込むあまりリビングから動けなかった理由でもある。

 昨日お父様に呼ばれて戻って来た時から、どことなく様子がおかしかった一さん。
 その事柄が、ずっと気持ちの中で糸を引いている様な気がするの。だから、今日の御機嫌が悪いのもそのせいではないかって。

 昨日お父様と何のお話をしたのだろう。翌日まで心に残ってしまう事だなんて、よほどの事よね。
 勿論、お仕事の事なのだろうから、私に口出しなんか出来ないけれど。
 でも、ずっとそれが気になって堪らなかった。

「さくら……。私の傍から、離れるなよ……」

 その言葉の意味を、私は特に深く考える事もなく。
「うん」
 今は取り敢えず、考える事をやめて、彼のストレス解消剤に徹しようと考えた。





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