私のクラスの同級生が、自殺した。遺書には、学校でいじめられて、もう生きていく気力がわかない、という記述があったが、肝心のいじめた人間の名前は書かれていなかった、らしい。
私の内面は動揺した。私もこのいじめには荷担していた人間の一人だろう、確実に。私の中学校における地位はそれほど高くないが、それが故に、自分より下の地位のものを作ろうと躍起になっていたからだ。そうしなければ自分がいじめられるのはわかりきっていた。
彼女はひどく貧乏な家に暮らして、しかもその家が火事になったため、さらにぼろぼろの借家にその家族は引っ越さねばならなかった。彼らには自分の家にテレヴィを買うお金がなく、あたしの家のテレヴィは、ゴミ捨て場で拾ったものなのよ、と、そんなことをいうからいじめられる口実を作ってしまうのに、べらべらとしゃべっていたのを聞いた覚えがある。彼女の名前を、吉田具厘といった。
吉田をいじめ始めたのは、確かサッカー部の連中だったと思う。彼女にヤセブという呼称をつけて、ヤセブきもい、何あれ、もはやあいつの存在自体が犯罪だな、同じ空気を吸っているだけで気持ち悪くなってくる、などと言いはやした。彼らは学校内で相当な力を持っていたから、あっという間にそのうわさは広まった。それに乗ったのが、私である。私は小学生のころ、いじめられていた。私も吉田と同じかそれ以上に不器用で馬鹿で運動ができなくて……ここで吉田いじめに参加しなければ、自分がいじめられることは目に見えていた。
「ヤセブキモイ、ケバイ、ウザイ、クサイ。ヤセブに触ると体が腐るぞ」
ヤセブの神話を積極的に作り出し、クラス中に広めたのは私だった。
それは、あたかも伝染病のように、吉田の体には何か汚らわしいものが纏わりついていて、吉田の体を触るとそれが移り、そのままにしておくと体が腐ってしまうぞ、という神話だった。クラスの半分の人間はただそれを静観していたが、残りの、日ごろ鬱憤を溜め込んでいる連中は、一緒になって騒ぎ出した。神話は人々の間に伝わるごとに、少しずつ膨張していった。ちなみにヤセブとは、やせた豚という意味である。がりがりにやせているのに、豚のように馬鹿だという意味だ。
「ヤセブの体に触ったやつは、すぐに誰かにタッチしないと、ハブな」
私の近くの席に座っていたやつが、そう言い出した。
つまり、ヤセブをねたに鬼ごっこをしようというのである。まず、休み時間に、じゃんけんで負けたやつが、吉田の机なり体操着なりを触ってくる。それでそいつにはヤセブ菌が感染したことになる。あとは、本当に鬼ごっこのルールと同じである。ただし、相手にタッチしたときに「ヤセブ」といわなければ、菌を相手に移したことにはならないなど、細かなルールが決まっていた。それを吉田の目の前でやるのである。彼女の顔は、なんだかすごいものだったが、私たちはそれに構わずに、ヤセブごっこをやりつづけった。
日本古来の穢れの神話、それが現代によみがえったのである。休み時間が終わると、ヤセブごっこも終了したが、しかし、ヤセブ菌の保菌者つまり鬼は、その後次にヤセブごっこが始まるまで、周りから無視されることとなった。
また、私が黒板目いっぱいに、吉田の気持ち悪いイラストと、悪口を書いたこともあった。
「ヤセブ 病原菌 汚い」
それにつられて、クラスメートたちも黒板に悪口を書き始めた。黒板は、カラフルなチョークでさながら極彩色の現代アートのようになった。吉田はそれを、またすごい顔で眺めていた。
彼女は、私の狙い通りに、完全にクラスから浮いた存在となった。
そのヤセブが死んだ。先生たちは詳しく言わないが、どうも首吊り自殺を下らしい。私は、ヤセブが、小便と大便をもらし、鼻からは血と鼻汁が垂れ流し、眼球は視神経にぶら下がるように飛び出し、舌べろを突き出しているのを思い浮かべて、吐き気がした。
学校側は、吉田がここまで追い詰められていたことはおろか、いじめがあったこと自体掌握していなかったらしい。
だが、人が死んだ以上、もはや先生たちもそこから眼を背けることはしないだろう。ほかのクラスメートたちは、手のひらを返したように、吉田の死を悲しむフリをした。だが、私はそれほど器用ではない。
皆は、この責任を誰に擦り付けるか話し合っているが、私はその蚊帳の外に置かれた。次に、学校という社会の箱庭でいけにえにされるのは私のようだ。
私の心は、突然電気が切れたように、真っ暗となった。
学校は休校となった。私は自分の部屋で、明かりもつけず、一人悶々としていた。ああ、これからどうしよう、いじめの主犯格にされてしまったら、もう生きてはいけない。俺も自殺しなくちゃならなくなるかも。少なくとも、もうこの地域にはいられない。両親に相談しようか、だめだ、そんなことをしたら、俺が何をしていたのかわかってしまう。黙っていれば追及を免れるかもしれない。いや、もう誰かが、警察なり先生なりに、私のしたことをしゃべっているかもしれない。もう、お終いだ。
その時、自分の頭の中に声が響いた。
「○○君、だいぶお困りのようですね」
それは、まるでアニメで出てくる、女の神様のような声だった。
「なんだ、あんた誰だ?」
「私は困った人を助ける天使。あなたを助けに参上いたしました」
まさか、喋っているやつの姿が見えないのに声がするなんて、俺の頭もついにいかれちまったのか。
「いいえ、私は幻聴などではありません。本当に天使です。あなたの事情は察しています。このままでは、あなたがやっていたことはすべて発覚し、人生が台無しになってしまいます。しかし、私はあなたを助けることができます。どうしますか? あなたには私の助けが必要ですか?」
この際幻聴だろうと、天使だろうと、釈尊だろうと関係ない。助けてくれるって言うんだから、藁をもつかむ気持ちで、すがってみようじゃないか。
「どう助けてくれるっていうんだ?」
「あなたの注文通りにいたしますわ」
やけに茶目っ気のある声で、その天使を名乗るやつは言った。
「とにかく、今のこの状況から逃れられれば、それでいい。自分がいじめたんじゃないってことにしてくれれば」
「そうですか。それならば簡単です。では」
突然、世界に光が満ち溢れてきた。光源はどこにもない。あたかも世界のすべてが光り輝いているように、部屋の輪郭も、自分の輪郭も、世界すべての輪郭が消えてゆく。すべてが真っ白になり、残されたのは俺の知覚だけ。われ思うゆえにわれあり。
その知覚も……やがて……消えて……。
僕は今、いじめられている。死んでしまいたい気分だ。生きていても意味がない、なぜこんないじめられる自分に、両親は生んだんだ? 生きていればいつかいいことがあるって誰かがいっていたけれど、僕の場合にそれは当てはまらない。もっと、ほかの誰かに生まれたかった。
……時折、僕は別の誰かだったんじゃないかって気がするけど、それもこの自分から逃げたいって気持ちの現われだろう。
自分が嫌になる。こんな、弱く、劣った、醜い自分が……。
自殺しよう。
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