第56章 絶望の果て
俺が青守トマトの家で暮らすようになってから、1ヶ月の時が流れた。
青守トマト邸・広間。
「いきなっ!地蔵っ!」
「はいよぉっ!トマトっ!」
トマトの声に身構える、1人のハゲた老人。
「いっくぜぇっ!次狼っ!“笠地獄”っ!!」
「・・・っ」
地蔵が正面に立つ次狼へ向け、無数の石で出来た笠を投げ放った。それを見ると、次狼がいつになく真剣な表情を見せ、腰に下げていた刀を抜く。
「“天狼丸”っ…」
黒い鞘から出てきたのは、何とも美しい白色の刀身の刀。その細身の刀を、次狼が静かに構える。
「“狼刃”っ…!!」
力強く振るった次狼の刀から、放たれる白色の一閃。
――――パァァァァァァァァァァーーーーンっっ!!――――
それが、地蔵が向けていた石製の笠を、1つ1つ粉々に砕き割った。
「すっげっ…」
その光景に目を見張る、広間の横から見つめているゴン。
「“トマト先生”って、何の先生かと思ったら、戦いのかよっ…」
「なんたって“龍人”は世界最強の一族だものっ!」
「トマト先生は千年を生きる御伽界最古の獣人…この世界にあの人ほどに強い人はいない…」
自慢げに話すリンゴの横で、諸刃が冷静に話す。
「修行をしてもらうには、最高の師だ…」
「はぁぁぁ〜〜っ!」
諸刃の言葉に、ゴンが感心したような声を出す。午後になり、リンゴとともにトマトの屋敷へと遊びに来た次狼は、広間に入るなり、トマトとその旦那たちと、戦いを始めたのであった。
「でも何だって、この平和な時代に修行なんかっ…」
「あっ」
「んっ?」
刀を下ろした次狼が、真剣であった表情を崩し、ポツリと間の抜けた声を漏らす。その声に振り向くゴン。
「あっ」
次狼の見つめる先で、まったく砕けていない石製の笠が、力なく床へと落下した。
「あっちゃ〜っ、1個残ってましたかぁ〜っ」
そう言って微笑んだ次狼が、軽く頭を抱える。
「んだよっ、1個くらいっ」
「そうだそうだっ、こんだけわしの笠ぁ、砕けりゃ上出来もいいとこよっ!」
次狼の方へと歩み寄っていきながら、ゴンと地蔵がそれぞれに声をかける。次狼は残念そうにしているが、あれだけの笠を砕き割ったのは、凄いことである。ゴンはおろか、同じ年頃の普通の少年では、とても真似出来ない。
「でも兄貴の狼刃に比べたらっ」
「まぁ、まだまだだろうねぇ」
「へっ?」
次狼の言葉を、代わりに言うように話すトマト。その言葉に、ゴンが目を丸くする。
「何だぁ?お前の兄貴って、そんなに強えぇのかっ?」
「えっ?」
ゴンの問いかけに、次狼が刀を鞘へとしまいながら、振り向く。
「ええ、まぁっ」
穏やかな笑顔を作る次狼。
「一応、世界の英雄ですからっ」
「えっ…?」
笑顔で答える次狼に、ゴンが首を傾ける。
「世界の…英雄っ…?」
次狼の言葉を、ゆっくりと繰り返すゴン。
「はいっ!俺の兄貴は、世界の英雄“桃タロー”ですっ!」
「桃タっ…って、ええええぇぇぇぇぇぇっっ!!?」
「うわっ」
大声で激しく驚くゴンに、次狼がしっかりと自分の耳を塞ぐ。眼球が飛び出しそうなくらいに、大きく目を見開いたゴンは、そのままの表情でしばらく固まる。
「家まで甘党にして、直感でガキ拾ってきて、毎日ジャンボパフェ食ってて、今は伝説の生クリーム探しに行ってるお前の兄貴が、桃タローっ!!?」
「どう聞いても変態ね」
的確に特徴を列挙するゴンに、横からリンゴが鋭く口を挟む。
「はいっ!すっごくその通りですっ!」
「どへえええええぇぇぇぇっっ!!?」
もう1度頷く次狼に、もう1度驚くゴン。
「何だい、お前、太狼のこと、言ってなかったのかい?」
「気持ちでは言ったつもりだったんですけどねぇっ」
「気持ちだけで言ってどうすんだよっ」
惚けた笑顔を見せる次狼に、トマトが少し呆れたように肩を落とす。
「兄貴が桃タローっ…それでそんなに強えぇーのかっ、お前っ…」
「まぁゴンの20倍くらい、強い程度ですよ」
「んだっ!?そのすっげぇームカつく比較はっ!!」
「アハハっ」
爽やかな笑顔で答える次狼に、ゴンがムキになって怒鳴り返す。
「アンタみたいなバカと次狼を比べること自体が間違ってんのよっ」
そこに、リンゴが再び口を挟む。
「次狼はあっの変態兄よりも強くなるのが目標なんだからっ」
「違いますよ」
「そう、違うのよ」
「何々だよっ、お前っ」
次狼の代弁をしたとばかりに偉そうに言い放ったリンゴであったが、次狼に一瞬にして否定され、すぐさま意見を変えてしみじみと頷く。そんなリンゴに、非難の目を向けるゴン。
「兄貴を越えようとか、そんな気持ちはありません。兄貴は、雲の上の存在ですから」
「変態だけどな」
清々しい笑顔で言う次狼に、ゴンが少し横槍を入れる。
「でもじゃあ、なんでだっ?」
「えっ?」
「なんでババアのとこで修行して、強くなろうとしてんだっ?」
「ああっ」
次狼がまた、穏やかな笑顔を作る。
「俺っ、もう少し大きくなったら、“オトポリ”に入りたいんですっ!」
「オトポリっ…?」
その名には、ゴンも聞き覚えがあった。“御伽警察”の通称・オトポリ。御伽界に鬼が出始めた頃に、龍国で結成された、対鬼人用の武力組織のことだ。
「今更オトポリっ?お前の兄貴のお陰で、もう鬼人もいねぇーんだしっ、オトポリなんて用済みだろっ?」
「鬼人はいなくなってなんかいないよっ」
「へっ?」
聞こえてくる厳しい声に、ゴンが振り返る。
「必ず復活する…必ずねっ…」
「・・・っ?」
真剣な表情、というよりも怖いとさえ感じるほどに険しい表情を見せているトマトに、いつもとは違う何かを感じ、ゴンは少し眉をひそめた。
「私は寝る。地蔵っ、後はお前が相手しなっ」
「ああ」
地蔵にそう言って、奥の部屋へと去っていくトマト。
「・・・っ」
「あっ」
素早くトマトを追いかけていく諸刃に、リンゴが思わず手を伸ばす。
「・・・。」
しかし、リンゴはそっと手を下ろし、どこか悲しげに俯いた。
「何だぁ?今のっ」
「先生にも色々と事情があるんですよ」
首を傾げるゴンに、次狼が冷静な表情で言い放つ。
「でぇっ?お前も鬼人は復活するって思ってるから、オトポリに入りてぇーのかっ?」
「まぁそれもありますけどね」
次狼がそっと口元を緩め、広間の端にある長椅子に腰を掛けた。
「オトポリに入りたいのはっ…少しでも兄貴の役に立ちたいからなんですっ」
「えっ…?」
腰を掛けた次狼の前へと立ったゴンが、次狼の言葉を少し聞き返す。
「兄貴が世界を救っている間っ…俺は兄貴の帰りを待つことしか出来ませんでしたからっ…」
「次狼っ…」
兄に何もしてあげられなかったことを、悔いているような表情を見せる次狼を、ゴンがそっと目を細めて見つめる。
「だからもしっ…また世界の平和が脅かされるような時が来たら…今度は兄貴と一緒に戦いたいっ…」
どこまでも清らかで、まっすぐな瞳。
「俺に救えるものがあるのならっ…1つでも多く、救いたいんですっ」
「・・・っ」
その純粋な笑顔に、ゴンはどこか眩しそうに目を細めた。ゴンなどでは考えもしないような、高い志。遥か未来を見つめている瞳。次狼にとっては、ゴンもその救えるものの1つだったのかも知れない。
「・・・そうかっ…」
事実、次狼に救われたゴンが、そっと笑顔を浮かべる。
「頑張れよっ」
「はいっ!」
ゴンの言葉に、次狼は笑顔のままで、大きく頷いた。
「トマト先生っ」
「・・・っ」
広間を立ち去ったトマトが、後ろから追いかけてきた諸刃の声に気づき、廊下の真ん中で立ち止まる。トマトが振り返ると、そこには少し不安げな表情を見せた諸刃の姿があった。
「そんな顔、するなっ」
諸刃へ、トマトが笑顔を向ける。
「大丈夫だよっ」
「けどっ…」
「これは私の戦いだっ」
口を挟もうとした諸刃の言葉を、トマトが強く遮り、言い放つ。
「千年前のあの日から続く…私の戦いだっ…」
「先生…」
いつになく険しい表情を見せるトマトに、諸刃がそっと目を細める。トマトにはどこか立ち入ってはいけないような、そんな空気が流れていた。
「心配するなっ」
再び笑顔を作り、その笑顔を諸刃へと向けるトマト。
「お前たちを巻き込んだりはしないよっ、絶対にっ」
「・・・。」
強い笑顔で言い切るトマトに、諸刃はどこか浮かない表情を見せた。
その日、夜。未来の旦那部屋408。
「236っ…237っ…238っ…237っ…236っ…」
「戻ってんぞっ!?」
「あっ…」
数を数えながら草薙の剣の素振りをしていた諸刃が、横からのゴンの指摘に、気付いた様子で剣を止める。
「しまった…ついカウントダウン癖が…」
「んだよっ、カウントダウン癖ってっ」
諸刃に呆れたように言い放ちながら、ゴンが自分の寝台へと腰を下ろす。
「しっかしお前も熱心だよなぁ」
今日だけでなく、諸刃は毎晩、寝る前に剣の素振りを欠かさなかい。そんな諸刃を、ゴンが感心するように見る。
「お前もオトポリにでも入りたいのかぁ?」
「俺にそんな立派な志はない…」
ゴンの問いかけに、諸刃がゆっくりと剣を下ろし、答える。
「俺は成るように成れ主義だ…」
「そうっぽいな…」
「ただ…」
「・・・っ?」
言葉を付け加える諸刃に、ゴンが少し眉をひそめる。
「あいつを…次狼を見ていると…妙に突き動かされる…」
どこか眩しそうに、そっと目を細める諸刃。
「あいつのひたむきで、まっすぐな姿を見ていると…こんな俺でも何か出来ることがあるんじゃないかと…そう思えてくる…」
「・・・。」
――――俺っ、もう少し大きくなったら、“オトポリ”に入りたいんですっ!――――
――――俺に救えるものがあるのならっ…1つでも多く、救いたいんですっ…――――
思い出される次狼の言葉、笑顔、瞳。確かに、ゴンの胸の中でも、強く疼く何かがあった。
「うん…」
「・・・っ」
そっと声を漏らしたゴンの方を、振り向く諸刃。
「・・・それは…わかる気がする…」
そう呟いたゴンは、とても穏やかで、優しい笑顔を見せていた。ここに来たばかりの頃では、きっと見せることが出来なかったであろう笑顔。この1ヶ月で、その表情は砕け、とても柔らかくなった。
「そうか…」
そんなゴンの様子を見て、いつも無表情の諸刃も少し笑みを浮かべる。
「なら…お前も一緒に…強くなるか…?」
「えっ…?」
諸刃の問いかけに、戸惑いの表情を見せるゴン。しかしその戸惑いは、すぐに晴れた。
「うんっ…」
そう頷いてから、2年の時が流れ、俺たちは、16歳になった。
「いっくぜぇっ!?“狐火・一髪”っ!」
「・・・っ“狼刃”っ!」
ゴンの放った炎の玉と、次狼が天狼丸を振り下ろした一閃が、広間の中央で激しくぶつかり合う。
――――バァァァァァァァァァーーーーンっ!――――
「きゃっ!」
巻き起こる衝撃に、思わず身を屈めるリンゴ。
「すっごい音ぉ〜っ…」
ゆっくりと顔を上げたリンゴが、感心したように、まだ戦いを続ける2人を見つめる。
「もう修行なんて、レベルじゃないわねっ」
「最近はすっかりレベル上がっちまって、俺ら旦那勢の出番もねぇーからなぁっ」
リンゴの横に立つ地蔵が、腕組みをしてボヤくように呟く。2年前は地蔵が相手で十分に事足りた次狼たちも、今となっては、地蔵では相手にならないほどまでに成長していた。
「特にゴンの成長は目覚ましいっ」
「そうなの?」
「ああっ…」
不審そうに聞き返したリンゴに、ゆっくりと頷いたのはトマトであった。
「火力使いの狐族は、元々戦闘に優れた獣種ではあるがっ…あいつにはそれ以上のセンスがあるっ」
「ふぅ〜んっ…」
ゴンを誉めるトマトに、少し面白くなさそうな表情を見せるリンゴ。
「このままいくと、あいつ、そのうち次狼を越えるかもねぇっ」
「冗談っ!あっのバカゴンが次狼を越えるなんて無理よっ!無理無理っ!」
「お前はホンっト、素直じゃないねぇ」
強く否定するリンゴに、トマトが少し呆れたように肩を落とす。
「実はすっごく気になってるくせに」
「だぁっ…!」
トマトの言葉に、リンゴが顔を一気に真っ赤にする。
「誰があんな奴のことっ…!!」
ムキになって怒鳴りあげるリンゴ。
「私はっ…!」
――――リンゴ…――――
思い出される、無表情の諸刃の姿。
「私はっ…」
――――あっ…――――
思い出される、ただトマトを追いかけていった諸刃の姿。
「・・・っ」
リンゴがどこか悲しげに俯く。
「何でもないっ…」
「ああっ?」
力なく呟いたリンゴに、トマトは少し首を傾げた。
「そういやぁ諸刃はどうしたんだぁ?」
トマトが広間を見回しながら、思い出したように問いかける。確かに広間に、いつも次狼やゴンと一緒のはずの諸刃の姿がない。
「諸刃なら、さっきジャンケンに負けて、町に買い物に行ったよっ」
「そうかっ」
地蔵の言葉に、トマトは何の疑いもなく頷いた。
その頃、町からトマトの屋敷へと戻る途中の森。
「あっ…豆腐買い忘れた…」
買い物袋を両手に抱えながら、森の中を歩く諸刃が、ふと思い出したようにポツリと呟く。
「まぁいいか…今日、マーボー豆腐だけど…」
それはまずいだろうといった内容なのだが、諸刃は特に気にする様子なく、そのまま森を突き進んだ。
「んっ…?」
諸刃が何かに気づき、目を凝らす。
「あれはっ…」
木の根元に横たわっている、白く長い髪、真っ白な服の女性らしき人影。諸刃がその場に買い物袋を置き、少し足早になって駆け寄る。
「大丈夫か…?」
横たわっていた女性を、諸刃がゆっくりと抱え起こす。
「んっ…」
その、生きているのかを疑うほどに肌の白い女性が、諸刃の声に、反応を示した。
「んんっ…」
ゆっくりと開かれる、その真っ赤な瞳。
「はい…」
「・・・っ」
女性の真っ赤な瞳に見つめられた瞬間、諸刃の表情が止まった。
「ふぅ〜っ!今日も引き分けかぁ〜っ!」
「楽しかったですねぇ〜っ」
交戦を終えた次狼とゴンは、屋敷の外の水道場で、顔や体を洗っていた。汗の流れたその表情は、どこか満足そうに輝いている。互いの力をぶつけ合うことが、今は何よりも楽しいのだ。
「あっ!諸刃ぁ〜っ!」
「・・・っ」
次狼が門の方を振り向き、大きく手を振る。門からは屋敷の中へと入り、買い物袋を抱えた諸刃が、帰って来ていた。
「どうでしたぁ〜っ?買い物っ!今日の激辛マーボーも期待してっ…!」
「・・・。」
「ありゃっ?」
次狼の言葉をあっさりと無視して、足早に屋敷の中へと入っていってしまう諸刃。そんな諸刃に驚き、次狼が目を丸くする。
「どうしたんでしょうっ…?」
「買い物で疲れたんじゃねぇーのぉっ?」
戸惑うように呟いた次狼に、ゴンが適当に答える。
「けどっ…少し様子がおかしかったようなっ…」
「あいつがおかしいのはいつものことだってっ!ほらっ!いくぞっ!」
次狼の言葉をあっさりと否定し、ゴンもそそくさと屋敷の中へと戻っていく。
「・・・。」
その場に1人残った次狼は、どこか浮かない表情で俯いた。
あの時、少しずつ起こる変化に気づいていれば、何も失わずに済んだだろうか。
それから、数日の時が流れた。
「ふぃ〜っ!今日も引き分けぇ〜っ!」
「本当に強くなりましたね、ゴン」
疲れきった様子で倒れ込んだゴンに、同じように全身に汗をかいた次狼が、穏やかな笑みを向ける。今日もいつも通り行われた修行。今日もいつも通りついた、次狼とゴンの決着。
「・・・。」
次狼がどこか浮かない表情で、広間を見回す。
「今日も来なかったな、諸刃の奴っ」
「えっ…」
ゴンの言葉に、次狼が少し驚いたように振り向く。今まさに自分の考えていたことを口にされ、ハッとしたのであった。
「最近…毎日、来ないですよね…」
「ああっ、どっか行ってるみたいで、朝、俺が起きた時にはもういないぜぇ?」
「・・・そうですか…」
「・・・っ」
不安げな表情を見せる次狼に、ゴンが少し眉をひそめる。
「そんな顔すんなってっ!あいつももうガキじゃねぇーんだしさぁっ!」
諸刃を心配している次狼を、励ますように、ゴンが妙に明るい声をかけた。
「あいつ、いっつも何考えてるかわかんねぇけどっ、きっと修行サボって遊びたくなる時期もあんだってっ!」
「そっ…そうですよねっ…」
「そうそうっ!」
ゴンの言葉に、無理やり作ったような笑みを浮かべて、自分を言い聞かせるように頷く次狼。
「しばらく放っといてやろうぜっ!」
「はいっ…」
少しずつ、少しずつ、狂いだしていく、歯車…。
「はぁ〜っ!寝坊しちゃったっ!」
龍国の中心街を、必死に駆け抜ける、少し髪に癖のついたままのリンゴ。青守の屋敷を飛び出し、トマトの屋敷へと必死に急ぐ。
「遅れたら、またバカゴンに、グダグダ言われちゃうっ!」
リンゴが少し困ったように言いながら、足を速める。
「あれっ…?」
しかし、急いでいたはずのリンゴの足が、ふと止まった。
「あれはっ…」
中心街の大勢の人の中に、見覚えのある人影。
「諸刃っ…?」
それは、諸刃であった。最近、修行にも参加せずに、朝からどこかへと出掛けてしまっている諸刃が、何故、町中を歩いているのだろうか。リンゴが少し眉をひそめる。
「諸っ…!・・・っ?」
諸刃の名を呼ぼうとしたリンゴが、諸刃の横に見える人影に、その声を止めた。
「女の…人っ…?」
諸刃の横を歩く、白く長い髪に、真っ赤な瞳の、美しい女性。美しくはあるのだが、その白すぎる肌は、どこか生きている気配がなく、そしてどこか、不気味であった。
「諸刃っ…」
人混みの中へと消えていく諸刃と女性を、リンゴはただ不安げな表情で見送った。
「おっせぇーぞぉっ!クソリンゴっ!」
「・・・。」
「ああんっ?」
いつものように悪態づいたゴンであったが、何も言い返して来ないリンゴに、少し眉をひそめる。
「どうかしたのかぁ?さては落ちてたものでも食ったかっ?」
「違うわよっ!!」
「うわっ!」
勢いよく返ってくる怒鳴り声に、ゴンが思わず耳を塞ぐ。
「ふぅ〜っ、相変わらずうっせっ…」
「ねぇ、ゴンっ…」
「あっ?」
何やら改まった様子でそっとゴンの名を呼ぶリンゴに、耳を塞いでいたゴンが手を下ろし、顔を上げる。
「最近さっ、何か変わった様子とかないっ…?」
「はぁっ?何っ…」
「諸刃っ…」
「・・・っ」
リンゴの口から諸刃の名が出ると、ゴンの表情が一気に曇る。
「実はっ…さっきねっ…」
「何で俺に、んなこと聞くんだよっ」
「何でってっ…」
面倒臭そうに肩を落としたゴンに、リンゴが眉を引きつる。
「アンタっ、諸刃と同じ部屋に住んでんでしょっ!?」
ゴンを責めるように、怒鳴りあげるリンゴ。
「最近は朝早く出てくし、帰ってくんのも遅せぇーからロクに顔も合わせてねぇーよっ」
「何それっ!?アンタ、それでも諸刃の友達っ!?」
「ああっ!?」
さらに声を荒げたリンゴに、ゴンが表情を引きつる。
「んだよっ!?好きな男が釣れねぇーからって、俺に八つ当たりすんじゃねぇーよっ!!」
「なっ…!!」
ゴンの言葉に、リンゴが驚いたように目を見開く。
「なっ何よっ!それっ!」
「バレバレなんだよっ。お前、単純だからっ」
「・・・っ」
挑発するように言うゴンに、顔をしかめるリンゴ。
「好きな男1人のことくらいっ、自分だけで何とかっ…」
「バカっ!!!」
「うわあっ!」
激しい怒鳴り声に、勢いよく遮られるゴンの言葉。
「みっ耳痛っ…」
「アンタなんかに聞いた私がバカだったっ…」
「えっ…?」
耳を塞いでいたゴンが、先程とは異なる小さな声に、戸惑うように顔を上げる。そこには強く歯を喰いしばり、少し目を潤ませた、リンゴの表情があった。
「もういいっ…!!」
「・・・っ」
そう言い放つと、リンゴは素早くゴンに背を向け、その場を歩き去っていった。
「・・・。」
1人取り残されたゴンが、そっと頭を掻く。
「んだよっ…あの顔っ…」
今にも泣きそうな、悲しげな表情。いつも強きのリンゴの表情とは、思えないような表情。
――――けどっ…少し様子がおかしかったようなっ…――――
――――最近さっ、何か変わった様子とかないっ…?――――
「ったく、どいつもこいつもっ…」
思い出される次狼とリンゴの言葉に、ゴンが面倒臭そうに頭を抱える。
「・・・っ」
ゴンは、頭を抱えたその腕の隙間から、そっと鋭い瞳を見せた。
夜の闇も深くなった時刻、トマトの屋敷の未来の旦那部屋408の扉が、ゆっくりと開いた。
「・・・。」
足音を忍ばせながら、諸刃が部屋へと入る。
「おかえり」
「・・・っ!」
急に明るくなる部屋に、自分の寝台へと行こうとしていた諸刃が、驚いたように大きく目を見開いた。
「ゴンっ…」
「・・・。」
自分の寝台の上に座り、まっすぐに諸刃を見つめるゴン。
「起きて…いたのか…」
「どっかの不良野郎が、日毎に夜遊び長くなってっからよぉっ」
少し戸惑うようにゴンを見る諸刃に、ゴンは鋭い視線を向けながら言葉を続ける。諸刃はその瞳から逃れるように、そっとゴンから視線を外す。
「お前がどこで何してようとお前の勝手だけどよぉっ、んっ…?」
視線を外した諸刃を見つめていたゴンが、ふと諸刃の首筋に目を移す。
「・・・っ」
諸刃の首筋に刻まれているのは、黒い、どこか怪しげな紋様のようなもの。その紋様に何かを感じ、ゴンがそっと眉をひそめる。
「諸刃っ…お前っ、その首の模様っ…」
「・・・っ」
ゴンの言葉にハッとした表情を見せた諸刃が、慌てて首筋を手で覆い、その紋様を隠す。
「別に…ぶつけて出来ただけの、ただの痣だ…」
「アザ…?」
とても痣には見えなかったあの紋様に、ゴンがさらに表情を曇らせる。
「おっおいっ、諸刃っ…」
「風呂に入る。お前はもう寝ろ」
「・・・っ」
呼びかけようとしたゴンの言葉を遮り、諸刃が風呂場の方へと歩き出していく。そんな諸刃に、寝台の上から思わず身を乗り出すゴン。
「諸刃っ!」
「・・・っ」
名を強く呼ぶゴンに、諸刃の足が止まる。
「お前がどこで何してようとお前の勝手だけどっ…」
少し躊躇うように肩を落としたゴンであったが、決意したような瞳で、ゆっくりと顔を上げた。
「あんまりっ…仲間に心配かけるようなこと、すんなよっ…?」
「・・・。」
諸刃を心配するような、優しい瞳を見せて言うゴンに、諸刃の無い表情が、少しだけ動いた気がした。そのまま、諸刃は風呂場の扉の向こうへと、消えていった。
「あっ…」
姿の見えなくなった諸刃に、ゴンが少し目を細める。
「・・・。」
ゴンはどこか浮かぬ表情で、寝台へと寝転がった。
「・・・“仲間”っ…」
風呂場へと入った諸刃が、全身大の鏡を見つめ、首筋を覆っていた手をそっと離す。見える黒い紋様は、そっと白い光を放ち、首筋全体へと広がった。
「・・・馬鹿らしいっ…」
諸刃はどこまでも冷たい瞳で、呟いた。
そして、悪夢の朝が来る…。
「んっ…」
ゆっくりと、その鋭い金色の瞳を開くゴン。寝台の上で体を動かし、枕元の時計へと目をやる。
「もう…朝じゃねぇーかっ…」
時計の針は、朝を示す時刻を差している。昨夜、諸刃の帰りを待つために夜遅くまで起きていたせいか、寝坊してしまったようだ。
「その割には随分、暗っ…あっ…」
寝台の上で起き上がり、カーテンを開けたゴンが、広がる景色に目を細める。
「雨…」
朝だというのに暗い灰色の空からは、冷たい雨が降り注いでいた。
「・・・っ」
しとしとと降るその、どこか陰湿な雨に、いつもの朝とは違う何かを感じずにはいられず、ゴンは少し表情を曇らせた。
「そういや諸刃はっ…」
ゴンが思い出したように、隣の寝台を振り向く。
「やっぱ…いねぇーかっ…」
隣の寝台はすでに蛻の殻で、部屋に諸刃の姿は見当たらなかった。昨夜も結局、諸刃が風呂から出てくる前に眠ってしまい、あれ以上の話をすることは出来なかった。
「諸刃…」
浮かない表情を見せ、ゴンが諸刃の名をそっと呟く。
「うわあああああああああああっっっ!!!」
「・・・っ!」
その時、部屋の外から、大きな悲鳴が聞こえてきた。ゴンは驚いた様子で大きく目を見開き、顔を上げる。
「なっ何だっ…!?」
寝台から立ち上がり、ゴンは慌てて部屋を飛び出した。
「うっ…!」
部屋を飛び出した、ゴンの表情が凍りつく。
「なっ…何だよっ…」
ゴンが少し震えた声で、ポツリと呟く。
「何だよっ…これっ…!」
『うっ…ううっ…』
ゴンの飛び出たその廊下には、血だらけの人間が、廊下の床を埋め尽くすように、何人も倒れ込んでいた。生きてはいるようだが、皆、虫の息である。
「ゴ…ンっ…」
「・・・っ!地蔵っ!」
倒れている人間たちの中に、ゴンが地蔵の姿を見つける。よく見れば、倒れている者は皆、トマトの旦那ばかりであった。
「なっ何で地蔵たちがっ…」
さらに困惑の表情を見せるゴン。
「ゴ…ン…逃げっ…」
「あああああああああああああっっ!!」
「・・・っ!」
ゴンへと必死に手を伸ばした地蔵の言葉を、遮るように聞こえてくる叫び声。
「トマト先生っ…!?」
その声に聞き覚えがあり、ゴンは叫び声の聞こえてきた、広間の方を振り向く。
「トマト先生っ…!!」
ゴンは、広間の方へと、必死に足を走らせた。
「先生っ…!トマト先生っ…!!」
倒れている者たちを幾人も通り過ぎ、広間の大きな扉の前へとやって来たゴンが、勢いよくその扉を開いた。巨大な扉が、ゆっくりと開いていく。
「・・・っ!」
広がるその光景に、大きく目を見開くゴン。
「・・・っ」
全身を血で汚したその男が、ゆっくりとゴンの方を振り返る。
「諸刃っ…」
「・・・。」
広間の中心には、頬や服に大量の返り血を浴び、右手には血の滴る草薙の剣を持った、諸刃が立っていた。諸刃が何も感情のない冷たい瞳を、ゴンへと向ける。
「ゴっ…ン…」
「・・・っ」
聞こえてくる弱々しい声に、ゴンが視線を移す。
「ゴンっ…」
「トマト先生っ…」
諸刃の後方で、全身から血を流して倒れ込んでいるトマトが、苦しげに顔を上げ、ゴンの方を見つめる。そんなトマトの様子に、動揺した表情を見せるゴン。
「にっ…逃げっ…」
「何…やってんだよっ…」
ゴンが再び、必死に訴えようとするトマトから、無表情で立ち尽くす諸刃へと視線を移す。自然と震える声、拳。ゴンが震える拳を、強く握り締めた。
「何やってんだよっ…!!」
「やめろっ!ゴンっ!」
「諸刃ぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
トマトが制止するよう叫んだにも関わらず、平静さを失ったゴンは、右手に真っ赤な炎を纏って、諸刃の方へと突っ込んでいった。
「・・・っ」
向かってくるゴンに、諸刃がゆっくりと草薙の剣を振り上げる。
「“白雷”っ…」
「・・・っ!」
振り下ろされた草薙の剣から、放たれる白い雷。
――――バリィィィィィィィィーーーーンっっ!!――――
「うわあああああああああああああっっ!!」
諸刃の白雷は、あっさりとゴンの炎を砕き、ゴンの体を直撃した。雷撃を直撃したゴンが、少し体を焼いて、その場に力なく倒れ込む。
「ううっ…」
「ゴンっ…!!」
弱々しい声を漏らすゴンに、倒れていながらも身を乗り出すトマト。
「もっ…」
倒れたゴンが、重そうに体を動かし、諸刃の方を向く。
「諸刃っ…」
「・・・。」
何かを訴えるように、必死に見つめるゴンに、表情1つ変えずに、冷たい視線を送り続ける諸刃。
「フフフ…」
「・・・っ?」
聞こえてくる、高い声の女の笑い声に、ゴンがそっと眉をひそめる。
「フフフフっ…」
「・・・っ」
諸刃の横から姿を現わす、白く長い髪に真っ赤な瞳の美しい顔立ちの女。笑い声は、その女のものであった。まるで死んでいるかのように白過ぎる肌に、諸刃以上に感情を感じ取れない瞳。その瞳は、血のように冷たく、そして、どこか不気味であった。女から感じ取れる、怪しげな空気に、ゴンの表情が、瞬時に強張る。
「お前っ…はっ…」
「牢戸知玖っ…」
ゴンの問いかけに、答えるように女の名を呟くトマト。その表情は、今まで見たことがないほどに、厳しく、険しいものであった。
「シルクっ…?」
「・・・っ」
戸惑うように名を呼んだゴンに、シルクがそっと笑みを向ける。どこまでも残酷な、真っ赤な瞳。それは、すでに人のものではない。
――――鬼は復活するっ…必ずね…――――
「あっ…」
思い出されるトマトの言葉に、ゴンがハッとした表情を見せる。トマトが言っていたのは、この女のことであったのだろう。
――――けどっ…少し様子がおかしかったようなっ…――――
――――最近さっ、何か変わった様子とかないっ…?――――
明らかに変わった、諸刃の様子。
――――お前っ、その首の模様っ…――――
首筋に刻まれた、謎の紋様。
「まさかっ…」
ゴンが大きく目を見開き、その瞳を微笑むシルクへと向ける。
「まさかっ…お前が諸刃をっ…!?」
「フフフっ…」
「・・・っ!」
頷きとも取れる笑みを浮かべるシルクに、ゴンが強く唇を噛む。
「諸刃にっ…」
ゴンが床に力強く手をつき、素早くその場で立ち上がる。
「諸刃にっ…!何をしたぁぁぁぁぁっっっ!!!」
怒りの表情で、シルクへと飛び出していくゴン。
「・・・っ」
「うっ…!」
シルクへと向かって行こうとしたゴンの前に、素早く諸刃が立ち塞がる。
「“白雷”っ…」
「うわああああああああああああああっっ!!!」
「ゴンっ…!!」
再び諸刃の雷に撃たれ、広間の端へと吹き飛ばされるゴン。
「ううっ…」
2度目の攻撃は体を強く傷つけ、倒れ込んだゴンは、今度は簡単には起き上がることが出来なかった。
「ウフフフっ…」
倒れ込んだゴンを見て、シルクが楽しげに微笑む。
「そろそろトドメを刺しておこうかしら…?諸刃…」
「はい…シルク様…」
「・・・っ!」
シルクの言葉に素直に頷き、諸刃が倒れたままのゴンへと草薙の剣を構える。そんな諸刃の様子に、衝撃を受けたように目を見開くゴン。
「何っ…やってんだよっ…諸刃っ…」
剣を構える諸刃に、ゴンが戸惑いの瞳を向ける。
――――けど…優しい奴だ…――――
無表情の中に、確かにあった優しさ。裏切りの一族のゴンに、“優しい”と言って、笑顔を向けてくれた諸刃。
「成るよう成れ主義じゃ…なかったのかよっ…」
ゴンのその鋭い瞳が、少し潤む。
「何、そんな女の言いなりになってんだよっ!!諸刃っ!!」
「・・・。」
今にも泣き出しそうな表情で、必死に叫ぶゴンであったが、そのゴンの叫びにも、諸刃の表情は少しも動かなかった。
「無駄よっ…」
諸刃の横から顔を覗かせたシルクが、そっとゴンに笑みを向ける。
「彼にはね…魔法をかけたの…」
「何っ…?」
シルクの言葉に、ゴンが眉をひそめる。
「“仲間”なんて…ゴミだと思える魔法っ…」
その笑みが、さらに冷たく輝く。
「てめぇっ…!!」
「・・・っ」
「うっ…!」
思わずシルクへと身を乗り出したゴンに、諸刃が素早く草薙の剣を振り上げる。振り上げられた剣に、もう避けることも出来ないゴンは、表情を強張らせる。
「ゴンっ…!!」
剣を向けられているゴンの姿に、必死に体を奮い起こすトマト。
「シルクっ…!!!」
膝をつき、何とか起き上がったトマトが、シルクへと右手を突き出した。トマトの右手が、青い光を帯びていく。
「・・・っ」
「うっ…!」
しかし、シルクの前へと諸刃が立ち塞がると、トマトの表情が引きつり、右手を包んでいた光が、急に止んだ。
「“白雷”…」
「ううっ…ああああああああああああっっ!!」
諸刃の放った雷に焼かれ、再び倒れ込んでいくトマト。その悲痛な叫び声が、広間に響き渡った。
「うっ…ううっ…!」
「フフフっ…」
苦しげな声を漏らすトマトに、シルクが一層、楽しそうな笑みを見せる。
「情けないものね…千年の時を生きる最古の獣人ともあろう人が…」
シルクが諸刃の前へと出て、ゆっくりと倒れているトマトの方へと歩み寄っていく。
「たった1人の男の前に…こうもあっさり倒れるなんてっ…」
「・・・っ」
トマトのすぐ前へと立ち、見下した表情で言い放つシルクに、トマトの表情が歪む。
「お前が憎んでいるのはっ…殺したいほど憎んでいるのはっ…私だけのはずだよっ…!」
顔だけを上げたトマトが、強くシルクを睨みつける。
「諸刃やっ…ゴンには何の関係もっ…!」
「そうよぉっ」
声を荒げたトマトの言葉を、シルクが強く遮る。そう言い放ったシルクの表情には、先ほどまでの笑みが浮かんでおらず、確かに憎しみを感じる瞳を見せていた。
「私が憎んでいるのは…貴女だけっ…」
再び微笑みを作るシルク。
「だからっ…私は貴女から、すべてを奪うのっ」
「・・・っ」
まるで子供のように、無邪気に言い放ったシルクに、トマトは少し驚いたように目を見開く。
「貴女が持ってて、私が持っていないものは…私がすべて奪うわっ…」
シルクがトマトに背を向け、諸刃の方へと戻っていく。
「すべてっ…」
諸刃の横に立ち、諸刃の肩に手を乗せると、シルクが再び振り返り、トマトの方を見て微笑む。
「それでっ…諸刃をっ…?」
「ええっ」
怒りに少し震えた声で問いかけたトマトに、短く頷くシルク。
「だって…ねぇ、トマトっ…」
まるで親しい者に呼びかけるかのように、シルクがトマトの名を呼ぶ。
「この子のこと…大事でしょ…?」
シルクの白い手が、諸刃の首筋の黒い紋様に触れる。
「だってこの子…」
少し落とされる、声のトーン。
「“あの人”に…似てるもの…」
「・・・っ!」
シルクの言葉に、凍りつくトマトの表情。
「あの人…?」
倒れたまま2人の会話を聞いていたゴンが、“あの人”と聞いて思いつくような人もおらず、戸惑うように首を傾げる。
「さぁ、千年続くこの長い戦いも…そろそろ終わりにしましょう…」
シルクが諸刃の首筋から、手を離す。
「トマトを殺して…諸刃…」
「はい…シルク様…」
「なっ…!!」
シルクの命令に、頷く諸刃。ゴンが大きく目を見開く。
「・・・っ」
「うっ…!」
静かな表情で草薙の剣を振り上げる諸刃に、トマトは手や足を動かすことはなく、ただ強く唇を噛み締めた。
「・・・“白らっ…」
「“狐火・一髪”っ…!!」
「・・・っ」
――――バァァァァァァァァァァーーーーンっ!!――――
「・・・。」
今まさに、トマトへと草薙の剣を振り下ろそうとした諸刃が、横から飛んできた炎の玉を避け、攻撃を中止する。剣を下ろした諸刃が、ゆっくりと炎の飛んできた方を、振り向いた。
「ハァっ…ハァっ…ハァっ…」
そこに見えるのは、片膝をついて何とか起き上がっているゴンの姿。相当苦しいのか、肩を大きく揺らせて息をしている。
「ゴンっ…」
そんなゴンの方を見て、目を細めるトマト。
「邪魔な子ねぇ…」
同じようにゴンを見つめるシルクが、少し困ったように眉をひそめる。
「まずはその子から殺しましょうか…諸刃っ…」
「えっ…?」
シルクの言葉に、思わず声を漏らすゴン。
「はい…シルク様…」
「・・・っ!」
またも素直に頷く諸刃に、ゴンの表情が強張る。
「草薙…」
何の迷いもなく、ゴンへと草薙の剣を構える諸刃。
「やめろっ!!諸刃っ!!」
倒れたまま、動くことも出来ないトマトが、必死に体を動かそうともがきながら、大声で叫ぶ。しかし諸刃は止まることなく、ゆっくりと草薙の剣を振り上げていく。
「クっ…!」
その様子に、唇を噛み締めるトマト。
「逃げろっ!!ゴンっ!!」
今度は、ゴンへと必死に叫ぶ。
「うっ…!」
しかし、ゴンに、すでに逃げるだけの力は残っておらず、ゴンはただ、振り上げられた草薙の剣を見上げる。
「ううっ…!!」
光る剣先に、ゴンの表情が恐怖で歪んだ。
――――バァァァァァァァァァーーーーンっ!――――
その時、広間の扉が、勢いよく開かれた。
「ゴンっ!諸刃っ!」
「おばあちゃんっ!!」
広間へと駆け込んでくる、次狼とリンゴ。
「“黒雷”っ…」
2人が入って来たことに手を止めることなく、諸刃はゴンへと草薙の剣を振り下ろした。
「ううっ…!」
黒い雷を纏った草薙の剣が、ゴンへと振り下ろされる。
「クっ…!」
「ゴンっ!!」
「いやああぁぁぁぁぁっっっ!!!」
――――バリィィィィィィィィィィィィーーーーンっっ!!――――
それぞれの叫び声が響き渡る中、下りた剣。
「あっ…」
大きく目を見開いたゴンが、力なく声を漏らす。
「うっ…うぅぁっ…」
ゴンの目の前で、草薙の剣に胸を貫かれ、真っ赤な血を流しながら、ゆっくりと倒れ込んでいくその人物。
「・・・っ次狼ぉぉぉぉぉぉっっっ!!!」
ゴンの悲痛な叫びが、広間に響き渡った。
「うぁっ…」
「ハっ…!」
胸を貫いていた草薙の剣を抜かれ、後方へと倒れていく次狼に、ゴンが必死に両手を伸ばし、その体を受けとめる。次狼を抱きかかえたまま、その場に座り込むゴン。
「次狼っ!!次狼っ!!次狼ぉぉぉぉっっ!!!」
ゴンが、抱え込んだ次狼の名を、何度も何度も必死に呼ぶ。
「ウ…ソっ…」
「・・・っ」
その光景を、茫然と見つめる、リンゴとトマト。
「んっ…?」
屋敷の外が騒がしくなってきたのを感じ、シルクがふと窓の外に目をやる。窓の外を見ると、トマトの屋敷を取り囲むようにして、黒い制服の集団が立ち並んでいた。
「オトポリっ…」
その者たちを見て、そっと眉をひそめるシルク。
「どうやら今日はここまでのようね…」
シルクがどこか残念そうに呟く。
「帰るわよ…諸刃…」
「・・・。」
「諸刃…?」
返って来ぬ返事に、シルクが少し不思議そうに振り向く。
「・・・。」
諸刃は、次狼の赤い血の滴り落ちる草薙の剣を見つめながら、ただ無表情のまま立ち尽くしていた。
「諸刃」
「・・・っ」
もう1度強めに名を呼ぶシルクに、諸刃がやっと気付いたように顔を上げる。
「帰るわよ…」
「はい…シルク様…」
シルクの言葉に頷くと、諸刃は草薙の剣についた次狼の血を、無造作に振り払い、鞘へと収めた。
「・・・っ」
少しだけ次狼とゴンの方を振り返った諸刃は、どこか諦めたように目を伏せると、すぐにまた前を向き直し、シルクとともに広間から姿を消した。
「次狼っ!次狼ぉぉぉぉっっ!!」
シルクと諸刃の去った広間に、ゴンの悲痛な声のみが響き渡る。
「次狼っ…!!」
悔しげに俯いたゴンの瞳から、雫が溢れ落ちる。その雫が、血のついた次狼の頬へと落ちた。
「・・・ゴ…ン…」
「・・・っ!次狼っ…!?」
弱々しく聞こえてくる声に、ゴンがハッとした表情で顔を上げる。
「次狼っ…!!」
「ゴン…」
大きく名前を呼ぶゴンに、次狼が青白くなった表情で、あまり力のない笑みを作る。
「大丈夫…ですか…?」
「何をっ…!」
まるでゴンの身を案じるような声をかける次狼に、ゴンが少し声を荒げる。この状況では、どう見ても次狼の方が大丈夫ではない。
「ゴン…どうか…」
次狼が血に染まった右手を、少し震わせながら、ゆっくりとゴンの方へと伸ばす。
「どうかっ…生きることを…やめないで下さい…」
「・・・っ」
ゴンの方に手を伸ばし、そっと願うように呟く次狼に、ゴンが険しい表情を見せる。
「君は…1人じゃありません…」
穏やかに、優しく微笑む次狼。
「だから…きっと…生きていける…」
「次狼っ…!」
ゆっくりと伸びてきた次狼の手を、ゴンがしっかりと掴む。
「俺がいなくても…」
「・・・っ!」
次狼の言葉に、衝撃を受けるように大きく目を見開くゴン。
「今っ…!ミイラ男さんをっ…!」
「リンゴっ」
「・・・っ」
広間を出て、怪我の手当ての出来るトマトの旦那の1人、ミイラ男を呼びに行こうとしたリンゴが、トマトの声に呼び止められ、振り返る。
「無駄だ…」
「・・・っ」
厳しい表情で呟くトマトに、リンゴは驚いたような表情を見せ、そして、どこか遣り切れない表情で俯いた。
「んなことっ…言うなよ…」
次狼の手を握り締める、ゴンの手が震える。
「んなこと言うんじゃっ…!!」
「ゴンっ…」
「・・・っ」
ゴンの言葉を遮るように、次狼がゴンの名前を呼ぶ。
「ゴン…」
もう1度、ゴンの名を呼ぶ次狼。次狼のまっすぐで曇りのない瞳が、ゴンの瞳を捉える。
「諸刃を…諸刃を頼みますっ…」
「えっ…?」
自分を剣で貫いた男のことを、ゴンへと頼む次狼。
「次狼っ…」
「・・・っ」
戸惑うように見つめるゴンに、次狼がさらに一層の笑顔を向ける。
「どうか…みんなで…もう誰も戦わなくていい…世界を…」
トマトを、リンゴを見つめ、次狼が願う。
「優しい世界を…」
そしてゴンを見つめ、次狼が願う。
「ゴンっ…」
もう1度優しく、呼びかける次狼。
「・・・ありがとう…」
「次っ…」
「・・・っ」
「・・・っ!!」
ゴンの手の中から、力なくこぼれ落ちていく次狼の手。ゆっくりと閉じていく、穏やかな緑色の瞳。ゴンが大きく目を見開く。
「次狼っ…?」
そっと名を呼んだゴンに、次狼が答えることはなかった。
「・・・っ」
ゴンの瞳から、涙が溢れ落ちる。
「うあああああああああああああああああっっっ!!!」
動かなくなった次狼を抱え、遠く天井へと、突き上げるように叫ぶゴン。
「ううっ…!」
その場に泣き崩れる、リンゴ。
「クっ…!」
悔しげに床に拳を打ちつける、トマト。
「ああああああああああああああああああっっっ!!!」
その日、すべてが終わり、そして、すべてが始まった。
いっそ出会わなければ良かったとさえ、思えるほどの別れ。
次狼に出会わなければ、裏切りの一族である俺が、信じてもらえることは、救われることはなかった。
それでも、俺と出会わなければ、次狼が死ななかったというのなら、俺は、次狼と出会いたくはなかった。
龍国・見届けの苑。
「・・・。」
次狼の死から6年。どんなに時が流れても、消えない思いを抱えながら、ゴンはこの墓の前に立ち続けている。
――――どうか…生きることを…やめないで下さい…――――
あの次狼の言葉に、生かされているかのように。
「次狼っ…」
「ここにいたのですか」
「・・・っ」
後方から聞こえてくる声に、振り返るゴン。
「探しましたよ」
――――良かったぁ〜っ!探しましたよっ!――――
見える、穏やかな笑顔の次狼。
「次っ…!」
「ゴン…」
「あっ…」
笑顔の次狼が、霞のように消えていくと、そこには幻の次狼と同じような、穏やかな笑みを浮かべた輝矢が立っていた。
「竹取っ…」
ゴンが少し力の抜けたように、輝矢の名を呼ぶ。
「ジローの墓参りは…久々ですね…」
そう言って少し微笑みながら、輝矢がゴンの横へと並ぶ。そしてその場にゆっくりとしゃがみ込むと、両手を合わせ、目を閉じて、次狼へと祈りを送った。
「ハチに花でももらってこれば良かったですね…」
輝矢がゆっくりと目を開く。
「すみません、ジロー…」
「・・・。」
親しい者に言うように、そっと謝る輝矢に、ゴンが少し目を細めた。
「そうか…」
「・・・っ?」
零れ落ちるゴンの声に、輝矢が振り向き、顔を上へ向ける。
「お前は…全部知ってんだなっ…」
どこか悲しげに微笑むゴン。
「俺たちのことっ…」
「・・・っ」
それが何のことを意味しているのかを知るからこそ、輝矢はその表情を曇らせた。
「・・・ええっ…」
少し間を置いて、輝矢が小さく頷く。
「ハチ公には、さっき俺から話した…ダメだったか?」
「いえっ…アナタが話そうと、思ったのなら…」
ゴンの問いかけに答えながら、輝矢がゆっくりと立ち上がる。次狼の墓の前で、並ぶ輝矢とゴン。
「まさかっ…あの愛想の悪りぃガキがお前だったとはなっ…」
――――悪人面っ――――
――――ああぁぁぁんっっ!!?――――
「てっきり男だと思ってたぜっ」
桃原家での輝矢との初めての出会いを思い出し、ゴンが懐かしむように笑みを浮かべる。輝矢と再会した時は、あの時の子供と同一人物などと、思ってもみなかった。
「私はすぐにわかりましたよ?まったく変わってませんでしたからね、その悪人面っ」
「ああんっ!!?」
「ほらっ、変わりない」
あの頃と同じように、輝矢の言葉にすぐに怒りだすゴンに、輝矢が少し呆れたように肩を落とす。
「お前だって性格直ってねぇーじゃねぇーかっ、しゃべり方ばっか丁寧になっただけでっ」
「敬語はジローに教えてもらいましたから…」
「・・・っ」
輝矢のその言葉に、ゴンの眉がひそむ。
――――今、頑張って、敬語を教えてるんですけど…――――
次狼がそう言っていたことを思い出す。
「そうかっ…そのしゃべり方は次狼仕込みかっ…」
少し力の抜けた表情で、微笑むゴン。
「どうりでっ…」
――――俺は君を信じますよ…?――――
――――私はゴンを…信じていますからっ…――――
その笑顔に、その言葉に、重なった場面。
「どうりでっ…お前としゃべってると…アイツのことばっかり思い出すはずだっ…」
「ゴンっ…」
壊れてしまうそうなほどに悲しげな笑みを浮かべるゴンを横から見つめ、輝矢がそっと目を細める。
――――竹取輝矢っ、鬼退治いたしますっ…!――――
初めて見た時から、似ていると思った。穏やかな笑みを浮かべながらも、遥か先をまっすぐに見据えた強い瞳。自分の信じる強い思いのもと、戦うそのひたむきな姿。ゴンにとっては、何よりも眩しかった、その姿。
――――アイツらをっ…守ってやれなったじゃないですかっ…――――
だからこそ、守りたかったのかも知れない。輝矢を、そして輝矢が守ろうとしている桜時を。
――――ゴンっ…――――
守れずに零れ落とした、次狼の分も。
「大丈夫だっ…」
「えっ…?」
「大丈夫っ…」
「・・・っ」
まるで自分に言い聞かせるかのように、その言葉を繰り返すゴンに、輝矢が少し眉をひそめる。
「この戦いは…俺の手で終わらせるっ…」
――――次狼ぉぉぉぉぉっっっ!!!――――
すべてが終わり、そしてすべてが始まったあの日。あの日はまだ、ゴンの中で今も、続いている。
「牢戸知玖はっ…御剣諸刃はっ…俺が殺す…」
強く握り締められる、ゴンの拳は、少しだけ震えていた。
「お前らのことはっ…俺が必ず守っ…!」
「結構です」
「だぎゃあああああああああああっっ!!」
ゴンが誓いのように強く言い放とうとしたまさにその時、輝矢の鋭い肘打ちが、ゴンの脇腹へと直撃した。ゴンが押し潰されたような、苦しげな叫び声をあげる。
「なっ何すんだよっ!!てめぇーはっ!!」
「自惚れないで下さい」
「ああぁぁんっ!!?」
冷たく言い放つ輝矢に、さらに歪むゴンの表情。
「別にアナタになど、守ってもらわなくても、自分の身くらい自分で守ります」
がっしりと腕組みをして、呆れたような表情を、ゴンへと向ける輝矢。
「勿論、ハチの身もっ」
「・・・っ」
自信満々の笑みを浮かべる輝矢に、何も言い返すことが出来ず、ゴンが少し困ったように頭を掻く。
「それにっ…」
「・・・っ?」
さらに言葉を付け加える輝矢に、ゴンが少し不思議そうな表情を見せる。
「これは…“私たちの”戦いです…」
浮かべた穏やかな笑みを、ゴンへと向ける輝矢。
「アナタ1人の…戦いではありませんっ…」
「・・・っ」
向けられる優しい瞳に、大きく開かれるゴンの両目。
――――君は…1人じゃありません…――――
「・・・っ」
再び重なるその笑顔に、ゴンは噛み締めるように瞳を閉じ、深々と俯いた。
「ったくっ…」
ゴンが、そっと目を開き、次狼の墓を見る。
「生意気なクソガキを育てたもんだぜっ…」
少し緩む、その口元。
「なぁっ…?次狼っ…」
「・・・っ」
次狼へと語りかけるゴンを見ながら、輝矢もそっと微笑んだ。
その頃、桃原家・リビング。
「んん〜っ…甘っ」
桃原家のリビングでは、いつものように太狼が、甘さダルダルココアを飲みながら1人、ソファーに腰かけていた。リビングに輝矢や、朱実3兄弟の姿はない。どうやら出掛けたようである。
「・・・。」
太狼がコップを持つ手とは逆の手に持っている、写真立て。そこにはまだ幼い太狼と次狼が、笑顔で写し出されていた。
「・・・っ」
次狼の笑顔に目を落とし、太狼が少し目を細める。
「んっ…?」
太狼がコップを持つ手を止め、少し眉をひそめる。
「これはっ…珍しいお客だっ…」
そっと口元を緩める太狼。
「お久し振りです、トマトさんっ」
「ああっ…」
どこからともなく、太狼の向かいのソファーへと現れたのは、トマトであった。名を呼ぶ太狼に、トマトが軽く頷いて答える。
「次狼の葬式以来…ですかねぇ。貴女がこの家に来るのはぁ」
「ああっ…そうだねぇ…」
太狼の言葉に、真剣な表情を見せながら答えるトマト。
「太狼っ…」
「はいっ?」
改まった様子で太狼の名を呼ぶトマトに、太狼が少し顔を上げる。
「私の258番目の旦那になっ…!」
「お断りしますっ」
「・・・。」
トマトがいつもの台詞を言い終わらないうちに、太狼は爽やかな笑顔で、すぐさま断りを入れた。
「相変わらず釣れない男だねぇっ」
「ありがとうございます」
トマトが面白くなさそうに肩を落とし、ソファーへともたれかかる。そんなトマトに、嬉しそうに礼を言う太狼。
「その断り方っ…兄弟揃って、同じだっ」
「・・・っ」
トマトの口から“兄弟”という単語が出ると、太狼の笑みが少しだけ曇ったように見えた。
「・・・。」
そんな太狼の変化に気づき、トマトがそっと目を細める。
「お前には…本当に済まなかったと思っている…」
急に深刻そうな表情を見せ、視線を落とすトマト。
「私の戦いに巻き込んでっ…次狼を死なせてしまったんだからなっ…」
トマトの表情に映る、後悔の念。
「私があの時…諸刃さえ殺せていれば…」
――――うっ…!――――
シルクの手に落ちた諸刃を前に、どうしても動かなかった右手。諸刃を討つことの出来なかったトマトの弱さが、結果、次狼を死なせてしまった。
「あんな…ことにはっ…」
――――次狼ぉぉぉぉぉぉっっっ!!!――――
今も耳に残るゴンの叫び声に、トマトが強く拳を握り締める。
「僕に謝る必要なんて、ありませんよっ…」
「何っ…?」
太狼の言葉に、トマトが眉をひそめて、顔を上げる。
「僕はあの子に…“お兄さん”らしいことなんてっ…何1つしてあげませんでした…」
「太狼っ…」
笑いながらも、どこか悲しげに見える太狼を、トマトがまっすぐに見つめる。
「好き勝手やって、家も空けてばかりでっ…一緒にいてあげた記憶なんて、ロクにありませんっ…」
――――お兄ちゃんっ…どこ行くのっ…?――――
――――兄貴っ…出掛けるんですかっ…?――――
「小さい頃から放ったらかしてばかりでしたからっ…」
――――いってらっしゃいっ…――――
寂しさを押し殺して、笑う。太狼を笑顔で見送ろうと、いつも次狼は、無理に笑っていた。太狼に心配をかけまいと、必死に笑顔を作っていた。いつだって手を振って、送りだしてくれた。
「そんな兄とも呼べないような兄だったのに、いつ帰ってきても…あの子は笑ってくれたんです…」
太狼が、遠い目で、天井を見上げる。
「“おかえり”って…笑ってくれたんですよっ…」
「・・・。」
そう言って微笑む太狼を、トマトは真剣な表情でまっすぐに見つめた。
「もっと…構ってあげれば…愛してあげればっ…」
少し低くなる太狼の声。
「ちゃんと…あの子に向き合ってあげればっ…」
「・・・っ」
太狼の言葉に、トマトが目を細める。
「なぁ〜んてねっ…」
「太狼っ…」
いつものように軽く、爽やかな笑みを浮かべながらも、完全には消せない悲しみを覗かせる太狼に、トマトが少し眉をひそめる。
「だから、僕に謝ったりなんてする必要はっ…」
「太狼っ…」
「・・・っ?」
太狼の言葉を遮り、トマトが太狼の名を呼ぶ。
「あの子は、世界の英雄である兄を、何よりも誇りに思っていた…」
――――でも、兄貴の狼刃に比べるとっ…――――
――――兄貴は雲の上の人ですからっ…――――
兄の後を追うように、必死に強くなろうとしていた次狼。
「お前が兄であることを、何よりも誇りにしていたっ…」
トマトがまっすぐな瞳を、太狼へと向ける。
「そのことだけは、忘れないでいてやってくれっ…」
「・・・っ」
次狼の代わりに願うように言うトマトに、太狼はそっと目を伏せる。
「はいっ…」
そして、胸に刻みつけるように、頷いた。
一方その頃、オトポリ本部・救護塔3階。
「・・・。」
ゴンからすべての話を聞いた桜時は、今も、ベンチの上から一歩も動けずにいた。去っていくゴンにかける言葉も見つけられず、何も言えないまま見送ってしまった。
――――次狼ぉぉぉぉぉっっっ!!!――――
どんな思いで、生きる道を選んだのだろう。
――――諸刃っ…――――
どんな思いで、あの時、諸刃とシルクの前に立ち塞がったのだろう。
「・・・っ」
どうすることも出来ないもどかしさを抱えながら、桜時はそっと天を仰いだ。
「あっれぇ〜っ?」
「・・・っ」
入ってくる声に、桜時が少しドキリとした表情で振り向く。
「桜時だけっ?」
「リンゴっ…」
そこに現れたのは、いつものオトポリ制服姿のリンゴであった。
「ゴンいないっ?羊スケと一緒じゃなかったから、ここだと思ったんだけどっ」
「あっ、いやっ…」
ゴンの過去の中にリンゴが出てきていたこともあり、桜時は少し気まずそうな顔を見せながら、少し不自然に言葉を繋ぐ。
「さっきまでいたけどっ…どっか行っちゃってっ…」
「どっかってどこにっ?」
「さぁっ…」
「そうっ」
首を傾けた桜時を見て、リンゴが少し疲れたように肩を落とす。
「ったく、アイツっ!この忙しい時にサボりばっかしてっ!」
「・・・。」
「・・・っ?」
顔をしかめてゴンの文句を言っていたリンゴが、浮かない表情で俯く桜時に、少し首を傾げる。
「何っ?随分、シケた顔してるけどっ」
「えっ?」
リンゴの言葉に、桜時が驚いたように顔を上げる。
「輝矢と何かあった?」
「いや別にっ…いやっ、何もなかったわけでもねぇけどっ…今はそれじゃなくてっ…」
「はぁっ?何、ゴチャゴチャ言ってんのよっ!パッとしない男ねぇっ」
「・・・。」
もどかしい思いを抱えている桜時に、何の遠慮もなく強く言い放つリンゴ。その言い方のあまりの厳しさに、もう傷つくことも出来ずに、桜時が少し呆れたような表情をリンゴへと向ける。
「まぁいいわっ」
「いいのかよっ!」
あっさりと自己解決するリンゴに、思わず怒鳴りあげる桜時。
「私忙しいから、もう行くわねっ」
「あっ」
桜時に背を向けるリンゴに、桜時が思わず身を乗り出す。
「ゴンからっ…!」
「・・・っ?」
立ち上がり叫ぶ桜時の声に、リンゴが足を止めて、振り返る。
「ゴンからっ…聞いた…」
「えっ…?」
「そのっ…“次狼”のことっ…」
「・・・っ」
桜時の口から次狼の名が出ると、リンゴの表情が一気に曇った。
「・・・そうっ…」
少し俯いたリンゴが、短く頷く。
「それでっ…そのっ…」
――――俺と諸刃…そして次狼のことを…――――
思い出されるゴンの悲しい顔。あのぶっきらぼうでガラの悪いゴンが、壊れてしまいそうとさえ思えるほどに、弱く、そして脆く見えた。復讐という言葉に囚われ、自分自身を押し潰してしまうのではないかと、そう不安になった。
「ゴンの…ことなんだけどっ…」
「大丈夫っ…」
「えっ…?」
まだ何も言っていない桜時に、まるで安心させるかのように、その言葉を放つリンゴ。
「ゴンは…私が守るからっ…」
「・・・っ」
曇りのないそのまっすぐな笑顔に、桜時が大きく目を見開く。
「じゃあねっ」
その笑顔だけを残して、リンゴは足早に、桜時の前から去っていった。
「・・・。」
ベンチの前に立ち尽くし、桜時がそっと視線を落とす。
――――ゴンは…私が守るからっ…――――
曇りのない、笑顔。曇りのない、想い。
「・・・っ」
桜時がふと顔を上げ、まだ眠ったままの門貴と由雉の方を見つめる。
――――この誇りっ…そう簡単には折らせへんっ!!――――
――――ミチルさんの幸せはっ…ボクが守るよっ…――――
門貴にも、由雉にも、強い想いがあって、強い想いがあるからこそ強くなれて、何者を相手にも戦ってこられた。
――――私にはっ…守れないものが多すぎるっ…!――――
強い想いがあるからこそ、流す涙もあった。
「俺はっ…俺にはっ…」
強い想いを目の前で見てきたからこそわかる。桜時には、まだその強い想いがない。輝矢や門貴や由雉が持っているほどの、強い想いがない。ただ戦ってきただけ。皆に引っ張られるようにして、何の目的もなく、ただ刀を振るっていただけ。
――――ゴンは…私が守るからっ…――――
強い想いで、守りたいもの。
――――俺…お前のことが…好きだ…――――
「・・・っ」
桜時は、どこか決意したように、その表情を鋭くした。
「諸刃…諸刃っ…」
真っ暗な闇の中で、名前を呼ぶあの女の声が聞こえる。
「はい…シルク様…」
「諸刃…」
すぐに傍に駆けつけると、あの女の白く冷たい手が、首に回った。
「愛してるわ…諸刃…」
耳元で囁かれる、冷たい声。
「貴方は…私だけのものっ…」
「・・・はい…」
その言葉に、ゆっくりと頷く。
「シルク様…」
闇は続く。
いつか、かつての友に、胸を貫かれ、命絶える、その日まで…。
其の五十七につづく。
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