世間がそわそわと浮つくこの日。アホみたいに俺も浮ついた気分だった。
バレンタインだからだ。
「チョコレートほしいな、哀ちゃん」と催促できる黒羽とは違い、一言も言いだせずに俺は博士の家でぼんやり灰原の帰りを待っている。
「食べる?」
ふと柔らかい声が降ってきた。肩にかけられてる毛布。唇をつりあげて笑う灰原の顔がぼんやり写る。
「はい、チョコレート」
一気に目が覚めて毛布を払いのけ、腕を掴んだ。
流石にびっくりしたのか、腕がこわばっていた。
「俺の?」
「そうよ、特別の」
無表情を作り、それから灰原は、冷笑した。
「惚れ薬がはいってるの」
どっかのデパートで買ったようにしか思えない、淡いピンクふわふわの紙に包まれ、金の巻きリボンで結わえられているその円筒形の包み。
「私に惚れてみて?」
小学生が挑発的に笑う。それが様になる。
俺は何も考えずに包みを開けた。中には白いバラのチョコレートがひとつ入っている。
「さんきゅ」
一口で放り込み、呆気に取られている彼女を見て言った。
「うまかった」
「そ、そう。よかったわね」
灰原はパタパタと足早に出ていってしまう。
灰原にはまだ何の気持ちを伝えてない。これはチャンスかもしれない。
翌朝、灰原は普段とかわりなく俺に短く朝の挨拶を告げた。
「おはよ、今日も可愛いな」そう言って、くしゃりと髪を撫でる。
その手を乱暴に払われた。
「どーいうつもりよ」
すんごい冷たい目が俺を射ぬこうと見据えられる。
「思ったまんま」
「あなたまで黒羽さんみたいなこと言わないで」
言われて、ああそうなんだ。と思った。黒羽は灰原を心から想ってるんだ。だから、平気で自分の気持ちを素直に吐露できるんだ。
「チョコレートの効果かな」
灰原なら本気で作れるだろうし、手頃な実験台に使う相手もいる。あれが、本物かはさておき、灰原が俺の気持ちを試したいなら、俺だって試してみたい。
「俺、灰原に惚れてるし」
「今から出かけるわ」
笑顔を向けたのがまずかったのか、くるりと後ろを向いて固い声で返す。
「夕方からは博士がいるから、あなたはもういてくれなくていいわ」
「なんで? いると迷惑か?」
「――よくわかってるじゃない。暇ならデートにでも行けば?」
「じゃ俺も着替えてくるかな」
振り返った彼女は怪訝そうな上目遣い。
「俺、いま惚れ中だから」
「ばかじゃないの」
ついて出るのは吐き捨てるような冷たい言葉ばかり。
「言っておくけど」
「ん?」
「……。効果は、今日で切れるわ」
きゅっと唇を結ぶ灰原が切なくて、どこか可愛くて、抱きしめたくて。
「じゃ、一日恋人だな」
でも、やめた。俺の言葉に、ほっと彼女は笑みをこぼす。気付かないふりをして俺は立ち上がった。
恥ずかしがって嫌がる灰原の手をつないで、遊園地に行って、一緒にメリーゴーランドに乗ったり、ジェットコースターに乗ったり。聞かれたことには、全て恋人ですを繰り返し、お洒落な夜景の綺麗なレストランで食事をして、いまは米花港から出るクルーズ船の上。
「自己チュー」
流れる景色を見ながらぽつりと、灰原は言った。
「疲れたか?」
「べつに」
「行きたいとこあったか?」
「私のこと」
俺は灰原の頭を軽く叩く。
「もう切れたわ」
俺は時計を見た。12時を回っている。
「今日からは、またただのお隣さんね」
ぽっぽっ、と雨粒が俺の頬を打つ。
「……無理だって言ったら?」
「え」
風に凪ぐ前髪を梳いた彼女は俺の顔をゆっくり見つめた。
「聞こえなかった? 俺、灰原のこと好きだよ」
呆気に取られたように、目が大きく開いて、口がポカンと開く。
「――からかってるの?」
「本気」
「つまらない冗談なんか!」
いきなり激昂されて、思わず困惑した。
「コナンのときからずっと、灰原のこと想ってるよ」
雨が強くなって、見下ろす彼女の瞳を叩く。まるで涙みたいだ。
「惚れ薬なんて嘘に決まってるじゃない。もう、恋人ごっこなんてやめなさいよ」
ぎゅっと心臓をわしづかみにされるような痛みだった。全く届かない気持ち。
誰もいないデッキ。逃げるように翻る彼女の肩をぐっとひいて、後ろから抱き締める。
「離してよ」
「俺の言葉、なんで信じてくれないんだよ」
身動ぎ、掴む腕を離そうと抵抗する彼女をただ、強く抱き締める。
「灰原のこと、夢に見るくらい好きなのに。どーしようもないくらい」
「寒い」
いつもの調子の声に、俺は思わず手の力を緩めた。
「最初から必要なかったのよ」
ふぅっ、と息を吐いて灰原は俺を見た。
「私も素直じゃないから」 そう呟いて、背伸びをして、耳に唇を寄せる。
俺にしか聞こえないその言葉は、俺を世界一幸せな気持ちにしてくれた。
END
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