優しいヘンゼルと、かわいそうなグレーテル
わたしの右足は、生まれた時からすでに少しねじ曲がっていたのだそうです。杖をつくほどではないのですが、不自由な右足を引きずらないと歩けないわたしに、できる仕事は限られていました。
もし、わたしが生まれたのが裕福な家庭で、両親の心にもう少し余裕があったのならば、わたしはもっと慈しまれながら育っていたかもしれません。けれど生憎うちは貧乏だったので、不具なわたしはただの穀潰しでしかありませんでした。
不具なら不具で、わたしなりにできる仕事を全うしようとするのですが、
「グレーテル、危ないからぼくが持つよ」
兄さんはそう言いながら、優しい笑顔でわたしから仕事を奪いとる。
同じ両親から生まれたにもかかわらず、兄さんは美しく健康な体を持っていました。
「ほらグレーテル、ぐずぐずしてないでさっさと兄さんにお礼をお言い。ヘンゼルはお前と違って仕事がたくさんあるのだよ」
「でも、わたし自分で――」
「お母さん、そんなに怒らないでください。グレーテルは出来ることは自分でしようと必死なのですから。でもねグレーテル、たまには家族に頼ってもいいんだよ。ぼくたち家族はそのためにいるのだから」
わたしは反論すら奪いとられ、うつむくしかありません。
「ごめんさいお母さん。……それからありがとう、兄さん」
「お礼なんて言う必要はないよ。ぼくの可愛いグレーテル」
兄さんはそう言って、わたしの頭を優しくなでました。
「まさかグレーテルを欲しがる人がいるだなんてねえ。お貴族さまならよりどりみどりだろうに。顔の造作は悪くないにしても、よりによってこんな出来損ないの娘をさ」
「しょせんは金持ちの道楽だ。おれたち貧乏人に理解できるはずがないだろう」
「でもこのままじゃ、この冬を越せないと思っていたんだよ。それがどうだい、グレーテルのおかげで結構な金が入る。ねえグレーテルや、お前と別れるのはつらいけれど、そうしないとわたしたち全員が飢え死にする羽目になるかもしれないんだ。そうなるよりは、たとえ離れ離れになったとしても家族全員が生きていられるっていうのは、とんでもなく幸せなことだとは思わないかい?」
お父さんもお母さんもとても嬉しそうに笑っていました。
わたしを欲しがっているという貴族の方は、奇形にただならぬ興味を持っているのだと聞きました。そのお屋敷には、わたしのような不具を入れておくための檻がいくつもあるのだとか。
わたしの噂を聞きつけて家に訪れた商人が、申し訳なさそうな顔でこっそりと教えてくれたのです。
「明日はちょっとでもお前が綺麗に見られるようにしないとねえ」
「……ええ、お母さん。よろしくお願いしますね」
商人が聞かせてくれた話はわたしを少なからず不安にさせました。わたしは新しい家で、檻に閉じ込められてしまうのでしょうか。
けれど、ずっと一緒に暮らしてきた家族と離れ離れになってしまい、きっと二度と会えなくなるだろうに、わたしは重苦しい鎖から解放された気分にもなっていました。
――ああ、これでやっと兄さんと離れることができる。
「グレーテル。ねえグレーテル、起きて」
夜中、強く肩を揺さぶられて目を覚ましました。
「――兄さん、どうしたの?」
眠たい目をこすりながらたずねるわたしに、兄さんは答えます。
「自分の子どもを平気で売るような人たちとは暮らしていけないよ。さあ、悪い大人が来る前に一緒に行こう」
とても、静かな夜でした。いつもなら薄い壁を隔てて聞こえてくるお父さんのいびきすら聞こえてきません。
「どうしたの、グレーテル?」
月明かりに照らされた、首をかしげる兄さんの顔はぞっとするほど美しく、差し出されたその手を振りほどくことはできませんでした。
兄さんに手を引かれて寝台から降りたところで、足がもつれたわたしは、近くの椅子やらを巻き込んで盛大に転んでしましました。とても大きな音に、お父さんやお母さんが起きてきて追いかけてくるのではないかと恐れるわたしに、兄さんは「大丈夫、何も心配はいらないよ」と、微笑みかけます。不思議なことに、兄さんの言うとおり誰もわたしたちを追いかけてくることはありませんでした。
逃避行は思っていた以上につらいものでした。兄さんの言う「悪い大人」に見つからないように、わたしたちは深い森をさまよわなければなりません。
ろくに人の手の入らないけもの道に、わたしの不自由な右足が順応できるわけもなく、何度もつまづき転びそうになり、その度に兄さんは逸る足を止め私を助け起こします。
足の痛みも、もう限界でした。
「もういい。足が痛いの、とても痛いの。もう歩けそうにないわ。兄さん、わたしを置いて行ってください。わたしはお母さんたちの言うとおり、わたしを買ってくれた人のところへ行きますから」
「何を馬鹿なことを。グレーテル、きみを置いて行くはずがないだろう。さあ、ぼくの手につかまって。支えてあげる」
兄さんはそう言ってわたしに右手を差し出しますが、その手を取る気にはなれません。
「もういいんです。もう、いいの……」
このまま兄さんに着いて行っても、不具なわたしはどうせ足手まといにしかならないでしょう。どこへ行っても愛されるであろう、太陽のような兄さんを陰で妬み暮らすよりは、いっそ見世物として生きていくほうが楽かもしれません。
「大丈夫だから。さあ、おいで」
兄さんは強引にわたしの腕をつかみ、その背におぶっていつものように言いました。
「何も心配はいらないよ。ぼくの可愛いグレーテル」
わたしたちはやがて、逃げ出した家からはだいぶ離れた集落へとたどり着きました。兄さんはひと息つき、わたしを大きな切り株に降ろしました。
「少しここで休もうか。グレーテル、足はもう痛くない?」
「ええ、だいぶ楽に」
疲れきった様子の兄さんに、本当はお礼を言わなければならないのでしょう。ですが、「ありがとう」や「ごめんなさい」の言葉は、のどの奥にへばりついて出てこようとしません。
わたしは何度も降ろしてほしいと言いました。兄さんが疲れるだけだからと。そして同じように何度も置いていってほしいとお願いしたのに、兄さんが聞き入れてくれることはありませんでした。
「それは良かった」
兄さんはほほ笑むと、わたしの隣に腰を下ろしました。
本当は知っているのです。兄さんがわたしを見捨てることなんて絶対にない。そうわかっていながら、あえて「置いていってほしい」と言ったのは、この先嫌なこと、悪いことが起きたら「あのとき兄さんが無理やり連れてきたから」と全部兄さんのせいにするためです。
けれど兄さんは「グレーテルの足の痛みが取れて本当に良かった」と、とても嬉しそうに笑うのです。
わたしはひどくみじめな気持ちになりました。
「まあ、お前。こんな所でいったいどうしたの」
通りすがりの女の人が美しい兄さんに目を留め、そう訊ねてきました。
「ぼくたち、両親に捨てられてしまったんです」
兄さんが悲しそうに眉を下げると、女の人は憤慨したように声を荒らげました。
「自分の子どもを捨てるだなんてひどい話だ! ねえ、狭い家だけれどそれでも良ければうちに来ないかい? もちろん手伝いはしてもらわないといけないけれど」
「良いのですか? ぼくに出来ることなら何だってします。ただ、妹はこのとおり足が悪いので出来ることは限られてしまいますが」
「もちろんだよ」
女の人はそう言って初めてわたしに気がついたように視線を兄さんから外し、わたしを見た後不快そうにほんの少しだけ眉をくもらせました。
新しい生活が始まりました。新しい家の主は木こりを生業としている寡黙な男の人でした。その奥さんが、この村に着いて初めて兄さんに声をかけてくれた人です。
兄さんは毎朝早くからご主人と森に出かけ、陽が落ちる頃に戻ってきます。
「お帰り、ヘンゼル。今日も一日よく働いてくれてありがとうね」
奥さんはご主人よりも先に兄さんに駆け寄り、その頬に盛大な音を立てながら唇を落としました。
「ただいま戻りました。ただいま、グレーテル」
兄さんは頬に奥さんの口づけを受けたまま、わたしに目線を向けて微笑みます。兄さんの視線を追った奥さんが、わたしを厳しくにらみました。
奥さんの私に対する態度は、ご主人と兄さんがいるといないとではまったく違いました。
「グレーテル、お前ときたらまったく苛々する。いい加減におしよこののろま! その辛気臭い顔をこれ以上わたしに見せるんじゃない!」
わたしの顔は、見ているだけで気が滅入るのだそうです。だったら、このみっともない姿が奥さんの目に少しでも入らないようにと、決められた部屋にこもり息を殺しながら過ごすのですが、それならそれで奥さんの気に障るようでした。
「手伝いもしないで部屋に閉じこもるつもりかいグレーテル! なんて怠けものなの、少しはお前の兄さんを見習ったらどうなんだい!」
わたしは結局、どこへ行っても何をしても不具の役立たずでしかないのです。それでも直接的な暴力が振るわれないだけ、わたしは幸せなのでしょう。
「ねえグレーテルや。木苺を摘みに行かないかい? たくさん採ってジャムにしたらきっとお前の兄さんも喜ぶよ」
ある日の朝のこと、奥さんはいつにない猫なで声でわたしに言いました。奥さんの言うとおり兄さんは甘いジャムが好物でしたので、わたしが断る理由もなく、かごを片手に早足で家を出た奥さんの後を追います。転ばないようにと必死に足元ばかりを見るあまり、家からの道筋は全く覚えていません。
どれくらい歩いたのか、わたしの役に立たない右足が悲鳴をあげる寸前、少し開けた場所へとたどり着きました。
「グレーテルはここで好きなだけ木苺を摘むといいよ。わたしはもう少し先で木の実や野草を採っているから。お腹がすいたら、そっちのかごに入っているパンをお食べ。日が暮れる前には迎えに来るからね、絶対にここを動くんじゃないよ」
奥さんはそう口早に言うと、わたしの前から姿を消しました。
それから数刻が過ぎ、わたしがかごいっぱいに木苺を摘んで辺りが夕日に沈むころになっても、奥さんは迎えに来てはくれませんでした。
捨てられてしまったのだと頭の隅でうっすらと理解してはいるものの、実感はあまりわいてきません。多分、かごいっぱいの果実と、奥さんが与えてくれたパンがわたしの心に余裕を持たせてくれたのだと思います。
家へと戻る道が分からないまま辺りはどんどん薄暗くなり、どこからか獣の遠吠えが聞こえてきました。奥さんが残してくれたパンは間近で見ると青かびにおおわれ、口元に近づけると嫌なにおいがします。とても口にはできないパンを捨て、わたしは摘んだばかりの木苺を口に運び飢えの足しにしました。
「グレーテル!」
すっかり陽が落ちて世界が灰色に沈み、わたしの口と手が木苺の汁で真っ赤に染まったころ、息せき切った様子の兄さんが姿を現しました。
「良かった、無事で」
兄さんはそう言ってほほ笑むと、いつものようにわたしに向かって手を差し出しました。
「さあ行こう」
「まあ、兄さん……その手!」
陽が沈んだ暗がりでは良く分かりませんが、兄さんの手のひらはにべったりと、黒ずんだ何かの汚れがこびりついるようでした。
「ああ」
兄さんは何気なく答えます。
「途中でおなかが空いて、木の実をとって食べたから汚れたのかな。ほらグレーテル、きみと同じだよ」
からかうようにわたしの口元を指してから、兄さんは自分の手の汚れを乱暴に服に拭いました。同じように口と汚れた手を拭ったわたしの服は時間がたっても鮮やかな赤のままでしたが、夜が明けて色が戻った世界で、兄さんが拭った汚れは赤茶色に変色していました。
その後、さまよった挙句にたどり着いた小さな家には、盲目のおばあさんが住んでいました。
「ぼくたち、捨てられてしまったんです」
兄さんは後ろにわたしをかばいながら、いつものように言います。おばあさんは焦点の合わない濁った目を、わたしたちとは少しずれた所に向け、大きな鼻をひくひくと動かしました。
「ふうん。血のにおいがするね」
「あ、あのわたしたち、おなかが空いて森のけものを――」
「まあなんでもいいよ。中へお入り」
わたしの言葉を最後まで聞かず、おばあさんは家の中へ招いてくれたのでした。
おばあさんは盲目ながらも、良く利く鼻を活かして薬草を煎じて生計を立てているのだそうです。目の見えないおばあさんは、美しい兄さんと不具なわたしを差別することはありませんでした。
「グレーテル、おまえにはわたしの手伝いをしてもらおう。ヘンゼルは町へ下りて薬を売っておいで」
年老いて足腰が弱り、薬草を取りに行くのも町へ薬を売りに行くのも難しくなっていたおばあさんは、わたしたち兄妹が来てくれたのは願ってもいないことだと、そう言ってしわだらけの顔をさらにしわくちゃにして笑いました。
「ここには長くいられそうだね、グレーテル」
兄さんは微笑みながらそう言いました。
兄さんとわたし、おばあさんとの生活はゆるやかに、そして穏やかに過ぎていきました。
「上の段の右端の瓶に入っている薬草一掴みと……ああ、お前の小さな手なら一掴み半かねえ。それから真ん中の段の左から二番目、とげのある葉があるだろう、いいやそれじゃない。その隣、その葉を二枚ほどすり潰しておくれ」
簡単なものではありますが、わたしはおばあさんに薬の煎じ方を教わり、兄さんはおばあさんとわたしが煎じた薬を売りに町に下り、その売り上げで食料品や日常品を買って帰ってくる、そんな日が続いていました。
「そうそうこの匂い。ほうら、お前の足にちょうどいい薬ができたよ。これを湿布するといい」
「まあ、この薬。もしかしてわたしのために?」
「ふん、お前たちは役に立っているからね。それにグレーテルだっていつまでも足が悪いままじゃあ辛いだろう」
その薬はとてもききめがありました。少しでも無理をするとすぐに鈍痛が走る、わたしの出来そこないの右足に貼ると、痛みがすうっと遠のき驚くほど楽になるのです。
「毎日続ければ、お前の足もずいぶんましになる。わたしはもう長くないだろうからね、せめてこの薬の作り方だけでも覚えておおき」
「ありがとう、おばあさん。でもそんなことを言わないでください。おばあさんがいなくなったらとても困るわ」
「お前が困ろうと困るまいと、わたしは近いうちに死んでいくのさ」
皮肉げに笑うおばあさんのその顔はしわだらけで目は落ち窪み、曲がった背中、手足は骨と皮しかないようで、不具のわたしよりよほど小さく弱く見えました。
それから程なく、おばあさんは風邪をこじらせて死んでしまいました。その亡骸はとても軽く、わたしですら持ち上げられてしまいそうです。
おばあさんはとてもいい人でした。
こんなわたしにも優しく接してくれ、薬の作り方も教えてくれた。特にわたしの右足に良くきく湿布薬。今となってはあれがない生活など考えられません。
わたしも、そして多分兄さんもおばあさんの死を悼み、その永遠の眠りが安らかなものであるようにとできるだけ手厚く葬りました。
「二人だけになってしまったね」
すべて終わり、兄さんがぽつりとこぼしたその言葉は、おばあさんが本当にいなくなってしまったのだという実感とともに重くのしかかり、わたしは言いようのない息苦しさを感じてしまいました。
おばあさんが亡くなってからも、わたしたちの生活にあまり変わりはありません。わたしがおばあさんから教わった薬を煎じ、それを兄さんが売りに行く。
裕福とはとても言えませんが、兄さんと二人、つつましく暮らすことに不自由を感じたことはありませんでした。
兄さんは何でもできる人でした。料理も掃除も、洗濯だって手際よく、わたしがしようと思っていた家事を先回りしてしまう。そのうえ、わたしに与えられなかった健やかで丈夫な足で町へ行き、如才ない笑顔で商売すら難なくこなしてしまいます。おばあさんが死んでしまってから明らかに質の落ちる、わたしが作る薬草を全部売り払ってくるくらいですから。
不具なわたしにできることは本当に少ない。それははじめからわかっていたことです。薬の煎じかたも兄さんに教えてあげれば、わたしが作るよりもっと上質な薬ができていたことでしょう。でも、わたしはそうしなかった。いいえ、したくなかったのです。
これ以上、わたしの仕事を奪われたくはありませんでした。
生活自体には何の変化もない、兄さんもまったく変わることはなく。
変わったのはわたしでした。
おばあさん直伝の湿布薬を張り続けた結果、わたしの右足はもうほとんど引きずることもなく、ふつうの人のように動かすことができるようになったのです。
そしてわたしは痛烈に思いました。
――町へと出てみたい。
その願いはわたしの中でどんどん熟し、ついには兄さんの目の前で口にするほどでした。
「でもね、グレーテル」
兄さんは苦い顔をします。
「この家から町へはけっこう距離があるんだ。きみの足では着けるかどうか」
「わたしの足は最近ずいぶん調子がいいんです。だからきっと大丈夫。ねえ兄さん、お願いだから町に連れて行ってください。そして仕事を見つけて、いつかは独りでも暮らしていけるようになりたいわ」
「独りで暮らすだなんて、ぼくがいるのにそんな必要はないだろう」
わたしの言葉に、兄さんは顔をいっそう険しくしました。
「兄さんのその気持ちはとてもありがたいのですけれど、兄さんに頼るばかりではいけないと思うの。いつまでも兄妹ふたりだけで暮らしていくわけにもいきませんし。どうせいつかは別れて暮らさないといけないのだから、早いうち、お互いに新しい道を探したほうが――」
「そう、分かった」
兄さんはいつものようにほほ笑みを浮かべながら、わたしの言葉をさえぎります。
「グレーテルが言うのなら、その通りなのかもしれないね」
わたしの足に負担にならないような心地のよい晴天が来たら、いつか一緒に町へ行こうと、兄さんは約束してくれました。それっきり、兄さんは自分からその話題を出すことは決してありませんでしたが、わたしはその「いつか」を心待ちに暮らしてきたのです。
しょせん不具でしかないくせに、普通の人と同じ生活を過ごそうだなんて、思い上がったわたしに罰が下るのは当然のことなのかもしれません。
その日も兄さんは薬を売りに町に下り、家にはわたし一人だけでした。
いつものことです。兄さんは陽が昇るよりも早く起き、一日分の食事の用意と掃除、洗濯を終わらせ町へと出かけます。
「誰かが来てもけっして扉を開けてはいけないよ。陽が落ちる前には帰ってくるから」
「ええ。お気をつけて、兄さん」
わたしに向かって優しくほほ笑みながら出かける兄さんを見送って、ひと息つきました。兄さんと二人だけの生活が進んでいくにつれ、どんどん重圧感だけが胸に蓄積していきます。唯一の逃げ場は、兄さんにはできない薬の調合、それだけでした。兄さんが言うには、わたしが作ったつたない薬もけっこうな評判で、なかなかの値で売れるのだとか。多分、おばあさんの教えがよかったのでしょう。
「ああ、そうだわ。今のうちにあの薬を作ってしまわないと」
今の何よりの優先は、わたしの右足の湿布薬でした。それを作るには特別な薬草が必要で、手元にあるのは数少なく、取りに行くには離れにある納屋まで行かなければなりませんでした。
少し前ならば兄さんに頼っていたことでしょう。その納屋には、幾種もの薬草が入った瓶が混在し、足の悪いわたしに目当ての薬草はとうてい見つけられそうにないほどでした。
けれど今のわたし、普通の人のように足が自由に動かせるからと、おごり高ぶったわたしは、兄さんがいなくても一人で何でもできると思い込んでいたのです。
「あ、この薬草。間違いないわ」
綺麗好きな兄さんにしてはめずらしく、あまり掃除をしていないのでしょうか。納屋の中は前に入ったときよりも雑然とし、棚には薬草の入った瓶がろくに整頓もされずに、うず高く積み立てられていました。
背伸びをし目をこらし、ようやく見覚えのあるとげのある葉の入った瓶を見つけました。それは、わたしの背よりも少し高い段の奥まった、ちょうど手が届くか届かないかのところにありました。わたしはその瓶をつかもうと精いっぱい手を伸ばしたのですが。
「も、もう少し……ああっ!」
それからのことはよく覚えていません。
わたしに向かって倒れてくる薬草瓶の数々。それらはわたしの顔や肩や腕に痛みを与えたはずなのですが、それ以上に右足に走る痛みがわたしを支配していたような気がします。
まるで燃えるように熱く、鋭い痛み。その後続く、長い長い苦痛の時間。
棚の下敷きになったわたしの右足は、完全に駄目になってしまいました。
おばあさんの湿布薬もまったく意味をなさず、兄さんがなけなしのお金をはたいて呼んでくれた高名なお医者さんでさえ首を横に振る始末です。
杖をつかなければ満足に歩くこともできず、今まで簡単にできていた家事すらままなりません。そのうえ、この醜くねじ曲がってしまった右足は夜な夜な鈍い痛みを発し、眠りすら妨げるのです。
涙を流しながら痛い痛いとうめくわたしの右足を、兄さんは夜が更けてもずっとさすってくれます。
「痛い、痛い痛い痛い」
「大丈夫、大丈夫だよグレーテル」
大丈夫じゃない、大丈夫なんかじゃない。足の痛みは、あの夜の恐怖を思い出させます。
千切れるような足の痛みは、どうせなら気を失ってしまいたいという望みを決して叶えてくれることなく、いつまでもわたしを苛みました。
そして、その酷い痛みにも増す圧倒的な孤独感。わたしは誰とも分かち合えることのないこの痛みの中、誰にも気づかれずに死んでいくのだという恐怖。どうせ不具なわたし、と自らを蔑んでいながら、それでもたった一人で死んでいくのはとても怖い。兄さんが助けに来るのがもう少しでも遅れていたらわたしは気が狂っていたかもしれません。
けれど、こんな痛みと恐怖を覚えているくらいなら、いっそ狂ったほうがましだったのでしょう。
痛い痛いというわたしのうめきは、いつの間にか怖い怖いに変わっていきました。
「怖い、怖いわ兄さん。ひとりにしないで。わたしを置いていかないで。嫌だ、嫌だいやだ。一人は怖い、いやなの。お願いだからひとりにしないで。怖い、こわいこわいこわい」
正直なところ、兄さんのことは昔からあまり好きではありませんでした。
同じ年の同じ日に、同じ両親から生まれたにもかかわらず、わたしと違って健康な体を持った美しい兄さん。兄さんが優しい笑顔を向けるたびに、本来あるべきだった自分をまざまざと見せつけられているようで、どうしようもない劣等感が湧いてくるのです。わたしは、醜い。足だけでなく、心までねじれてしまったわたしは、とても醜い。
美しく、優しい兄さんと、醜い惨めなわたし。
これからも兄さんのことを心から好きになることはないだろうけれど。
「大丈夫、大丈夫だから。全部ぼくがなんとかしてあげる。だから心配はいらないよ、ぼくの可愛いグレーテル」
わたしの足をさする優しい手と、砂糖菓子のように甘い兄さんの言葉は、妬みと嫉みにまみれたわたしの心にゆっくりとしみこんでいきます。
わたしがこの家から出ることは、二度とないでしょう。