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始まりの終わり 〜現代滝口譚・序〜
作者:世木維生
 ありきたりの二人だった。
 どこにでもいる普通のカップルだった。
 クラスメイトとして知り合い、互いを意識し始め、そして恋に落ちた。
 ありふれた恋愛話だ。

 ただ、当然、その出会いは恋人たちにとっては特別で、奇跡なのだ。

 二人で話した事。
 二人で出かけた場所。
 二人で過ごした時間。

 かけがえのない想い。

 しかし、それは絶対普遍のものではない。

 いずれ風化し、色あせてしまう事の方が圧倒的に多いのだ。
 特別は普通になり、奇跡は偶然に成り果てる。
 だから、その二人がそのように破局へと向かってしまったのも、やはりどこにでもいる普通のカップルで、ありふれた恋愛話だったという証明に過ぎないはずであった。

 一つの恋愛が終わったとき、傷つき苦しんだとしても、互いがそれを過去のものとして未来を向けたのだとしたら――。
 それはきっと幸運な事なのだろう。


 息が切れていた。
 苦しそうな呼吸音を辺りにまいて、青年は走っている。
 彼は後ろを振り返ると、追跡者の姿がそこにない事を確認した。
 立ち止まり、肩で息をする。
 額の汗を手のひらで拭う。
 壁にもたれ、呼吸を整えようと顎を上げる。
 彼は大学生だった。
 この発端はバイトの帰り道だった。
 親の仕送りだけでは心もとない生活費を稼ぐために、今日も深夜前までの勤務についていたのだ。
 シフトの時間が終わり、同じ時間帯に働いた年下のバイト友達と店を出た。会話をしながら繁華街を歩き、駅前で彼女と別れた。
 一人になって、家路を急ぐ。
 その後の出来事だった。
 横断歩道橋の真ん中で、背後から不意に声をかけられたのだ。
 声の主は、パーカーのフードを深々と頭に被った小柄な人物だった。
 影ではっきりと顔立ちは確認できないが、大きく開いた異常に血走った眼がこちらを睨んでいた。
 その目に明らかな自分に対する敵意を感じた。
 敵意、では生ぬるい。

 あれは、殺意だ。

 危険を感じた彼は、その場から急ぎ逃げたのだった。

 呼吸が楽になってくる。
 冷静に思考が出来るようになってくる。
 ――人に恨みを買う覚えはねぇってば。
 そう思いながら、大きく一つ、息を吐いた。
 走ってきた方向を見て、独り呟く。
「アイツ、なんて声かけて来たんだ?」
「お前だな、って言ったんだ」
「!」
 突然の背後からの声に、彼は息を呑んで振り返った。
 
 大きく見開いた血走った眼がそこに待っていた。


 教室には一人、少女がいた。
 放課後の教室である。西日が室内に深く差し込んでいる。
 窓際に座る少女の顔は、夕日を受けて輝いているようだった。茶色の髪がきらきらと光っている。
 整った顔立ちの少女だった。
 彼女は片肘をついて、窓の向こうを眺めている。
 教室の入り口に立った麻生優子は、同性でありながら彼女に一瞬、見惚れてしまい、声をかけることを忘れてしまった。
 我に返ると、優子は彼女におずおずと尋ねた。
「あの……加茂瑞穂さん、よね?」
 声に反応して、少女は優子の方を向いた。
 正面から見ると、この少女の美しい容姿を再認識させられる。
「ええ。そうだけど――貴方は?」
「同じ一年の麻生優子って言います。あの……加茂さんにお願いしたいことがあって……」
 自己紹介に続けて、優子は願い出た。
 しかし、お願いという言葉を聞いた瑞穂の顔が曇る。
 それを察した優子は、ばつの悪そうな表情を浮かべた。
 瑞穂の艶やかな唇が動く。
「部活動の勧誘ならお断りよ」
 本当にうんざりしたように言う。
「え?」
 優子は予想になかった反応に、少し間の抜けた声を出した。
 それは瑞穂も同じだったらしい。
「え? 違うの?」
 と、同じような声を出す。
「違うの。え、えっと……加茂さんって、占いが得意なんだよね?」
「占いの用なの?」
 瑞穂は先程と打って変わり、晴れやかに声を出した。
「う、うん」
 異常なほどに嬉しそうな顔をする瑞穂に、少し気おされて優子は答える。
「まかせて!」
 右手拳で胸を叩き、嬉々として瑞穂が言った。
「で、何で占う? オーソドックスにタロット? 水晶? 風水? ト占? あ! それともテレビでデカイ顔してる細川文子で有名な六占星術でも試そうか?」
「え? え? 道具とか今、言ったの全部あるの?」
 ここは普通の高校で、普通の教室である。優子の疑問はもっともだった。
「当たり前じゃない」
 しかし、即答でさも当然のことのように言いながら、瑞穂は次々と鞄や机の中から占い道具を出していく。
「レアな専門道具は、ここにはないんだけど……なんなら私の部屋で占う?」
「遠慮しとく」
 引きつった愛想笑いを浮かべて、優子は瑞穂の申し出を断った。

 占いが終わると、優子は瑞穂に礼を述べて教室を出た。
 軽快に走る足音が、静かな放課後の廊下に響いた。

 遠ざかる足音をよそに、瑞穂は小さい学校の机の上に窮屈に広がったタロットカードを、ハミングしながら片付けていた。
 瑞穂は占いが非常に大好きなのだが、その腕前を披露する場がないことが不服であった。そのフラストレーションを発散できたのだから、機嫌も良くなる。
 ふと、瑞穂はその手を止めた。
「あら……珍しい来客ね」
 人の気配を感じたようだった。そしてそれは、彼女の知り合いであったようだ。
 美しい、冷ややかな顔をした黒衣の少年がそこにいた。
 その左手首には、飾り気のない黒い革紐で繋がれた、小さい銀色の鈴があった。
 瑞穂よりいくらか大人びた雰囲気を持っているが、彼は彼女と同じ年齢だ。
「さっきの女に何を占った?」
 黒衣の少年が口を開く。
「何? 詩緒はああいう娘がタイプ?」
 冗談めかして瑞穂は言った。
「何を占った?」
 表情一つ変えずに瑞穂の言葉を流して、詩緒と呼ばれた黒衣の少年は再び聞いた。
「面白くない奴……」
 無反応な少年に瑞穂は頬を膨らませた。
 そして、はぁ、とため息を吐くと続けた。
「アンタには縁のない事よ。恋愛運」
「結果は?」
 矢継ぎ早に詩緒が問う。
「アンタ……本当にあの娘のことを? ……落ちたわね、詩緒。いつからストーカーになったの?」
 哀れむように瑞穂は詩緒を見た。
 詩緒はやはり無反応だった。
 瑞穂は再び、ため息を一つ吐くと、首をゆっくりと左右に振った。
「……まったく……冗談も冷やかしも通じないんだから。何を楽しみに生きているんだか……つまんない男ね」
 そして、そう非難を浴びせると、言葉を続けた。
「節制・正位置」
「節制?」
「そ。物事が順調に運ぶ啓示」
 それを聞いた詩緒は舌打ちした。
「厄介だな」
 そして、そう零して瑞穂に背を向けて、教室の出口へと足を運び始めた。
「ど、どういう意味よ!」
 瑞穂が声を荒らげる。
「お前の占いの信憑性は、限りなくゼロに近い」
 詩緒は即答して教室から消えた。
 室内では瑞穂の怒声がこだました。


 瑞穂が帰路に着いたのは、それからしばらく後、日がすっかり落ちてからの事だった。
 瑞穂は一人、文句を呟きながら、早足で歩いていた。
 自分の占いを貶されたのが、よほど悔しかったようである。
 突然に、瑞穂の歩みが止まる。
 背後に声を聞いたからだった。
「何?」
 瑞穂が振り返る。
 そこには人が立っていた。
 瑞穂と同じくらいの背丈の人物だった。
 頭から深々とパーカーのフードを被っている。
 顔はよく見えない。
 ただ、大きく開いた充血した眼が瑞穂をじっと睨んでいた。
「お前だな……」
 その人物が言う。
「は? 貴方、さっきもそう言った?」
 物怖じせずに瑞穂は言葉を返す。
 その直後だった。
「お前が惑わせたのか――!」
 それは叫んだ。叫びながら、腹部のポケットから大振りのナイフを出す。振りかざし瑞穂に飛び掛る。
「!」
 瑞穂は身を翻して、それをかわした。
「アンタ、正気?」
 自分を襲った人物に声をかける。
 パーカーのフードが頭から落ちていた。ゆっくりと瑞穂に向き直る。
 男だった。
 瑞穂と同世代だろうか。
 ぶつぶつと理解できない音を口から発していた。音と共に、涎がだらだらと流れ落ちる。  引きつった笑顔を瑞穂は浮かべた。
「……正気じゃないわね……」
 奇声を上げて男がナイフを振るい続ける。瑞穂は冷静にそれを避け、鞄で往なす。
 二人の距離が開く。
 ナイフにはすでに血の痕があることに、瑞穂は気付いた。
 パトカーのサイレンが聞こえていた。
 奇声を聞いた付近の誰かが、通報したらしい。偶然、近くを巡回していたのだろう、その音はすぐそこで鳴り始めたようだった。
「貴方、もしかして……」
 瑞穂が言う。
 しかし、男はその言葉を最後まで聞きはしなかった。近づきつつあるサイレンから逃げるように、その場を走り去ったのだった。
「ちょっと!」
 瑞穂はその後を追おうとしたが、到着したパトカーに進路を遮られてしまった。
「……高田さん?」
 襲われた少女はぽつりと、心当たった名前を零した。


 それで終わりにしよう。

 メールでそう返信したのは昨日のバイト帰りだった。同じ時間帯に働いた大学生と別れた後の事だ。
 彼氏と別れる決意をしてから、二人で何度も何度も、電話やメールで話をしてきた。
 しかし、彼は納得してくれなかった。
 だから、最後に直接、彼と会って話そうと思った。
 理解し合って、別れたい。
 それが二年間付き合った、生まれて初めての彼氏に、最後にきちんと通すべき義理だと優子は思った。
 待ち合わせは二人の思い出の公園。
 彼氏と彼女。恋人同士になった場所。
 占いでは順調に話は進む、という結果だった。
「……きっと解ってくれる」
 優子は自分に言い聞かせるように、独り呟いた。
 そして、腕時計をちらりと見る。
 約束の時間は、すでに五分ほど過ぎていた。
「……何かあったのかな?」
 首を傾げる。
 いつもなら彼の方が先に待っているからだった。優子との待ち合わせに遅刻して来た事は、これまで一度としてないのだ。
 公園に人の気配はない。
 日が暮れて、遊具で遊ぶ人影もすでに途絶えている。
 優子は近くにあったベンチに腰を下ろした。
 この公園は、そう広くはない。
 どこの住宅街にも、その一角にありそうな公園。遊具はブランコと滑り台だけ。あとは砂場があるくらいだった。
 ――学校帰りに、このベンチで告白しあったんだよね。
 優子は、そんな事を思い出していた。
 足音が近づいてくる。
 優子はベンチから立ち上がった。
 彼女の数歩前で足音が止まる。
 初めてのデートのときに、優子が選んでプレゼントしたパーカー。
 それを着た少年がそこに立っていた。
「……俊也……」
 高田俊也だった。
「……ごめんね、俊也。あ、あのね、私、電話でも話したと思うけど……」
 優子はそう話しかけたが、そこまでしゃべると言いづらそうに、そこで言葉を詰まらせた。 俊也は無言で、ただ立ち尽くしていた。
 しばしの沈黙。
 時間にすれば、ほんの僅かな間。
 しかし、優子にとっては長い、長い沈黙に思われた。
 沈黙が、破られる。
「……俊也が私を大切に想ってくれていること……痛いほど伝わってるよ。でもね、私はもうその想いを受け止められないよ……」
 優子の目に涙が浮かぶ。
「もう、いいよ」
 俊也は口を開いた。
「――俊也」
 優子が言いながら、涙を拭う。
 涙で曇った視界が鮮明に変わる。
 そこにあるのは、いつものやさしい俊也の眼差し。
 違う。
 血走った大きく開かれた、恐ろしい眼。
「君を殺して僕だけのモノにするから」
 俊也の顔が不気味に歪む。口が顎の付け根の辺りまで裂ける。辛うじて言葉ととれる音を出す。
「……アア。タベテシマエバ、ヒトツニナレルネ……」
 身体が変形していく。
 かつて優子が愛した男の姿はもうない。
 そこには、歪んだ愛情に支配されてしまった哀れな人の末路が在った。
 直視できない現実が在った。
 理解できない非日常が在った。
 優子は眩暈を覚えた。
 薄れ行く意識。
 そこで微かな音を聞いた。
 ――鈴の音?

 俊也だった生物が、大きく裂けた口から牙を覗かせて、崩れ、地面に倒れようとする優子を掴み喰らおうとしたときだった。
 何者かが、意識のない彼女の体を支えると、それと同時に棒状の何かで化け物を突き飛ばした。
 それは黒衣の少年、詩緒だった。
 突き飛ばされた生物は数歩後退り、身構える。
 詩緒はベンチに優子を寝かせると、ゆっくりとそれと対峙した。
「……堕ちたか、鬼に……」
 化け物を一瞥し、静かに言う。
 詩緒の目の前にいるもの。
 確かにそれは鬼だった。
 餓鬼。
 それは、そういわれる鬼に近い容姿をしていた。
 人は鬼に変わる。
 それは欲望や憎悪といった感情に、激しく、どす黒く支配された人の成れの果てである。
 詩緒の左手にある棒状の物、それは刀だった。右手で柄を握ると、すうっと、鞘から刀身を抜き放つ。
「……渡辺詩緒。お前を殺す人間の名だ」
 鬼を射抜くように見据えながら、正眼に刀を構える。
 渡辺詩緒は鬼を狩る者。
 人の世に害を成す、人ならざる「魔」を排除する者。
 滝口、である。
 襲い来る鬼を最低限度の動きでかわすと、詩緒の刀が外灯を反射した。
 鬼の首が宙に舞う。
 その頭部は地面に落ちることなく、塵に消えていく。
 胴体もまた同じく、塵と化す。
 人ならざるものは、この世に痕跡を残すことなく失せる。
「……悲しいな」
 最後に俊也がいた場所に落ちたパーカーを見て、詩緒は小さく呟いた。

 鎮魂の鐘か、小さく鈴が鳴った。

    
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