目があった瞬間、どうしてすぐに逸らさなかったのか。
「沢野暁美さん」
「…はい」
「僕のこと、知ってる?」
「知らない方が、おかしいでしょう」
「木更津くん」
始まりは、黄昏の図書室。
夢見がちな少女達にとっては、これ以上ないシチュエーションなのだろうけれど。
でも、私は違う。
出来ることなら、彼に出会いたくはなかった。
彼にだけは。
「今まで話したことなかったよね。同じ寮生なのに」
「…男子寮と女子寮は違いますから」
「沢野さんって、寮長なんだよね」
「そうですが、何か?」
「いや。意外だと思って」
「そうかしら」
「うん。あまり他人に興味なさそうだし。権力とか、上に立つことに対しても、あんまり執着しないタイプに見える」
「…」
「図星?」
「さあ」
言葉の1つ1つがやわらかく、それなのに無機質で、鋭く尖っているような気がした。
木更津淳。
彼のことは、よく知っている。
たぶん彼も、私のことを知っていたはずだ。
ただ、お互い言葉を交わすことは、ほとんど無かった。
そのときまで。
「君、さ。観月さんが好きなんでしょ」
クスクスと笑いながら放たれた、まるで胸をえぐるように鋭い言葉。
尋ねるのではなく、確認するような。
すぐさま否定することが出来なかった私は、多分、馬鹿だったのだと思う。
「やめておいた方がいいよ」
制服姿なのに、なぜかハチマキ着用。
「…それ、長すぎじゃないですか」
「人の話ちゃんと聞こうよ」
図書室には私と彼の2人しかいなかった。
いや、司書の先生がいるにはいたが、遠く離れたカウンターの椅子に座ったまま仕事に没頭していらしたものだから、ほとんどいないも同然なのである。
私は小さく溜め息を吐き、彼…木更津君に向き直った。
「何を、やめろと言うんです」
「白々しいね。わかってるんだろう」
「さて…何のことやら」
「観月さんを好きでいること、やめた方がいいと言ったんだよ」
「…な、ぜ」
目を見開いて見つめると、彼は再び「くすくす」と笑った。
中学生男子としては不似合いな笑い声だけれど、彼の場合はなぜか違和感がない。
少しだけ、観月さんに似ていると思った。
やわらかな話し方とか、それでいて氷のような冷たさも兼ね備えたところだとか。
全く違うはずなのに、なぜか重なった。
本当に、ほんの少しだけ。
「なぜ、って?」
彼のうしろに、夕日を映した窓がある。
その光を背に負って、木更津君は目を細めて言った。
「僕の台詞だよ。なぜ、君がそれを訊くの。…一番わかっているのは、君のはずだよね。沢野さん」
「…」
「黙らないでよ。卑怯者」
「なんですって…」
「卑怯だと言ったんだよ。逃げないでよ。僕の言葉に、ちゃんと応えて」
「…いやよ。卑怯なのは、あなただわ。どうして。ずっと目を背けて、必死で忘れようとしていた事実を…なぜ、無関係のあなたに突きつけられなければならないの」
「…ああ。やっぱり、わかっていたんだ」
「近寄らないで」
反射的に後ずさると、背に本棚が当たった。硬い感触。
高い本棚の陰に入った私は、よりいっそう逃げ場所を狭められていた。
「どうして、そんなことを言うんですか。人の心をとやかく言う権利が、あなたにあるとでも?」
「いや。無いかもしれないね」
「じゃあ、黙って」
「黙らない」
ずっと前から予感をしていた。
だから彼を避けていたのに。
ああ、馬鹿だ。私は。
よりによって、こんなところで捕らえられてしまうだなんて。
逃げ場がない。
「観月さんの目的を知っているだろう。僕らはトップを目指すんだ。そのために集められたんだから。…わかるだろう。僕は、君のためを思って言ってるんだよ。半分はね」
「余計なお世話です。…もう半分は、自分のためなんでしょう」
「ご名答」
まただ。
くすくす笑う彼の声が、やけに冷たい。
「あのね。観月さんも、君のことが好きらしいよ」
心臓が跳ねた。
「だからこそ、君は身をひいた方がいい」
やめて。
「終わりにしなくちゃ。恋だとか愛だとか、のめりこむほど苦しくなる。観月さんくらい強い人でも例外じゃない。だから、」
やめて。やめて。お願いだから。
「…君には、観月さんの重荷になって欲しくない」
ああ。だから。
彼には出会いたくなかったのに。
木更津君が奢ると言ってくれたので、寮に帰る途中、自動販売機でジュースを買った。
ひんやりと冷たい缶を、ベンチへ座った私の手に押しつけて、木更津君は言った。
「ごめんね」
「…何を今更。悪かっただなんて思っていないでしょうに」
彼の前で涙をこぼすわけにはいかなかったから、私はあえて顔を上げていた。
俯いたら、もう二度と前を向けない気がしたから。
「沢野さん」
「はい」
「さっき、僕が言ったことだけどさ」
「…どれですか」
「君のためを思って言ってるんだよ、ってヤツ。あれ、本当だからね」
「わかって…います」
「そう。なら、いいんだ」
日が沈んでいく。
茜色が、紫になって、藍になって、そうしてやがては黒くなる。
何も見えなくなるくらいの闇が襲いかかる。
そろそろ帰ろう、と。
木更津君に言われて、私はようやく立ち上がった。
帰りたくないけれど帰らなければならない。私は寮長だ。門限を破るわけにはいかない。
空になった缶を近くのゴミ箱に放り込んだら、からん、と妙に綺麗な音が鳴った。
「僕たち、結構、似てると思うんだ」
「…そうかしら」
「気も合うと思うし」
「…そう…かしら…?」
「うん。だから、ずっと、友達になりたいと思ってたんだよ。なのに、沢野さんが僕を避けるから、面白くなかった」
「…しょうがないじゃないですか…」
「どうして」
「…」
本日十数回目の、溜め息がこぼれた。
「同族嫌悪、ってヤツですよ」
寮の敷地に着くと、じゃあまた明日、と言って木更津君と別れた。
女子寮と男子寮は、近いけれど別々の場所だから。
「僕が君に言ったこと、観月さんには内緒にしておいて」
そう言い残して走り去る木更津君の背中には、真っ赤なハチマキが揺れている。
やっぱり、あれは長すぎじゃないか。
私はそんなことを考えて、再び溜め息を吐き出した。
現実逃避だと言うことは、充分すぎるくらい解っていた。
『やめておいた方がいいよ』
『一番わかっているのは、君のはずだよね。沢野さん』
『逃げないでよ』
『観月さんの目的を知っているだろう。僕らはトップを目指すんだ。そのために集められたんだから』
『君のためを思って言ってるんだよ』
『…君には、観月さんの重荷になって欲しくない』
わかっている。
わかっている。
彼と、ずっと共に在りたいと。
そんなことを願ってはいけなかったのだと。
愛だとか恋だとか。
そんなもの、崇高な目的を持つ彼にとっては、邪魔な思いでしかないのだと。
「みづき、はじめ」
初めてその名前を見たとき、なぜか心が躍った。
運命ではない。これは必然なのだと。なぜか直感的にそう思った。
観月さん。
私はあなたが好きです。
だから、せめて。
終わりの言葉を告げるのは、あなたであって欲しかったのに。
『僕たち、結構、似てると思うんだ』
多分あれは、彼なりの心遣い。
何の慰めにもなっていなかったけれど。
女子寮の自室に帰った私は、1人ベッドに倒れ込むと、声を殺して泣いた。
自分が情けなくて、弱い人間になってしまったような気がして、悔しかったけれど。
仕方ない。
人間なんて、そんなもの。みんな弱いものなのだから。
「どうして。どうして…どうして!」
心の中で、泣き叫ぶ自分の声を、他人事のように聞いていた。
下らない自問自答。
どうして、なんて愚問だ。
木更津君の言うとおり、自分が一番わかっているはずなのだから。
それでも涙は止まらなかった。
「観月さん。観月さん。観月さん。観月さん…」
身をひけ、と。
せめてそれが、あなたの言葉であったなら。
愛しい愛しい、あなたの声であったなら。
「耳を塞ぐことも出来たのに!」
“似たもの同士”の彼の言葉では、まるで自分自身に言われたようで。
それではもう、拒絶しようがないではないか。
「…木更津くん」
やっぱり、あなたに出会いたくはなかった。
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