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絆時計

 年の離れた姉貴。俺は高校生で、姉貴はもう社会人だ。年も年。昔はヨチヨチと姉貴の後ろを這って歩いていた。一歩一歩に合わせてサラサラと揺れる長い髪。その一部を束ねる赤いリボンが、左の肩に垂れてゆっくり揺れていた。そんな後ろ姿を、まあ、よく覚えている。
でももう俺はガキじゃねえ。いつからだったか。数年分遅れて姉の背中を追っかける人生は進路変更。姉貴の通った跡から外れ、姉貴の背中の見えない道を、俺のペースで進んでいる。クリアしてきた人生の長さは俺の方が短いだろうが、そんなものもう全く関係ないね。俺は、俺だ。メートルとキログラムを比べても意味を成さないだろ。
俺が俺になってから、姉貴の背中どころか、家の中でもあまり顔を合わせなくなった。嫌われたわけでも、俺が嫌ったわけでもねえ。姉と弟ってのがそもそもそんなもんなんだろ。だからちっとも気にならねえ。むしろ今更声をかけられる方がゾッとするね。
「京くん、一緒にお買い物行こう!」



 卵、牛乳、米、牛肉にサンマ、緑黄色野菜だのソースみたいな調味料だの面倒臭え。姉貴の買い物。
「なんでこんな下らねえモンに俺が付き合わされてんだクソ野郎」
「良いじゃない、ね。たまにはこうして、ね。二人で出歩くなんて久しぶりだね」
「……」
久しぶり。久しぶりだ。久しぶりすぎてこういう場合の距離感がどうも掴めねえ。
(なんなんだよいったい。クソッたれ。俺をお前に巻き込むな)
 俺のわざとらしい仏頂面を見た姉貴は、クスッと息を漏らした。口元が緩み、目元が柔らかく閉じられ、まつ毛が透明な空気を撫でる。
(相も変わらずクソオーバーな顔面だな)
「京くんはさ、お姉ちゃんのあげた腕時計、ずっとしてくれてるんだね」
「まあ、他に時計持ってねえし」
「大事にしてね」
「さあな」
「もう、いじわるだなあ、京くんは」
「うっせえ」
 平坦な道だった。右見ても左見ても田んぼ。いや、左見ると姉貴がいるか。とにかく、スーパーや駅のある地区からちょっとでも離れるとコレだ。ド田舎。でもな、こんなでっかい堪忍袋をもった大自然さんの元で育った俺だから、姉貴の下らねえ買い物や下らねえ話に付き合ってやれるんだ。感謝してほしいね。
「京くん。時計、ずっと持っててね」
「へいへい」
「それとね――」



 午前二時を過ぎた。何故かイライラして眠れない。何故か、何かに。腕時計の針が坦々と無感情な音を打ち出していた。うっせえな。捨てちまうか……いや、なんでもねえ。
 昼間起きたこと。姉貴と買い物に行ったこと。扱いが乱暴だったのか、卵が全部割れていたこと。
 そして、

――私、もうすぐお嫁さんになって、東京に出るんだ。

以上。下らねえ報告。クソ下らねえ。そうだ。下らねえからイライラするんだ。どれもこれも姉貴のせいじゃねえか。クソ。死んじまえよババア。それかとっととこのド田舎からいなくなれ。なんだよ、丁度互いの利害が一致すんじゃねえか。ハイハイサヨナラバイバイキン。こうして俺の世界は平和になりますよ、と。
けれども、その晩の俺の睡眠はまったく平和にならなかった。睡魔の分際で俺をたぶらかしやがって。お蔭でなかなか思考の海から這い上がれず、窒息もできないまま、不愉快な昼間の渦巻に脳を掻き回されていた。
海か。いつだったか、遊んでて溺れそうになったときに助けてくれたのも、姉貴だった。



「京くん、今すぐ起きて!」
浅くて曖昧な眠りの外から姉貴の声が聞こえた。なんだよ、と薄目を開けると、姉のヒップドロップが俺の腹に決まるのが見えた。
「ッ……ヴエ⁉」
「起きたね!」
「殺す気か⁉」
姉は完全に馬乗りになっていた。エロくねえ。重い。そして気持ち悪い。
 いつも以上に馴れ馴れしい姉貴だ。なんでこんな馴れ馴れしいんだ? 調子が狂う。落ち着かねえ。大事な歯車が抜けてんじゃねえか?
「……クソ」
「なあに? 苦しいの? それは私が重いんじゃなくて、京くんがもやしくんなのよ」
「うるせえよパンツ丸出し。テメエ日曜にわざわざ起こしてくれやがったな」
「そうそう京くん、今すぐ支度して。人に見られる格好になって」
「は……?」
姉貴がもぞもぞと俺の腹とベッドから降り、

「これから婚約者の健一君がお父さんお母さんに挨拶しに来るのよ」

 姉貴の長い髪と赤いリボンが俺の部屋で踊っていた。



 安いカラオケがある。部屋は当然汚い。画面は年代物だし、ジュースがこぼれたのか、床がペタペタする。音質だって悪いし、最新の曲なんて入ってない。けど、とにかく安い。学生証を見せればさらに安い。
 俺は一人。独り。家を飛び出した俺は、独りでディル*ングレイを歌っていた。
 婚約者? 俺の住む家にそんな得体の知れない野郎を呼びつけやがって。あの姉貴のことだ。どうせ彼氏もゾウリムシみたいな野郎に決まってる。そんなマイクロな男と顔なんて合わせたら俺のリアルな3Dが侵される。会ってやるもんか。
(クソ! 姉貴のバカヤロウ!) 
どんどん遠くに行っちまいやがって。いや、姉貴が遠くに行こうと大人になろうとお嫁に行こうと関係ないはずなんだ。追いかけるのは辞めたから。絶対に届かないし、届いたとしても姉と弟じゃ位相が違う。並んで歩くことなんてできない。揺れる長い髪と赤いリボンの後ろ姿。
(クソ!)
さっきから俺は何を考えてるんだ。どうでもいいことだろ。婚約者に姉貴を取られて、心にぽっかり穴が開いて、それが、心が痛むのか? 違うだろ。だって心のその部分は昔とっくに切り離していたものだ。なくなってもいいように。だから痛くなんかない。そもそもなんだよ、婚約者に姉貴を取られる、なんて表現自体がおかしいだろ。俺と姉貴に接点はもう何もないんだ。切り取るでも、取るでもない。姉貴が嫁に行く、それだけだ。
それでも痛みを感じる自分にイライラする。婚約者や姉貴にイライラする自分にイライラする。
痛いのは喉だ。グロウル。ガテラル。スクリーム。ホイッスル。喉が焼ける感覚。痛くても叫ぶ。心の痛みを炙り出す。汚い部屋の臭い空気を震わせ、頭を上下に激しく揺さぶる。シミだらけの床と落書きだらけの壁が交互に映り、景色がやがて曖昧になる。
やがて時間を告げるコールがかかった。ぼやけていたイライラが、現実とともに戻ってきた。喉の痛みは残った。



駅で知らないイケメンに話しかけられた。
優しい顔立ちで、穏やかな目と清潔な短い黒髪の、大人の男だった。親父よりもスーツが似合ってるんじゃないだろうか。
「紫苑さんから君のことはよく聞いてるよ。僕は久川健一。紫苑さんと結婚の約束をした者だよ」
姉貴の彼氏だった。
「あぁ、昨日姉貴からあんたの名前だけは、そういえば聞いてたな」
「覚えててもらえて嬉しいよ。それに、今日のうちに会えてとても嬉しいよ。家に上がって君の写真を見ておいたお蔭だ。ところで酷い声をしてるけど、風邪でも引いてるのかい?」
「あぁ。だから風移るからそれ以上こっちくんなよ」
「心配してくれるのかい? 嬉しいな」
「チッ……」
「僕は今日、紫苑さんのご家族に挨拶に来たんだけど、それでご両親は僕のことを丁寧に迎え入れてくれて、恒例の『娘さんを僕にください』をやってご家族のお許しをいただいたんだけど、まだ弟さんの許しをもらってないからね。このまま会えないままだったらどうしようかと思ったよ」
「アレは俺の所有物じゃねえよ。好きに刈り取っていきやがれ」
「やった。これで僕は紫苑さんのご家族みんなに挨拶をすませることができたわけだ」
「そりゃおめでとさん。用が済んだろ。汚い田舎に毒される前に帰りな」
「あはは。実はもう半分用が残ってるんだ。できれば京くんにも手伝ってほしいな」
「嫌だ。ご覧のとおり、俺は風邪を引いたんでとっとと帰って安静にグッスリといきたいんだよ」

「紫苑さんがさ、君と離れ離れになるのが寂しそうなんだ」

沈黙。風が肌を舐め、俺の伸びた前髪を触る。隙間から男が見えた。その男の言葉に、奇妙な感覚を覚えた。
 俺と離れ離れになって寂しいだって? そんなはずあるか。俺と姉貴にはすでに接点も共有点もない。だから離れても何も感じない。実際、姉貴はそんな寂しいみたいなそぶりは見せなかった。
「やっぱり兄弟だね。素直じゃないところがすごくそうだ。けど、意外と本音が分かりやすいんだよね。言葉の回し方が二人は全然違うけれど、表情とか視線とかで本音がだだ漏れなんだ。それも、同じ表情だ。今もそうだよ。紫苑さんはそんなところが可愛いのかな。君って言葉があまりきれいじゃない割に友達多いだろう。それと、二人とも隠すのが下手なのと同じくらい、探るのも苦手かな。お姉さんの気持ち、普通の人から見れば丸分かりなんだけどな」
「うるせえよ立て板に水。てめえ俺を心理学的に分析しに来たのか? 専門用語の一つも出ねえで、素人丸出しじゃねえか」
「そんなつもりはないよ。僕は京くんと紫苑さんが話し合いを持つきっかけを渡したいだけなんだ。ほら、『娘さんは必ず幸せにします』ってセリフをちゃんと言ったから有言実行さ。このままじゃ紫苑さんの幸せはイマイチになってしまう。実行するには、君の行動が必要なんだよ。」
「嫌なこった。俺は姉貴の幸せなんてどうでもいいからな。面倒だし」
「……京くんはさ、紫苑さん以上に分かりやすいね。僕のさっきの言葉が強く心に響いたみたいだね。君を説得するのには、あの一言で十分だったんじゃないかな」
「あ? どの言葉だよ」
「いつか京くんに『兄貴』って呼んでもらいたいな。それじゃ、新幹線の時間があるからバイバイ」



――紫苑さんがさ、君と離れ離れになるのが寂しそうなんだ。

 無くなってもいいように切り離しておいたはずなのに、取ると痛いし、無くなると寂しい。
(そうか、これが寂しさなのか)
 姉貴もこんな気分なのだろうか? 久川健一は、俺と姉貴が同じ表情、同じ気持ちだと言っていた。ということは、そうなんだろう。

 姉貴の部屋に入るのは久しぶりだった。
 ノックをして、扉を開ける。お袋だとでも思っていたのか、
「京くん? どうしたの?」
俺だと分かると驚いていた。それと、少し嬉しそう、な気がする。
「姉貴……」
 吸い寄せられるように姉貴の部屋に来たものの、何を言えばいいのか全然分からない。何も考えてこなかった。
「京くん、声が酷いよ? また喉潰したの?」
「大したことねえよ」
「無理しちゃって。大根飴取ってきてあげるね」
 姉貴が俺の横を通り過ぎる。ふわっと、姉貴の使うシャンプーの匂いを残して、部屋から出ていこうとする。
「あ……」
「え……?」
けど、俺は出ていこうとする姉貴の手をとっさに掴んでしまった。
(この手、どうしよう……)
「……」「……」
 しばらくの沈黙の後、姉貴はドアを閉め、その場に座った。黄色と白のグラデーションの入り、裾の広がったチェニック。タイトな明るい色のジーンズ。姉貴の私服なんて普段目もくれなかった。
「京くん、何かお話があってここに来たの?」
「えっと……」
 ここに来たかった。何か言いたかった。昨日からずっと言いたいことがあった。言わなくちゃいけない、届けなくちゃいけない言葉があった。
(何か……)

「結婚……おめでとう」

 これだ。
俺が言いたかったのはこれだ。姉貴がいなくなって、認めるのは癪だけど、寂しいのは確かだ。けど、そんなのは仕方ない。家族なんていつまでも一緒に居られるもんじゃないから。だから、せめてちゃんと送り出してやりたかった。
やっと、やっと言葉が出てきた。
「ありがとう、京くん」
 顔を赤くして笑う姉貴。
(そうか、確かに表情が分かりやすいかもしれない)
「寂しくなるな」
「寂しくなるね」
「幸せになれよな」
「幸せになるよ」
「あの久川健一がなんか碌でもねえことしやがったら、俺がぶん殴ってお前を連れ戻す」
「ふふ、頼もしい。でも健一さんはそんな人じゃないよ」
 これは姉貴との本音の会話。もう十年くらいしてなかった気がする。けど、思ったより良いものかもしれない。
「ねえ京くん、お姉ちゃんのあげた時計、大切にしてね」
「傷一つ付けねえよ」
 俺と姉貴が違う場所で生きていても、時計の針は同じ時間を指す。同じ時を刻む。この時計で、俺と姉貴は心で繋がっていられるんだ。
「それからね、京くん」
「っ⁉」
 姉貴に抱きしめられた。小さい子供の頃姉貴に抱きしめられたときは、包み込まれるような温かい感覚に、俺はとても安らぎを覚えた。今は身長も体重も今は俺の方がある。けど、包み込まれるような感覚は同じだった。こんなに暖かかったんだ。忘れていた。強い抱擁。俺も背中に手を回す。
タイムトラベル。俺が子供だったあの頃へ。二人で昔を思い出し、二人で現在を確かめ合った。過去と現在と未来は、血じゃなくて心で繋がっている。距離が離れても心は遠くならない。そんなことを確かめ合った。時計が確かに絆を刻んでいた。
(あの頃、俺は姉貴のことをこう呼んでいた)
「――お姉ちゃん」



 言う。俺はシスコンじゃない。本当だ。信じてくれ。姉貴も別にブラコンじゃない、はず。姉貴と俺は一般的な姉弟だ。日本全国の姉弟の中の良さの平均より上だとしても、一般の枠の中には納まるはずだ。
だからあの後エロゲのような展開にはならなかった。なってたまるか。俺は正真正銘の飛び出す3Dだ。『お姉ちゃん』なんて呼び方も二度としない。恥ずかしいだろが。あいつの呼び方は『姉貴』で統一。
その姉貴、久川紫苑が今ウェディングドレスに身を包み、久川健一と一緒にスポットライトに照らされながら、
「では新郎新婦、誓いのキスを」
 している。おめでとう、俺は誰にも聞こえないように呟いた。聞かれたら恥ずかしいだろ。むしろあの光景を見てるのも恥ずかしい。俺は主役達から目を逸らした。
 俺の新しい目線の先で、おそらく久川の親族の一人であろう女が、俺の方をパチクリと見ていた。おっとりと、優しい目をした、多分俺と同じくらいの年の女だった。



 そういえば姉貴と兄貴の出会う話を聞いてない。前からずっと知り合いだったのかもしれない。それとも、もしかしたら俺とコイツの出会いくらいの突然な出来事だったかもしれない。
まあ、どっちでもいいからとにかく幸せになれよな、姉貴。

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