1
イリスたちは迷いの森を抜け、イヴァン山脈の麓へと出た。
小雨がポツポツと頬を撫でる。
カルロスが山へと入ろうとした時に、フィオナがそれを止めた。
「待って」
カルロスは足を止めてフィオナを見た。
フィオナは辺りを見渡して適当な一本の木に触れた。
それは真っすぐに天に伸びた木だった。
フィオナは瞳を閉じる。
風も吹かないのに木々がザワリと靡いた。異様な空気が漂う。
カルロスとイリスは辺りを見回してからフィオナを見た。
しばらくするとフィオナは木から手を離し、イリスたちを振り返った。
「雨のせいで崩れているところがあるらしいの。案内を寄越してくれるって」
「木と話せるのか?」
カルロスが驚いたようにそう尋ねると、フィオナはくすくすと笑った。
「これでも森の魔女の端くれだからね。少しは。おばあちゃんはすごいわよ。森の木に触れただけで世界中の木々と話せるんだから」
「世界中の木々と? どうやって?」
イリスがそう尋ねた。
「木の根は大地に張り巡らされている。それを伝っていけば会話やその木が見た映像を見ることができるけど、あたしにはまだできない。修行中なの」
カルロスが「へぇ」と感心した声を上げた。
「お前もちっこいのに修行なんて偉いな」
カルロスは腰を曲げ、カルロスより頭一個分ほど背丈の低いフィオナと目線を合わせた。
フィオナはきょとんとしたあと、腹を抱えておかしそうに笑った。
「やだなぁ。あたしは魔女だよ。人じゃない。あんたたちの数倍は生きているはずよ」
フィオナは目尻に溜まった涙を拭う。
カルロスとイリスは目を見張った。
「お前、一体いくつだ?」
「レディに歳を聞くなんてカルロスも意外とお子様ね」
フィオナは口元に手を当て「ぷっ」と笑った。
カルロスの顔がかっと赤くなる。
「さてと、案内が到着するまで待ちますか」
フィオナは木に凭れるように座った。
イリスとカルロスもそれに倣って木の根に座る。
「案内ってまさか木が来るわけじゃないよな?」
「まさか。木が歩けるはずないじゃない」
カルロスはほっとした顔を浮かべた。
しばらくすると木々の合間から毛並みの綺麗な狐が現われた。
イリスたちの傍に寄り、フィオナの目をじっと見た。
「あなたが案内してくれるの? ありがとう」
フィオナがにっこりと笑うと、狐は踵を返して歩き出した。
「森の魔女は動物とも話せるのか」
カルロスが立ち上がりながら感心したように言った。
「まさか。森の魔女がなんでもできると思わないでよね」
「でも今……」
「ああ、なんとなくそんなことを言っているような気がしただけ」
フィオナはそうしれっと言って、狐のあとを追って歩き出した。
カルロスは真っ赤な顔でイリスの傍に寄る。
「俺、こいつ苦手だ」
そうぼそっと言った。
イリスはくすりと小さく笑った。
狐はイリスたちを先導するように歩いた。
時折、振り返ってはちゃんとついてきているか確認しているようだった。
不思議なことに道中で獣に襲われることはなかった。
熊や狼が姿を見せることはあったが、狐とフィオナを見るとそっと音も立てずに去って行くのだ。
「この辺りは迷いの森から近いからね。あたしのことを知っている獣も多いんだと思う」
不思議そうにしていたイリスとカルロスにフィオナはそう説明した。
森に住む動物にとって森の魔女の存在は大きいようだ。
日が暮れてカルロスが野宿の支度をはじめると狐はそっとその場を離れた。
しばらくすると野兎を咥えて戻ってきた。
それをカルロスの足元へと置いた。
「くれるのか?」
カルロスが狐にそう尋ねると、狐は座ったままカルロスの瞳を見た。
「ありがとう」
カルロスは狐の頭を撫でる。
狐は瞳を一瞬閉じると、すぐにカルロスの手を振り払うようにして離れた。そして少し離れたところで伏せていた。
夕食を終え、寝る支度をはじめる。
地面に布を敷きイリスとフィオナは並んでそこに横になった。
カルロスは焚き木を挟んだ向こう側で寝転がる。
すると狐はのそりと起き上がり、横になっているイリスとフィオナの間に体を忍ばせた。
そしてイリスに身を寄せた。
イリスはほんの少し驚いた顔をしたが、狐の首元にそっと手を置いてふかふかの毛並みに顔を寄せた。
すると狐は一息つくと瞳を閉じた。
しばらくするとイリスの気持ちよさそうな寝息も聞こえてきた。
フィオナがその様子を見て小さく笑い声を零す。
「狐に気に入られたみたいね」
カルロスは肘をついて横向きになった。
そして緑の瞳を細めて「ああ」と言った。
「羨ましいな」
カルロスがそう言うと、フィオナはにやけた顔を浮かべる。
「え? 狐が?」
「ち、違う! イリスが、だ! 気持ちよさそうじゃないか」
カルロスはわずかに顔を上げて言った。その顔は真っ赤だ。
フィオナは笑い声を堪えるように口元を押さえている。
「フィオナもバカなこと言っていないで早く寝ろよ」
カルロスはそう言い、フィオナに背を向けた。
木が言っていたように道中には崩れた個所もたくさんあった。
狐はそれを避けるようにして最短の道筋を案内してくれているようだった。
時折、険しい個所もあった。
狐はイリスたちが行けそうにないと判断すると道を変えた。
そしてゆっくりとイリスたちの歩調に合わせて歩いてくれているようだった。
山に入って七日が経った。
この日は見渡しのいい峠に差し掛かった。
晴れ渡る空、見渡す限りの草原が目前に広がる。遠くには街の姿も見えた。
「これがアルド王国」
アルド王国はイヴァン山脈で隔たれたルーベンス王国の隣国である。
イリスは薄い茶色の瞳で景色を見渡す。
ココアブラウンの髪が風になびいた。
「アルド王国を超えた先が北の荒野だ」
「まだ先は長いね」
カルロスとフィオナもイリスに並んで景色を眺める。
イリスは頷き、アルド王国の景色を見据える。
「ルーベンスから出ることなんて一生ないと思っていた」
イリスがぽつりと言った。
首都クルト、それどころか城から出ることはめったになかった。
城で日々を過ごし、いずれは女王としてルーベンスに君臨していたはずだった。
――時が止まることさえなければ。
カルロスはイリスを見た。
彼女はまっすぐにアルド王国の領土を見つめていた。
その横顔からは彼女がなにを思っているのか想像もできない。
カルロスは視線を景色へと戻した。
「そうだな」
そう一言だけ言った。
それからさらに三日かけてイヴァン山脈を抜けた。
麓で狐と別れる時のことだった。
イリスが地面に膝をつくと狐がそっと傍に寄り添うように立ち、イリスの頬を優しく舐めた。
イリスは狐の顔に頬を寄せて抱きしめる。
「ありがとう」
こうして狐との十日間の旅を終えたのだった。
山へと戻って行く狐を見送ってからイリスたちは山を背にして歩きだす。
三人にアルド王国の地理の知識はない。
カルロスでさえアルド王国の地ははじめてだった。
まずはアルド王国の情報を仕入れることを最初の目的とした。
少し歩くと小さな一軒の家があった。
イリスたちが近寄って行くと家の陰から一人の男と一匹の犬が現われた。
男は大きな体をしていた。
イリスたちに気がつくと立ち止り、憮然とした顔でこちらを見た。
「お前ら、山から来たのか?」
「ああ、山を越えてきた」
カルロスが答えた。
男は自分の胸の高さ程の背丈しかないカルロスを頭から足の先まで見た。
カルロスの背後にいるイリスとフィオナにも目を向ける。
「その軽装で? お前らだけで山を越えてきたのか?」
「ああ、そうだ。ひとつ教えてもらいたい」
カルロスは特に気にした様子もなく男を見上げて話を続ける。
「北へ行くにはどうしたらいい?」
「……ついてこい」
男はきびすを返して家へ向かった。
カルロスは言われたとおりについて行く。
イリスとフィオナは顔を見合わせてからカルロスのあとをついて行った。
男は家の中にイリスたちを招き入れた。
小さな家は平屋で、玄関を入ってすぐにリビングがあった。
小さな部屋だった。
キッチンと二人掛けのテーブル、棚がいくつかあるだけの質素な部屋だ。
そこにはひとりの女がいた。ふっくらとしたおおらかそうな女だった。
男とともに入ってきたイリスたちを見てから目を大きく開いて男を見た。
「あんた、その子たちをどうしたんだい?」
「山から来たんだと。北へ行きたいらしい」
「はぁー。山から? それは難儀だったね。お茶でも飲むかい?」
そう言って女はキッチンに立った。
男は棚をごそごそと漁り、なにかを探しているようだ。
男は一度手を止めて玄関の前で立っているイリスたちを振り返る。
「座ってな」
それだけ言ってまた棚へと視線を戻した。
カルロスは頷き、絨毯の敷かれた適当な場所に座る。
イリスとフィオナもそれに倣った。
女がお盆に乗せたお茶をイリスたちに手渡し、傍に座った。
「なんでまた子供だけで旅なんかしているのさ? しかも山越えなんて無謀だね。無事でよかったよ」
「まぁ、俺もそう思ったんだけど……」
カルロスはそう言ってフィオナを見た。
当初カルロスはイヴァン山脈を迂回する道を考えていた。
しかしフィオナがイヴァン山脈を越える道を提案したのだ。
イヴァン山脈を越えれば七日程度の道のりだが、迂回するとなれば一カ月半の道のりだ。
わざわざ遠回りをする必要はないと言ったのだ。
フィオナは分かっていたのだ。
自分がいれば山越えがそう困難ではないことを。
今ではフィオナの選択は間違っていなかったと言える。
しかし山に入る前までカルロスは無謀だと思っていた。
せめてフィオナの能力を教えてくれていれば不安に思うことはなかったのにと、少しばかりの不信感が胸に燻っていることは否めない。
そんなカルロスの胸中など知らずにフィオナは両手でカップを持ってお茶を啜っていた。
「あったぞ」
男が古い羊皮紙をカルロスに手渡す。
それは古ぼけてはいたが地図だった。
「大して道は変わっていないはずだ」
そう言いながら男は説明をはじめた。
ここから北東に進むとアルド王国の首都カレルを通る街道に出る。
その街道は北の街レオーネまで続いているという。
「街道を行かなきゃだめか?」
カルロスは街道からは逸れる細い道を指差して聞いた。
男が言った街道は東にある首都を通る為に迂回していた。
カルロスが差した道は一度街道からは逸れるが、北へとまっすぐに伸びいずれまた街道に戻る道だった。
その道を使えば一週間ほどは短縮できるだろう。
しかし男は首を振った。
「街道を逸れるのは止めた方がいい」
「獣か?」
「いや、人だ。この辺りは治安が悪い」
カルロスは頷いた。
それから地図を眺めて考えるように顎に手を遣った。
「もう日も暮れるから今日はうちに泊りな。納屋を使うといいよ」
女がそう言った。
イリスたちはその好意に甘えることにした。
日もすっかりと暮れ、イリスたちは納屋で地図を囲んでいた。
ランプが地図を照らす。
「おっさんが言ったように街道を行こう」
カルロスはそう結論づけた。
「でもさ、あたしたちなら大丈夫でしょ」
そう言うのはフィオナだ。
フィオナはカルロスが目をつけた細い道を指差す。
「この道を行けば近道だ。カルロスもそう思ったんでしょ?」
「だが治安が悪いと言っていた。わざわざ危険に身を晒す必要はない」
「獣ならいいの?」
「なに?」
カルロスは顔を上げた。
フィオナは黄金の瞳でカルロスを見る。
「カルロスはおじさんに『獣か?』と聞いた。だけど人だと聞いて考えを変えたよね? それって獣は殺しても人は殺したくないってこと?」
「そうだ。人を殺すことは避けたい」
「どうして? なにが違うの?」
フィオナは首をかしげた。
カルロスは眉を顰める。
それからフィオナが山に入る前に「私は魔女だよ。人じゃない」と言っていたことを思い出した。
その本当の意味が分かったような気がした。
フィオナにとって人間は同族ではない。
――獣も人もフィオナにとっては同じ括りなのだ。
「俺とイリスは人だ。人を殺すことに戸惑う」
「……ああ、そうか。人が人を殺すことは倫理に反するんだっけ」
フィオナは思い出したようにぽつりと言った。
それから腕を組んで地図を見下ろすフィオナをカルロスは自分たちとは違うものなのだと改めて認識した。
「でもやっぱりさ、この道で行かない?」
「俺の話、聞いていたか?」
「聞いていたよ。その上で言っているんだ。首都を通るのはどうかなって思って」
「どうして?」
「見てごらんよ。あたしは赤い髪に黄金の瞳。カルロスはオレンジの髪に緑の瞳。こんな目立つ二人がいて、しかも子供が、だよ? 三人で旅をしていたら怪しいじゃないか」
カルロスは黙った。
フィオナの言葉には一理ある。
「首都なんて人も多いし、衛兵だっているでしょ? 見咎められたら? 人目につくのは良くないよ。治安が悪いと言っても必ず襲われる訳じゃない。もし襲われても逃げればいいんだよ」
カルロスはがしがしとオレンジ頭を掻いた。
「イリスはどう思う?」
「私もカレルは避けたい」
イリスはそうぽつりと言った。道は決まった。
「……分かった。カレルは避けよう」
カルロスが意を決したように言った。