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ルーベンス王国はボリス大陸の最西端に位置する。
大陸の名をとった広大なボリス海に面した国だ。
首都クルトはそのボリス海に張り出した半島にあった。
首都クルトから北西に進むと緑豊かな高原がある。
さらに進むと大陸を横断するように連なるイヴァン山脈があった。
その麓に迷いの森は広がっている。
イリスとカルロスは、エイブラハムと別れると高原を進んだ。
街道へと出ると、商団や旅人とすれ違った。
街娘の格好をした十歳の少女と遊牧民の身軽な格好をした十二歳の少年を彼らはもの珍しそうに見ていた。
イリスは顔を見られまいとうつむき、長い髪で顔を隠すようにして歩いた。カルロスは大して気にした様子もなく飄々と街道を進む。
日が傾くとカルロスは野宿の支度をはじめた。
手慣れたようにテントを張り、近くから枝を拾ってきて火をおこそうとした。
それをなにもできずに見ていたイリスが慌てた様子で言った。
「わ、私がやる」
イリスが積んだ枝に手をかざすと灰色の煙が立ち上り、枝が燃えはじめた。カルロスが「へぇ」と感心の声を上げる。
「それいいな。便利だ」
イリスは口元に笑みを浮かべた。
旅をはじめた初日の夜、イリスは眠れなかった。
風が木々を撫でる度にびくりと体を震わせ、遠くで獣の咆哮が聞こえれば飛び上がった。
カルロスはぴくりと耳を揺らすだけで、すぐにまた寝息を立てている。
そして以前に自慢げに言っていただけあって、カルロスの剣の腕は一流だった。
森の合間を通る道では獣とも何度か出会った。
獣が草を踏む音が聞こえてイリスが構えた頃には、カルロスは既に剣を抜いてその獣を叩き切っている。
その無駄のない動きは惚れ惚れとするほどだ。
カルロスはそのまま一連の流れのように獣をさばくこともあった。
それはその日の食事になる。
最初イリスは戸惑っていたが、そんな旅が一週間も経つ頃には慣れを感じていた。
ぱちぱちと火花を立てて燃える枝をイリスは見ていた。
秋夜はだんだんと肌寒くなりつつある。
革の外套で身を包んでイリスは座っていた。
イリスは視線を少しだけ上げ、焚き木を挟んだ向こう側に座るカルロスを見た。
カルロスは炎に照らされて怪しく光る剣を磨いている。
その顔はどことなく楽しそうだ。
この一週間でイリスはある結論に辿り着いていた。
カルロスは人ではない。――獣だ。
人離れした俊敏な動き、洞察力、野宿の知識がそう感じさせた。
イリスひとりではここまでくることさえ叶わなかったかもしれない。
森で魔術の訓練をしていたとはいえ、自然の中での生活の知識はない。
人から疎まれていたとはいえ、城での生活は許されていた。
食事も、衣服も、寝る場所もちゃんと与えられていたのだ。
それがいかにありがたいことなのかを身を持って感じていた。
そしてカルロスが一緒にいてくれることへのありがたみも。
こちらを見ているイリスにカルロスは気がついた。
「なんだ? ぼーっとして。眠いのか?」
なにも言わないイリスにカルロスは笑みを浮かべた。
「疲れたか?」
言葉を変えて言った。
イリスは膝に腕を置き、そこに顔を半分埋めた。
「……少しだけ」
「そうか。あと三日もすれば迷いの森につくはずだ」
「カルロスは行ったことあるの?」
「近くまでは。入ったことはない。少し楽しみだ」
そう言ったカルロスが年相応の笑顔を見せた。
しかし次の瞬間には剣に視線を戻し、手入れをした剣を見定めるように眺める。
いつもの大人びた顔に戻っていた。
翌日から天気が崩れはじめた。
どんよりとした厚い雲が空を覆い、昼には小雨が降りはじめたのだ。
イリスとカルロスは通りかかった宿場町で茶屋に入った。
二人は革の外套を脱ぎ、雨粒を振り払った。
それから席に座り、暖かいお茶を頼む。
店員は訝しげに二人を見ていたが、うなずいて店の奥へと戻って行く。
イリスは窓から雨の降る外を見た。
カルロスもそれに倣う。
「これは本降りになるな。やっかいだ」
「この辺りじゃ雨なんて珍しくもなんともないよ。晴れの日の方が珍しいくらいさ」
カルロスの呟きに答えたのはお茶を持ってきた女だった。
女はテーブルに茶を置き、窓の外を見る。
「まぁ、客足がよくていいけどね」
女はまた店の奥に戻っていた。
「参ったな」
カルロスは外を見た。
窓を叩く雨脚が強まっていた。
しばらくすると一人の商人らしきの男が雨から逃れるように店内に入ってきた。
そしてカウンターで酒を飲んでいた男を見て「おお」と声を上げて顔を綻ばせながら歩み寄る。
知人のようだった。
商人の男が「最近はどうだ?」とカウンターの男に尋ねると「まぁまぁだな」と答えた。
そのまま他愛ない話をしている。
イリスとカルロスは特に話すことなく淡々と茶を飲み、体を温めていた。
「そういえば」と商人の男が思い立ったように言った。
「うん?」と酔いが回った声で隣の男が聞いた。
「俺はクルトから戻ってきたところなんだが――」
その言葉にイリスが目だけで商人の男を見た。
「なんでも王女が行方不明らしい」
「あのいかれた姫か?」
「ああ、そうだ。衛兵が探し回っている。蜂の巣をつついたような大騒ぎさ。商いもしづらくてかなわない」
ため息混じりに言った商人に対し、もうひとりの男は赤い顔で笑っている。
イリスは顔を背けるように窓の外を見た。
「案外、この辺りにいたりしてな」
赤い顔の男が冗談交じりにそう言うと、イリスがびくりと身を震わせた。
「レイダ、そろそろ行こうか」
カルロスはイリスを偽名で呼んだ。
人がいるところではイリスを偽名で呼ぶのは二人の暗黙の了解だった。
カルロスはテーブルに代金を置き、イリスの手を引いて店を出た。
カウンターに座る男たちは、その頃にはまた違う話題に花を咲かせていた。
雨の中を二人は黙って歩く。
イリスはうつむいたままだ。
「イリス、うつむくな。お前がうつむく理由はない」
イリスは顔を上げた。
そこには緑の瞳を細めて微笑むカルロスがいた。
「それに今のイリスを見てイリス・ド・バリーだと気がつくやつはいないさ」
カルロスはそう言って、また黙った。
それから三日間、店の女が言うように雨は降り続いた。
迷いの森の傍にあるイエフ村は家がぽつぽつとあるだけの小さな村だ。
収穫を終えた麦畑が寒々しく村を囲んでいる。
イリスとカルロスは村唯一のぼろ宿に入ることにした。
革の外套で雨を防いでいたとはいえ体は冷え切っていた。
明日からは迷いの森へと入る。
一度しっかりと体を休めた方がいいと判断したのだ。
カルロスが宿の女将とやりとりをしている間、イリスは広間の暖炉の前で体を温めていた。
案内された部屋はベッドが二つあるだけの小さな部屋だった。
カルロスは背負った荷物を置き、自分とイリスの外套を干した。
イリスは十日ぶりのベッドに飛び込み、愛おしそうに毛布を抱える。
そんなイリスをカルロスは微笑ましげに見ていた。
カルロスはもうひとつのベッドに腰かける。
遊牧民のカルロスにとってベッドは親しみのあるものではない。
ベッドを何度か軽く叩いてから床に座った。
こっちの方がまだ落ち着くのだ。
カルロスは雨が打ちつける窓の外を眺めた。
日は沈み、闇夜に包まれひっそりとしている。
「じいさんたちは南に向かって旅をしている頃かな」
イリスは起き上がり、ベッドの端に座った。
「カルロスたちはずっと旅をしているの?」
「ああ。冬は南を、春は東を、夏は北を、秋は東を。生まれた時から一か所に留まったことはない」
イリスは瞳を閉じてそれを想像した。
「楽しそう」
カルロスは笑った。
「楽しいことばかりじゃないさ。ルーベンスのように遊牧民に寛大な地域ばかりじゃないからな。迫害のようなものを受けたこともある」
「どうして旅を続けるの? それならルーベンスにいればいいのに」
「それが俺たち遊牧民族の生き方だからな」
カルロスは傍らに置いた剣を掴んだ。
「そう言えば、じいさんとこんなに離れて過ごすのははじめてだ」
「寂しい?」
「寂しい……のとは違うな。どうしているだろうとは思うが。――そうか。きっとこれが故郷を懐かしむということなのかな」
カルロスが独り言のように呟いた。
イリスは首を傾げる。
カルロスはそれに気がついて口元に笑みを浮かべる。
「前に出会った旅人が言っていたんだ。『故郷が懐かしい』と。俺には一生分からない言葉だと思っていたが。イリス、お前も城を恋しく思うのか?」
「分からなくはないかな。――けど懐かしく思うのは時が止まる前。今のあそこにはもう私の居場所はなかったから」
イリスはそう言って微笑んだ。
その笑みは冷めたものだった。
カルロスはなにも言えずにイリスをただ見つめていた。
部屋をノックする音がした。
入ってきたのは宿の女将だった。
「失礼するよ。風呂はいかが? 温まるよ」
ふくよかな顔に笑みを浮かべて言った。
イリスがぴくりと反応し、瞳を輝かせた。
そして伺うようにカルロスを見た。
「いくら?」
「特別にひとり銅貨一枚でいいよ」
「いいよ。――この子の分だけ頼む」
そう言うとカルロスは剣を持って部屋を出た。
宿の広間に行くと暖炉の前に置かれたソファーに腰かけた。
そして腕を組んで物憂げに瞳を閉じた。
幼い頃――イリスとはじめて出会った時を思い出していた。
カルロスが七歳、イリスが五歳の秋のお茶会だ。
カルロスは遊牧民の仲間たちと城の庭で開かれていたお茶会に参加していた。
そこにふらりとなにかに誘われるように現れたのがイリスだった。
若葉色のドレスを揺らしながらもの珍しそうに周りの大人たちを見上げていた。
一目でルーベンス王国の王女、イリス・ド・バリーであると分かった。
誰からも愛され、慈しまれている王女。
ルーベンスでその王女の名を知らないものはいない。
カルロスもその名だけは知っていた。
エイブラハムの一団にもイリスと同じくらいの女の子はいる。
だが、カルロスとともに野原を駆け回る元気な彼女たちとは違うなにかを感じた。
はじめて出会った儚げな少女からカルロスは目を離せなかった。
イリスがその薄い茶色の瞳にカルロスを映し、そしてふんわりと微笑んだ。
「こんにちは」
「……こんにちは」
カルロスは頬をほんのりと赤く染めて言った。
「人がたくさん。楽しいね」
「人が珍しいの?」
「城にも人はいるけど、こんなにたくさんははじめて」
イリスの笑顔は晴れやかで曇りなど一切ない。
カルロスはイリスの手を引いた。
「こっち。美味しいものたくさんあるよ」
イリスとカルロスはご馳走を食べ、衛兵を見かけると木陰に隠れては二人で楽しげに笑った。
しかしすぐに見つかり、イリスは衛兵に抱えられるように連れて行かれる。
暴れるイリスを衛兵は困ったような顔をしながらも口元には笑みを浮かべていた。
そしてそれを見る周りの目も暖かかった。
――そう。誰からも愛されていた王女だったのに。
カルロスは伏せていた緑の瞳を開けた。
瞳に暖炉の炎が揺れる。
あれから五年――正確には十四年。
エイブラハムが言うには時が止まってから九年が経つという。
しかしカルロスにはそれは分からない。
だからカルロスにとってイリスとはじめて出会ったのは五年前だ。
五年前のイリスと今のイリスとではまるで別人だ。
冷たい微笑みを浮かべるような少女ではなかったのに。
あの愛された王女は一体どこへ行ってしまったのだろうか。
この数年を彼女は一体どんな想いで過ごしていたのだろうか。
カルロスは深く息をついた。
ひとりで時が止まったことを見つめ続けていた彼女は、どういう思いで周りを見ていたのだろうか。
暖炉の薪が音を立てて崩れた。
「カルロス」
イリスが広間に顔を出した。
カルロスははっとしたように顔を上げ、イリスの姿に目を向ける。
そこにいたイリスは見慣れぬ白い寝間着を着ていた。
「それどうしたんだ?」
「女将さんが貸してくれた。娘さんが小さい頃に着ていたんだって」
イリスはカルロスの横に座る。
ソファーの上に膝を抱えるように座った彼女は小さかった。
翌日もやはり雨だった。
イリスとカルロスは革の外套で身を包み、迷いの森の入口に立っていた。
迷いの森は深い霧に包まれていて、まるで人が立ち入るのを拒んでいるようだった。
「行こう」
カルロスはイリスの手を掴んで言った。
二人が森に足を踏み入れると霧が体を包んだ。
より一層気温が下がったようだ。
イリスが身震いする。
「寒いか?」
「大丈夫。それよりこの霧、なにか変じゃない?」
カルロスは辺りを見回す。
「そうか? ただの霧だ」
イリスは不安げにカルロスを見てから頷いた。
白い霧の中を歩く。
数メートル先も見えなかった。
まさしく迷いの森だ。
イリスはカルロスの手を強く握り返す。
「どうやって森の魔女を探すの?」
「歩いていれば向こうから会いにくるとじいさんは言っていたが……」
カルロスの言葉にも少し不安の色が見えた。
しかし他に森の魔女と会う方法は知らない。
二人は不安を感じながらも言葉にすることなく歩いた。
しばらく進むとイリスに異変が起きた。
イリスの歩みが明らかに遅くなったのだ。
イリスの手を引くカルロスが振り返る。
「イリス? どうした?」
返事はない。
イリスはわずかに視線を下に向けてぼうっとした瞳をしていた。
「イリス、大丈夫か?」
カルロスがイリスの薄い茶色の瞳を覗き込んだ。
しかしそこにカルロスは映っているのにイリスは呆然としたままだ。
その瞳がゆっくりと閉じ、崩れるようにイリスの体から力が抜け落ちた。
カルロスは倒れるイリスを支えてゆっくりと地面に座る。
「イリス? しっかりしろ、イリス!」
イリスを揺するが目を覚ます気配はない。
カルロスは余裕をなくした顔で辺りを見回す。
だが深い霧が立ち込めているだけだ。
人影など無い。
「森の魔女! いないのか! 聞こえたのなら返事をしてくれ!」
カルロスは懇願するような声で叫んだ。
しかし返答はなかった。
しんとした霧の森で途方に暮れたカルロスは腕の中のイリスを見つめた。
力なくカルロスに抱かれ、瞳は固く閉じられている。
「イリス……、くそっ」
カルロスは青ざめた顔を歪めた。
「そこに誰かいるの?」
緊張感のないゆっくりとした声がした。
カルロスは顔を上げて声の主を探した。
立ち込めた霧の中から燃えるような赤い髪、黄金の瞳の少女が姿を現した。手には樫の杖を持ち、カルロスを見下ろすように立っていた。