3
城を追われるようにしてカルロスとともに逃げた。
カルロスはなにも言わずにイリスの手を引き、イリスはただうつむいたままカルロスについて行った。
街を抜け、高原に向かって歩く。
辿りついた先は、遊牧民の一団がテントを張る場所だった。
近くには羊の群れもいる。
「エイブラハムの一団だ」
カルロスはそう一言だけ説明した。
カルロスはすれ違う人に挨拶をする。彼らはカルロスと似た服を着ていた。
人々は見慣れない女の子――イリスを不思議そうに見ていた。
「カルロス、女を引っ掛けてきたのか。子供のくせに生意気だな」
「うるせぇよ」
イリスが見られていた意味がわかった。
居心地が悪そうにイリスは身を縮めた。
テントの中でもひと際大きなテントの前についた。
「じいさん、帰っているか?」
そう言いながらカルロスはテントを潜った。
薄暗いテントの中は閑散としていた。
中央に敷かれた革の敷物の上には老人が座っている。
カルロスの祖父、エイブラハムだ。
「カルロスか。遅かったな」
エイブラハムはしわがれた声で言った。
「イリス・ド・バリー王女を連れてきた」
イリスが顔を上げた。
カルロスは入るように目で促す。
イリスは無言でそれに従いエイブラハムの前に座った。
エイブラハムは白くなった瞳をイリスに向ける。
その瞳になにも映ることがないのは一目了然だった。
しかしエイブラハムは瞳をまっすぐにイリスへ向ける。
「おお……イリス王女殿下」
白い瞳から涙を流し、エイブラハムはイリスに手を伸ばす。
イリスはその手を取った。深い皺が入り、皮膚の固い老人の手だ。
「わしはエイブラハム。この遊牧民を束ねる長老をしております」
そう言って瞳を伏せるように礼をした。
「ずっとあなたにお会いしたかった」
イリスはうしろに立つカルロスを見た。
しかしカルロスは顎でエイブラハムの方を向けと促すだけだ。
イリスは戸惑うようにエイブラハムに視線を戻した。
「お顔に触れてもよろしいか?」
「……はい」
イリスの返事を待って、エイブラハムはイリスの顔を撫でた。
「目は大きく、顎は少し小さいか。綺麗な顔立ちをしていらっしゃる」
エイブラハムはイリスの顔から手を離した。
「お声は優しく知性を感じる。透き通った強い魔力をお持ちのようだ」
その一言にイリスは驚いた。
魔術に関することは禁忌とされている。
仮にも王族であるイリスの前でその一言を発するとは。
「イリス王女は十歳……でしたか?」
イリスはうなずく。
「うなずいてもじいさんには分からない。言葉にしてやってくれ」
カルロスがテントに入ってはじめて言葉を発した。
イリスは「はい」と改めて返事をした。
「申し訳ない。生まれながらにして目は見えません」
「その代わり、じいさんには人には見えないものがよく見える」
カルロスの言わんとしたことがなんなのかイリスにも分かった。
四年前――異変に気づいた者を探すことを諦めた時から言うことのなかった言葉を口にする。
「……時が止まったことに気づいていますか?」
「はい。九年前のこの日に、一時も止まることのなかった時が止まりました」
イリスはエイブラハムの手を取って額に当てた。
嗚咽が漏れて涙が溢れた。
心から求めてやまなかったものをやっと手にしたのだ。
「辛かったでしょう」
エイブラハムはイリスの背に手を回し、あやすように撫でた。
「イリス王女が『時が止まった』と主張していることを知った頃には、あなたは城の奥深くにしまわれてしまっていた。
接触しようにもあなたの近くに寄ることも、お姿を拝見することも叶わず、あなたが城から出てきてくれるのを我々は待っていた」
「我々?」
「わしとカルロスです」
イリスはカルロスを見た。
「私がイリス・ド・バリーだと知っていたの?」
カルロスは肩をすくめて応えた。
「ならなぜ言わなかったの?」
イリスの強い視線にカルロスは苦笑を浮かべる。
「あんたが『時が止まった』と言わなくなってもう四年が経っていた。
諦めているのならあんたは必要ない。
だがあんたは言った。『私はそうは思わない』と。
だからここに連れてきた」
「申し訳ない。礼儀を弁えない孫で。ご容赦頂きたい」
「いえ」
イリスはエイブラハムに顔を向けた。
「わしはあなたが希望の光ではないかと思っております」
エイブラハムが盲目の瞳をイリスに向けた。
イリスは戸惑うような顔を浮かべる。
「恐らくこの異変に気がついているのは、この広い世界の中でわずか一握りの者のみ。
その中で迷わず、諦めずに時が止まったことを見つめているのはイリス・ド・バリー王女――あなただけだ。
そしてあなたには強い力がある」
「魔力のことですか?」
エイブラハムはうなずく。
「わしは遊牧民として世界を旅しておりますが、あなたほど澄んだ綺麗な力は見たことがない」
「光の弓を使うんだよな。一度だけ見たが綺麗だったぜ」
イリスがきっとカルロスを振り返る。
あの時――狼に襲われた時、光の弓矢を見られなかったとばかり思っていたのに。
カルロスはイリスのことを全て知っているかのように話す。
それが気にくわなかった。
「なに? ……ああ。ダニエラとコニーは気づいてないから大丈夫」
イリスの視線を勘違いしたカルロスは的外れな答えを返した。
イリスはふいっと不機嫌そうに視線を逸らした。
「なんだよ」
カルロスは戸惑うように頭をかいて言った。
「イリス・ド・バリー王女。あなたはこの世界にかかった呪いを解きたいと思いますか?」
「はい。私はそのために今まで努力してきました」
「どうして?」
エイブラハムに問われ、イリスは答えが出なかった。
今まで時が止まったことを誰に言っても信じてもらえなかった。
そして自分がおかしいかのように扱われた。
それが悔しくて、認めてもらいたくて時が止まった原因を探そうと思った。
けれどカルロスが昨日言ったように、まだこの世界の『不都合』にはなっていない。
時が戻ったら歳をとり、いずれ死ぬ。
それを『不都合』と呼ぶ者はいるかもしれない。
でも、心のどこかのイリスが『このままではいけない』と叫ぶのだ。
「時を取り戻したい明確な理由はまだわかりません。
カルロスが『不都合はない』と言った。
けれどこれから先の未来、ずっとそうだとは限らない。
それに原因を知りたい。どうして時が止まったのかを」
イリスはゆっくりと言った。
エイブラハムはうなずく。
「ここから北西にある迷いの森に住む魔女――彼女を尋ねてみるとよろしいでしょう。
なにか知っているかもしれません」
迷いの森とは年中深い霧が立ち込め、足を踏み入れた者を惑わす森だ。
そこには魔女が住んでいるという伝説がある。
「森の魔女に会ったのですか?」
「ええ。わしがまだ少年だった時に一度。
少し変わった方ですが、なにか教えてくれるかもしれません。
わしが持つ手がかりはこれひとつのみなのです」
「わかりました。森の魔女を尋ねてみます」
「わしも一緒に行ければいいが、盲目の老人を連れていては足手まといになる。
――カルロスを連れていくといい。歳は若いが、少しは役に立つでしょう」
イリスはカルロスを見た。
「ああ。いいぜ」
カルロスはにっと笑った。
イリスはカルロスとともにテントを出た。
カルロスについて行くように一歩うしろを歩く。
「『俺には関係ない』って言っていたくせに」
「関係はないが、長老の命令だからな。遊牧民にとって長老は王様だ」
イリスはむっとしたような顔でカルロスの後頭部を睨む。
「いつから私がイリス・ド・バリーだと気づいていたの?」
「最初から」
さらっと言ったカルロスにイリスの怒りが頂点に達した。
「じゃあなに? 私がレイダって名乗って内心で笑っていたんだ?」
カルロスが困り顔で振り返る。
「なんでそうなるんだよ」
「だってカルロスは言わなかった」
「俺はイリス王女だと気がついたが、ダニエラたちは気がついていなかった。イリスだって知られたくなかったんだろ?」
「そうだけど……」
カルロスはまた前を向いて歩きだした。
イリスは納得がいかずにもんもんとしたまま歩いていた。
「それよりイリスもイリスだろ。俺はすぐに気がついたのに」
イリスが訝しげにカルロスの背中を見た。
「どういうこと?」
「昔、会ったことがあるだろ。お茶会で」
イリスは眉間にしわを寄せ、考える仕草をした。
カルロスをまじまじと見る。オレンジの頭を見てはっとした。
「……ああ! もしかしてあの遊牧民の男の子?」
カルロスを指差して言った。
カルロスが振り返る。
あの少年はカルロスよりも髪の色が濃かった。
だが瞳はカルロスと同じ緑色だった。
「分かるわけない。カルロスは名前を教えてくれなかったし、それに今のカルロスと全く違う。あの子は可愛かった」
そうだ。女の子顔負けの可愛い顔をしていたのに。
「悪かったな。可愛げなくなってて」
カルロスは苦笑気味に言った。
「どうして言わなかったの?」
「……イリスが忘れているから。言い出しにくかった」
カルロスは言いづらそうに小声で言った。
イリスはきょとんとしてから笑った。
「やっと笑ったな」
カルロスはそう言って嬉しそうに微笑んだ。
イリスたちはエイブラハムのものより小さいテントに入る。
カルロスはテントの隅に置かれた箱を開けて中を漁りはじめた。
イリスはそのうしろでテントの中を眺める。
「あんまりじろじろ見るなよ」
「カルロスのテント?」
「そう。男は十歳になるとテントをもらえる」
「両親は?」
「……小さい頃に死んだ」
イリスはカルロスを見た。
カルロスはこちらを見ることなく箱の中を漁っている。
「ごめん」
カルロスがこちらを見た。困ったような顔をしていた。
「謝るなよ。もう昔のことだ。俺にはじいさんもいるし、遊牧民の仲間もいる。みんな家族のようなものだ」
イリスはうなずいた。
「あった、あった」
カルロスはそう言って箱の中からなにかを取り出して革の鞄に詰めていく。
「イリスは一度城に戻るか?」
イリスは瞳に戸惑いの色を浮かべる。
先程、衛兵に呼び止められたが逃げてきた。
きっと今頃、イリスを探しているだろう。父や母は心配しているだろうか。
だが旅に出ると伝えたところで許してもらえるとは思えない。
それが時が止まった原因を探す旅だとしたら尚更だ。
今度こそ部屋から一歩も出してもらえなくなるかもしれない。
このタイミングを逃したら次はいつになるか分からない。
「……戻らない。このまま行く」
「いいのか? もう会えないかもしれないぞ」
カルロスはまっすぐな緑の瞳で言った。
イリスの気持ちがほんの少し揺らいだ。
「なら手紙を書く。誰かに届けてもらうことはできる?」
「ああ。紙とペンはどこにしまったか。……あった」
カルロスが差し出したのは羊皮紙とペンとインクだ。
イリスはそれらを受け取り、辺りを見回す。
平らな箱の上で手紙を書きだした。
そのうしろではカルロスが旅支度をしている。
「カルロス」
テントの外から声がした。ダニエラだ。
イリスがびくりと肩を震わせる。
お茶会では気まずい別れ方をした。
もしかしたら正体もばれているかもしれない。
カルロスはそんなイリスを一瞥してから言った。
「待って。今出る」
カルロスはテントの外に出た。
「なに?」
「よかった。カルロス、戻っていたのね。実はレイダのことで……」
イリスはテントの中で息を顰めて聞いていた。
自分の偽名が聞こえて肩を震わせる。
そこからダニエラは声を顰めたようで聞こえなくなった。
しばらくしてカルロスが戻ってきた。ダニエラとコニーも一緒だ。
イリスは青い顔で二人を見た。
ダニエラがイリスに駆け寄って抱きついた。
「ああ、よかった。無事だったのね」
イリスは驚いた顔を浮かべてダニエラの顔を見た。
目尻に涙を溜めていた。
コニーを見るとほっとしたような顔でイリスを見ている。
「どうして?」
「衛兵がレイダを追いかけて行ったから心配していたの。まさかレイダが王女様だったなんて」
イリスがびくりとした。やはり正体がばれていたのか。
あれだけ取り乱し、衛兵が『イリス王女』と呼べば気がつかないはずがない。
「私がいかれた姫で驚いた?」
ダニエラはきょとんとイリスを見た。
「それは人が言っていることでしょう?
レイダがイリス王女だとしたらその噂は間違っていると思う。
私が知っているレイダはいかれてなんかいないもの」
イリスはうつむいた顔を上げた先ではダニエラが微笑んでいた。
イリスはダニエラに抱きつく。
「これからどうするの?」
ダニエラが聞いた。
「イリスは俺と旅に出る。時が止まった原因を探しに行くんだ」
「本当に時は止まっているの?」
「うちのじいさんもそう言っている。なら俺は信じるだけだ」
カルロスがさっきも言っていた。『長老の言葉は絶対』だと。
長老が言わなければきっとイリスは今もひとりだった。
「なら早く出た方がいいわ。衛兵が街の方まで探しに出ているの。
その内、街の外にまで捜索の手を伸ばすわ」
カルロスはうなずいてから立った。
「イリスの手紙はじいさんに渡そう。時間がない。行こう」
イリスも立ち上がる。そしてダニエラと再度、抱擁を交わした。
「気をつけて、イリス王女様」
「イリスって呼んで。また街に戻ったら林檎を取りに行こう」
「ええ、イリス。楽しみにしているわ」
ダニエラから離れてコニーとも抱擁を交わす。
「イリス、いってらっしゃい」
「いってきます」
イリスとカルロスは足早にテントをあとにした。
そしてもう一度エイブラハムのテントに顔を出す。
カルロスがなにかを言う前にエイブラハムが言った。
「もう行くのか?」
「ああ。衛兵がイリスを探している。――これを。イリスの手紙だ」
「ああ。たしかに受け取りました。必ず陛下にお渡ししましょう」
エイブラハムは手紙を掲げて言った。
そして傍らにある小振りの革袋を手に取った。
「これを。少ないが路銀です」
「ありがとうございます」
イリスが受け取った。そしてエイブラハムの手を取って頬に当てる。
「エイブラハム様、お世話になりました。あなたのおかげで私は救われた」
「畏れ多い。わしはすべてをあなたに任せてしまう愚かな老人です。どうか、生きて戻ってきてください」
「はい」
イリスはエイブラハムの手に頬ずりをして手を離した。
こうしてイリスの旅ははじまった。