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城に戻ったあと、イリスは父であるルーベンス国王にこっぴどく叱られた。
一時間ほど経つと、イリスは辟易し、ぐったりとした様子だ。
それを見兼ねた母である王妃が「おかえり」と言って、イリスを抱きしめた。
ルーベンス国王はそれを見て、重いため息をつく。
それに反して、ルーベンス国王の表情はどこか安堵した様子だった。
こうしてイリスはルーベンスの白亜の城へと戻ったのだった。
その後、ルーベンス国王はイリス・ド・バリー王女の『時が止まった』という言葉を正式に認めた。
それはルーベンス国内だけでなく、全ての国を震撼させた。
そして、それと同時に、イリス・ド・バリーの名は世界中に馳せることとなる。
いかれた姫と呼ばれたイリスが、世界の時を取り戻したひとりの英雄として。
赤毛の少女が尋ねてきたのは、旅を終えてから一カ月ほど経ったころだった。
その頃にはイリスも落ち着きを取り戻し、過酷な旅が嘘だったのではと思うような平和な日々が続いていた。
しんしんと雪が降る寒い日だった。
フィオナはイリスの自室に案内された。
フィオナは身軽な街娘の格好で、イリスは旅をしていた時とは違い深紅のドレスを身に纏っている。
二人は部屋に置かれたソファーに座り、向かいあうようにして話している。
テーブルには紅茶とクッキーが置かれていた。
「おばあちゃんに時を止める条件を聞いてきたんだ」
フィオナはそう話を切り出した。
「時を止める条件は全部で三つ。ひとつめは、時を封じ込めるための媒体が必要なんだって」
「今回は黄金の懐中時計だったってこと?」
「その通り。だけど、なんでもいいわけじゃない。長く時を刻み続け、時を押さえ込めるだけの力があるもの。すなわち魔道具と呼ばれるものだ。魔道具は魔力を込めて作ったものと、使われている内に魔力を有したものの二通りある。どちらもそう簡単に手に入るものじゃない。そして、ふたつめの条件。それは晴れた満月の日に魔法を発動すること。それも夜中の十二時ぴったりに。その上、魔法を発動している最中に一度でも月に雲がかかったら失敗だ」
時が止まった日は綺麗な満月の夜だった。
自室の窓から月を眺めている時に、時が止まったのを感じたのだ。
だからよく覚えている。
イリスは納得するように頷いた。
「それからみっつめの条件。『ルナ』という白い花があるんだ。『月の花』とも呼ばれる。その花の朝露を『月の涙』と呼ぶ」
「それは前に書物で呼んだことがある。薬を作るのにも必要なのよね?」
「そう。全てに必要とは限らないけど。――その月の涙を媒体に垂らすことで時を止める魔法が発動をはじめる。ちなみに月の涙を手に入れるのはそう難しくはない。迷いの森にも咲いている」
「じゃあ、もし風の魔女が時計の魔道具をいくつも持っているとしたら……」
「さっきも言ったけど、そう簡単に手に入るものではないよ。それに貴重な魔道具ほど魔女が大切に保管し、どこの誰が持っているのか知ることは難しい。きっと風の魔女も黄金の懐中時計だけしか持っていなかったと思う。これはおばあちゃんも同じ考えだった」
しかし、イリスの胸を過る不安は消えない。
風の魔女はどうやって黄金の懐中時計を手に入れたのだろう。
元々持っていたのか、あるいはどこかで手に入れたのか。
それに、風の魔女はイリスを旅立たせないために風を使って噂を広めたと言った。
ならば、風を使って噂を集めるようなこともできるのではないか。
そうすれば時計の魔道具を持っている魔女の居場所を知ることもそう難しいことではないかもしれない。
「イリス?」
「あ、ごめん、考え事をしていて……。風の魔女は魔道具を探すこともできるんじゃないかな。どこにでも自由に行ける。それが風の魔女なんでしょ?」
「んー。まぁ、世界を飛び回ればもうひとつくらい手に入れられるかもしれないけど……。イリス、あたしね、どうしても腑に落ちないことがあるの」
フィオナはカップを手に取って言った。
イリスは首を傾げる。
「風の魔女は時を止めるだけの魔力を持っていた。なのに、イリスがくると分かっていたのに北の荒野から逃げず、あたしたちが辿りついても戦いを挑んでこなかった」
フィオナの言う通りだ。
風の魔女が時を止めた犯人だと知った時、イリスも戦うことを覚悟していた。
「もし風の魔女が本気であたしたちに戦いを挑んできたら、あたしたちは無事じゃすまなかった。同じ魔女同士、お互いの力量は目を見れば分かる。風の魔女はあたしなんかよりずっと強い魔女だった」
「それなのに風の魔女は私たちと戦うことを避けた?」
「そう。ここからはあたしの推測ね。時を止めるには膨大な魔力が必要だ。これは北の荒野でも言ったよね?」
イリスは頷く。
だから風の魔女がすぐにまた時を止めることはないとフィオナは言った。
「風の魔女は時を止め続けるのに魔力を費やし、他に回す余力がなかった。だから、北の荒野から逃げることもせず、あたしたちと戦うこともしなかった」
「でも、風の魔女は私たちの前から姿を消したよ?」
「そう。イリスが来ることを見越して、最後に逃げるための魔力を残しておいたんだ」
「そうか。だから風の魔女は、私に魔法を解けるかどうか賭けたんだね」
フィオナは頷く。
「そうすれば風の魔女の行動に説明がつく。もしその通りだとしたら逃げたことで魔力を使い果たしているはずだよ。だとしたら風の魔女はすぐには動けないはずだ。強い魔力を持つ者ほど、力が尽きてしまった時の回復には時間がかかるから」
「そうなの?」
「うん。魔力というのは世界にあるエネルギーを集めて作られる。大きな樽に水を注ぐのと、小さなコップに水を注ぐのとではかかる時間が違うでしょ? それと一緒だよ」
イリスは納得したように頷いた。
「じゃあ、風の魔女が動き出すとしてもまだ時間はあるということね?」
「うん。あと数年は大丈夫じゃないかな。それに、おばあちゃんが風の魔女がどこへ行ったのか探している。おばあちゃんの手にかかれば、すぐに見つかるんじゃないかな」
フィオナは紅茶を啜った。そしてぺろりと唇を舐める。
「森の魔女が? 風の魔女を探しているの?」
「うん。風の魔女も言っていたでしょ? 時を止めることは禁忌だって」
「そういえば……。禁忌だと知っていて使ったって言っていた」
「魔女は強大な魔力を持っている。使い方を間違えれば世界を揺るがしてしまうことになりかねない。今回の風の魔女のようにね。だからあたしたち魔女は禁忌と言うものを重視する。それを犯す者には重い罰が与えられる」
「つまり風の魔女は他の魔女たちにも追われるということ?」
「うん。そうなるね」
「そこまでして風の魔女は愛した人と一緒にいたかったんだね」
イリスは瞳を伏せる。
今でも風の魔女を鮮やかに思い出せた。
藤紫の長い髪に同じ色の感情のない瞳。
美しい魔女だった。
そして、寂しげな魔女だった。
「イリス、風の魔女に同情してはいけないよ。ホセが言ったように、人の未来を奪う権利は風の魔女にはない。誰にもないんだ。イリスは自分の使命を果たし、人の未来を守ったんだよ」
フィオナの黄金の瞳がイリスを力強く見据えた。
「イリスにも魔法を扱う者として覚えておいてほしい。魔法は人を生かすこともできる。けど、命を奪うこともできるんだ。世界を守ることもできるけど、破壊することもできる。それを忘れたときは全ての魔女が敵に回るよ」
イリスはゆっくりと頷いた。
その言葉はイリスの胸に重くのしかかる。
遠い昔、人の世界からは魔法は消えた。
今ではおとぎ話の中の幻とされている。
しかし、たしかに魔法は存在するのだ。人も扱うことができる。
それをイリスは身を持って知っていた。
「もしかして人の世界から魔法が消えたのは……」
「イリス・ド・バリー、それは遠い昔の話だよ」
フィオナはにっこりとほほ笑んだ。
それはいつものフィオナの笑みだった。