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翌日、イリスは武器庫にあった弓矢を手にしてカルロスたちと約束している森の入口にきた。
すでにカルロスたちはきていた。
イリスの姿に気がついたダニエラが手をふる。
四人は森の中を進んだ。
今日は森の入口近くある広場で剣の稽古だ。
この辺りは木こりによって木が伐採されてできた場所だ。
イリスとダニエラは切り株に腰をかけ、カルロスとコニーの剣の稽古を見ていた。
「レイダも収穫祭には参加するの?」
ダニエラにそう聞かれてイリスは、もうそんな時期かと思った。
収穫祭とは国王が主催する秋の祭典だ。
城の庭を開放してお茶会が開かれる。
街人や遊牧民を問わずに誰でも参加できるのだ。
しかしその日、イリスは一日中部屋の中にいることが命じられている。
「どうかな?」
イリスは曖昧な返事で済ませた。
「そっか。遊牧民にもそれぞれの長の考えがあるものね」
ダニエラはそう言って、ふぅっと憧れたようなため息をつく。
その視線の先は森の木々の合間からひょっこりと頭を出した城だ。
ルーベンス王国の首都、クルトに佇む城。白亜の城は気高くそこにあった。
「一度でいいからお城に住んでみたい」
イリスはダニエラの言葉になんと答えたらいいのか分からなかった。
彼女の望みはすでにイリスの手の中にある。
だが、イリスはそれに同意はできなかった。
イリスにとって城での生活はひどく退屈で、つまらないものになっていたからだ。
「どうして?」
ようやく出た言葉はその理由を尋ねるものだった。
「いつも煌びやかなドレスを着て、美味しいものを食べて、優雅に生活ができるのよ」
「だけど、こうして森を駆けることも、林檎を取って食べることもできなくなるよ」
ダニエラは少し考えるようにしてから言った。
「それもそうね。森の林檎を取って食べられなくなるのはいやだわ」
肩をすくめたダニエラにイリスは小さく笑った。
「そう考えると、お城のお姫様はかわいそうね」
イリスはどきっとしてダニエラを見た。
「変わり者のお姫様らしいけど、いつもお城から出られないのはかわいそう」
イリスはダニエラを見た。
「変わり者?」
「そう。なんでも『時が止まった』と言って……」
「ダニエラ」
カルロスが呼んだ。ダニエラは顔を上げた。
「休憩するから、水袋」
ダニエラは傍らに置いた鞄から水袋を取り出して渡した。
そのままカルロスはその場に座り、水を飲む。
隣にはコニーがいた。
二人とも額に玉の汗をかいていた。
カルロスの介入でダニエラの話は終わった。しかし、イリスの胸中は重い。
時が止まったのはたしかだ。
ずっと止むことなく流れていた時が凪いだのを感じた。
それを感じ取った者は、本当に自分しかいないのか。
それとも時が止まったと感じたこと自体が間違っていたのか。
だが、歳をとらなくなったこと、子供が生まれなくなったこと、それは時が止まった証拠ではないか。
それを誰一人として疑問に思わないのはなぜなのか?
自分だけがこの場に取り残されたような冷たい錯覚。
心地よい風を感じられなくなったような感覚。
まるで自分だけがそんな呪いにかかってしまったようだ。
「レイダはどう思う?」
カルロスが聞いた。イリスははっとしたように顔を上げた。青ざめた顔を。
「どうって? なに?」
イリスはカルロスの緑の瞳を見た。
まるで心の奥底まで見えているかのような澄んだ緑を。
「姫さんが言っている『時が止まった』っていうこと」
「……どうして私に聞くの?」
「さっきダニエラと話していただろ?」
イリスは取り繕うように何度か小さくうなずいた。
てっきり自分がそのいかれた姫だと見抜かれたのかと思ったが違ったようだ。
「そういうカルロスはどう思う?」
「さぁな。時が止まろうが、時が進もうが俺にとって不都合がなければ関係ない」
「そうよね。季節も変わるし、時が止まったってどういうことか分からない」
カルロスに同意するようにダニエラもそう言った。
イリスは考える。
カルロスの言うように今のままでも不都合はないかもしれない。
ダニエラの言うように季節もうつろう。
でも、それでいいのだろうか。
今は不都合がなくても、これから先もそうだと言えるのだろうか。
歳をとらなくなったことで病気で死ぬ者はいなくなった。
その代わり、子供は生まれない。
それでいいのだろうか。
「……私はそうは思わない」
イリスがぽつりと小さく言った。
カルロスの緑の瞳がおもしろそうに笑った。
「そういえばカルロスはいつまで街にいるの?」
ダニエラが聞いた。
「今年は収穫祭の翌日に街を立つ」
収穫祭は明日だ。
唐突な別れの予告にイリスはすっと胸を撫でる冷たい風を感じた。
「そうなの? 今年はずいぶんと早いのね」
「ああ、今年は冬が早そうだからな」
なんでもないことのようにダニエラとカルロスは話を進めている。
二人は別れに慣れているのだ。
そして、次の年もまた会うことを確信している。
対して、イリスは別れに慣れていない。
そして、次の年にカルロスに会える確信がなかった。
今はこうして一緒にいるが、彼らのように強い絆はないのだから。
「カルロスも収穫祭に行くよね?」
「ああ、もちろん行くよ」
カルロスがダニエラと話している。
それをイリスが少し離れた気持ちで見ていた。
森の入口での別れ際、カルロスが言った。
「また明日な」
「……私は収穫祭には行かない」
「知っている。でも、また明日」
よく分からない謎かけのような言葉を残してカルロスは去って行った。
カルロスの澄んだ緑色の瞳は時々なにを考えているのか分からない。
けれど、嫌いではない。
綺麗なカルロスの瞳は好きだ。
イリスはじっとカルロスの背中を見つめていた。
翌日、イリスは国王からの命令通り、自室に籠っていた。
淡い紫色のドレスを身に纏い、窓からお茶会の様子を眺める。
ドレス姿の貴夫人もいれば、遊牧民の見慣れぬ服を着た人たちも多くいた。
楽しげな笑い声が遠くから聞こえる。
イリスは窓から離れて部屋の中心に置かれた白いテーブルについた。
カルロスの「また明日な」という言葉が脳裏から離れない。
そして、明日になればカルロスはこの街を離れる。
今日会えなければもう会えないような気がした。
カルロスは今、あのお茶会の中にいるのだろうか。
イリスは立ち上がり、いつもカルロスたちと会う時に着る服に着替えた。
そして、ドアノブに手を掛け、そのドアを開けた。
廊下を確認すると人はいない。イリスは忍ぶように歩き出した。
お茶会に最後に出たのはいつだっただろうか。
時が止まって三度目の秋だったか。
その頃にはイリスを見る人の目は冷たくなっていた。
楽しかったのはやはり時が止まる前までのお茶会だ。
そう言えば、幼い頃に庭のお茶会に迷い込んだことがあった。
そこで遊牧民の男の子と出会った。
今の今まで忘れていた。
あの少年の名は聞かなかったが、その少年も今日、このお茶会にきているのだろうか。
そこでイリスは足を止めた。
国王である父はお茶会が開催されている間、部屋から一歩も出るなと言った。
けれどイリスの心は止まらなかった。
こっそりとお茶会を近くから眺めるだけだ。誰にもばれなければいい。
運が良ければカルロスに、ダニエラに、コニーに会えるかもしれない。
ほんの少しだけイリスの薄い茶色の瞳が煌めいた。
お茶会は城の庭で行われている。
木陰からイリスはお茶会の様子を伺った。
テーブルに並べられた料理からはよい香りが漂っている。
お茶会には街の子供も遊牧民と思われる子供たちもいた。
だが、カルロスもダニエラもコニーも見当たらない。
この服装で自分がイリス・ド・バリーだと気づく人は少ないだろう。
子供たちに紛れてしまえばきっと誰も気がつかない。
木陰から一歩前に出るだけなのに、その勇気が出なかった。
もう諦めて戻ろうか。うつむいてそう思った時に名を呼ばれた。
「レイダ?」
顔を上げた先にいたのはダニエラだ。
「どうしたの? そんなのところで」
コニーの手を引きながらダニエラがイリスの傍にきた。
戸惑いながらもイリスは笑みを浮かべた。
「レイダも一緒に収穫祭を楽しみましょうよ」
ダニエラの笑顔に惹かれるようにイリスはお茶会に一歩踏み出した。
「ダニエラとコニーだけ?」
「ええ。カルロスはまだ見てない」
「そう。私、あまりいられないの。内緒できてしまったから」
人々の視線から逃れるようにうつむくイリスをダニエラは見た。
「カルロスはしばらく来ないと思うわ。長老のエイブラハムさんと一緒に陛下にご挨拶に行っているから」
イリスが驚いた顔を上げた。
「カルロスは長老の孫なのよ」
イリスの疑問に答えるようにダニエラが言った。
それを知っていれば城の入口近くで待っていて声をかければ済んだのに。
けれど、ダニエラとコニーにも会いたかったし、少しお茶会に紛れるのも一興かもしれない。
イリスは気持ちを入れ替え、ダニエラたちとともにお茶会を楽しむことにした。
テーブルに並べられた料理はどれもおいしそうだった。
目移りしながらもイリスたちは皿に取っていき、気がつけば山盛りになっていた。
その皿を持ち、イリスたちはテーブルから離れていく。
その時、お茶会の一角が騒がしいことに気がついた。
そこには衛兵たちがいて辺りを見回していた。
イリスはどきっとした。
きっと部屋にいないことがばれて自分を探しているのだ。
イリスは顔を青ざめさせた。
「レイダ? どうしたの?」
足を止めたイリスをダニエラが心配そうに見つめた。
このままではダニエラとコニーに自分の正体を知られてしまう。
もし自分が忌み嫌われた王女であると知られたら彼女たちはどう思うだろうか?
――知られたくない。
「わ、私、急用を思い出したの。ごめんなさい」
イリスは衛兵たちとは反対方向に逃げだした。それを衛兵が見咎めた。
「お待ちください。イリス王女」
遠くから呼ばれたのが聞こえたが、イリスは止まることなく走った。
「王女?」
「イリス・ド・バリーか?」
「あのいかれた姫がきているのか?」
衛兵の呼び声で辺りはざわめき、その合間から囁きが聞こえた。
イリスは耳を塞ぐ。
嫌だ。聞きたくない。私は間違っていないのに。
「レイダ、こっちだ。こい!」
木陰からカルロスが現われた。
カルロスがイリスに手を差し出す。
イリスは迷うことなくその手を取った。