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アルド王国へと戻ってきたイリスたちは、気ままに街道を進んでいく。
この頃には十二月に入り、北部には雪が積もりはじめていた。
アルド王国の首都カレルに着いたイリスたちは、一度ユアンに案内された宿屋へ行くことにした。
ユアンとの連絡のとり方が分からなかったからだ。
カレルにある城へ行き『ルーベンスの王女、イリス・ド・バリー』だと名乗るわけにもいかない。
子供が尋ねて行ったところでユアンに取り次いでもらえるはずもない。
唯一の糸口として宿屋の主人に賭けてみることにしたのだ。
宿屋に入ると、年配の女がイリスたちに気がついた。
以前、この宿に訪れた時に見たことのある顔だった。
「ひと月くらい前にここに来たことがあるんだが……」
カルロスは言葉を濁した。
ユアンの名を出して怪しまれることは本意ではないからだ。
しかし、女はカルロスのオレンジの髪と、カルロスのうしろに立っているフィオナの赤髪を見て、思い出したように微笑んだ。
「覚えております。あの方に御面会ですか?」
あの方というのはユアンのことだろう。イリスは頷く。
「以前に、あの方から赤髪のお嬢さんとオレンジの髪の少年が尋ねて参られたら連絡をするようにと託っておりました。お部屋へご案内しますから、そこでしばらくお待ちください」
丁重にもてなされたイリスたちは以前に案内されたあの部屋へ通された。
ホセは立派な部屋に唖然とし、辺りをきょろきょろと見回す。
「親方の宿なんかより何倍も立派だなぁ」
「なんせアルド王国の王子様御用達の宿屋だからね」
フィオナが自慢げに言うと、ソファーに凭れるように座った。
イリスもフィオナの横に座り、カルロスとホセはそれぞれ近くに置いてあった椅子に座った。
それから一時間も経たずに、部屋のドアがノックされた。
入ってきたのは見慣れぬひとりの紳士だった。
歳は五十を超えているだろう。
しかし背筋はピンと伸び、細い瞳には強い力があった。
イリスは立ち上がり、スカートの裾をわずかに持ち上げて礼をする。
さすがはルーベンスの王女なだけあってそれは気品のあるものだった。
「フレディ様、ご足労感謝します。ユアン王子はご一緒ではありませんか?」
フレディは胸に手を当て、イリスに礼を返す。
「イリス・ド・バリー王女殿下。ご無事でなによりです。ユアン王子はもうしばらくしたら参られます。先にわたしがイリス王女にご挨拶を申し上げるようにと託りました」
そう言うのは建前で、イリスが本物かどうか確かめに来たのだろう。
「どうぞ、フレディ様もお座りください」
イリスは向かい側にある席を示したが、フレディはやんわりと断った。
カルロスは首を傾げる。
「フレディ……」
どこかで聞いたことがある名だ。どこだっただろうか。
そうだ、アルド王国で聞いた。
たしかユアンとともにいた老兵がフレディという名だった。
カルロスはイリスの背後に近づき小声で尋ねる。
「なぁ、このじいさんもフレディという名なのか? ユアン王子と一緒にいたあの兵士も同じ名だったよな?」
イリスは一瞬きょとんとしたあとくすくすと笑った。
「やだ、カルロス。あの兵士と同じ人よ」
カルロスは大きく目を開いて、控えているフレディを見た。
あの老兵はそっとユアンの傍に控え、存在感も薄く、覇気など感じなかったのに。
今目の前にいるフレディとは正反対の印象だった。
同一人物だという考えは浮かばなかった。
「先日はご挨拶もせずに申し訳ありません。ユアン王子に仕えておりますフレディと申します」
「ああ、いや。俺は遊牧民のカルロスです」
フレディの丁寧な挨拶にカルロスは慌てた。
頭を下げて言ったカルロスにフレディは笑みを深める。
「あなたには先日のわたしと今のわたしが別人に見えましたか。それは嬉しいことです」
カルロスは顔を上げて不可解そうにフレディを見た。
「先日はユアン王子のお傍で兵士に紛れて仕えるのが目的でしたから」
「フレディ様は変装の名人なの。私も声を掛けて頂くまでは気がつかなかった」
「そうでしたか」
フレディは満足そうに頷いた。
それからまた一時間ほどしたのちに、ユアンも到着した。
今日は五人の兵士を連れているようだ。
扉の外に二人残し、部屋の中には三人の兵士が共に入ってきた。
「仰々しくてすまない」
ユアンはそう言って、イリスの向かいにあるソファーに腰かけた。
「なにかあったの?」
イリスの問いにユアンはわずかに間を空けてから答えた。
「実は父上が病に伏せられた」
「アルド国王様が?」
「まだ内密の話なんだ。それで城内が騒がしい」
ユアンの言葉にイリスははっとした。
「でも、王位は第一王子が継ぐ予定ではなかった?」
イリスの問いで、カルロスたちもユアンの言葉の意味を悟ったようだ。
表情が次第に固くなっていく。
「それをよしとしない者もいる。王位の順などあってないようなものだ。優秀な者が跡を継ぐべきだと俺も思う」
「殿下、お言葉はお選びください」
フレディの静かな戒めにユアンは肩をすくめた。
「ユアン王子も王位を継ぎたいの?」
フィオナが尋ねた。
黄金の瞳がユアンを見据える。それは非難にも似た視線だった。
フィオナにとって人間の権力争いというものは理解しがたい問題なのだ。
「まさか。俺は幼いころよりルーベンスの次期女王の婚約者として育てられている。王位を継ぐための教育は受けていない。早々に棄権した」
「しかしそれを信用しない者もいます。それに王位は無理だと判断し、この混乱に乗じてルーベンスの次期女王の婚約者の座を狙おうとする者もいるかもしれません」
「つくづく嫌になる」
ユアンは大きなため息をついた。
それでこの護衛たちというわけだ。
部屋にいる兵士たちは話など聞いていないという素振りで辺りを警戒していた。
ユアンは肩程の茶色い髪を揺らしながら膝に肘を置いて身を前に傾けた。
「それでイリスたちの旅はどうだ?」
「北の荒野の魔女に会って、時を取り戻したよ」
「そうか。よくやったな」
ユアンは固かった表情が少しだけ和らいだ。
「それでイリスはこれからどうする?」
「ルーベンスへ戻る。お父様とお母様に会って、それからまたどうするかは決める」
イリスは瞳を伏せるようにして言った。
「ならルーベンスへ戻る船を手配しよう。その方が早く着くだろ」
ユアンがフレディを振り返るとフレディは小さく頷いた。
「それからイリスは怒るかもしれないが、ルーベンス国王にお会いしてきた」
ユアンの言葉にイリスは顔を上げた。
戸惑うような、不安げな瞳をユアンに向ける。
「イリスのことを大層心配しておられた。イリスは時が止まった原因を探すために旅をしていると話すと、ルーベンス国王はそのことをご存じだった」
「旅に出る時にエイブラハム様に手紙を託してきたから」
「ルーベンス国王もそんなことを言っていたな。それで俺は『もしイリスの処遇に困っているようなら、アルド王国で今後面倒をみてもいい』と言った」
フィオナは口笛を吹いた。
カルロスは目を大きく見開き、ホセは落ち着かない様子で話を聞いている。
イリスは固い表情のまま尋ねた。
「それで、お父様はなんて?」
「国王陛下は毅然としておっしゃられた。『イリス・ド・バリーは私の娘であり、ルーベンスの王女だ。いずれは跡目を継がせるつもりでいる』とな。あと、イリスに会ったら早く帰って来いと伝えるように言われた」
イリスは驚いたように目を見開いたあと、口元に手を当てて目を閉じた。
涙がぽろぽろと溢れてくる。
「どうやらイリスを城の奥へ閉じ込めていたのは、お前に危害を加えようとする者から守るためだったようだ」
ユアンの言葉で風の魔女のことを思い出した。
『国王と王妃には、イリスを後継ぎにするわけにはいかないと暗殺を企てている者がいるという噂を聞かせた』と。たしかに言っていた。
そのために外部と接触をさせないようにしていたのだ。
その両親の想いがイリスにやっと伝わった。
「お父様、お母様……」
イリスは遠い祖国にいる両親を呼んだ。
ずっと会うことが重荷だった。恐かった。
けれど今は心の底から会いたいと願う。
感謝と黙って出てきたことを謝りたい。
「叱られはするかもしれないが、お前の戻る場所はたしかにある。よかったな」
ユアンは笑みを浮かべて言った。
その声色には包み込むような優しさがあった。
「ありがとう。ユアン」
「俺にできることをしたまでだ」
ユアンは少し照れくさそうだった。
フィオナは後ろに立っているカルロスをそっと振り返る。
カルロスは無表情を貫いていたが、旅を共にしていたフィオナにはカルロスの余裕のない内心が手に取るように分かった。
フィオナはほんの少しだけ苦笑いを浮かべる。
「よかったな、イリスちゃん」
イリスのうしろに立っていたホセがソファーの背に手をついて言った。
「お前もイリスの旅の仲間か?」
ユアンがホセに尋ねた。
「あ、はじめまして、ユアン王子様。レオーネの街のホセと言います」
ホセは相変わらず軽い調子で自己紹介をした。
「ホセも一緒に北の荒野へ行ったの。これからカレルで仕事を探すんですって」
イリスがそう言うと、ユアンはホセを眺めた。
「お前、いくつだ?」
「十五です」
ユアンは立ち上がり、ホセの前に立った。背丈はほぼ一緒だ。
「ホセと言ったか? 剣は扱えるか?」
「カルロスほどではありませんが、自分の身を守れるくらいは。弓もイリスちゃんほどじゃないけど扱えます。魔法は使えません。あと逃げ足なら誰にも負けません」
ホセは胸を張って言った。
カルロスは苦笑したが、ユアンは何度か頷いた。
それからユアンはもう一度ホセを頭からつま先までじっくりと眺めたあとフレディを見た。
フレディは頷き返す。
「お前、俺のところへこないか?」
「え?」
ホセは目をまん丸くした。
イリスたちも驚いたようにユアンを見る。
「お、オレがですか?」
「ああ。ちょうど俺と同じ背恰好のやつを探していた。俺の側仕えだ。時々、俺の代わりに式典や行事に出てくれればいい」
ユアンは笑みを浮かべながらホセの肩を叩いた。
つまりはユアンの影武者というわけだ。
「やります!」
ホセはぴんと背を伸ばして言った。
「お前、死ぬなよ……」
カルロスが言った。その瞳は不安そうだ。
「は?」
ホセは意味が分かっていないようで、ぽかんとカルロスを見ていた。
「心配はいらない。ちゃんと安全は保障する」
ユアンは苦笑気味に言った。
それからしばらく話したあと、ユアンたちは帰って行った。
イリスたちはまたユアンの好意で宿屋に一泊することとなった。
翌日、宿屋の前にはイリスたちを港まで送る馬車が停まっていた。
フレディだけが見送りに来ていた。
今は王権争いの最中だ。ユアンがそう簡単に城から出られないことも頷ける。
昨日は危険を押して、イリスたちに会いに来てくれたのだ。
「じゃあな、イリスちゃん、カルロス、フィオナ姐さん」
あいかわらずホセは軽い。
ここで別れればなかなか会うこともないのに、まるで『また明日』と言わんばかりの軽さだ。
ホセはこのあとフレディと一緒に城へ行くと言う。
もしユアンの側仕えを続けていれば、いずれはイリスには会う機会もあるだろう。
「元気でな。ユアン王子に迷惑かけるなよ」
カルロスはホセの肩を軽く叩いた。
「おう。みんなも気をつけて帰れよな」
ホセはそう言ってにっと笑った。
イリスとカルロスとフィオナは馬車に乗り込む。
「フレディ様、ユアンにありがとうって伝えて下さい。それからホセをよろしくお願いします」
イリスは馬車の中から顔を出して言った。
フレディは頷く。
「はい。お任せください」
フレディは胸に手を当てて礼をする。
馬車はゆっくりと動き出した。
イリスたちは馬車から顔を出してホセに手を振る。
ホセは軽く手を振って応えた。
ホセは馬車が見えなくなるまでそこに立っていた。
「寂しいか?」
フレディはそんなホセの背に尋ねた。
ホセは腕で顔を擦ったあと振り返った。
「全然。またいつか会いますから」
ホセはそう言ってにっと笑った。