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目が慣れてくると、 まず目に入ったのは円を描いている壁に沿うように置かれた天井まである大きな木製の棚だ。
そこにはたくさんの本と色とりどりの薬の瓶が置かれている。
そしてたくさんの時計が並べられていた。
ひとつは正確に時を刻み、ひとつは逆方向に回り、ひとつは長針が進んでは戻り、ひとつは早い速さで長針が進んでいる。
どれもが同じ動きをしていない不思議な時計ばかりだ。
イリスの足元には数段の階段があり、そこを降りた先は部屋になっていた。
小さな部屋だ。
赤い絨毯が敷かれ、ひとつの揺り椅子が置かれていた。
そこには葡萄色のドレスを纏った女が座っている。
藤紫の長髪をゆったりと流し、瞳は髪と同じ色をしていた。
二十代前半といったところだろうか。
少し幼いような、けれど、どこか落ち着いた雰囲気がある。
その女の膝には黒い子猫が丸くなって眠っていた。
鈴のついた赤いリボンが首に巻かれている。
「いらっしゃい。イリス・ド・バリー。小さな、小さな時の守人さん」
女は階段の上にいるイリスを見上げて言った。
イリスはゆっくりと階段を下り、女から少し距離をとって立った。
背後にはカルロスとフィオナ、ホセがいる。
カルロスは剣の柄に手を添え、フィオナは樫の杖を掴む手に力を込める。
ホセは部屋の中を把握するかのように菫色の瞳で鋭く辺りを見ていた。
「あなたが荒野の魔女?」
「ええ。今はそう呼ばれているわ。わたしは風の魔女。好きな時に好きな場所へ行けるのよ。その時どきで呼び名は変わるわ」
風の魔女と名乗った女は膝の黒猫の背を撫でた。
「ダフネで私は『時の守人』と呼ばれた。あなたに害をなすと。時の守人とはなに?」
「時の守人は時に選ばれた人間のことよ。人の時を止めようとするわたしを止めるために。あと一度秋を迎えれば、完全に人の時を止められたのに……」
風の魔女は残念そうにため息をついた。
イリスは薄い茶色の瞳に戸惑いを浮かべた。
「どうして人の時を止めたの?」
「老いたくない。死にたくない。時が止まればいいのに。それが人の願いでしょう? わたしはそれを叶えてあげた。人の寿命は短くてかわいそう。だけど人の時が止まれば、わたしたち魔女だって一緒に生きられる。わたしは人と一緒に生きたいの」
「そうか。人が好きなんだね。あたしも風の魔女の気持ちが今なら分かるよ」
フィオナはそう言いながらイリスの横に立った。
「あたしはイリスやカルロスやホセのことが好きだ。これからも一緒にいたいと思う。だけど一緒にいられるのはほんの一瞬だけだ。あたしは老いていくイリスたちを見て、イリスたちは変わらないあたしの姿を見て、時の流れが違うことをいずれ痛感する時がくる」
フィオナは黄金の瞳はどこか寂しそうに見えた。
イリスはそっとフィオナの手を握る。
フィオナはイリスを見て微笑んだ。
「あたしたち魔女の祖先は小人族と人間族のハーフだと言われている。だから人間とは寿命の長さが違うし、人間よりも強い魔力を持っている。そして魔女という名の通り、魔女が産む子供は女だけだ。だから魔女は人間の男との間に子供を生す。そして子供を産み、ひとりで育てるんだ。だけど時々、人間の男を愛してしまう魔女がいる。あたしの母さんがそうだった。母さんはあたしをおばあちゃんに託し、人間の男と生きることを選んだ。風の魔女も母さんのように人間を愛してしまったんだろう?」
フィオナは黄金の瞳を悲しそうに細めて言った。
風の魔女は藤紫の瞳を閉じる。
しばらくして風の魔女はやっと口を開いた。
「最初は子供を産むためだけだった。けれどあの人は優しく、暖かかった。気がついたら傍にいたいと、離れたくないと思うようになっていた。それが禁忌だと知っていても、この想いだけは止められなかった」
「子供は?」
「……人だったわ。今はあの人が育てている」
風の魔女はぽつりと言った。
「魔女の子供も魔女とは限らない。時々、人間が生まれることがあるんだ」
フィオナはイリスに説明するように言った。
イリスは風の魔女を見つめた。
愛した人も産んだ子供も人間。自分だけが生きる時の流れが違う。
それはどんなに辛いことなのだろう。
「わたしはあの人とあの子と一緒に生きたい。だから人の時を止めることにした。時が選んだ守人がたった十歳の少女だったと知った時、わたしは歓喜したわ。人間の十歳の子供になにかできるとは思えなかったから。けれどイリスは時が止まった理由を知ろうと周りの大人に聞いた。そして、次第にイリスが『時が止まった』と言っていることが広まりはじめた。わたしは恐れたわ。だから、わたしは噂を流したの。
――イリス・ド・バリーはいかれた姫だと」
イリスの体がびくりと震えた。
四度目の秋を過ぎた頃から人々の間で『ルーベンスの姫はいかれてしまった』と囁かれはじめた。
それは瞬く間に広がり、気がつけばルーベンスの国民でこの噂を知らぬ者はいなくなった。
イリスが孤立するきっかけになった噂だ。
それを流したのが風の魔女だった。
カルロスが顔を顰めて剣の柄を力強く握る。
「その噂を流したせいでイリスがどれだけ傷ついたのか分かっているのか!」
風の魔女の藤紫の瞳が流れるようにカルロスを見た。
その瞳にはもう感情はない。
「時が止まったことを知る者とイリスを会わせるわけにはいかなかった。特にカルロスの祖父であるエイブラハムとは。ちょうどそのころエイブラハムはイリスの存在に気がつき、ルーベンスへ戻ると決めていたから早めに手を打つ必要があったの。人は人と違う者に敏感だわ。噂を流したらすぐに広まった。そして、国王と王妃には『イリスを後継ぎにするわけにはいかないと暗殺を企てている者がいる』という噂を聞かせ、イリスを城の奥へ追いやることに成功した。これで時が止まったと知る者と出会う可能性はなくなったと思っていた。けれど、イリス――あなたは諦めなかった。魔法を身につけ、【導き手】であるカルロスと出会った。そしてとうとうイリスとエイブラハムが出会い、あなたは『時が止まった』という確信を得てしまった」
風の魔女は伏し目がちに話を続ける。
その視線の先は黒猫だ。ゆっくりと黒猫の背を撫で続けている。
「そして【守護者】である森の魔女、フィオナと出会い、レオーネでは【賢者】であるホセと出会った。そしてとうとうこの北の荒野にまで辿りついてしまった。あなたは本当に人を惹きつける力のある人間なのね。時があなたを選んだ理由が、今ならよくわかる。
――イリス・ド・バリー。最後に賭けをしましょう」
風の魔女が黒猫を抱き、葡萄色のドレスを揺らしながら立ち上がった。
「時を取り戻せたらあなたの勝ち。もし取り戻すことができなければわたしの勝ち。どう?」
「いいわ」
「おい、大丈夫なのか?」
カルロスが眉を顰めて尋ねた。
イリスは振り返って頷く。その顔に迷いはない。
カルロスは口を噤み、イリスを信じることにした。
イリスは風の魔女に向き直った。イリスはまっすぐに風の魔女を見つめる。
「私はこの旅をはじめた時、ただ自分は正しいのだと証明したかった。誰も私のことを信じてくれなかったから」
イリスは瞳を閉じた。
カルロスとの旅を思い出していた。
迷いの森でフィオナと出会い、レオーネではホセと出会った。他にもたくさんの人に出会った。
時には悪意もあったが、好意もたくさんもらった。
たくさんのものを見た。たくさんのことを聞いた。
そしてたくさんのことを聞かれた。その度にたくさん考えた。
まだ分からないこともたくさんある。
だけど分かったこともあった。
「風の魔女の言葉を聞いてやっと分かった。たしかに魔女に比べたら人の命は短いかもしれない。あなたから見たら、それはかわいそうなのかもしれない」
イリスは一呼吸おいて言葉を続ける。
「いずれ老いて死んでいく。けど、その度に人は命の尊さを知る。そして新しい命には輝く未来を見る。時を止めると言うことはそのすべてを奪ってしまうことなんだ」
風の魔女の腕で眠っていた黒猫が顔を上げ、黒いつぶらな瞳をイリスに向けた。
「おいで。一緒に生きていこう」
イリスは両手を広げた。
黒猫は風の魔女の腕から飛び降り、イリスの胸に飛び込んだ。
それと同時に足元から風が吹き上げた。イリスはたまらず目を固く瞑った。
次第に風が止み、瞳をゆっくりと開くとそこは真っ暗な空間だった。
風の魔女の姿だけでなく、カルロスやフィオナやホセの姿もそこにはなかった。
イリスひとりだけがそこにいた。
辺りには歪んだ時計の文字盤がいくつも浮かんでいる。
イリスの腕の中にいる黒猫が胸元にすり寄るように頭を寄せた。
イリスは黒猫に頬を寄せる。
「おかえり」
イリスの頬に涙がこぼれた。
「あなたの勝ちのようね。
――さようなら、イリス・ド・バリー。またどこかで会いましょう」
どこからか風の魔女の声がした。
鈴を転がすような笑い声が次第に小さくなって行く。
気がつけばイリスは荒野の真ん中に立っていた。
傍にはカルロスとフィオナ、ホセの姿もある。
カルロスは空を見上げ、フィオナは遠くを見つめ、ホセは地面を確かめるようになんども地面を踏んでいる。
三人とも驚いたような顔をしていた。
胸に抱いていた黒猫はもういない。
代わりにイリスの手の中にあるのは黒猫がつけていた赤いリボンがついた古い懐中時計だ。
金色で繊細な細工が施されたものだった。
イリスがその懐中時計のふたを開けると、きちんと時が刻まれていた。
イリスは瞳を閉じて空気を大きく吸った。
止まっていた時が動き出している。それをたしかに感じた。
「イリス?」
カルロスがイリスの傍に寄った。
イリスは涙を流しながら微笑む。
「時が動き出したよ」
イリスの言葉を聞いてカルロスは瞳を閉じた。
冷たい風が頬を撫でるだけでやはりなにも変わらない。
だがイリスが言うのだ。それでカルロスには十分だった。
カルロスは緑の瞳を細めて微笑んだ。
「風の魔女と塔はどこへ行ったんだ?」
ホセは辺りを見回した。イリスたちの馬車は傍にある。
ここは間違いなく塔があった場所だ。
しかしぽっかりと空いた穴も塔も見当たらない。
「イリスが時を止める魔法を解いたから、きっと別の場所へ行ったんだよ。風の魔女は自由な魔女だから」
「いったいイリスは、どうやって魔法を解いたんだ?」
カルロスが尋ねた。
ずっと傍で見ていたが、イリスはただ黒猫を呼んだだけのように見えた。
そして突然目の前が暗くなったかと思えば、次の瞬間には荒野に立っていたのだ。
「あの黒猫が『人の時』だったの。風の魔女はこの懐中時計に人の時を閉じ込めた。そして黒猫の姿に変えていた」
「よくそこまで見抜けたね。いつから気がついていたの?」
「黒猫を見た時に懐かしい気がした。間違いないと確信したのは、黒猫の瞳を見たとき」
「さすがは時の守人、イリスちゃんだな」
ホセがにっと笑って言った。
「さて、と。ルーベンスへ帰るか」
カルロスはそう言って、四人は来た道を振り返った。
そこにはやはり道はなく、広大な荒野が広がっていた。