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馬を走らせ、翌日の午前中にはホセの言っていた橋に辿り着いた。
しかしイリスとカルロスとフィオナは、またしても死の谷の前で途方に暮れていた。
「橋はどこだ?」
「ほら、あれだよ」
ホセが指差す先を三人は見た。
フィオナは「はっ」と小さく笑い、イリスは首を傾げている。
カルロスは頭を抱えながら言った。
「いいか? あれは橋とは言わない」
目の前にあるのは古い吊り橋だった。
縄は今にも切れそうで、床板は朽ちて所々陥落している。
風に合わせてゆらゆらと左右に揺れていた。
「仕方ないだろう。日常では使わないんだから。死の谷の橋は『片道の橋』と呼ばれている。こんな橋をもう一度渡ろうなんて思うやつはいないだろう」
ホセはあっけらかんと言った。
カルロスが試しに吊り橋へ一歩足を踏み出すと、ぎしっと軋む音がした。
カルロスは慌てて橋から飛び退く。青い顔でイリスを振り返った。
「本当に北の荒野へ行くのか?」
イリスは迷いなく頷いた。
カルロスは頭を抱える。
「他に死の谷を越える方法はないのか?」
「聞いたことないなぁ。なによりもこんな崖をどうやって下るんだよ?」
ホセの言葉にカルロスは重いため息をついた。
「この橋を渡るのなら、馬はここまでだな」
イリスはカルロスを見てから三頭の馬に視線を向けた。
カルロスは馬の手綱を外している。
「この子たちはどうなるの?」
「主人を気に入っていれば戻るだろうし、自由に生きたければ野生に戻る。人間と違ってこいつらは強いからな。
――今までありがとう。助かったよ」
カルロスは馬を放した。
一頭はすぐに森へ駆けて行き、あとの二頭はその場でイリスたちの動向を伺っているようだ。
イリスは今まで自分を乗せてくれていた馬に近づく。
馬はそっと顔を寄せた。イリスも額を寄せて「ありがとう」と言った。
フィオナも馬に別れを告げるように馬の首筋を撫でていた。
四人はつり橋の前に立ってお互いの顔を見た。
「誰から行く?」
ホセが尋ねた。
カルロスはホセの肩をぽんと叩く。
「俺たちを案内しに来たんだろう?」
「そりゃないぜ……」
嘆きも空しく、一番はホセに決まった。
「次はイリスとフィオナだな」
「え? あたし渡らないよ」
イリスが驚いた顔でフィオナの腕を掴む。
フィオナがにっこりと笑った。
「もちろん北の荒野には行くよ。けど、あたしはこれで行く」
フィオナは樫の杖を翳した。みるみるうちに形を変えて箒になる。
フィオナはひょいっとその箒に乗るとふわりと宙に浮いた。
「あたしは空から応援しているよ」
「ずるいな」
カルロスが見上げながら不満そうに言った。
フィオナは肩を竦める。
「文句言わないでよね。今まで徒歩の旅につきあってあげたんだから。むしろ感謝して欲しいくらいだよ」
「フィオナ姐さん、本当に魔女だったんだ……」
ホセは唖然とした表情で見上げていた。
フィオナはにっと笑って辺りをくるくると飛んで見せる。
イリスたちが歓声を上げると満足そうに戻ってきた。
「じゃあホセ、イリス、俺の順で行こう」
カルロスが言った。
ホセが縄をしっかり掴んで一歩を確かめるように踏み出した。
何度か板を確かめるように足に力を込める。
そしてイリスを振り返った。
「意外と大丈夫そうだぜ」
ホセは縄を掴みながらも一歩一歩と前へと進む。
イリスは深呼吸をひとつしてから渡りはじめた。
下を覗くとそこは暗い谷底だ。
イリスは目をギュッと瞑って首を横に振った。
そして橋の先だけに視線を向ける。
カルロスは青い顔でイリスのあとを追う。強く縄を握っていた。
風の呻きとともに橋がゆらゆらと揺れた。
「ぎゃあ」
そう短い悲鳴を上げたのはカルロスだった。
イリスとホセが振り返り、橋の上を飛ぶフィオナがカルロスの傍に寄る。
「え? カルロス、もしかして高いところ苦手なの?」
「お、俺にだって苦手なもののひとつやふたつ……」
言葉の途中でまた橋が揺れるとカルロスは、縄に掴まって耐えるように身を丸めた。
イリスがカルロスの傍に戻り、心配そうに顔を覗きこむ。
「カルロス、戻る?」
「大丈夫だ」
カルロスは額にかいた汗を拭いながら言った。
「ねぇ、イリスの前だからって強がんない方がいいよ。橋の真ん中で動けなくなったらどうするのさ」
「そうだぜ、カルロス。イリスちゃんの前だからってカッコつけんなって」
「お前らな……」
カルロスは顔を真っ赤にして縄を掴む手が震えている。
しかしすぐに真顔に戻って橋の先を見た。
「この橋を渡らないと北の荒野へ行けないんだろう? 足手まといは嫌だ」
「大丈夫だよ。空を飛べない時点で足手まといなんだから」
フィオナがふらふらと空を飛びながら言った。
「そしたらお前の中ではみんな足手まといってことか?」
カルロスが呆れたように言った。
しかしフィオナは首を振る。
「イリスはたぶん一週間くらいあれば覚えられるよ。魔法の使い方の基礎は分かっているみたいだから」
「オレは? オレは?」
ホセはフィオナを見上げながら言った。
その菫色の瞳はきらきらと輝いている。
フィオナはホセの傍まで降りて黄金の瞳でホセの菫色の瞳をじっと見つめた。
「うーん。ホセは五年くらいかな」
「へぇー。長いのか短いのかよく分かんねぇな」
「カルロスは十年くらいかかりそうだから短いんじゃない?」
「なんで俺だけそんなに長いの?」
カルロスが小さい歩幅で歩みを進めながら聞いた。
「頭が柔らかい方が覚えるのが早いんだよ」
「それは俺の頭は固いってことか?」
カルロスが口元を引き攣らせた。
フィオナは驚いたような顔をしながらカルロスに近寄る。
「え? 気づいてないの?」
「くそ……。あとで覚えていろよ」
縄から手を離せないカルロスは悔しそうにフィオナを睨みつけた。
「でも最初に魔法を見せた時、驚いてなかったよね?」
イリスが言った。
するとフィオナは少しだけ驚いたような表情を浮かべた。
「それが魔法だって気づいていた?」
「まぁな。魔法の話はじいさんから聞かされていたから。時が止まったって聞いた時もすんなりとそうなのかと思った」
「へぇ。思ったよりも頭は柔らかいかも。見直したよ」
「そこで見直されてもな……」
カルロスは苦笑した。
「時が止まった?」
ホセが首を傾げながら尋ねた。
「そういえば、まだ旅の目的を話していなかったね。私たちは時が止まった理由を探しているの。北の荒野の魔女がなにか知っているかもしれないと、森の魔女に教えてもらってここまできたのよ」
「へぇ。時が止まったってどういうことなんだ?」
「分かっているのは、九度前の秋に流れていた時が止まったということだけ」
「でも季節は変わるよね?」
フィオナが言った。
イリスは頷く。
「たぶん止まったのは人の時間だけなんだと思う。それを他の人は気づいていないの」
「カルロスのおじいさんは気づいていたんだよね?」
「そう。エイブラハムさんは、この異変に気づいたのは世界でほんの一握りの人だけだと言っていた。私とエイブラハムさんはそのうちのひとり」
「どうしてイリスちゃんは気づいたんだ?」
「おばあちゃんが言っていた。イリスは魔力に敏感だって。きっとそのせいじゃないかな?」
「だとしたら誰かが魔法で人の時を止めたってことか?」
「それを知るために北の荒野へ行くの」
イリスは薄い茶色の瞳を北の荒野へ向けた。
そこに広がるのは荒れ果てた地だ。
渇いた地面以外にそこには草ひとつない。
「そもそも北の荒野に魔女なんているのか? 聞いたことないけどな」
「おばあちゃんが言うんだからいるのよ」
ホセは顔を上げて空に浮かぶフィオナを見た。
「フィオナ姐さんのおばあちゃんも魔女なのか?」
「そうよ。偉大なる森の魔女なんだから」
ホセが感心したような声を上げた。
「じゃあ、フィオナ姐さんも森の魔女なのか?」
「まだ見習いだけど、いずれはおばあちゃんのような偉大な森の魔女になるんだから。そのためには世界を知らなくちゃいけない……っておばあちゃんが言うから、あたしもイリスの旅に一緒についてきたの」
「へぇ、じゃあカルロスは?」
ホセがカルロスに視線を向ける。
しかしいるはずの場所にカルロスはいない。
視線を少しずつ上げるとカルロスは少し離れたところにいた。
必死に小さな歩幅でついてきている。
カルロスは顔を上げた。
「なんだって?」
そういう声に余裕はない。
「カルロスはどうしてイリスちゃんについてきたの?」
ホセが声を張って聞いた。
「俺はじいさんに言われて……」
「カルロスはイリスの幼馴染でね、イリスのためについてきたんだよ」
「へぇ。カルロスは本当にイリスちゃんが好きなんだな。オレもだけど」
カルロスの言葉に被せるようにしてフィオナが言うと、ホセは感心するように何度も頷きながら言った。
そしてフィオナとホセはカルロスを振り返る。
しかし当のカルロスは橋を渡りきることに必死でこちらの話などもう聞いていなかった。
「つまんない」
フィオナはつんと唇を尖らせるとまた空高く舞い上がった。
ホセとイリスが橋を渡りきった頃、カルロスはやっと橋の半分を過ぎたところだった。
ホセとイリスは橋の近くに腰を下ろし、フィオナはカルロスの傍を飛んでいる。
「カルロス、早くしないと日が暮れちまうぞ」
ホセが向こう岸から叫んだ。
「頑張って!」
イリスも声援を送った。
「ほら、ホセとイリスが待っているよ。足手まとい」
「くそっ。お前ももうあっち行っていろよ」
「ほんと? いいの? あたしもあっち行っていて」
「……ここにいて下さい」
「素直でよろしい」
フィオナは満足そうに言った。
カルロスは一度立ち止って深呼吸をする。
するとまた橋が風で揺れ、背後で「ぶちん」となにか切れる音がした。
カルロスは振り返ったが特に変化はない。
しかし頭上にいるフィオナが「あ」と短く声を発した。
そして青い顔をカルロスに向けた。
「走って! カルロス」
カルロスは目を大きく見開いて駆けだした。
また背後で「ぶち」っと切れる音が聞こえた。
アルド王国側の縄が切れたようだ。
橋が次第に傾きはじめ、とうとう崩れはじめた。
床板が暗い谷底へ吸い込まれていく。
向こう岸ではホセとイリスが立ち上がり、青い顔でこちらを見ていた。
「もうちょっとだよ」
フィオナの声に励まされ、カルロスは歯を食いしばって走った。
しかし吊り橋の崩壊はすぐそこまで迫っていた。
「カルロス、ジャンプ!」
カルロスはフィオナの声に合わせてイリスたちのいる岸に向かって飛んだ。イリスとホセはカルロスをしっかりと受け止めて、三人はごろんとうしろに転がる。
イリスは起き上がり、吊り橋のあった場所を見た。
そこにはもう吊り橋の面影はない。
間一髪だった。
カルロスは両手を地面についてぜいぜいと息をついている。
顔は青から土気色に変わっていた。
ホセが勢いよく起き上がった。
興奮のあまり顔が真っ赤になっている。
「すげぇよ、カルロス!」
「よかった」
イリスは涙を浮かべている。
「なんだ。早く渡れるじゃん」
フィオナは地面に降り立ち、頭の背後で手を組んでいた。
「お前は本当に鬼だな」
カルロスが顔を上げて言うとフィオナはにっと笑った。
そして四人は死の谷を振り返る。
ホセが青い顔をカルロスに向けた。
「なぁ、俺たちどうやって戻るんだ?」
「今はなにも考えたくない」
カルロスは顔を左右に振った。
「今は帰ることよりもこっちでしょ」
フィオナが荒野へ視線を向けた。
そこには果てしなく続く渇いた土地があった。
「北を目指そう。きっとそこに荒野の魔女がいる」
イリスは薄い茶色の瞳を北の荒野のその先に向けた。