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イリスたちは街道を北へと進んだ。
馬を手に入れたことで旅路は格段に楽になった。
首都カレルを出て、八日後の昼にはアルド王国の最北端であり北の荒野の入口である谷に辿り着いた。
『死の谷』と呼ばれる谷だ。
死の谷の向こう側は目的地である北の荒野が広がっている。
見渡す限り、何もない荒れ地が続いていた。
しかし、あと一歩と言うところで三人の前に問題が持ち上がる。
「ねぇ、これを下りるの?」
フィオナが谷底を覗き込みながら恐る恐る尋ねた。
地を割ったかのように果てしなく続く谷。
底は見えず、暗闇に包まれていた。
呻くような風の音が聞こえる。
イリスとカルロスも死の谷を目の前にして言葉が出ない。
カルロスはその場に腰を降ろし、腕を組んだ。
瞳を閉じて考える。
こう言った時は旅慣れたカルロスの感に頼るのがいい。
イリスとフィオナは黙ったままカルロスの傍に座った。
しばらく谷底から聞こえる風の呻き声だけが辺りを包んでいた。
カルロスがやっと緑の瞳を開いた。
「森の魔女は北の荒野にいる荒れ地の魔女に『会え』と言った。ユアン王子は北の荒野を『自然の牢獄』だと言った。誰も北の荒野へ行けないとは言っていない。なにかこの谷を越える方法があるはずだ」
「それはなに?」
イリスが尋ねた。
カルロスは死の谷を眺める。
「それが分からない」
カルロスの答えにイリスはうつむき、フィオナは重いため息をついた。
「だから一度、レオーネに戻ろうと思う」
レオーネはアルド王国の最北端の街だ。
カルロスたちは昨日の内にレオーネの傍を通り過ぎていた。
「戻ってどうするのさ」
「レオーネなら死の谷を越える方法を知る者がいるかもしれない。この谷を下りるにしたって案内がなければ難しいだろ」
フィオナは考えるように腕を組んで眉を寄せた。
そして黄金の瞳を死の谷に向ける。
「そうだね。賛成」
「私も賛成」
イリスも頷いた。
三人はまた馬に跨り、来た道を戻りはじめた。
その日の夕刻にはレオーネに辿り着き、三人は閉門ぎりぎりでレオーネの街へ入った。
レオーネはアルド王国の中でも屈指の大きな街だ。
堅固な外壁に守られ、建物も多い。
石造りの建物が多いこの街はどことなく首都カレルに似た雰囲気だった。
しかし人々の服装は北の寒さを耐えられるように厚着で毛皮の帽子を被る人が多い。
首都カレルでは見たことのない格好だった。
三人の子供が馬を引き、街を歩く姿はどうしても目を引く。
しかしそれももう慣れたもので三人は気にせずに歩いていた。
「今日は宿をとろう」
カルロスの言葉にイリスとフィオナはぱあっと顔を明るくさせた。
「久しぶりだね!」
フィオナは嬉しそうに辺りを眺めて、一軒の宿で目を止めた。
街一番の立派な宿屋だ。
それにカルロスが慌てた。
「安宿だ! あれは金をたんまり持っているやつが泊る宿だ」
フィオナが振り返り、カルロスを不満げに見た。
「えー。ユアン王子がくれたお金があるじゃん」
「だめだ。北の荒野で旅が終わるかどうか分からないんだぞ。もし荒野の魔女に『南の湿地にいる魔女に会いに行け』って言われたらどうする?」
「南の湿地に魔女がいるなんて聞いたことないけど……」
「例えだ、例え!」
「分かったよ……」
まだ不満そうだがフィオナは大人しく引き下がった。
カルロスが安堵のため息をつく。
イリスがそれを見てくすくすと笑っていた。
しばらく街を歩き、カルロスが目をつけた宿屋に入った。
そこは古い木造だったが趣のある宿だった。
中に入るとドアにつけられた鈴がちりんと客の訪問を告げる。
中は暖炉が焚かれていて暖かかった。
壁には鹿の首や鳥の剥製が飾られている。
そして受付の広間には商人らしき男たちがごっそりといた。
カウンターの向こう側にいる店主にカルロスは声をかけた。
「泊りたいんだが、部屋は空いてないか?」
店主は片手を振った。
「悪いが空いてない」
「そうか。なら他を当たる」
そう言って出て行こうとするカルロスたちを店主が止めた。
「この時期は夕刻前までに宿を取らないと難しいぞ」
「そうなのか?」
「ああ、この辺りは特に冷えるからな。それにもうすぐ冬祭りがあるんだ」
「冬祭り?」
イリスが首をかしげて尋ねた。
「ああ、週末からはじまる。露店が並び、パレードもある。それは賑やかなもんだ。この時期になると商団もこぞってレオーネに集まる」
カルロスは振り返り、広間にいる商人たちを見た。
暖炉の前に座る者、椅子に腰かけ仲間と談笑している者、床に座って酒盛りをしている者までいる。
「泊めてやりたいのは山々なんだがなぁ。そこの広間も宿にあぶれた商人たちが雑魚寝に使う。さすがにお嬢ちゃんをそこに寝かせるわけにはいかんもんなぁ。すまんな」
「いや、なんとかするさ。ありがとう」
申し訳なさそうに言う店主にカルロスは頷きながら言った。
カルロスは宿を出て困ったように腕を組んだ。
閉門の時間を過ぎてしまったので街を出ることはもうできない。
街角でテントを張るわけにもいかない。
フィオナは辺りを見回し、イリスも困り顔で馬の首元を撫でている。
「お兄さん、お嬢さん方」
三人は声の主を振り返った。
そこにいたのは十五歳くらいの少年だった。
紺色の髪に菫色の瞳をしている。
所々服がほずれていて貧しい生活が見て取れた。
「宿をお探しかい?」
にこやかに言う少年の前にカルロスが立った。
「そうだ。どこか空いている宿を知らないか?」
「うちの宿屋がまだ空いている。お嬢さんたちは可愛いから三人で銅貨五枚でいいよ」
イリスたちは驚いた顔をして顔を見合わせた。
宿屋の相場は三人で銀貨一枚はする。
銀貨は銅貨十枚とほぼ同等の価値だ。
それを相場の半額でいいと言う。
冬祭りの稼ぎ時に、だ。
イリスは疑わしい瞳を少年に向けた。
「いいのか?」
だがカルロスは緑の瞳を輝かせてそう聞いた。
値段の安さに目が眩んでいる。
「可愛いだなんてそんな……」
フィオナは頬を赤らめて照れている。
イリスは慌ててカルロスの腕を掴み、耳に顔を近づけた。
「ねぇ、怪しいよ」
イリスが小声で言うとカルロスは「うん?」と考えるような素振りを見せた。
「そうだ、風呂もつけるよ」
少年の声にイリスは眉をぴくりとさせた。
そして少年の手を握る。
「泊るわ」
「まいどあり」
少年はにっこりと笑った。
少年に案内されて来たのは、街の中心から少し外れた場所だった。
宿の一階は酒場になっており、二階と三階が宿屋になっている。
年季の入った宿だった。
少年は迷うことなく酒場へ入る。
酒場は賑わっていて満席に近い。
酒場にいた男たちがちらちらとイリスたちを見た。
人相の悪い男たちが多く、イリスは顔を引き攣らせる。
フィオナもさすがに不安になったようだ。カルロスの服の裾を引いた。
「ねぇ、大丈夫?」
「ん? ああ。大丈夫だろう。宿屋に酒場があるのは珍しくないからな」
カルロスは特に気にした様子もなく少年について行く。
イリスとフィオナも不安そうにしながら離れないようについて行った。
「顔が怖いだけで悪い奴らじゃないから安心しな」
イリスたちの様子に気がついた少年が振り返って言った。
そして酒場の端にある階段を上り、三階の一室についた。
きぃっと建てつけの悪い音を立てながら開いたドアの先は小さな部屋だった。
二つの二段ベッドが左右の壁側に沿うように置かれ、その間に小さなテーブルがあるだけの部屋だ。
「まぁ、値段を考えたらこんなもんだよね」
フィオナがため息混じりに言った。
三人は部屋に入り、荷物を置いた。
「ベッドで眠れるだけありがたいわよ」
イリスがベッドを確かめながら言った。
八日ぶりの暖かい寝床だ。
イリスの口元には自然と笑みが浮かぶ。
「風呂の準備はもうしていいかい?」
部屋の入口に立っている少年が聞いた。
カルロスは振り返り「頼む」と言った。
「なら、お兄さんはこっちの部屋を使いな」
そう言って少年は隣の部屋を指差した。
カルロスは剣だけを持ち、少年について行く。
カルロスを隣の部屋へ案内し、少年は部屋をあとにした。
しばらくして少年は大きな桶と湯の入ったバケツを持って部屋に戻ってきた。
「部屋が空いていて助かった」
カルロスが少年に話しかけた。
「この宿は街外れだからどうも人の入りが悪くてさ。酒場は地元民のお陰で賑わっているけど。酒場のお陰で持っているようなもんです」
少年は支度の手を止めて顔を上げてそう言うと苦笑を浮かべた。
そのあと少年は黙々と支度を進める。
それは慣れたもので無駄がない。
長くこの宿で下働きをしていることのだろうということは容易に想像できた。
「じゃあごゆっくり」
少年は支度を終えて出て行った。
カルロスは風呂をさっと済まし、自分たちの部屋の扉の前に立った。
ノックをしようと手を上げると中からは水音とイリスたちの笑い声が聞こえる。
まだ風呂の途中のようだ。
カルロスは仕方なく扉の横の壁に背を凭れるようにして立った。
少しすると階段を上って来た少年がカルロスを見つけて軽い足取りで近寄ってくる。
「どうされました?」
「まだ入れなくてな」
カルロスは部屋を指差した。
少年は扉を見てから「ああ」と納得したよう言った。
「お兄さんたちは旅をしているのかい?」
「ああ」
「どこから?」
「……ルーベンスから」
カルロスは答えるか迷ったが、答えても問題がないと判断した。
宿屋の下働きの少年に警戒する理由はなかった。
少年は目を丸くしてカルロスを見た。
「へぇ、随分と遠くから。子供三人で?」
「ああ。俺たちだけだ」
「旅をしてどのくらいなんです?」
「一ヶ月半……かな」
カルロスはそう考えて案外そんなものかと思った。
もっと長い間、イリスとフィオナと一緒に旅をしているような気がした。
その横では少年が首を傾げている。
「ルーベンスからですよね? 計算が合わないような……。ああ、船旅ですかい?」
「いや、徒歩と、途中から馬だな。イヴァン山脈を抜けてきた」
少年が眉根を寄せた。わずかに青ざめている。
「それはまたなんで? まるで罪人のような旅路ですね」
「ん? まぁ、似たようなものだな」
カルロスは少し考えるように言った。
ルーベンス王国内ではイリスを城から連れ出し、衛兵から追われていた。
あの頃は常に気を張っていたし、イリスもうつむいていた。
それを思い出してカルロスはふっと懐かしそうに笑った。
少年は引き攣るような笑みを浮かべている。
「カルロス」
イリスが扉を少しだけ開けた。
そしてカルロスと少年を交互に見た。
「お風呂終わった。入っていいよ」
「ああ」
カルロスが部屋に入った。
少年も青い顔でついて行く。
少年は話すことなく黙々と片づけをして部屋をあとにした。
少年は酒場に下り、そこにいた親方を見つけ出して物陰に連れて行く。
親方は体格がよく、顔はむすっとしたような強面だった。
頬には傷が走っている。
「ホセ、なんだ? 仕事中に」
親方が機嫌悪そうに言った。
しかしホセと呼ばれた少年はそんなことなど気にせず、慌てたように言う。
「あのガキども、なにかしでかして追われているようなんですよ」
親方が眉を寄せた。
「なんだって?」
「あいつらルーベンスからイヴァン山脈を抜けてきたって。『罪人なのか?』って聞いたら『似たようなもんだ』って言って笑いやがった。やばいですよ、親方」
親方はそれを聞いておかしそうに笑った。
「お前、それは騙されたんじゃないのか? 子供三人でイヴァン山脈を抜けられるか」
「でも親方……」
情けなく言うホセの肩に親方が腕を回す。
そして小声で言った。
「バカなこと言ってないでいつも通り仕事しろよ」
「へーい」
ホセは重いため息をついた。
夜も更けた頃、イリスたちはベッドで安らかな眠りについていた。
二つある二段ベッドの下段をイリスとフィオナがそれぞれ使っている。
カルロスはイリスのいる二段ベッドの上段で丸くなって眠っていた。
イリスの目がふと覚めた。
暗い部屋の中で荷物を漁るひとつの影が見える。
「カルロス? こんな時間になにやって……」
イリスは体を起こし、目元を擦りながら聞いた。
雲の切れ間から月が顔を出し、窓から明かりが差した。
照らし出された人影にイリスは言葉を止め、表情を強張らせる。
そこにいたのはカルロスではなくホセだった。
ホセはちっと舌打ちをしてなにかを持って逃げた。
ホセが掴んでいたものに気がついたイリスは慌ててあとを追った。
廊下に出てホセを探すと、突当たりの窓辺にその姿を見つけた。
「待って! それはエイブラハム様とユアンに貰った大切なお金なの!」
ホセは振り返り、イリスを見た。
にっと笑う。
「待てって言われて待つかよ」
そう言って窓の外へふっと消えた。
イリスは慌てて窓辺に寄る。
ここは三階だ。落ちたら大怪我は免れない。
イリスが身を乗り出して窓の外を覗いた。
すぐ下には隣の建物の屋根があった。そこにホセはいない。
視線を上げると屋根を伝って軽やかな足取りで逃げるホセのうしろ姿があった。
イリスは覚悟を決め、隣の建物の屋根へと飛び降りた。