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「時が止まった」
十歳の少女が唐突に言った。
彼女の名はイリス・ド・バリー。ルーベンス王国の第一王女である。
ココアブラウンの髪を背中の中ほどまで伸ばし、瞳は薄い茶色をしている。
その瞳で外を眺めていた。
それは雲ひとつない満月の綺麗な夜だった。
それから五年が経ち、大人は年をとらなくなり、子供は産まれなくなった。
それなのに誰一人として異変に気づくものはいなかった。
大人たちはただ毎日同じように生活し、子供たちは楽しげに街を走り回っている。
最初は自分のように異変に気づいたものを探した。
イリスが、時が止まったことを口にする度に周りはただ憐れみや奇異の目で見るようになった。
その内にイリスに近寄る者はいなくなった。
両親の国王夫妻でさえ、イリスを腫れもののように扱うようになっていた。
イリスがひとりで原因を探すことにしたのは、それから一年が経った頃のことだった。
書物庫を漁り、禁書を保管している封印の間にも密かに手を伸ばした。
そこでひとつの書物に出会う。
魔術の本だった。
魔術は遠い昔、イリスの祖父の、そのまた祖父の、そのまた曾祖父の時代に使用も研究もその一切を禁じられた。
魔術は禁忌とされ、人々は次第に魔術の存在を忘れていった。
イリスの頃には魔術は幻想のものとなっていた。
最初に見つけたその本は、魔術の基礎が書かれた禁書だった。
イリスは誰にも悟られないように部屋に持ち帰り、朝も昼も夜も忘れてその本に没頭した。
そこに書かれていたものはイリスに希望を与えた。
魔術を覚えることができたら、この異変を正すことができるかもしれない。
イリスは何度も封印の間を訪れては、魔術の本を探し、部屋に持ち帰っては読みふける日々を過ごした。
その中の一冊に魔術の教本があり、イリスは魔術の訓練をはじめた。
誰一人としてイリスを構う者はなく、時間の有り余っていたイリスは密かに自室で魔術の訓練を行った。
最も覚えが早かったのは造形魔法だった。
剣や杖、弓を黄金に輝く光で象り、それを扱う。
その中でも訓練に力を入れたのは弓だ。剣を操れたとしても大男には敵わないと思ったからだ。
その頃にはいつか原因を探すための旅に出ることを視野に入れていた。
時が止まってから八年が経つ頃には弓の腕も上がり、時折、城を抜け出しては街の外にある森の中に訓練の場を移した。
森は街の人間たちの狩場にもなっているが、森の奥に入り、狩場から離れてしまえば人に会うことはない。
森の奥にある広い原っぱに座り、魔術の訓練を行っていると、熊や狼と遭遇することも少なくはなかった。
最初は動く獲物を弓で打ち抜くことは難しく、ひやりとすることも何度かあった。
しかし、今では一発で命を奪うことも、威嚇で済ますことも選べるほどに弓の命中率を上げた。
この日もいつものように森の中で魔術の訓練を行っていた。
右の掌に集中すると小さな炎が灯る。それを数十秒保つと、イリスは小さく息を吐いた。
すると、吹き消えるかのように炎が揺らいで消えた。
「やっぱりこの手の魔術は難しい」
イリスが呟くように言った。
造形魔法以外はどうにも上達しない。得意な造形魔法の方に頼ってしまう。
だが、炎や水、風の魔術が使えた方が旅をする時に心強いのは間違いない。
イリスは深呼吸し、また右手の掌に集中した。
その時、森の向こう側で草を踏む音がした。
この忍ぶような足音は狼か。
イリスは瞳を細めて音がした方を見た。
案の定、姿を現したのは若い大きな狼だった。じっと警戒するようにこちらを睨んでいる。
イリスは弓を構える体勢を取った。
そして、脳裏に弓と矢の姿を想像すると、イリスのなにもなかった手の中に光の弓と矢が現われた。
イリスと狼の間に言い知れぬ緊張感が走る。
背後でまた草を踏む音がした。今度の足音は重い。そして、警戒心の薄い音だった。
イリスは目の端でそれを振り返る。そこにいたのは三人の子供だった。
二人は街の子供のようだ。一人は見慣れぬ格好をした少年だった。
三人はイリスと狼を目を大きくして見た。
イリスがはっとしたのと同時に、手に構えていた光の弓矢がぱっと消えた。
そして、狼がこの機を逃さんとばかりにイリス目がけて駆けだした。
イリスは思った。これですべてが終わった、と。
自分の命も、この異常な世界から逃れることも、そのすべてが。
こちらに走り寄ってくる狼に、イリスは顔を強張らせながらも口元に笑みを浮かべた。
その時だった。
自分の横を鈍い光を放つなにかが飛んだのが見えた。そのまま狼に向かって飛んでいく。
それは狼の右前足を掠り、狼は大きく体勢を崩した。
走るスピードは見る間に落ちて、狼は足を止めた。
こちらをじっと睨んだ後、狼は森の中へと引き返した。
こちらとはイリスではない。背後にいる子供、その内の見慣れぬ格好をした少年のことだ。
イリスはもう一度、子供たちを振り返り、立ち上がった。
少年は飄々とイリスの横を通り過ぎ、地面に刺さったナイフを抜いた。
そして、慣れた様子でナイフについた狼の血を服の袖で拭った。
「どうして殺さなかったの?」
イリスが聞いた。
少年は顔を上げて、イリスを見た。
「もったいないだろ」
「もったいない?」
「食わないのに殺したら、もったいない」
当たり前のことのように言われ、イリスは戸惑った。
そんなイリスを少年はじっくりと見る。
「お前……」
「あなた、どこの子?」
そう聞いたのは、少年と一緒にいた子供のひとりだ。
ブラウンの髪をお下げにした女の子だ。街でよく見かける服装をしている。
そのうしろには同じくブラウンの髪をした女の子よりも少し背の低い男の子がいた。
じっとイリスを見ている。こちらも街の子供のようだ。
イリスはどきっとした。イリス・ド・バリー王女は忌み嫌われた存在。
王女だとばれたらなにを言われ、なにをされるか分からない。
イリスはうしろで無造作に纏めていた髪を下ろして、顔を隠すようにしてうつむいた。
服装もいつものドレス姿ではなく街で捨てられていた子供の服を着ている。
ばれるはずはない。イリスはそう自分に言い聞かせた。
「私は……レイダ。遊牧民の子」
「お前も遊牧民? 俺はエイブラハムのところのカルロス。俺も遊牧民だ」
だから見慣れぬ服装なのかと、イリスは納得した。
時が止まっても季節だけは移り行く。今の季節は秋だ。
この時期になると遊牧民はこの街の傍に集まる。
そして、もう少しすれば冬を越えるため、この国よりもさらに南へと移って行く。
そして、また次の秋に戻ってくるのだ。
「そんなことより丸腰で森に入るなんてバカな奴だなぁ」
カルロスがイリスの顔を覗き込むようにして言った。
先程の光の弓矢は見られずに済んだらしい。ほっと胸を撫で下ろした。
「……迷った」
イリスはそう言った。
カルロスはおかしそうに腹を抱えて笑っている。
「よかったなぁ。俺たちと出会えて。この辺は滅多に人が来ない」
知っている。だからこの場所を選んだのだから。そうイリスは思いながらうなずいた。
そして、カルロスを見た。
オレンジの短い髪、よく陽に焼けた肌、革のベストを着て動きやすそうな服装。
年はイリスより少し年上だろうか。飄々とした雰囲気がより大人びて見せた。
「お前たちはここでなにをしていたの?」
イリスが聞いた。
子供がこの辺りまで足を踏み入れるのは珍しい。
「この先にある果物を取りに来た。お前もくるか? レイダ」
「……いいの?」
「迷ったんだろ? 街までお前を送り届けて戻ってきたら、日が暮れちまう」
イリスは空を見上げた。陽はとうに天井を通り過ぎて、傾きはじめている。
確かにカルロスの言う通りだ。
「レイダも一緒に行こうよ。林檎がなっているのよ」
お下げ髪の子がそう言った。イリスはうなずいた。
カルロスと一緒にいた女の子はダニエラ、もうひとりの男の子はコニーといった。
ダニエラとコニーは姉弟で狩人の子供らしい。
その狩人とカルロスのいる遊牧民の長であるエイブラハムとが知り合いで、それゆえに街に来るたびにカルロスたちは一緒に遊ぶようになったのだという。
原っぱを抜け、鬱蒼とした森を行くと林檎のなる木があった。
背の高い木を四人は見上げる。
カルロスはナイフを投げた。すると見事に林檎のつけ根に当たり、地面にぽとりと落ちる。
それをコニーが拾った。
「はい、レイダ。あげる」
イリスはそれを受け取った。
「いいの? あなたが拾ったのに」
「いいんだよ。カルロスがたくさん取ってくれるから」
「レイダ、食べてみて。ここの林檎は甘くておいしいの」
ダニエラとコニーの視線を感じながらイリスは林檎を齧った。
そして、瞳を大きく開いてその林檎をまじまじと眺める。
林檎は珍しくはない。だが、今まで食べたどの林檎よりも美味しかった。
「おいしい……」
「そうでしょ?」
驚いた顔をしているイリスを見て、ダニエラは嬉しそうに言った。
「カルロス、僕にも取ってよ」
コニーがカルロスに縋るように言った。
「分かったから服を掴むな。手元が狂う」
カルロスは苦笑気味に言った。それからまた林檎を狙ってナイフを投げた。
カルロスは何度もナイフを投げては、見事に林檎を取っている。
イリスは地面に座り、その様子をじっと見ていた。
先程も感じたが、カルロスのナイフの腕は一流だ。
狼の時も外したのではなく、狼の右前足を狙って放ったのだろう。
離れた距離から走る狼の右前足を狙うことは、弓を扱う者としてその難しさを想像するのは容易い。
「ナイフを扱うのが上手いね」
イリスが何気なく聞くと、カルロスは自慢げにナイフを手元で遊んでから腰につけた鞘に戻した。
「まぁな。ナイフもだけど剣も得意だ。槍も。遊牧民だからな。狩りに使う刃物はたいてい得意だ」
カルロスの緑がかった瞳がにっと笑う。自信に満ちた瞳だ。
「レイダは? なにを扱う?」
「弓」
イリスは短く答えた。
「ふぅん。今度もってこいよ」
「今度?」
イリスは訝しげに聞いた。
「ああ、そうだ。明日はコニーに剣を教える約束をしているんだ。だからレイダも来いよ」
カルロスが笑顔を浮かべた。
イリスはカルロスの言葉を何度か心の中で反芻した。
同い年くらいの子供とこうして遊ぶのははじめてだったし、次の約束をするのもはじめてだった。
心がこそばゆくなる。身を捩るようにしながらイリスはうなずいた。