幻妖帝国〜グリウスの章・青き黎明の灯火(9/27)PDFで表示縦書き表示RDF


幻妖帝国〜グリウスの章・青き黎明の灯火
作:暁さくや



第三章・運命の邂逅 2


 同じ頃、トラオには一人の客があった。
 朝食の時間が済み、その日に宿泊していた者達の食事は終わった。宿を発つ者は出立し、トラオはまた違った慌ただしさに包まれていた。
 宿泊客の部屋や食堂など、これから掃除をしなくてはならない。
 これはまた重労働だ。
 トレーネは雇っている者達に慣れた指示を与え、食堂の後片付けをしていた。花を活け代え、掃除をするのはトレーネの仕事と決まっている。この食堂はトラオの顔だ。そこを迎える客にとって居心地のいいものにするのは主の勤めだ。そう父から教わった。ここを訪れる客のために働くのがトレーネは嫌いではなかった。
 いつものように庭に咲いた花を机に生けていた時だった。
 入口がうすく開けられる。
「トレーネ」
 囁くように名を呼ばれ、トレーネは振り返った。
 危うく花を倒しそうになりながら、慌てて入口へと駆け寄る。周囲を見渡して誰もいないことを確認すると、入口から覗いていた者を招き入れて、もう一度外に誰もいないかを確認してから扉を閉めた。
「エリオン様、なぜこちらへ? フェンダー様は?」
 エリオンと呼ばれた青年は、フェンダーの名を聞くと眉根を寄せた。
 黒い髪の目鼻立ちのはっきりした華やかな顔立ちをしている。黒い瞳は澄んでいて真っ直ぐにトレーネを見下ろしていた。
「フェンダーはずるい。自分独りで動いて、私を除け者にするのだからな」
 まるで子供が拗ねる様な言い草に、トレーネは肩をすくめた。
「こんな危ないこと、もうなさらないで下さい」
「お前までそんな事を言うのか」
「エリオン様……」
 そう言われると、トレーネには言葉がなかった。
「それより、私は神官殿に会いに来たのだ。フェンダーの言うことだけでは分からぬ。信頼に値するものかどうか、ぜひこの目で確かめねば」
 トレーネは階段を上ろうとするエリオンを押し止めた。
「駄目でございます。フェンダー様からきつく言われているのです」
「フェンダーが? なんて周到な奴だ。聞け、トレーネ。奴は罪を独りで被るつもりなのだ。それは許さぬ。私は私自身の意志で、今度のことを決めたのだ。誰にも邪魔はさせぬ。フェンダーにもだ。止めを刺すのは、この私だからな」
 周りをはばからずに捲くし立てるエリオンに、トレーネははらはらした。
 案の定、トラオでは古株で父の代から勤めている者が奥から顔を出した。
「お嬢様?」
「何でもありません。それより、二階の神官様を呼んできてくれるかしら」
 トレーネはエリオンを背に庇って取り繕った。庇った所で、トレーネより頭ひとつ背の高いエリオンを隠し切れるものではなかったが。
「神官様ならいらっしゃいませんよ」
「ええっ? 外にお出にならないようにって、言っていたでしょう?」
「ですが、いらっしゃらないんで。私らもずっと見張ってる訳にもいかねえし」
「ごめんなさい、ありがとう。仕事に戻って下さい」
 トレーネは使用人が厨房に消えるのを待って、エリオンを振り返った。
「お聞きの通りです。送ってまいりますので、どうかお戻り下さい」
 エリオンはむっとした顔をしていたが、いないのなら仕方ないという風に入口の方に向かった。
「そうそう、もう一人はどんなだい? フェンダーはそっちの事ははっきり言わないのだ」
「あの人は……」
 エリオンの瞳は好奇心に満ち満ちていた。
「怖いです」
「怖い?」
「左のお顔に傷があって、目が、潰れていらっしゃって。少し怖い目付きで私を見るので。でも、彼が言ったんです。皇帝が妖獣だって」
「なんだと?」
 二人は声を潜めた。
「フェンダーは叩けば埃が出そうな連中だから気にすることはないと言っていた。一体何者なのだ」
 エリオンは腕を組み、手のひとつを顎に当てて考え込む様子を見せた。
「いろんな仕事を引き受けながら、旅をしているそうです。神官様は私の父に世話になったとも、おっしゃっていました。子供の頃に──」
 あの時どうして分からなかったのだろうか、とトレーネは思った。朝、畑で話をした時だ。ウェルはグリュックの出身なのだ。ここに、グリウスに幼い頃は住んでいた。そうでなくては、グリウスから出ることのなかった父の世話になることなど不可能だ。
「なんだ?」
 エリオンは焦れたようにトレーネの言葉を急がせた。
「それで、私が父の遺志を継いだのか、と」
「どういうことだ?」
「分かりません。父が以前に何かをしていたのか、私は知らないのです」
 エリオンはうーんと唸って考え込んだ。
「父は、ずっとグリュックがシェバ皇帝に統治されたことを嘆いていました。そのことと関係があるのでしょうか?」
「まあ、その者に会えば分かることだ。ここで待つ」
 エリオンはそう言って、椅子のひとつを引き出して腰掛けた。
「エリオン様」
「無駄だぞ」
 椅子に腰掛けて足を組み、居座る様子を見せたエリオンに、トレーネはもう何を言っても無駄であることは承知していた。承知はしていたが、このままここに居座られても困る。彼の顔が皆に知れ渡っている訳でもないが、記憶の良い者なら直ぐに分かるはずなのだ。何度となく、領民の前に姿を現しているからだ。
「急ぐのだ、トレーネ」
 どう言ってこの頑固者を説得しようかと頭を巡らせていた少女は、その言葉に思考を中断された。
「あと五日だ。五日の後に到着すると、先触れが来たのだ」
 隣に立っていなければ聞こえないほどの低い声だったが、緊迫した響きがあった。
「今夜もフェンダーが来ると思う。思ったよりも早く準備せねばならなくなった」
 宙を睨むように言うエリオンに、トレーネは説得の言葉がないことを悟った。
「本当に決行なさる御積りですか?」
 エリオンは今更なにを言うのだとでも言わんばかりにトレーネを見上げた。
「父は既に人間ではない。いや、もう父ではない」
 エリオンの声は、トレーネにはひどく沈んで聞こえたような気がした。












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