第二章・運命の交錯 2
夜が明けようとしていた。
ウェルは深夜の会合の後、眠れずにいた。
隣の寝台に横になるシャオンは寝息を立てていたようだが、ウェルが体を起こすたびに反応していたので熟睡はしていないのだろう。深夜の会合のせいで神経が高ぶって、聴覚も嗅覚も研ぎ澄まされているに違いない。
部屋の窓から薄く曙光が差し込んでくる頃、ウェルは部屋を出て下に降りた。
階下に降りると食堂だが、入り口を背に右側が厨房になっているらしい。昨日はそこにトレーネが立っていた。厨房からは早くも忙しそうに働く者達の声がする。
その反対側に扉がある。扉は開いていて、向こうから朝日が薄く差し込んでいる。
整然と並んだ机を避けながら、扉へと近づいた。奥は廊下になっていて、先に緑の草が見えた。何があるのか、誘われるようにウェルは足を運んだ。
廊下を出ると視界が広がる。
庭だった。
食堂と同じ位の広さの庭は、周囲を高い木が囲み、さらに木枠で仕切られた中には色とりどりの花々が植えられている。他に飾られているものはなかったが、花だけでも庭がとても美しく華やいで見える。
中央は畑になっていて、手入れの行き届いた何種類もの野菜や果物が栽培されていた。
ウェルが嘆息して畑に歩み寄ると、早くから畑に水を撒く少女の姿があった。
「おはようございます、トレーネ。昨夜は遅かったのに、もう仕事ですか?」
ウェルはトレーネを驚かせないようにわざと足音を立てて歩き、声をかけた。
「神官様、おはようございます」
「ああ、その神官様はやめてください。ウェルで結構です」
ウェルは何かを押しとどめるように手を上げて笑った。
トレーネは急に真顔になり、水を撒く手を止めた。
「あの……御免なさい。私、父に縁のあるお方を、こんな事に巻き込んでしまって、本当は……」
「いいえ、お気になさらずに。私とシャオンはこうして色んな仕事を請け負いながら旅をしているのですよ」
トレーネは本当に申し訳なさそうに、今にも泣き出すのではないかと思う位に思いつめた表情だった。
「お手伝いいたしましょう」
ウェルはトレーネの手から水を撒く柄杓を拝借すると、水を汲んで野菜に丁寧に撒き始めた。
「あの」
トレーネは困ったようにウェルを目で追ったが、楽しそうに(いつも微笑んで見えるのでそう見えただけかもしれない)水を撒いている姿を見るうち、少しずつ笑顔が戻ってきた。
「あの、父とはいつ?」
ウェルは何を聞くのかという風に顔を上げたが、すぐにいつもの表情に戻った。
「随分と昔です。私はまだ子供でした。世話になったのは、正確に言うなら私の父のほうでしょうね。父はいつも帰り際に、貴方のお父様に感謝の意を伝えていました。子供心にその事は大変印象に残っているのです。だから、つい足が向いたのかもしれません」
珍しく寂寥とした物言いだった。
「貴方はそのお父様の遺志を継いでいるのですか?」
「えっ?」
トレーネは考えもしなかった事を聴かれたとでもいう風に、怪訝そうな顔をした。
「いえ」
ウェルは辺りの様子をそっと伺ってから、続きを話した。
「フェンダー殿と通じておられたので。違うのですか?」
「確かにフェンダー様と最初に知り合ったのは父ですけど、これは私が決めたのです。父とは関係ありません」
「そうですか」
ウェルはまた水を撒き始めた。トレーネも柄杓をもうひとつ用意して、一緒に水を撒く。
「あの、ウェル様は父が何をしていたのか御存知なのですか?」
ウェルは水を撒く手を休めず、ただ小首を傾げただけではぐらかした。
「聖霊達が喜んでいますね。ほら、トレーネ。あなたが育てている野菜ですよ」
大きく実を付け重みでたわんだ枝をそっと支えるように手を差し伸べ、その手をトレーネのほうに見せた。
一見ウェルがトレーネに掌を差し出したように見える。
だがトレーネはあっと声を上げた。
「見えましたか?」
「はっ、はいっ! この薄い薄い緑の光はもしかして!」
トレーネの大きな瞳は、驚愕と好奇心に満ち満ちている。
「よかった。私もこんな事をしたのは初めてで。あなたがわずかにでも力を備えておられたから、聖霊を見せることが出来たのです」
「私が、力を?」
ウェルは再び柄杓で水を畑に撒きはじめた。
「人は大概力を秘めているものです。それと気付かないだけで。人はついつい神や聖霊達に自分達が生かされている事を忘れるのですね。だから聖霊達もそれに応えてくれないのです。トレーネはとても大切に野菜を育てている。その事を聖霊達も知っているのですよ」
次に柄杓を少し傾けて、そこから零れ落ちる水を手ですくった。
「この水一滴ですら、聖霊達の息吹があることを忘れてはならないのです」
トレーネはあまりの感動か、ウェルの顔を眩しそうに見つめたまま声が出せずにいるようだ。
「すみません、つまらない話をいたしました」
「いいえ、とんでもありません。聖霊を見たのなんて初めてで、嬉しいというか、何て言っていいか」
トレーネは初めてウェルの前で少女らしい無邪気な笑みを見せた。
風がそよぎ、畑の野菜達の伸ばす枝や葉がそれに応えた。ウェルの黄金の長い髪もその風に流れる。まるでそこから光の粒が零れ落ちるように、朝日を浴びて輝く艶のある髪はトレーネの瞳を釘付けにした。
ウェルが肩をすくめて、風の聖霊達までやってきたと告げると、トレーネはたちまち辺りを見回したが、それを見ることはさすがに叶わなかったようだ。
トレーネは眩しそうにウェルを見上げた。
「父はよく、昔のグリュックは良かったと言っていました。私もそんなグリュックを見てみたい」
「それは難しいことですね。グリュック王家はもうない。あの頃のように戻るのは永遠に無理かもしれませんよ。例えシェバ皇帝がいなくなったとしても、その後の事をどうするかによって、グリュックは戦乱に巻き込まれかねません」
そこまで言って、ウェルは自嘲気味に笑った。
「すみません、トレーネに言うことではありませんね。これはフェンダー閣下に進言する事にいたします」
「ウェル様」
トレーネの瞳は真摯な光で満ちていた。頬を朱に染め上げながら、それでも顔をしっかりと上げ、祈るように胸の前で手を組んだ。
「あのお方をお助け下さい。あの方は、本当に平和を望んでおいでなのです。民が平和に暮らせることをお考えなのです」
「あの方、とは、今回のことを計画した人物ですか?」
しかし、トレーネは返事をしなかった。
ウェルは少し困ったように首を傾げたが、それでも微笑みは絶やさなかった。
「少なくとも、トレーネのおっしゃるあの方を、私は全力でお守りいたしましょう」
少女は恥らったように、俯いてしまった。
「おい、説教神官」
畑を後にし、庭に通じる入口を数歩入った所で、シャオンは壁に体を預けて腕組みをしていた。
「聞いていたのですか?」
「へんっ」
悪びれた風もなく、シャオンは鼻を鳴らして踵を返し、食堂へと早足で歩いていく。
「シャオン」
「俺はまだやるとは言ってないからな」
「はいはい」
わざと大股で歩くシャオンを、ウェルは追い越しながら返事をする。
「やらないからな」
「はいはい」
「シェバに食われちまえ」
「どうです? グリウスを下見に行きませんか?」
「行かない」
「そうですか。残念ですねえ。今は祭りの最中で、いろいろと珍しいものを見ることが出来るというのに」
わざとらしいウェルの物言いに、シャオンは口をへの字に曲げながら、睨み付けた。
「シェバは化け物だ、妖獣だからな。俺は絶対やらねえぞ」
旅程トラオの入り口付近でシャオンはそう言い切った。
「なぜ、シェバが妖獣だと?」
「見たからだよ」
入口の取っ手に手をかけていたウェルがゆっくりと振り向いた。
「──見た?」
そこには眉をひそめ、まるで蛇蝎のごとく嫌う天敵を見たかのような表情のシャオンがいた。
「行くんだろ」
「えっ?」
シャオンは戸口につっ立ったままのウェルを押し退けて外へ出た。
「行くぞ。グリウス見物だ」
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