第二章・運命の交錯 1
雲のない夜空に細い月影が淡く光っていた。
街道には誰もいない。みな妖獣を恐れて扉を閉ざし、すでに眠っている時間だ。
グリュックの王都、グリウスの王城へと続く街の中心街道には、水路の上に篝火が焚かれていた。
水路はグリウスを縦横に走っている。
その合流地点に王城は位置していた。
小高い丘の上である。
高い城壁は下から見上げると幾重にも重なって見えた。
城門から入っても、城まではかなりの距離がある。迷路のように曲がりくねった道が城壁で囲われており、途中で水路が複雑に絡み合い、初めて城を攻める者には難攻不落の設計になっている。効果的に兵を配置しておけば、城に到着する前に、この迷路と水路で敵を分断し撃破出来るという仕組みだ。
グリュックの不可侵伝説は、このグリウス城の存在も大きい。
この城には、隠し通路が存在した。極々限られた者達だけが使用するためなのか、巧妙に城壁に隠された出入口は、いったん地下通路を通り、街道のはずれの民家に通じている。
三つの影が、その民家から滑り出した。
一様にフードを目深に被っている。腰の辺りの膨らみから、剣を差していることが分かる。三人は足を忍ばせて駆け出し、夜陰に紛れて消えた。
「こちらへ」
トレーネはシャオンとウェルを宿の奥の部屋へと通した。
食堂の秀逸な絵画や照明などと比べると、そこは実に粗末な部屋だった。
二人が座れる長椅子が二台に、膝ほどの高さの小さな机しかない。窓もない。代わりに入口が向かい合わせに二つある。
シャオンとウェルに長いすの一つを勧めると、トレーネは彼らが入ってきたのとは違う方の入口へと姿を消した。
「なんだこりゃ。ただの宿に、なんでこんなもんがあるんだ?」
シャオンは部屋をぐるりと見回して、ウェルにそう耳打ちした。
密談するには格好の部屋だ。
両方の扉に見張りを置いておけば、話を聴かれる心配のない部屋である。
シャオンは珍しそうに部屋を眺めていた。が、突然何かに気付いたように、ウェルの耳元に再び囁いた。
「これは俺達も、逃げ道がねえってことじゃ……」
「そうですね。ま、そういう場合に陥った時は、ひとつ聖霊達の力を借りるとしましょう」
ウェルはまるで子供が気に入りの玩具を貸すような気軽さでそう言った。
「お前が言うと聖霊の名も地に落ちそうだ」
シャオンは呆れたように長椅子に背を預け、剣を抱くような形で腕組みをして足を組んだ。
まもなくトレーネが目深にフードを被った三人の人間を連れて戻って来た。
「お待たせしました」
トレーネは入ってきた人物の一人に長椅子を勧めて、自分はその後ろに立った。
一人は長椅子に深々と腰掛けた。従ってきた残りの二人に顎で両方の入口を指し示す。その時、顎に無精で生やしたようなひげが見えた。
指示された二人は、それぞれの入口から外に出た。見張りだ。
見張り役の二人が扉から姿を消して、フードを被った者とトレーネが視線を合わせた。
男がゆっくりとフードを取る。
厳つい顔があらわになった。固そうな岩盤を思い起こさせる。無精で生やしたような顎ひげが一層その厳つさを際立たせていた。
壮年のいかにも気難しそうな顔つきで眉が太く、瞳は鋭くシャオンとウェルを睨み付けている。外套を脱ぐと、筋肉がたっぷりと付いた太い腕が現れた。
男は腰に差した剣を右手に持ち替え、低い声で問うた。
「神官殿は、どちらかな」
「私でございます」
ウェルは軽く会釈しながら、いつもの口調でゆったり答えた。
男は値踏みするように、シャオンとウェルを交互に見る。
シャオンのほうはいかにも不機嫌そうに、椅子へ背を預けゆったりと座っている。時折神経質そうに左の顔を隠す髪をいじっていた。一方のウェルは凛と背筋を伸ばして姿勢を正し、穏やかに微笑んでいる。
剣を帯びているのは、今はシャオンだけだ。
男は小さく頷きながら、しばらく二人を見比べていた。
シャオンはそれが気に入らないとばかりに鼻を鳴らし、相手に顔が見えないように右を向いた。そうすると、左の顔をおおう髪がシャオンの表情を隠してしまう。
「さて、聖術を使えるという。貴殿はどの程度の力を行使できるのですかな。まさか、聖霊が見えるだけ、などと言うのではあるまいな」
「どの程度と、申されましても困ります。何か誤解がおありのようですが、もともと力を使う者は、聖霊と人の境界線に位置するだけです。大きな力を使える者など、そうはおりませんよ。まして、聖霊の力に程度という人の創った枠組みをはめる事もできはしません」
ウェルは大して高低を変えずに、淡々と話した。
前に座るあごひげの男は、眉根を寄せて難しい顔でそれを聞いている。
「では、聞き方を変えよう」
男は大きな咳払いをしてから、身を乗り出した。
「妖獣退治はなさるのかな」
「そうですね。そのような事もあったかもしれません」
「剣の方も使えそうであるな」
「さあ、貴殿ほどではなさそうですよ」
男はううんと唸って腕組みをした。ウェルのつかみどころのない問答に、辟易したようだ。矛先は、次にシャオンへ向けられた。
「そちらはどうだ。剣の腕は」
不遜な物言いに、シャオンは顔を背けたままで返事をしなかった。
「私はウェル、こちらはシャオンと申します。出来ましたら貴殿も名乗っていただけませんか? 何か願いがあると、トレーネから聞いています。私で適うことでしたら、お手伝いいたしますが、それにはやはり順序というものも御座いますので」
同時にウェルの顔から微笑みが消えた。まるで書物の項を一枚捲ると、全く違う物語が始まってしまうかのように、ウェルという双子のかたわれが存在するかのように、とたんに温和さがなくなり、冷涼とした雰囲気が取って代わった。
その犯し難い気品と威光に男はたじろいだ様子だった。
「これは失礼申した。私はフェンダーという。身分は今の処ご容赦願おう」
フェンダーと名乗った壮年の男は、さらに身を乗り出してきた。
「願いを言う前に、ひとつ質問したいのだが」
「どうぞ」
「貴殿は今現在のグリュックをどう御覧になる?」
ウェルとシャオンは顔を見合わせた。
シャオンが真っ直ぐにフェンダーの顔を見る。
反射的に相手も初めてシャオンの顔を覗きこむ。
すると一瞬フェンダーは疑念でも抱いたかのように、怪訝そうに眉をひそめた。
「申し訳ないのですが、私達は昨日こちらに参ったばかりで、まだ街の様子も見てはおりません。とてもお望みの答えをお返しすることは適いません」
そつなく返答するウェルを、シャオンは改めて感心したように息をついた。
フェンダーは降参したように、手をわずかに上げて苦笑いした。
「なるほど。ではお話いたそう。今グリュックはたいそう治安が悪化している。通行証は偽造が増え、もはや悪徳商人達の出入りの取り締まりは不可能となった。関税は増やされ、一見街道は賑わってはいるが、それは見せかけ、偽の商品なども出回って闇の取引も横行している。加えて役人どもの民への暴行も目に余る。貧富の差はますます大きくなり、裏路地では浮浪者まで出る始末だ」
「それで?」
ウェルは冷然とかえした。シャオンにはそれがかすかに怒りを含んだ声音に聞こえた。
「それで? ……全く話の巧い方だ。そう、グリュックを以前のグリュックに戻したいと、我々は願っているわけですな」
ウェルは急に立ち上がりフェンダーに背を向けた。
数歩、背を向けたまま歩き、立ち止まる。回りの人間には、わずかに肩が震えて見えた。まるで忍び笑いをしているかのようだ。
けれどそうしていたのはほんのわずかな時間で、すぐにトレーネやフェンダーには顔が見えないまま、悠揚とした声音で告げた。
「おっしゃりたい事は分かりました。では、私からもひとつお聞きします」
ウェルが一呼吸置く間、束の間部屋に静寂が訪れた。互いの息遣いだけが耳朶に触れ、背筋が寒くなるほどの静けさだった。
ウェルが振り向いて言った。
顔には柔らかな微笑があった。だが、続く言葉があまりに鮮烈で、その笑みは妖獣の者の様に妖しく見えた。
「それはつまり、シェバ皇帝を暗殺するということですか?」
フェンダーも、そしてトレーネも息を呑んだのがシャオンには分かった。シャオン自身も、すぐにはウェルの言っている事が呑み込めなかった。
「もうすぐグリュックへシェバ皇帝が来る。そのために私の力を利用しようとお考えですか?」
ウェルは優しくトレーネを見た。シャオンには少なくともそう見えた。だが、見られたトレーネはばつが悪そうに頬を朱に染めて顔を背けた。
シャオンにはそれで全ての辻褄があったような気がした。
トレーネはウェルが聖術を使うと知った瞬間から、足止めを食らわせるつもりだったのだ。だから自分達をわざわざ宿に宿泊させ、このフェンダーという男に連絡を取ったのだろう。おそらく昨夜の訪問者はこの男だ。シャオンは二つある入口から外に出ている二人の者達のことも考えた。ちょうど数も三人で合う。
「おいしい話には裏があるってのは本当らしいな、ウェル」
ウェルは、不遜にも足を組んでゆったりともたれたままのシャオンに視線を落とす。
フェンダーが手にした剣を左手に持ち替えた。
「そこまで見抜いておられるとは。ならば、話は早いというものだ」
フェンダーが立ち上がると、その筋肉質な体は雄雄しく、泰然自若とした態度は幾つもの修羅場を潜り抜けてきたであろうことを感じさせた。
咄嗟にシャオンも背もたれから体を起こし、剣の柄に手を添える。
緊迫した状況にトレーネは慌てた様子でフェンダーの腕に縋った。
「お待ち下さい、将軍」
「そこまで分かっているのなら、私の考えておることも、当然分かっているのだろう? ウェルとやら。我々には悠長に構えている暇はないのでな」
言いながらフェンダーは剣の柄に手を添えた。
「こいつ」
「シャオン」
今にも剣を抜きそうなシャオンの手に、ウェルの手が重ねられた。
「何だよ、ウェル。どうせ俺達を殺すつもりだぜ。話を断ればこの場で。受けたって、シェバに敵うはずない。命を落とすのは俺達だ。おっさんもシェバなぞ狙うのはやめとけ」
シャオンはウェルの手を払い除けて、剣を抜いた。豹のように無駄のまったくない素早い動きで、剣先はフェンダーに突きつけられた。
フェンダーは微動だにしなかった。
「どうよ、何も言えねえだろうが」
「何故敵わないと思うのだ」
「そんなことおっさんが一番よく知ってんじゃねえか。だからシェバを殺したいんだろ? そうだろうよ。だからウェルの力が要るんだろうが」
シャオンは眉一つ動かさぬフェンダーを睨んだ。
フェンダーは片方の口の端を持ち上げて笑った。
「面白い二人だな。消すには惜しい」
「何だと? お前に俺が斬れるってのかよ」
シャオンに抑えきれない怒りが沸き立った。右から覗く黒い瞳は怒りに燃えて鋭くフェンダーを見据える。きっかけさえあれば、即座に剣を振り下ろす勢いだ。
「お止めなさい、シャオン。フェンダー殿」
ウェルはシャオンの剣を押さえて鞘に収めさせた。
シャオンは音を立てて長いすに腰を下ろし、再び手と足を組み、そっぽを向いた。
「私に選択権はなさそうなのでお聞きします」
「話のよく分かる方だ、神官殿は。どうぞ、なんなりと」
「もう貴方のご身分を明かして下さってもよいでしょう。それに、我々と、おっしゃった。首謀者はどなたです?」
フェンダーはそう涼しい顔で尋ねるウェルを睥睨した。
物腰が柔らかそうなのに、物事の核心をずばりと切り込む。そのウェルに主導権を握られたまま、本来ならフェンダーの方が切り札を握っているはずがいつの間にかそれを失っているのだ。
「私はシェバ帝国将軍だ。それ以外は明かせん」
「俺はごめんだ」
「シャオン」
シャオンは立ち上がり、扉の一方へと足を向けた。
ウェルはフェンダーが行動を起こすより早くシャオンの腕を掴んでいた。それをシャオンは乱暴に振り解き、フェンダーを睨め付けた。
「シェバは化け物だ。俺はごめんだね」
同時に左半分を隠していた豊かな黒髪を一気に掻き揚げた。
トレーネが小さな悲鳴を上げる。
そこに現れたのは、二本の醜い傷だった。左目はその傷によって潰れている。ちょうど傷は左の眉の付け根辺りから、斜めに頬骨の辺りまで延びている。傷の周りの皮膚は色を失って暗紫色に変わり、髪を掻き揚げた顔は妖獣と見間違われそうな容貌に見えた。
フェンダーは黙ってその傷を見ていた。
「知ってるからウェルが必要なんだろうが。シェバが人間じゃねえって」
シャオンは髪を掻き揚げていた手を下ろして再び顔を隠し、乱暴に扉を開けて部屋を出た。だが、戸惑う見張りにフェンダーは何の指示も与えなかった。
「いいのですか。シャオンを部屋から出して」
それを聞いて、フェンダーは鼻でせせら笑った。
「どうせ役人に話など出来る身分ではあるまい?」
「確かに」
そう言って微笑むウェルをフェンダーは不思議そうに見た。
「どうも貴方は勝手が違う。変わっておられるというか、豪胆というか」
「そうでもありませんよ。ちゃんと報酬は頂きます。シャオンもお金しだいで、気も変わるでしょう」
ウェルは悪戯を楽しむ子供のような笑を湛えていた。
「叩けば埃が出そうだな」
対したフェンダーも不敵に微笑んだ。
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