第一章・運命の萌芽 4
翌朝、夜明け前に、二人は誰よりも早く部屋を出て食堂へ降りた。
もちろん食堂には誰もいない。厨房の方から朝食の準備をする者達の物音が微かに聞こえてくる。
ウェルとシャオンは互いに目で合図しあって、宿の入口の方へ進んだ。だが、数歩進んだ所で、シャオンがウェルの服の裾を掴んで足を止めた。
振り返ると、食堂と厨房を結ぶ入口に宿の主人トレーネが人形のように無言で立っている。
「おはようございます。昨夜は思いもかけずこちらへ泊めて頂いて、お礼の申しようも御座いません」
ウェルが少女の目をまっすぐに見て、いつもの微笑を顔に湛えてぬけぬけと言った。
「もう、お帰りですか?」
「ええ、こちらへはご挨拶に寄っただけでしたので」
少女は心持ち緊張したような表情になって二人に歩み寄ってきた。
シャオンは思わず身構えていた。まさか、グリュックの都グリウスへの通行証がないことがバレたのではないかと思ったのだ。
「お願いがあるのです」
二人は顔を見合わせた。いまさら願いを聞かぬとは言えない。何しろウェルはトレーネの父親トレルオムにたいへん世話になったことになっている。その礼にと、昨日は無償で治療まで施したのだから。
「願いがあるのは私ではないのです。その方はもう暫くするとこちらに来られますので、お待ち頂けませんか?」
ウェルの表情は全く変わらない。
シャオンは右目を細めた。
ウェルと違ってシャオンは思った事がすぐに顔に出る。
トレーネは来る相手に対して敬語を使った。そして自分達に対しては都合を聞かずに待つことを依頼してきた。脳裏にふと深夜の訪問者の事がよぎる。状況的には、決していい依頼とはいえないとシャオンは感じた。
「それは出来ねえな」
シャオンは即座にウェルの前に出て、冷ややかに告げた。
「シャオン」
ウェルがシャオンの肩を掴む。ゆっくりと首を左右に振った。
「すみません、連れが……出来ましたら御用のむきを教えて頂けませんか?」
トレーネは一瞬伏せ目がちになったが、決心したようにまっすぐ顔を上げた。胸の前で手を組む。まるで神殿で熱心に神へ祈りを捧げる信者のようだ。
「神官様のお力が必要なのです。どうかお話だけでも聞いていただけませんか?」
トレーネの声には切迫した何かがあった。思いつめたような瞳は縋る様にウェルに向けられている。
「分かりました」
「おいっ、ウェル!」
シャオンは掴み掛からんばかりの勢いでウェルに向かった。だがウェルは穏やかさを崩すことはない。
トレーネも隠さずに安堵の息を漏らした。
「すぐに朝食を用意させます」
少女はくるりと身を翻し、厨房へと消えて行った。
姿が厨房へ消えたことを確認してから、シャオンは再びウェルに向き直った。もちろん文句を言うためだ。ウェルとトラオの亡くなった主人とは、どうやらそう深い関わりがあるようにはシャオンには思えなかった。その上、グリュックを制圧した破竹の勢いのシェバ皇帝がグリウスの都にやって来るという。皇帝が来ればさらに役人の数が増え、監視の目は厳しくなるだろう。そこへ昨夜の訪問者だ。
グリュックに入る通行証を持たない二人にはこれ以上の長居は無用である。
が、シャオンは言葉が出なかった。
ウェルは少女の消えた入口をじっと見ていた。いつもの微かな笑みが消え去った顔は酷薄ですらあった。
老舗旅亭トラオの幼い主人・トレーネの言っていた訪問者はなかなか訪れなかった。
朝食を済ませ、昼食を済ませ、申し訳なさそうにトレーネが運んできた極上の酒に手をつけても、まだ現れない。
「ったく、どうなってんだよ。いつまで待たせる気だ」
シャオンは苛々した様に腕を組み、時折舌打ちしながら、狭い部屋をうろついていた。
「まさか役人に俺達のことを通報してんじゃあねえだろうな」
「それはないと思いますよ」
ウェルは読んでいた古い本から視線を上げて答えた。
「もしそうなら、わざわざ私達に言わなくても、役人に通報してこの部屋を固めさせればいいのですから」
シャオンはウェルの落ち着き払った態度にも腹が立っていた。何事もなかったかのようにウェルは微笑んでいる。
「あのまま山へ引き返してりゃよかった」
「山でまた野宿ですか?」
「いつものことじゃねえか」
「でも何か仕事を引き受けられそうじゃありませんか。どのみちお金は盗まれてしまったのだし、好都合じゃありませんか?」
シャオンは相棒の前に立った。
「危ねえ仕事はごめんだ」
「なぜ危ないと思うのです? 話を聞いてみないことには、分かりません」
ウェルは本を片付けると立ち上がって、小さな机に置かれた極上の果実酒を二つの器に注いだ。
一つをシャオンに無言で差し出す。
「いらねえよ。飲んだら、頭が馬鹿になる」
「せっかくの良いお酒を、もったいないですよ」
「酒好き」
「誤解が生じるような言い方はよしてください。何をそんなに苛々しているのです?」
ウェルは器を二つ手にしたまま、一つに口をつけた。
「夜中の客だ。あれが気になって仕方ない。鋭い気配だった。普通の人間じゃない。剣か、武器を持つ者の気配だ」
「相変わらず鋭い勘だ」
「それに」
シャオンはウェルの前に立ちはだかった。ほぼ同じ位の背丈なので、目線が合う。
「お前だ、ウェル。何か知ってんだろ?」
「私が一体なにを知っていると言うのです?」
「しらばくれやがって。いつも秘密主義なんだな」
「どうしてそう思うのです? トレーネという少女が、なにやら不吉なことに巻き込まれている気がして心配なだけです。トレルオムの娘さんですからね。気になって当然でしょう?」
いつものゆったりとした口調で言い、器に注いだ二杯の酒を一気に飲み干すウェルを、シャオンは黙って訝しげに見ていた。
果実酒とはいえ、ウェルはすでに一本を空けている。それでも顔色一つ変えない相棒に、シャオンはあきれた。ウェルがこれほど飲むのは珍しい。だが今のシャオンにとってそれは大して問題ではなかった。夜中の客と怪しい依頼、その二つで頭がいっぱいだった。
「じゃあ、世話になったって言うのは本当なのか?」
「そう言っているではありませんか」
ウェルは器を目の高さで掲げて、得意の微笑でシャオンを魅了する。
そんな事では、シャオンの苛立ちはおさまりそうにはなかった。
「もう、昔の話です……少し休みますから、客人が来たら起こしてください」
寝台に体を横たえたウェルに、シャオンはもう何も聞けなかった。いつもこうして話をはぐらかされるのだ。
ウェルは決して本心を明かすことがない。シャオンに限ってではなく、誰に対してもである。怒ったり、泣いたり、はては声を立てて笑う所も見たことがなかった。
ウェルとシャオンが出会ってから、一年がようやくすぎた所だ。
ウェルは医師として、シャオンは傭兵として、ある屋敷に雇われていた。
もちろんシャオンはウェルが大嫌いだった。取り澄ました顔、何を考えているか分からない微笑み、育ちの良さそうな立ち居振る舞い。はっきり言って、すべて気に食わなかった。
シャオンが屋敷を出る時、ウェルはこう言った。
「世界を旅してみたいのです。案内してくれませんか」
当然、断った。するとウェルは得意の説教口調でこう切り返してきた。
「貴方一人では、たいした稼ぎにはなりませんね。私がいれば楽をしてお金を儲ける方法を伝授しますよ」
この一言はシャオンにとって非常に魅惑的だった。結局ウェルの申し出を受け入れ、立ち寄った村で医師として仕事をしたり、妖獣を退治したりして金を稼ぎ、気ままに旅を続けてきた。
シャオンにとって、ウェルは便利な存在だった。
偉い神官が講話を説くような口調のウェルは、何を言っても説得力がある。妖獣を退治する時、闇の力に対抗する聖術は何より効果があった。むろん剣も人並み以上に使う。
けれども、シャオンはウェルの出身も過去も、何一つ知らない。
知っているのはウェルという名前と、聖術や医術、薬草などに通じ、計り知れないほどの知識を持っているということだ。
同じくウェルは、シャオンの過去にも決して触れようとしない。それがもっとも気に入っている所でもあった。
シャオンはそんな事を考えながら、寝台に横たわったウェルの横顔を見下ろした。
そこにあるのは、この一年飽きる事無く、毎日見てきた寝顔だった。
そして、問題の客が現れたのは、夕食が終わり、食堂にも客の姿がなくなった夜更けのことだった。
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