第七章・明日への啓示 3
翌日、シャオンは歩けるようになった。
エリオンはあれ以来シャオンの元を訪問してこなかった。
アキロを攻めるはずだった兵達にも説明しなくてはならないだろうし、アキロとの外交問題もある。シャオンは後で聞いたのだが、アキロにはシェバが消えた翌日早々に使者が立って、何とか穏便に事が済んだらしい。もちろんアキロも無用な戦闘を避け、自国を守れたのであるから異論もなかったであろう。
エリオンは今頃、他にも関所の取締りやら、治安の維持などで忙殺されているはずだ。
大臣たちは、というと、今までどうやらメデスの闇の力によって一種の無気力な状態に陥っていたらしい。本人達も、記憶が曖昧ではっきりしないという。
シャオンはその話をフェンダーから聞いて、ますます闇の妖力の恐ろしさを実感することになった。
フェンダーも杖で自由に歩けるまでに回復している。ひそかに剣を振っているという噂だ。
ただ、ウェルは目覚めなかった。
死体のように横たわったまま、身じろぎ一つしない。
枕元には紫翠の石が置かれていた。
シャオンはその隣で、じっとウェルが目覚めるのを待った。歩けるようになってさらに三日が過ぎていた。
シャオンは死人のように横たわるウェルの長いまつげを見ていた。
女のように、長く綺麗なまつげだ。
これが女だったら、グリウスの男どもがほってはおかないだろうなと、不謹慎なことを考えていた時だった。
ウェルのまつげが動いた。
「ウェル! 気が付いたのか!」
耳元でそれだけ叫べば、どんな病人も目が覚めるのではないかというくらいの声だった。現に隣室に控えていた侍従が飛び込んできたくらいだ。
ウェルはゆっくりと目を開けた。
瞳は初め、何も映していないかのように焦点が合っていなかった。徐々に青い瞳に生気が戻る。
待っていた瞬間が訪れた。
ウェルが、いつものあるのかないのか判然としない微かな笑を口元に湛える。
「そんな大きな声を出さなくても聞こえます」
シャオンは右目を見開いたまま口をまるで空気を貪る魚のように動かした。
「どれほど、眠っていました?」
「七日だ」
いかにも不機嫌というふうに、声を荒げて返事を返す。
「シャオンの怪我は」
「おかげさんで、どうも」
「フェンダー殿やリグは?」
「はいはい、どうも」
「それはよかった」
そう言ってまた瞳を閉じてしまう。
「おら、寝るんじゃねぇ、帰るぞ。いつまでもここにいちゃあ、悪いぜ」
ウェルは瞳を閉じたまま、小さく頷いた。
「そうですね。ここには思い出が多すぎます。私には少し辛いですから」
ウェルの端整な顔が別段動いたわけでもなかったが、その言葉がシャオンには重かった。喉元が焼けるように痛く、何かが痞えたように遣り切れない思いがこみ上げてくる。すっかりその事を失念していた自分の愚かさを呪いたかった。
「何か欲しいものはねえか? 喉が渇いた、とかよ」
ウェルはうっすらと瞳を開けた。わずかばかり顔をシャオンに向けて、至極真面目にこう言った。
「トレーネが飲ませてくれた、あの果実酒がいいです」
シャオンはあまりの返答に声も出なかった。
程なくシャオンとウェルは神殿に戻ることになった。
エリオンが再び姿を見せたのは、二人が神殿に戻る前日の事だった。
「引き止めたって無駄だぞ」
「分かっている」
シャオンの言葉にエリオンは憤然として寝台の近くにある長椅子に腰をかけた。
ウェルはまだ寝台に横になったままだ。シャオンは一日のほとんどをウェルの部屋で過ごしている。
「なんと言っていいか分からない。本当に感謝している。ウェル殿、本来ならグリュックは貴方に返さねばならぬのに」
「いいえ」
ウェルは間をおかずに返答した。晴れやかな表情は、どこか何かを吹っ切ったような、そんなウェルの心中を映し出しているかのようだ。
「私はそのような器にはありません。それよりも、もっと世界を見てみたいのです。私の知らない、広い世界があるような気がします。そこに、私を本当に必要としている場所が、あるかもしれません」
淡々とした語りだったが、それは新しい何かを求めるウェルの決意だったのかもしれない。シャオンはそう感じた。
シャオンがそうであるように。
心にわだかまっていたものが、風船が萎んでいくように消えていった。
妖獣に見せられた母、マリノアの姿が今も瞼に焼き付いている。
十五年ぶりに見た、父、シェバ皇帝は、すでに干からびた化け物だった。
それらはすべて、彼方に消えてゆくようであった。
ウェルも笑っている。こんな明るい笑みを見たのは初めてだ。
「ウェル殿。グリュックは必ず再建してみせる。本国の兄も、きっとシェバ帝国を立て直す、無論私も全力を尽くしたい」
「期待しています」
エリオンはシャオンが見ても眩しいくらいの姿で堂々と立ち上がった。厳然たる姿は人の上に立つ度量を感じさせた。
エリオンの差し出した手を、ウェルも取った。
そのまま、エリオンはシャオンを振り返った。
「いつでも戻ってきて欲しい。それまでに、グリウスを、素晴らしい都にしてみせる。グリュックをヨウーワ大陸で一番の国にしてみせよう。故郷というに相応しい所に、な」
故郷という言葉が、シャオンには希望のように思われた。
神殿に戻る当日、フェンダーもリグも、シャオンを引きとめようとしたが、フェンダーは結局こう言ってシャオンを送り出してくれた。
「いつでも来い。私のすべてを、教えてやるからな」
さらに無精で生やしたようなひげが濃くなったフェンダーは親指を立てて不敵に笑った。
「みな、私達の心配をしてくれていますね」
神殿に向かう馬車の中で、まだ辛そうに背を揺れる車体に預けるウェルが言う。
「余計な心配だな。俺達は何も変わりはしない。そうだろ?」
ウェルはそれに微笑みで返した。
神殿に着くと、涙でぐしょぐしょになったトレーネと、穏やかな表情のゲフュールに迎えられた。
神殿の庭園での、久しぶりの再会であった。
「ウェル様、シャオン様、お帰りなさい」
そう言って、トレーネは懐から一枚の布を取り出した。シャオンの髪の色と同じ、それよりもやや淡い黒であった。
「様はだめだ、って言ったろうが」
トレーネはシャオンの腕をつかんで引っ張った。
「屈んでください、シャオン様」
「だから──」
ふわりとシャオンの前髪が持ち上げられた。左の傷があらわになって、シャオンは慌ててそれを隠そうと手を出した。
そこに、トレーネの取り出した布が、巻かれた。眼帯の役割を果たすその布は、シャオンの髪に紛れて上手く左の痛々しい傷を隠してくれる。
「よかった、ぴったりで!」
トレーネは嬉しそうに手を合わせた。
シャオンは耳まで赤くなっていた。
「これは良いですね、シャオン」
そっと傷に手を当てる。巻かれた布にトレーネのぬくもりが残っているように思われた。
帰る場所を、シャオンは見つけたような気がした。
生れて初めて得た場所だ。
今まで帰る場所などなかった。
シェバ帝国も、その後さすらった長い時間も。
グリウスには、仲間がいる。
何より、そして誰より、シャオンはウェルという友人を得た。得がたい絆を結ぶ事ができた。
ウェルがあるかないかわずかな笑みを湛えている。しかしそれはもう作り笑いではない。
傷の癒えたウェルとシャオンは、グリウスを後にした。
行き先は決まっていない。
「金もたんともらったしな」
「旅の友も頂きましたよ」
「とも?」
ウェルは背に担いだ袋から、ビンを一本取り出した。
「お前! 酒、貰ったのかよ」
「いけませんか?」
「いけませんか、ってお前……」
「いいじゃありませんか。さあ、何か仕事を探しましょう」
「金もらったのに、仕事すんのかよ。でもま、妖獣退治はしばらく遠慮しとくわ」
「おや、何故です?」
「おまえ、やんのかよ」
「別に、いいですよ」
ウェルは胸元に手を当てた。
心地よい風が吹く。
シャオンは真っ直ぐに空を見上げた。
もう気にしなくてもいい。
傷を隠す必要を感じなかったからだ。
グリウスの章 了 |