第七章・明日への啓示 2
柔らかな感触が、肌に触れていた。
滑らかで極上の絹の敷物が、少しひんやりとしていて心地よい。
このままずっとこの心地よさに浸っていたい。
そう思って体を丸めて寝返りを打った。
「イ……!」
激痛に目が覚めた。
目は覚めたが、瞳は開けられなかった。腸をつかまれたようなねじけた痛みが、足の先と脳天を突き抜けたのだ。
さらに腹を押さえようとした左の掌が、じりりと痛んだ。
「大丈夫ですか、シャオン」
抑揚のない声が耳に届く。
額に汗が浮かんだ。痛みはそれほどに激しい。
「ウェル?」
寝台の横に座る相棒が目にとまった。
すけるように白い顔に、今度はシャオンが驚く。
ウェルの顔は真っ青だった。唇にも色がない。ただ、いつも浮かべている微笑だけが同じなだけで、生気がないといっても過言ではないほどだ。今すぐに消え去りそうな、霊体のように存在感がない。
「お、ま……その顔、大丈夫かよ」
そう言ってから、改めて自分が豪奢な寝台に横たわっているのに気付いた。上を見上げると天蓋がついている。大きな窓からは青空が覗き、壁には絵画が飾られ、寝台の隣の小さな机には花が置かれている。明かりを灯す燭台にすら、シャオンには無用とも思える緻密な装飾がある。
「ここ、どこ?」
それを聞いて、ウェルが薄く笑った。
「グリウス城です。覚えていませんか?」
シャオンは目を剥いた。
はっきり言って、あの蝦蟇蛙のようなやつに剣を突き立ててからの記憶が、異状に曖昧なのだ。
「シェバを仕留めました。シャオンのおかげです。あなたが身を挺してこの石を投げてくれなかったら、私達はもう死んでいました」
ウェルが右手を見せた。紫翠の石だ。
シャオンは痛む左手を目の前に翳した。
「これか、それで、この手は焼けてんだな」
必死だったのであまり記憶にはない。ただ、焼け付くように熱い石をつかんだことは鮮明な記憶として残っていた。
「闇の力でつけられた傷はほぼ浄化できたと思います」
シャオンが目を剥いたままなので、ウェルがまた微笑んだ。
「シェバに、腹に風穴を開けられたのですよ。もう少しそれていたら、命はありませんでした。それにその傷は闇の力でつけられたのです。きちんと浄化しておかないと、そこから腐ってきます。シャオンの左目も、誰かがそうしてくれたからそれで済んでいるのでしょう?」
「いや、わからねえよ。目の怪我の時は、長い間熱で意識がなかったって聞いてるし。
そうか、あの人はちゃんとしてくれたんだ」
「あの人?」
シャオンは懐かしむように目を細めた。
「俺を助けてくれた人。盗賊だったけど、いい人だった。おかげで俺はウェルに会えたしな」
普段なら絶対口にしそうにない言葉をさらりと言って、シャオンは目を閉じた。
そのまま、意識は再び深い闇に落ちていった。
次に気付いた時、また同じように青空が見えた。
体をよじっても、痛みはあるが激痛と言うには大袈裟なほどに軽減している。
ふと思い出して、左の手を見た。
まだ白い布が巻かれてはいるが、こちらは本当に痛みがない。そっと布を外してみると、手はわずかに引き攣れを残していた。
ゆっくりと体を起こしてみる。
異常なほどの喉の渇きを覚えた。
部屋は無意味に広くて、今横たわる寝台のほかにも、それほど客が来ないだろうと思われるほどの幅の広い長椅子が四つもあり、部屋に置くこともないだろうと思われる石像まである。
誰もいなかった。
ここで叫んでも、誰も来ないような気がした。
隣の部屋まで声は届くだろうか、などと無用なことを考えていると、遠くから足音が一つ聞こえてきて、程なくして扉が開いた。
「エリオン」
「気付いたのか」
そう言うと、エリオンはまた部屋の外に出た。なにやらそこから指示を与えているような声がして、エリオンは手に水差しを持ってやって来た。
「気付いたようなので医師を呼んでおいた。どうだ、気分は?」
あれほど自分を毛嫌いしていたエリオンの態度が妙に優しいので、シャオンは思わず身構えた。
そのことに気付いたらしく、エリオンは珍しく微笑んで、言った。
そうして笑っていると、華やかさを持つ彫の深い整った顔立ちは、ウェルにも負けないくらい気品があって綺麗に見えた。
「礼を言う。おかげでシェバ王は倒せた。グリウス城は、なんだか明るくなった。無能だとばかり思っていた大臣達も、よく働いてくれている」
照れたように水差しを隣の机に置くと、飲むかと尋ねて水を入れてくれる。
シャオンが水を飲む間も、エリオンは至極穏やかに隣に座っていた。
「俺は何日くらい眠っていた?」
「三日たった」
「フェンダーやリグはどうした? ウェルは?」
「フェンダーは妖獣に左足を喰い付かれて、かなり重症だ。リグは右手をやられた。だがウェル殿がきちんと傷を浄化してくれたらしい、医師たちも彼の手腕に舌を巻いていた。二人とも順調に回復している」
「そうか、よかった」
あれは夢ではなかったのだ。初めて目覚めたとき、隣にウェルはいた。自分の傷も見てくれたのだ。
そう思って、シャオンは冷水を浴びたように全身から血の気が引いた。
その時のウェルの顔を思い出して。あの血の気のない真っ青な顔だ。
「ウェルは、どうした?」
早口に聞くシャオンに、エリオンは言い難そうに、間をおいた。
シャオンはエリオンの次の言葉を待てずに体を起こし、腹部が痛んで思わず二つ折りになった。
「無理をするからだ。別に死んだと言っている訳ではなかろうに」
シャオンはエリオンをしっかり睨んだが、痛みのせいか少しも凄みはなかった。
「ウェル殿は眠っている。夜が明けて、その日の夜半までお前のそばに居たのだが……そこで意識を失ったらしい。死んだように動かないが、ちゃんと息はしているからな」
「よかった」
心底安心したように息をつくシャオンを見て、エリオンは羨ましそうに目を細めた。
「おかしな二人だな。お前達は。だが、助けられた。本当に礼を言う。我々だけであれば、シェバが城に入る前に、もう私は死んでいたろうな」
「別に、礼なんか言われたかないよ。俺もウェルも、仇をとったんだ。お前のためにやったんじゃねえからな」
また体を横たえながら、シャオンはエリオンから視線をはずした。
シャオンの左側に座るエリオンからは、横たわってあらわになった顔の傷が痛々しく見えた。
目は完全に潰され、変色した皮膚は引き攣れている。
エリオンは目を逸らさずに、じっとそれを見ていた。
「すまない」
それは小さな声だった。
シャオンは耳を疑って振り返った。左側の視野が狭いので、そうしなければエリオンが見えない。
そこには悄然としたエリオンがいた。
いつも堂々と、自治領主の威厳を失わなかったのに。
「なんだよ」
シャオンの不機嫌そうな声が耳に届いたのか、エリオンは姿勢を正して話し出した。
「私とお前は、確か年は変わらなかったな。兄上達はお前のことをいつも妖獣だと言って蔑んでいた。母親も違うし、私も兄上達と同じようにいつもお前を睨んでいたように記憶しているのだ。噂では、皇帝が跡継ぎはシャオンだと公言して憚らなかったと聞く。お前が死んだと聞いた時、兄上達は笑っていた。私も正直、妖獣の弟がいなくなってホッとしたのを覚えている」
「そんな事は聞きたくないね」
「いや待ってくれ。そうではない。そんな話ではないのだ。お前はこれからどうするのだ? 国に戻るつもりなら、私が兄上達にちゃんと説明する。これから私を助けてくれると言うのなら、グリウスに留まってくれるといい。フェンダーもそう言っていた」
シャオンはあまりに突拍子もないことに、驚いて開いた口が塞がらなかった。
「ウェル殿も、あの英知を捨てておくのはもったいない。正当なグリウスの後継者なのだから、これも兄上に進言して、王としてグリウスにいてもらうつもりだ」
「ちょっとまてよ」
一人で勝手に決め付けたように話を進めるエリオンに、シャオンは憮然と口を曲げた。
こうも掌を返したような態度をとられると、どう対処してよいのか分からなくなってしまう。
「どういう心境の変化だよ、それ」
「別に、気が変わったわけではない。お前の事を好きになったわけでもない。だが、お前とウェル殿が息をしているのを見た時、私は心底ほっとしたのだ。それだけだ」
エリオンは真摯な顔つきで、シャオンから目を逸らさずに言った。
シャオンは思わず苦笑した。
グリウスに残る? 国に帰る?
そんな事は思ってもみなかった。国、とは、一体どこをさすのか、もうシャオンにはどうでもいいことだった。今更シェバ本国に戻った所で、居場所などあるはずもない。
「あのな、俺は国に戻るつもりもないし、自分のことを王子だとも思ってねえ。第一そんな性分でもねえよ。堅苦しいことは大っ嫌いだしな」
「だが、グリウスを救ったのはお前達ではないか」
「だから、関係ねえって言ってるじゃねえか」
「なにが」
エリオンが不機嫌そうに、口をゆがめた。
シャオンは笑いながら付け加えた。
「俺達は傷が治ったらさっさと消えるわ」 |