第六章・王城・決戦 5
「くそ、お前だったのか」
暗紫色の長い爪を剣で受け止めながら、間近に迫ったヤノスの顔を睨んだ。
強い力で剣を押される。
細い切れ長な目から、わずかに覗く漆黒の瞳が閃いた。
ヤノスの口元から、小枝を折ったようなメキ、メキ、という音がする。
突如、顔の半分が裂けて口に化け、中からもう一つの小さな顔が覗いた。
ヤノスと同じ細い目を持つ、瓜二つの顔だった。それが、裂け目から瞬きする間もなく飛び出してきた。鋭い歯が並んだ小さな口を猛烈な勢いで開き、剣を握る右腕に噛み付いた。
「ちいっ」
シャオンは直ぐに、左手でヤノスの口の中から出てきた小さな頭を掴んで、力を込めて引きちぎった。
それはずるりと、ヤノスの口から抜け落ちて、黒い塵になって消える。
ヤノスの顔は、すでに人間のものではなかった。
体はそのままなのに、顔は大きな蝦蟇のように変わっている。
無数のいぼのついた緑の顔には、蝦蟇の大きな口と、細い黒い瞳がある。
シャオンは間をおかずに剣を袈裟懸けに振り下ろした。
ヤノスは甲高く笑いながら、後ろに跳び退った。
「大人しくなされ。そしてそれ、シェバ様に体を差し出すがよい。お前が新しいシェバ王となるのだ」
シャオンは剣を握りなおした。
「誰が貴様の戯言など聞くもんか。ここで闇に帰りやがれ」
「ほおっ。ではこの女の言うことなら聞くか、どれ、会いたかろう」
ヤノスの姿は、言葉の途中で闇に溶けた。
はっとして足を踏み出したシャオンだったが、目の前に現れた新たな影に足を止めた。
女だった。
髪は黒く艶がある。少し癖のある髪はゆるく巻きながら、腰の辺りまで伸びている。振り向いた女の黒い瞳は濡れたように婀娜めいていた。
シャオンと年の変わらぬ美女だった。
女は懐かしむように小首を傾げ、微笑を向けた。手を、シャオンに向かって伸ばしてくる。
「やめろ、何のまねだ」
口元のほくろが、女が唇を軽く吊り上げるのと同じく艶かしく持ち上がった。
両手は真っ直ぐにシャオンに向けられる。
ゆっくりとした動作で、足が一歩前に出た。
「来るな」
幻影だと分っている。分っていても、剣を向けることが出来なかった。足は床に縫い止められたかのように動かなかった。体は石のように固くなっていた。喉は焼け付き、声を出すのも躊躇われるほどに痛んだ。心臓がわしずかみにされ、抉られるような痛みが鼓動と共に全身を貫いた。
遠い記憶の中の、一番大切な人だ。でも、その人は死んだのだ。自分を抱いて、真っ赤に血に染まりながら。殺された。
「母上……やめてくれ」
シャオンの声は懇願するように震えていた。
女はシャオンに寄り添うように近付き、シャオンの肩に手を乗せてきた。
体は強張ったように動かず、女に抗うことは出来ない。
女の腕は、肩からするりとシャオンの背に回って抱き寄せてきた。
「シャオン、逃げましょう。陛下は人間ではありません。さあ、逃げて──」
女が喋った、その声に重ねて、シャオンには耳障りな音が聞こえていた。
まるで美しい音楽に、砂嵐のような連続した雑音が混じっているかのように、低い残響が声に重なって聞こえる。
シャオンはくしくも、その異常な聴力によって救われたのだ。
母上は死んだのだ。
言い聞かせながら、剣を握る腕に力を込め、真横から叩き込んだ。
肉を切り裂く手ごたえがある。
ぐはっ!
目の前には蝦蟇がいた。
横腹にシャオンの剣が突き立っていた。
蔦は剣に巻きついていた。
ウェルの目の前でゆっくりと立ち上がったシェバが、眼球を失った漆黒の闇の覗く眼窩で、ぎょろっと見据えたように感じられた。
剣は蔦に捕らわれたまま微動だにしない。
ウェルはミイラのように干からびた姿で立っているシェバと睨み合った。
闇を背にまとい、同じ黒なのに眼窩の奥の闇はさらに深く見える。
「お前は誰だ」
耳の奥を撫で上げるような不快な声だ。
「私の名を聞いてどうする」
シェバは喉の奥で唾液を転がすような音をまじえて低い声で笑った。
「大体、想像はつく。その気配は、我が喰ろうた金の髪の男と酷似している」
──喰った?
ウェルはその言葉に目を見開いた。後頭部を殴られたような衝撃だった。
自身がグリウス城から逃れたあと、父と母がどういう末路を辿ったのかを知る由もなかった。
父と母は、力を持っていた。
無論、聖なる力だ。母は聖霊の姿が見える程度だったが、父王は聖霊に火を灯させることくらいはできたと記憶している。
妖獣は聖なる力を持つものを喰らうと、妖力と生命力を増すことができると言われていた。
ウェルは今まで、自らの感情に蓋をするよう、幼い頃から努力してきた。そうすることで過去の悲しみに耐えて生きてきた。が、深いところから湧き上がる怒りを、この時ばかりは抑えることができなかった。
生れて初めて覚えた殺意かもしれない。
ウェルは力を込め、我を忘れて剣を振り払った。
絡まっていた蔦は霧散するように消えた。間髪をおかずに剣を突き出し、続けて袈裟懸けに振り下ろした。
手応えはない。
「そのように人間の作ったもので我が斬れると思うのか」
シェバの顔には表情もない。声に抑揚もない。
それがかえってウェルに冷静さを取り戻させていた。左手に握り締めていた紫翠の石を目の前に翳して、口の端を持ち上げた。
「人の手によらぬものならば、斬ることができような」
ウェルはゆっくりと息を吐いた。
石を剣の根元にあて、剣の刃に滑らすように触れさせた。石が移動した刃には、その軌跡が刻まれたかのように、紫翠の輝きが移った。
剣が紫翠の光をまとう。
シェバは顎を引き、ぎこちない動きで、一歩足を後ろに引いた。
ウェルは駆け出し、シェバ目掛けて剣を突き出す。
が、シェバの体から黒い蔦が四本延びてきた。二本は剣に触れ、蛍光を発して消滅した。
もう二本は真っ直ぐウェルの体を横手から打ち付けてきた。
凄まじい力で弾き飛ばされる。
ウェルは天蓋つきの寝台の上に投げ飛ばされた。
寝台の柔らかな寝具が受け止めたせいで衝撃は和らいだが、ウェルの体は寝台の向こう側へと転がりおちた。
床に落下して右半身を打ち付ける。衝撃で、紫翠の石が左手から転げ落ちた。
ウェルは慌ててそれを拾おうとして体を起こした。
が、一歩、紫翠の石の手前で、腕に激痛がはしった。
鮮血が迸る。
ウェルの左腕を黒い蔦が掠めたのである。膝をつき、右に持っていた剣で支えはしたものの、次に襲ってきた黒い蔦を、かわすことはできなかった。
蔦はウェルの右足をも貫いた。
刺し貫かれた反動で、崩れるように倒れこむ。
大きな寝台がウェルの体を隠しはしたものの、シェバの気配は向こう側に確実に存在していた。
激痛に唇をかみ締めながら、ウェルは必死で心を落ち着けようとした。
焦ってはならない。
心を落ち着けて、聖霊に加勢を依頼しなくては──。
石に宿る光の聖霊は応接の間の封印に使ってしまった。それを呼び戻せば、封印が解けて扉が開き、さらに役人をこの部屋に招き入れることになってしまう。
闇に光を呼ぶことは、大変な力が要る。夜に太陽を昇らせるようなものだ。ウェルにはその精神力を維持する自信がなかった。
ふと、風が、頬を撫ぜていく。
窓はすべて閉じられ、暗幕がかけられているので外から風が入ってくることはないはずだ。
風は次第に勢力を増し、ウェルの周囲を竜巻のように覆い始めた。
聖なる力を、ウェルは確かに感じた。
ふわり、と体が軽くなる。
その気配は間違うはずもない、紫翠の石に宿る力だった。
握った剣にも、力が漲る。
ウェルは剣を握り締めて立ち上がり、痛む右足を引きずって歩いた。
同時にずるり、と何かを引きずる音がウェルの耳に届く。
寝台から覗くと、シェバの体が、ぎこちない動きでこちら側に回ってこようとしていた。
その時。
「ウェル!」
シャオンが剣を構えて駆け寄ってきた。
シェバの体に体当たりする。
体はまるで乾燥した粘土細工が脆くも崩れ落ちるように粉砕した。
剣を握り締めたシャオンが、不敵に笑っている。
「えれえ、怪我してんじゃんかよ」
ウェルもつられて笑った。
二人が気を許したその瞬間だった。
粉砕したはずの体の辺りに黒い霧が立ち込め、黒い触手が湧き出ると、その一本がシャオンを貫いた。
「シャオン!」
シャオンの脇腹を突き抜けた触手は、素早く黒い塊の中に戻った。
腹を押さえて膝をついたシャオンの後ろに、蝦蟇の顔をした妖獣が音もなく立つ。腹を割かれたままの、蝦蟇の姿に変わったヤノスだ。
細く黒い瞳が、シャオンを見下ろした。
「あの程度で、我らを倒したつもりでいてもらっては困るのよ」
蝦蟇・ヤノスは、暗紫色の鋭い爪を振りかざした。
ウェルは急いで痛みを堪えて歩き、転がっていた紫翠の石を拾って握り締めると、それを蝦蟇に向かって投げつけた。
石が蝦蟇の額に、吸い込まれるようにして当たる。
ヤノスが断末魔の叫び声を上げた。
紫翠の石は極光を発して、蝦蟇の額にめり込み、青白い炎が発火して体を包み込んでいった。まとわりつくように、命を与えられたかのような炎が、蝦蟇の体を焼き尽くしていく。
「この、炎は結界の中のと、同じ……」
腹を押さえた手の隙間から鮮血が流れ落ちる。
シャオンは、膝をついたまま脇腹を抱えて、ゆるゆると後ろを見た。
一方、黒い塊は青白い炎がまるで見えているかのように眩しそうに身を捩ったかと思われたが、すぐに触手をウェルのほうへと向けてきた。
ウェルは両腕で剣を握り締め、瞳を閉じた。
紫翠の色を帯びた風が一旦ウェルの周りに集結し、四散する。風は太刀風となり、体を失ったシェバに襲い掛かった。
風が黒い塊から次々と伸びる触手を切り裂き、霧となって霧散させていく。
シャオンは膝をつきながら、シェバが風に切り刻まれる音を聞いていた。
蝦蟇が炎に焼かれ、黒い塊と化した後、そこには紫翠の石が落ちていた。
今はシャオンにも、その石が放つ光が眩しく見えている。
シャオンは脇腹を襲う痛みを堪えて床を這いながら、その石の元に行こうとしていた。
床の上で光を放つ石にそっと血にまみれた手を伸ばす。
鮮烈な光は、シャオンの右目を焼いてしまうのではないかというほどの輝きだ。
触れると、手はジジッという音を立てて焼け付いた。
「あつっ」
猛烈に発熱する石を、それでもシャオンは掴んだ。
手が焼け焦げるような音と匂いがする。
「あああああっ!」
声にならない叫び声を上げながら、シャオンは石を投げた。
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