第六章・王城・決戦 4
エリオンを──
その言葉に、エリオンの中で怒りが暴発した。
前に座る干からびた人間へ、力任せに剣を振り降ろそうと構えなおす。
が、たちどころに黒い霧がエリオンの視界を遮ってきた。
目の前は闇。
エリオンは動揺しそうになる心を抑えて目を閉じ、呼吸を整えた。彫りの深く目鼻立ちのはっきりとした顔が緊張に歪む。
闇に心を奪われた者の負け。
エリオンは心の中で反芻した。ウェルに教わったことだ。要は心の持ちようだと。
剣の柄を握る手に力を込めなおした時、足元で、がさがさと何者かが蠢く物音がした。
鼻の粘膜を刺すような異臭。
エリオンは目を恐る恐る開けた。
目に飛び込んできたのは、小さな紅い光だった。ガラス玉のように丸く、紅い目。
無数の節足動物に似た足が床を掴んでいた。大人の下肢ほどの長さで大腿部ほどの太さがある。巨大な百足だ。胴は黒く艶があり、触れると黒い液体が糸を引いて手に付きそうである。先端には人間の顔が張り付いていた。
「ひっ」
エリオンの周りに数体いる。
さらに後ろを振り向くと、さっきまで人間の姿をしていた役人達が闇に溶け、次々と百足へと変わっていった。
百足の紅い目が眇められると、口が耳まで裂け、針のように鋭い牙を剥いてきた。どこにどう力を入れたのか、体をよじって飛びついてくる。
慌てて剣でなぎ払った。狂ったように振り回す。
薙ぎ払っても薙ぎ払っても、それは向かってきた。体を真っ二つにされようとも、互いに体を求め合う。身の毛のよだつような、ギイッという音を立てて融合していく。
エリオンは頭がおかしくなりそうだった。
剣を振りながら、じりじりと追い詰められた。
不意に背に壁が当たる。
「エリオン様」
絞り出すような声が隣からした。
「リグ!」
隣でリグが片腕に化け物を喰らいつかせながら、向かってくる百足を斬っていた。
ぐしゅっと、肉に刃物が刺さりこむ嫌な音がした。
エリオンは咄嗟に喰らい付いている百足の化け物に掴みかって引き離した。リグの腕から鮮血と共に牙が抜ける。
エリオンの手には、タールのごとき黒緑色の粘着質な液体がベットリと付いていた。
リグはその場で片膝を付いた。声すらたてずに痛みに耐えるリグは賞賛に値する忍耐力の持ち主だ。
「大丈夫か」
エリオンは剣で化け物たちを牽制しながら、リグの肩に手をやった。
「フェンダー様とはぐれました」
リグがかすれた声で言う。
「私もだ」
フェンダーは百足の妖獣を追い払いながら、王の間から応接の間に移動していた。
もちろん辺りは吸い込まれそうな深い闇に包まれている。王の間の入口と、応接の間の入口にある仄かな明かりだけが、闇を照らすのみだ。
目の前には痩せた男が立ちはだかっていた。
「メデス、よくもドールクを妖獣の手先に使ってくれたな」
剣を向けられてもメデスは怯む様子もなく、また表情一つ変えずに、笑った。
「フェンダー将軍。あなたは闇に落ちなかった。ドールクも」
メデスは喉の奥を震わせてクククと笑う。
「ドールクは抵抗した、だが、私の力には抗えなかった。血反吐を吐き、身悶えながら、あの男は私の手先となり働いたのだ」
フェンダーは剣を握りなおした。
太い腕についた筋肉が力を込められ盛り上がる。
フェンダーは太い声と共に、剣を横に払った。
メデスの体が呆気なく二つに切り裂かれ、裂けた隙間から闇が覗いた。
やったと思ったのは一瞬だった。
切り裂かれた上体が倒れざまにフェンダーの足に噛み付いたのである。
フェンダーの左足に、骨を打ち砕かれたかのような激痛が走った。衝撃で噛み付かれたまま倒れこむ。
一瞬のことに反応が遅れたフェンダーが足元に目を落とすと、そこには半分に斬られたままのメデスが、細く紅い目を見開いて下からフェンダーを睨め付けていた。
ざわざわという音と共に、メデスの体から無数の節足が湧き出てくる。
元々ついていた上腕も肩と肘を直角に曲げて体を支えていた。
下半身からも同じ足が無数に生えると、股関節と膝を直角に曲げ、すべての足を使ってざわざわという音を立てながら上半身に向かってきた。歩きながら、まとっていた衣服は脱げ、変わりに黒い肌があらわになる。
ついに、真っ二つになった体はキイという音と共に融合した。
さすがのフェンダーも目の前に繰り広げられる異様な光景に息を呑んだ。
最前線にいた時には、おもに後方で指揮を取っていた。最前線にいる敵国の兵達がシェバの放った妖獣とどう戦っていたのかは、実際のところほとんど目にしていない。ただ、戦いの後で、バラバラになった人間の体を食らう異形のものを目にしたくらいだった。その異形も、狼か鷲などの動物の顔が人間で体が獣だとか、鱗があるとかの程度だった。
噛み付かれた足に、二度目の激痛が走る。
噛み付いた口に力を込めたらしい。
全身がしびれた。
「痛かろう? 直ぐに楽にしてやろう」
噛み付いたままだというのに、どこからともなくメデスの声がした。
闇に負けてはならない。
フェンダーはそう心で呟いた。
上体を起こし、両腕で剣を握りなおす。
剣を振り上げ、力いっぱい足に噛み付く妖獣の頭に振り下ろした。
「シャオン様」
ヤノスは再びシャオンに呼びかけた。
シェバを振り返っていたシャオンが、ヤノスを睨む。
「おお、確かに、シェバ様のお子様の気配。闇の力を見出すことができる」
ヤノスはゆっくりとシャオンに近付いてきた。
「あの時、私の爪にかかって左目を抉り、もう生きてはいまいと思っていた。マリノワを庇うなど、愚かなこと──」
──シュッ。一瞬、風が二人の間を駆け抜けた。
「それ以上彼に近寄ることは許しません」
いつの間にか、ウェルがシャオンのそばに立っていた。
ウェルはドールクの、普通よりは長く重い剣を抜き払った。それを椅子に座ったままのシェバの体に突きつける。
「引きなさい。刺しますよ」
ウェルの顔には、当然ながら笑みはない。
整った美貌の青年の瞳は燃えるように揺らぎ、真っ直ぐにヤノスを見る。その顔は凄艶で、冷酷ですらあった。
左手には紫翠の石が握られている。指の間から聖なる紫翠の輝きが漏れ出で、ウェルの石を握る手までが透けて光を帯びている。
「その石は」
ヤノスは眩しそうに、己が額に手を翳した。
ウェルがシェバに突き出した剣に力を込めようとした。
が、ヤノスが一瞬早く、飛んだ。
同時にシェバが立ち上がった。ミシミシという崩れそうな音を立てながら。
シャオンはヤノスの爪を、ウェルはシェバの放った黒い蔦をそれぞれ剣で受けていた。
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