第一章・運命の萌芽 1
「ないぞっ?」
仄暗い洞穴の中で、悲痛な叫び声が小さく木霊した。
洞穴の入り口で簾の様に垂れ下がる緑の草葉が、射し込む弱々しい曙光を遮っている。淡い光が、二つのごくごく薄い影を洞穴の岩壁に作り出していた。洞穴は平均的な成人男性が立ち上がってわずかに余裕がある高さで、奥行きと横幅は二人の人間が軽く手を伸ばせる程度の広さしかない。
周囲は岩石のような硬い性質のもので囲まれていた。
冷気が小さな洞穴を包み込み、足元から深々と冷えていくようである。
「ない、ないない、ないっ!」
影の一つが冷えた地面に四つん這いになり、掌を滑らすようにして辺りを隈なく探っていた。
「何が、ないのです?」
もう一つの影が、焦る者の苛立ちを倍増させるようなゆっくりとした口調で問うた。
「何が、って金に決まっているだろうが」
徐々に陽光が洞穴の中にも射し込み、影を照らしはじめた。相手の表情すらはっきりしなかった顔が照らし出されていく。
地面に四つん這いになっているのは、二十歳位の年若い青年・シャオンだ。
黒く長い前髪で顔の左半分を隠している。小麦色の肌の右半分に覗く眉はひそめられ、形の良い唇は今にも悪口雑言を繰り出す用意がいつでも整っているとばかりにあけられている。髪と同じ右の黒い瞳には炯々とした光が見え隠れしていた。
「それは……困りましたね」
一方、鋭い視線を投げかけられたウェルは、悪びれるふうでもなく、小首を傾げている。
黒髪のシャオンとは対照的な金髪の癖のない長い髪に碧眼、色白な赤子のような肌、見る者の目を必ずや奪い去る美貌の持ち主だ。浅紅色の唇、その両端をあげたかあげないか程のわずかさで持ち上げられた微かな笑み。達観したような顔は、ウェルの印象を茫洋とさせ、本心を見抜く事を困難にさせているようにも見えた。
全く困った様子のない相棒を横目に、シャオンは再び地面を這いつくばりだした。くまなく狭い洞穴の中を見渡すと、今度は体を起こして自分の懐をまさぐる。
次に立ち上がって、両手で胸の辺りから衣服を叩いてみたが、わずかに埃がたつだけだ。
「畜生、あいつだ。青い目のヤツだ。くそっ、眠り込んじまってる間にやられたんだ」
「あいつ、とは、昨日拾った、あれですか?」
「他に何がいるってんだ」
シャオンは棘のある口調で言いながら脇に置いていた剣を手にして腰に挿し、黒い外套と荷物を背に担いだ。
「後を追うぞ」
「あれの?」
「あたりめえじゃねえかっ」
声を荒げて、いつまでも座ったままのウェルに向かって早口で咆えた。
「あのなあ、ウェル。あの金は、俺が、稼いだんだぜ。くっだらねえ姫様の護衛に長々と付き合って、やっと金十枚だ。しばらく遊んで暮らせんだぜ? こんな仕事は滅多にねえ。黙ってられっかよ。何が何でも取り返す」
憤激したシャオンは最後の一言に一段と力をこめて言うと、入り口に垂れ下がる草を面倒くさそうに払い除けて、舌打ちしながら外に出た。
「まだ臭いがプンプンしてやがる」
顎を引いて左右に顔を動かし、辺りを探る。鼻翼がわずかにひくひくと動いた。
「くそっ、小さい動物だと思って油断したか」
膝ほどまでに生え伸びた雑草の中を幾分か進むと森の中だ。その先は左右に獣道が延びている。
右へ行けば昨日来た道、サナオ自治区。姫君を送り届けた地だ。
左はグリュック自治区。
「よし、グリュックの方だな。俺の鼻から逃げられると思うなよ」
左に顔を向けて剣の柄に手を添えたまま、昨日踏みならした雑草の上を大股で進んで行く。
ウェルも洞穴から顔を覗かせた。
「お待ちなさい、シャオン」
「うるせえ。俺はウェルがなんと言おうが、あの獣を探し出すんだよ」
言うが早いか、後ろを振り返りもせずに、シャオンは森の中へと姿を消してしまった。
「全くしようのない人だ。お金と聞くと、目の色を変える……」
ウェルは深い溜息を吐きながら、同じく足元に置いていた剣を取り、荷を背に担ぐと洞穴から出た。
同時に小さく板を小突く様な音がする。
ウェルは確認するように洞穴を覗き込むと踵を返した。
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