第五章・聖なる神殿 4
ウェルは、といえばゲフュールの言い付け通りに別室で休息を取っていた。
グリュックに来てからというもの、ろくに睡眠をとっていなかった。
着いた日は、深夜の訪問者の物音に気付いたシャオンに起こされた。翌日はフェンダーと会って暗殺を依頼されて眠れず、そのまま翌日はグリウスを歩き回った。挙句、ほとんど眠らずに黒い化け物相手に光の聖霊を呼び、疲労したまま地下通路を神殿まで歩いたのだ。そして今また、結界を強めるために、本殿の聖石の間で力を使ったばかりだ。
食事もそこそこに、ゲフュールに言われるまでもなく、ウェルは深い眠りについていた。
体は泥のように疲れきっていた。
トレーネは真っ直ぐに本殿へと走って行った。
振り向かずに。
急がなければ、シャオンが怪我をしてしまう。怪我ならまだしも取り返しのつかないことになっては大変だ。
事情を知らない人々を掻き分け押しどけて、本殿に入る。
広い場所だった。
高い天井には緻密なガラス細工の飾りが下がり、四方は淡い紫のガラス戸で覆われて外からの光を和らげている。中央に豪奢な花の刺繍入りの織物が人々を導き、その先に祭壇がある。
閑寂としていた。
誰も言葉を発せず、静かな呼吸音と、控えめな足音だけが聞こえる粛然とした場。
その中を走って入ってきたトレーネを人々は非難の目で見た。
何処に行けば、ウェルがいるのか、エリオンに会えるのか、トレーネはすっかり気が動転していた。
叫ぶことしかできなかった。
「エリオン様!」
何度か叫んだ後、後ろから肩を叩かれてトレーネは振り返った。
見慣れたフェンダーの厳つい顔がある。怒ったように太い眉が寄せられていた。
トレーネは太い腕にしがみついた。フェンダーの後ろではエリオンが憮然としていた。
「フェンダー様! 大変なのです。外に! 外にドールク様が。シャオン様が!」
「落ち着きなさい、トレーネ。何の騒ぎだ」
「早く、早く助けて。シャオン様が、殺されてしまう!」
涙があふれ出て、状況を説明できるような状態ではなかった。ただ、シャオンの身の危険を伝えるトレーネに、フェンダーは後方にいたゲフュールに少女を託した。
エリオン達はゲフュールの案内で神殿を見て回っていたところであった。
ちょうど同時に、正門へ様子を見に行っていた神官の一人が、外で起こっている事件について、神殿を統括するゲフュールへ報告に来た。
「申し上げます。ただいま門の外で斬り合いが。一人は黒髪の男で顔を半分隠しております。もう一人はかなりの剣の使い手で、後はシェバ皇国の役人のようでございます」
エリオンとフェンダー、そして共にいたリグは顔を見合わせた。
黒髪で顔を半分隠しているのはシャオンしかいない。
エリオンは改めてゲフュールにトレーネを頼むと、本殿を出ていった。
その姿を見送りながら、溢れる涙を手で拭っていたトレーネはハッとしたように隣にいる老人を振り返った。
「ウェル様は、どちらですか? ウェル様を、お連れしなければ」
ようやく応援が向かって、トレーネは冷静さを少し取り戻していた。
ゲフュールは宥めるようにトレーネの癖のある髪をそっと撫ぜた。
「呼びに参ろう。彼は私が休むように言いつけて、きっと今ぐっすり眠っておるはずじゃから」
剣の打ち合いは互角だった。
いや、ドールクのほうが断然上ではある。多少動きが鈍くなければ、シャオンはとうに斬られていたかもしれない。周囲にいる十人の役人達も、鈍いながら時おり剣を振り下ろしてくるので油断はならなかった。
十人以上を相手にするシャオンは少しずつ押されていく。じりじりと後ろへ下がり、正門の辺りまで下がっていた。背中が神殿を向いていたので、後ろを危惧しなくていいことだけは幸いであった。結界の存在が、くしくも背後の守りとなってくれた。
剣を構えたまま、どれ程睨み合った頃だったか。
神殿の本殿のほうから、数人の足音が聞こえてきた。
もちろんシャオンの耳は正確にその人数を把握している。
三人だ。
「シャオン殿!」
フェンダーの声が聞こえる。三人が、シャオンの直ぐ後ろで立ち止まり、息を呑んだのが分かった。
フェンダーとエリオン、リグにも、変わり果てた姿のドールクが目に入ったのだろう。
今、ドールクの瞳には、赤い炎が揺らめいていた。まさしく昨夜見た、黒い化け物の瞳に揺らいでいた光と同じだ。エリオン以外は、それが何を意味するのか直ぐに悟ったはずだ。
「ドールク、何故?」
「何だ、おっさん! ドールクを何で外に出した!」
剣を構えたまま振り向きもせずに叫ぶシャオンにエリオンが何事か言いかけたが、どうやらそれをフェンダーは手で制したようだった。
「彼は城へ探索に行ってもらっていた、それが、何故」
「馬鹿野郎! ウェルが言ってたろうがよ、城にはもう妖獣がいるんだってよおっ!」
エリオンもフェンダーも返す言葉がない様子だった。ただ、成す術もなく、変わり果てたドールクを見るほかに、出来ることは何もなかった。
「ウェルはどうした?」
シャオンは聞いたが返事はなかった。代わりに剣を抜き去る音が二つ聞こえる。
「エリオン様はお下がり下さい」
シャオンはその一言に、ぎょっとして振り向こうとしたが、すでに遅かった。
ドールクは「エリオン」という言葉に反応していた。すでにシャオンを見てはいない。シャオンの後ろにいるエリオンに視線が固定されていた。
ドールクはゆっくりと足を進めてきた。
それにあわせるように、後ろにずらりと並んでいた役人達も向かってくる。
エリオンに向かって。
「来るな!」
シャオンは咄嗟にドールクへ剣を振り下ろしていた。
脳裏には、昨夜、傷を負った役人を引き受け、痛々しい表情で見下ろしていた彼が甦る。
斬りたくなかった。
でも、そうするしかエリオンを守る術はない。今はエリオンを失うわけにはいかないからだ。シェバを消した後、この国を守ることが出来るのはエリオンをおいて他にはいないのだから。
いや、ウェルがいる。代わりに、ウェルが王になれば──
シャオンの振り下ろした剣は迷いの分だけ弱く、薙ぎ払われた。
もちろんリグには、仲間であるドールクを斬り捨てる事は出来なかったのだろう。ドールクの歩調に合わせてじりじりと下がっていく。フェンダーも。
ドールクの歩みは次第に速くなっていった。
「エ、リ……オ……」
ドールクの口から、苦しげに言葉が出た。声は震え、振り絞ったようだった。眉が痙攣したように動き、苦悶に口が歪んでいる。
足が、神殿の正門を越えた。
瞬間、ドールクが青白い炎に包まれた。
「ぐわっ!」
足元から青白い炎が螺旋を撒くようにドールクを包み込む。
凄まじい勢いで燃え盛っているものの、身にまとう衣服に火の点いている様子はなかった。だが、顔は表情が判別できないほど炎に包まれている。
そこにいた全員が、呆然とその様子を見ていた。
共に正門を入ってきた役人達も、次々と同じように青白い炎に包まれていく。
ドールクはついに剣を取り落とし、苦痛に身悶えていた。
首筋の辺りから、黒い霧のようなものが出て、それも炎に撒かれた。
苦悶の表情を浮かべるドールクが、手をエリオンに差し出す。
「エリオ、ン、様……メ、デス、に……」
そう言い残して、崩れるようにドールクは倒れこんだ。
役人達も、次々と黒い霧を吐き出した後、倒れていく。
「結界、に入ったからか?」
シャオンは剣を収めて、石垣に縋ると、膝をついた。
足は震えていた。
妖獣に操られた者が、神殿の聖なる結界に触れた結果を目の前で見たのだ。生きながら、炎に焼かれていく者達を。
しばらく誰も動かなかった。
白い砂利の上にうつぶせに倒れたドールクを包んでいた炎はやがて消え去った。ドールクが焼け焦げたわけでもない。衣服も皮膚も無傷だったが、ドールクは息をしていなかった。
「ドールク!」
我に返ったリグがドールクに縋った。
フェンダーが、呆然としたまま立ち尽くしている。
エリオンもまた、握ったこぶしを震わせていた。
「聞いたか、フェンダー」
「はい」
「ドールクが命をかけて我らに教えてくれた──」
「エリオン殿!」
後ろから、ウェルが駆け寄ってくるのがシャオンには見えた。
安堵感でシャオンはその場にへたり込んだ。
「これは一体どういうことです?」
ウェルの表情は厳しかった。いつもの温和な口元に浮かぶ笑みはなく、柳眉は寄せられ目は眇められている。口調もいつになく早口だ。
ウェルが怒っている。珍しく、顔に表情があった。
「何故、ドールクを外に出したのです。城には妖獣がいるとそう申し上げたでしょう!」
「うるさい。貴様にとやかく言われたくない!」
エリオンはウェルに背を向けた。
「ドールクは命をかけて、妖獣の使いの名を告げたのだ」
ウェルは痛々しく白い砂利の上にうつ伏せになっているドールクを見下ろした。
「私が、結界を強めたばかりに……」
ウェルの瞳が自らを責めるように閉じられた。ドールクの傍に跪き、そっと掌で髪をなでる。何度かそうしていたが、やがて小さく頭を横に振ると、ウェルは立ち上がった。
エリオンを睨むと、ウェルは踵を返してシャオンの元に来た。
「シャオン、怪我は?」
シャオンは苦笑すると、剣を支えに立ち上がった。腰に力が入らない。
「大丈夫だ。ちょっと、疲れたな。遅かったじゃねえかよ」
「すみません」
ウェルはいつもの微笑をその整った顔に戻した。
「さあ、シャオンも中へ」
シャオンは目を見開いた。一瞬何を聞いたのか、分からなかった。
「どうしました、変な顔をして」
「だって、おれは……」
そう言って白い砂利の上に倒れたドールクに視線を落とす。
「ああ、大丈夫ですよ」
ウェルは言うが早いかシャオンの手首を掴んで引いた。つられて足が一歩正門を越えた。
衝撃にシャオンは瞳を閉じた。
が、何も起こらなかった。
呆けたようにウェルを見上げると、可笑しそうに笑う相棒が目に留まる。
「やはりいらぬ心配をしていたのですね。私がいるのですから、あなたに危害が加わるはずがありません。今まで、何度結界の中で眠ったと思っているのです? 森の中で結界なしに眠るほど、私も馬鹿じゃありませんからね」
シャオンには言葉がなかった。
安心したのか、そう言う相棒が憎らしかったのか、嬉しいのか、分かるはずもなかった。
瞬間、青白い炎が突如として吹き上げた。
黒い闇を映す鏡を前にしていた男は、衝撃に鏡を取り落とし、椅子ごと後ろに転倒した。
「くっ」
苦痛と無念に怒りが沸き立つ。
「エリオンめ、どんな輩を味方につけた!」
男は共に倒れた椅子から呻き声をあげながら起き上がった。
部屋は薄暗かった。分厚い布が窓から入る光を遮り、熱がこもって蒸し暑い。男もうっすらと額に汗を滲ませていた。
腕で汗を拭う。
少し広い額に、開いているのか判別に困るほどの細い目。黒い髪は長くもないのに無理やり後ろで束ねられている。
男は黒いマントを脱ぐと、それを憎憎しげに無造作に机の上に放り出した。
「メデス、失敗したのか」
突如として地の底から響くような、低い耳障りな声がどこからともなく部屋に木霊した。
メデスはすぐさま床にひれ伏す。
「よい、とどめは我が刺すゆえな」
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