第五章・聖なる神殿 3
同じ頃、東の旅亭トラオでは、トレーネとシャオンが出立の準備を整えていた。
後片付けを半分ほど終わらせ、あとを古参の従業員に任せると、一晩留守にすると告げてトラオを後にした。もちろん、地下通路の出口である物置部屋にはしっかりと鍵をかけた。普段はトレーネ以外が使用することのない裏背戸もだ。
トラオには何の異変もなかった。シャオンが気抜けするほどに。必ずエリオンを狙って再び襲撃があると予想していたからだ。無論、エリオンの命を受けたドールクがグリウス城に侵入していることなど知る由もなかった。
トラオを出て、二人は神殿までを徒歩ではなく辻馬車を使って移動した。トレーネをつれて徒歩で歩くよりは辻馬車を利用したほうがはるかに早く到着できる。
シャオンは一刻も早くウェルと合流したかった。
ウェルと離れていることが不安で仕方がない。それが何故かを、シャオンは意識的に考えないようにしていた。
心のどこかで、自分が再び一人になることを恐れていることに、気づかぬ振りをしていたかったのかもしれない。この一年間、シャオンは孤独を忘れていた。ウェルとともに、旅をし、共に食事をとり、共に寝ってきた。
けれど、今は違う。それが、シャオンを不安にした。
シェバを倒した後、ウェルがどういう立場に置かれるか、自分がどうなるのか、はっきりとはしてはいないが、ただ一つ確かなことがある。
シェバの血を引くシャオンが、今まで通りウェルと共にいることはできない。
ウェルとの別れが待っているかもしれないことを、どこかで分かっていた。
分かっているから、あえて考えないようにしている。
「あの……どうかしました?」
揺れる馬車の中で、向かいに座るトレーネが覗き込むようにして尋ねた。
シャオンは放心したように、車輪が石畳を蹴る音や馬の蹄の音、外の喧騒を聞いていたことに初めて気付いて顔を上げた。
「とても怖い顔、なさっていますよ」
「そう?」
トレーネは寂しげに微笑んだ。
「何だか色々あって、私も気分が棘々しています。父のことも何も知らなくて、ただエリオン様のお役に立ちたくて、ウェル様のことをフェンダー様にお話して。今だって何を言っているのか……分からない」
話しながら今にも泣き出しそうなトレーネに、シャオンは少し慌てた。こういう時の女性の扱いには、正直慣れていないし、気の利いたことを言える性格でもない。
「同じだよ、俺も」
シャオンは素っ気なく返したが、他に言いようがなかった。
それでもトレーネは、その一言が嬉しかったらしく安堵したように息をついた。
それきり二人は何も話はしなかったが、シャオンもトレーネの言葉で少し平常心を取り戻せたような気がしていた。
気が付くと、ウェルのことばかりを考えている。
シャオンは、気を取り直して、自らに言い聞かせた。
不確実な未来を不安がらずに、とにかく今は現実にしたい未来だけを見ようと。
昼も随分過ぎた頃、辻馬車は神殿の少し手前で停まった。
神殿の正門の前は、参拝する者達で塞がっていたからだ。
世界を創造したという神に特別な名はない。
名を付けるということは文字でそのものを縛ることであり、世界そのものである神を人間の言葉で縛ることは出来ないというのがその根本にある。
人々は命の根本である神に感謝するという行為を忘れることはない。
治世十五年の祭りが開かれているグリウスでは、特別な理由がなくとも、誰もが神殿を訪れる。
だから、神殿の前から、本殿に続く通路は人が多い。
左右から伸びる石垣の途切れているところが正門。それから並木道が続き、白い砂利が敷き詰められた道を行くと白亜の本殿が建っている。
シャオンとトレーネも、当然、神殿に参拝する者の一人という風に見え、誰も気にとめる者はいなかった。
辻馬車を降りてから神殿の正門へと足を運ぶ。
シャオンは門から奥に見える神殿を見た瞬間、ウェルの言葉が脳裏に甦って足が止まった。
──闇の力は神殿の結界には入れない。
と、トレーネも合わせるようにして、足を止めた。
立ち止まるシャオンを不審に思って、同時に立ち止まったかにみえた。
だがトレーネは何も言わずにシャオンの服の裾を掴んだ。
シャオンも服の裾を引かれてトレーネの顔を振り返って見た。
トレーネはじっと何かを見ている。
シャオンはその視線の先にあるものを追った。
多くの参拝客に紛れて、彼は立っていた。
ただ、立っていたのだ。
どこか空ろな目で、恍惚としたような表情で。首を少し右に傾げて。
引き締まった体についた筋肉は盛り上がっていて、日々鍛えた体は一般人の中に混じっていると巨躯にさえ見える。だが、その鍛えられたはずの腕はだらりと下げられ、何の緊張もない。
「ドールク?」
シャオンは昨夜知ったばかりの名を半信半疑で言った。
呼ばれたほうは、軋みをたてそうな位のぎこちない動きで、顔をシャオンの方に向けた。
シャオンは一歩後退った。
ドールクは何も見ていなかった。生気のない瞳は、何も映していないように、混濁していた。
一見して、何がおかしい訳でもない。気を付けて見なければ、ぼんやりしているとしかうつりはしない。
「あの、ドールク様? エリオン様はご一緒ではないのですか?」
トレーネはそうドールクに訊ねた。
瞬間、ドールクの虚ろな瞳に赤い光が閃いた。同時に腰から剣を抜く。
シャオンは咄嗟にトレーネを背に庇った。
周囲からは悲鳴が上がり、三人の周囲には一気に人がいなくなった。代わりに、どこからともなく、赤い布を肩から掛けた役人が一人、また一人と現れた。
そのいずれも、赤い色がちらつく目をしている。
シャオンはトレーネを背に庇ったまま、右目を素早く周囲に走らせた。
形勢は断然不利だ。背後からも役人が来ている。ざっと見ても十人以上はいそうだった。
ドールクのほうは相変わらず抜いた剣先を正確にシャオンに向けている。生気のない瞳に不釣合いな殺気が迸っていた。
「シャオン様、これは……」
「妖獣だ、トレーネ。俺が突破口を開くから一気に神殿の中へ駆け込め。いいな、真っ直ぐ中に走るんだ。振り向いたりすんな。ウェルを呼んできてくれ、頼む」
トレーネは大きく頷いた。
シャオンも剣を抜いた。
トレーネは神殿の中に入れば守れるだろう。ウェルはそう言っていた。
つまりこの木偶人形達は神殿の中には入れないのに違いない。だから正門の前で立ち尽くしていたのだ。
だが、何故。ドールクがここにいるのだろう。神殿の中にいるはずだ。
そして、何故、木偶人形達がトラオではなく神殿にエリオンを追ってきているのか。
シャオンの頭の中で、様々な事が交錯した。
が、考える暇もなく、ドールクの剣が振り下ろされてきた。
十分に鍛えた筋肉を余すところなく使って振り下ろされた剣はかなり重かった。
シャオンがその一太刀を受けて払っただけで、手首に衝撃が来た。昨夜に妖獣につけられた右腕の傷が痺れる。両手で剣を握りなおして、今度は下から、再び振り下ろされてきたドールクの剣を払った。
ドールクがよろめく。
動きは鈍い。
「行け、トレーネ!」
シャオンが叫ぶと同時に、トレーネも駆け出した。
どうやら操られている者達は妖獣という中継を介して動いているので、一瞬反応が遅れるらしかった。
役人達もゆっくりと近付いてくる。
周囲から再び悲鳴が上がった。
ドールクが剣を突いてくる。
払っても払っても、突きは正確にシャオンの心臓を狙っていた。反応が一瞬遅れていなければ、シャオンは必ず傷を負っていた。
それほど、鋭くかつ素早い突きである。
騒ぎを聞きつけて、神殿の中からも神官と思しき者達が出てきた。
役人達も剣を抜く。
シャオンはあっという間に周囲を囲まれていた。
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