幻妖帝国〜グリウスの章・青き黎明の灯火(16/27)PDFで表示縦書き表示RDF


幻妖帝国〜グリウスの章・青き黎明の灯火
作:暁さくや



第五章・聖なる神殿 2


 少し時はさかのぼって。
 ウェル達はトラオから薄暗い道をひたすら歩いていた。
 地下通路は相変わらず湿っぽくかび臭い。ずっとそこにいると、肺の隅々まで菌糸に冒され、呼吸困難に陥ってしまうのではないかという錯覚すら覚える。
 トラオから神殿までは、グリウスのほぼ端から端までを歩くのと大差ない。
 旅亭トラオはグリウスの東・サナオ側の街道付近にあり、神殿は正反対の西・アキロ側の街道付近にある。町の中を歩いてもゆうに半日弱はかかるのである。ただ地下通路は直線で結ばれているので、それよりははるかに早く着く。とはいえ、ただ薄暗く石で囲まれた何の変化もない通路を歩くのは、苦痛以外の何物でもない。
 特に苦労知らずのエリオンなどは、不平不満を示す言葉はすべて口に出したといっても過言ではない。そんなエリオンを巧くフェンダーがなだめながら、やっと神殿に辿り着いたのは、まだ白々とわずかに明るくなり始めた夜明け前だった。
 神殿は森厳な雰囲気の中にあった。
 白亜の石を使用した造りの建物は荘厳にそびえたち、グリウス城とはまた違う壮麗さがある。もちろん周囲の民家と変わらず、二階以上には石は積み上げられていない。が、敷地の広さは民家の比ではなく、グリウス城ほどではなくとも、かなりの広さがある。
 民が参拝する本殿から、神官達が生活する社務所に宿所、神殿の管轄である学問所なども有し、周囲は大小さまざまな石を積み上げられた石垣で囲まれている。
 地下通路の出口はそんな神殿の中央庭園の小さな森の中にあった。
「なんだ、ここは」
 エリオンは石像の足元にあった肩がようやく通る狭い出口を何とか抜け出して開口一発そう言った。
 そこはまさに庭園という名の相応しい場所であった。
 森といっても整然と花が植えられ、木々も雑然と生育しているわけではない。
 石像は、賢者の祖といわれる穏やかな微笑を湛えた聖人のものだ。
 唯一違うのは空気だ。
 凛と張り詰めた空気は清浄で、呼吸するたびに豊かな緑の香りが肺の隅々にまでいきわたり、思わず背筋を伸ばし深呼吸してしまう。植えられた花は、まるで歌でも歌いだしそうなほど、生き生きと輝いて見えた。
「なんと澄んだ空気だ」
 フェンダーも辺りを見回す。
「聖なる結界の中です。澱んだものが一切ない、聖霊達の世界です。でも、この結界はまだ弱い。神殿の最高峰である賢者塔などは、背筋が凍りつくほど素晴らしい結界ですよ。さあ、とにかく出ましょう」
 ウェルは一行を促した。
「神官長のゲフュール様が、きっとお待ちです」
「ゲフュール殿が?」
 フェンダーが驚いたように聞き返した。
「そうです、ああ、来られました」
 小さな森を抜けたところで、その人物の姿が目に入った。
 小柄な老人だった。
 身にまとうのはゆったりとした薄い紫水晶色の衣。金の髪はすでに白く、ところどころに金の名残を残すだけだ。顔にはしわが刻まれてはいるが、瞳は快活とした輝きを失ってはいない。
「おお、何と言うこと。ウェルトス様。お久しゅうございます」
 老人は恭しく膝を折った。
「おやめ下さい。そんな事をしていただく身分ではありません」
 ウェルは跪く老人の手をとった。
「よくぞ、お戻りになられました。ご立派になられて」
「いいえ、それは私にはもったいないお言葉です」
 ウェルはエリオン達には決して見せない寂寥とした表情でそう言った。
 ゲフュールは、ウェルの後ろに立つ人物に、軽く会釈した。
「これは、自治領主殿。私めはグリュック総神官長のゲフュールと申します。さあ、話は中で。こちらでございます」
 一行は神殿の社務所の隣にある小さな館へと案内された。小さいといっても、普通の民家の倍ほどはある。下には広間や客をもてなす為だけの部屋、食堂などもあり、上には客間だけでも五部屋はある。どうやらこの屋敷はすべてゲフュール一人のものらしい。
 エリオンとフェンダー、リグとドールクがそれぞれ上階の部屋に通された。
 ウェルだけはゲフュールと共に下に残る。
 ゲフュールはエリオン達が部屋に入ったのを見届けてから、ウェルを自室へと案内した。
客人をもてなす為の椅子が置かれたきりの質素な空間だったが、そこはどうやらゲフュールの私室であるらしい。
 部屋に通されるなり、ウェルは神殿を統括するゲフュールに改めて頭を下げた。
「おやめくだされ。私は当たり前のことをしたまで。いやいやこうして再びお会い出来ましただけで、長生きした甲斐もあろうというもの」
 ウェルは、溢れそうになる涙を堪えるかのようにひっそりと唇を噛んでいた。いつも口元に浮かべている微笑はなく、どこか不安げで頼りなさそうなウェルがいる。きっとシャオンあたりが見れば、どこか体を悪くしたのではないかと慌てるかもしれない。それほど消え入りそうに線が細く見える。
 ゲフュールは何も言わずにウェルを促して、さらに奥の部屋へと通した。
 ゲフュールの部屋は、本人の気質そのままに実務的で質素だった。不必要な絵画や飾り、花などの装飾は一切なく、一方の壁は一面に書物が天井の高さ近くまで並んでいる。まだまだ紙の貴重な世では、この書物の量はグリウス王城の書物庫の比ではなく、また高名な画家の一枚などよりも価値が高いはずだ。あとは体を休めるための長椅子と、奥の別室に寝台があるだけだ。
「ああ、何も変わってはいません」
 ゲフュールは呵呵と笑うと、ウェルに椅子を勧めて奥へと一旦入っていった。
 ウェルは感慨深げに部屋を見渡した。
 書物棚に近寄り、書物にそっと触れる。その口元には微かな笑みが戻っていた。
「どうじゃ、昔みたいにまたそこに座って本を読みなさるか?」
 ウェルは小さく笑って、勧められるままに椅子に腰掛け、ゲフュールが入れてくれた暖かな飲み物に手をつけた。
「一度お休みになられるがいい。顔の色がすぐれぬでな」
「ありがとうございます」
「で? あのエリオン殿は一体何をしようとなさっておいでか」
 ウェルは息を小さく吐くと、姿勢を正してゲフュールに向き直った。
「偶然でした。いえ、グリウスに足を踏み入れた時、私の中にあった真の願望がこうさせたのかもしれません」
 ゲフュールはじっとウェルの言葉を待っているようだった。ウェルの伏せ目がちな瞳を穏やかに見ながら。
「初めは偶然だったのです。盗賊を追ううちにグリウスに入って、でもシェバの役人を目にした時、私は壊れてしまったのかもしれません。足は真っ直ぐにトレルオムの元に向いていました。一番に頭に浮かんだのです。予感、だったのでしょうか。いえ、こうなることを望んだのかもしれません。トレルオムに会えば、何か、分かる事があるのではないかと」
 ウェルは親に叱られた子供のように、ゲフュールを縋るように見た。
 ゲフュールは温和な笑みを浮かべたまま、何も言わない。
「あれほどに神官長様に仇を討つことを考えるなと諭されておきながら。私は禁を犯そうとしているのです」
 ゲフュールの大きく暖かな手が、ウェルの手に重ねられた。
「そんな風に考えてはなりません。ウェルトス様を逃がされた陛下が、その時に何とお考えになったかは分かりません。しかし私なら、ウェルトス様だけでも生き延びて欲しいという一念だったと、思ったゆえそう諭したまでのことでございますから」
「ゲフュール様……」
 ウェルは堪えるように瞳を強く閉じた。
 溢れかえる思いを、まるでたった一人で堪えるように、強く、強く閉じた。
「私は弱い人間です。いつも共にいる仲間などと比べれば、私には芯の強さが欠けているのです」
 囁くように呟いて、ウェルは項垂れた。けれどそれは、大きく深呼吸するほどの、ほんのわずかな間だった。
「シェバは妖獣だったのです、ゲフュール様」
「今、何と?」
 ゲフュールがウェルに重ねた手を握り返してきた。
 ウェルはその手に視線を落とし、次にゲフュールを見た。先程までの頼りなさそうなウェルではなく、厳しさを備えた青年の眼差しで。
「私が力を備えていたのも、神の啓示と考えることにしました」
 ウェルはそっとゲフュールの手を退けると、襟元に手を忍ばせた。
 そこから細い革紐を引っ張り出す。
 紐の先端には赤ん坊の握り拳大の麻袋がついていた。
「それは」
 ゲフュールは日の光を見上げたように、少し眩しげにその袋を見た。
「ゲフュール様には袋を見ただけでお分かりでしょうか」
「無論じゃ。それはもしや?」
 ウェルは頷いて、袋を開けた。
 中から、淡い淡い澄んだ紫翠の輝きを持つ石が出てきた。
 艶やかに楕円の形をした石である。
「聖者ヴァルテミオス卿の力が込められているそうです。賢者塔で頂きました。これのおかげで私の聖なる力は増し、聖霊達の助けも非常に借りやすくなっています」
 ゲフュールは瞠若したまま、まるで腫れ物にでも触るようにそっと手を差し伸べたが、首を横に振りながら手を戻した。
「これは何と。賢者の祖といわれる聖者ヴァルテミオスの力が? 素晴らしい」
 神殿を統括する賢者塔。ウェルはゲフュールに匿われた後、そこで育った。そこは聖霊力を持つ者達の最高峰、最高の力を研鑽し学ぶ場所である。
「お願いがございます」
「なんなりと」
 ウェルは紫翠の石を袋に戻し、姿勢を正した。
「私はエリオン殿に従って、シェバを倒そうと思います。妖獣だと分かって、なおのことです。確かに仇という認識もあります。ですが、それ以上にグリウスの現状には胸が塞がりました。そのために、エリオン殿を神殿に匿いたいと思っています」
「大体の察しはついておりました。どうぞウェルトス様のお気の済むままに。私は協力を惜しみませぬ。しかし──」
 ゲフュールは目を細めた。
「ウェルトス様は、強ようなられた。いつも半ベソでおられたのが、嘘のようじゃの」
「ゲフュール様、それは」
 ゲフュールはホホと笑った。
「分かっております。無理をなさいますな。あまり無理をなさると、笑顔が顔に張り付いてしまう。のう、わしに気を使うことなど、ありはしませぬぞ」
 その言葉にウェルは深く頭を下げた。ともすれば、涙が溢れそうになるのを、ウェルは必死で堪えていた。ここで、立ち止まってはいけない。今は、成すべき事を見つけたのだ、その思いだけが、ウェルを支えていた。
 大きく息を吸い込む。そうすると、あたりに住まう聖霊達が体の中に力を与えてくれる。ウェルは居住まいを正した。
「ここはまだ結界の力が弱いのです。完全にエリオン殿を妖獣の目から隠すために、この石を使って結界を強くしたいと思います。本殿の奥、聖石の間に入ることをお許し下さい」
「では案内しましょう」
 ゲフュールは腰に手を当てて、よっと掛け声をかけながら立ち上がった。
「ただし、それが終わりましたなら、まず食事をとり、後に睡眠をおとりになること、お約束下さるな」
 ゲフュールは少年のような人懐こい笑みを浮かべた。
「はい」
 ウェルも、保護者に素直に従うように、短く返答した。
 これから本殿の奥に向かって、重要な布石を敷いておかねばならない。
 シェバ暗殺までの間、妖獣の目から暫く隠れる場所を確保しておかなくてはならない。
 本殿の奥には聖石の間というところがある。念が込められた石が安置され、神殿の石垣の中、四箇所にその石の欠片が埋め込まれている。それらを結ぶ神殿の内部がすべて結界の中に納まっているのだ。
 二人はその部屋に向かっていた。ウェルの持つ紫翠の石の力を分け与え、結界をさらに完全なものにするために。


 ウェルがゲフュールと共に本殿に向かっている頃。
 エリオンとフェンダーの部屋にはリグとドールクもやってきて、四人で深刻な顔を突き合わせていた。
 もちろん一番苦虫を噛み潰したような顔をしているのはエリオンである。
 豪奢な客室に不平不満があったわけではない。
 エリオンは椅子に腰掛け足を組んだまま、フェンダーを睨みつけていた。
 腕も組みなおし、苛々した様に指が絶え間なく動いている。エリオンの腹の虫はどうにも収まりそうになかった。
 今回の事の中心人物は自分自身だと自負している。ところが、フェンダーも何かとエリオンを蚊帳の外に置こうとし、幼い頃から兄達とともに蔑んできた妖獣の弟が行動をともにし、さらにはウェルが主導権を握り始めている。エリオンには面白くないことばかりだった。
「ところでエリオン様」
「なんだ」
 努めてぶっきらぼうに返す。
「どうやら今もグリウス城には妖獣がいるらしいですが、どうお思いになりますか?」
 エリオンがフェンダーを睨みつけた。
「どうもこうも、信じられるか。この目で見たわけでもないのに。第一、誰が妖獣だというのだ。皆人間ではないか」
「確かにそうではありますが、昨夜のあの役人は確かに操られていたようでした。ウェル殿とシャオン殿がいなければ、我々もとうに消されていたかもしれませんぞ」
 エリオンの険しい表情は一向に緩和しそうになかった。苛々と動く指も止まらずに動き続けている。
「化け物の父のすることだ。とうに私の考えにも気づいて刺客を送ったつもりだろうが、そうはいかん。グリュックの民のために、必ず仕留めてみせる」
 エリオンの空を睨む表情からは決意の程が見て取れた。
 父シェバの非道とも言える侵攻を、黙って見過ごすわけにはいかないのだ。
 グリュックだけではない。今度はさらに隣国アキロをまでも攻めようとしているのだ。
ここで食い止めなければ、妖獣が世界を制する恐るべき国が魔の手を広げることになる。
「だが、城が気になる。私が戻らねば、メデス辺りも捜索を出すであろうし、あの無能な大臣達もさすがに黙ってはいまい」
「私もそれが気になります。それにここにいては、いつシェバが到着したのかも、どの部屋に宿所を置くのかも判然といたしませんしなあ」
「あの」
 そばに控えていたドールクが跪いて申し出た。
「私めが様子を見に参りましょうか。昨夜の役人のことも気になりますので」
 エリオンがフェンダーに了解を取るように見た。
 フェンダーも頷く。
 エリオンも頷いた。
 今はとにかく城の様子が気になった。城内の情報が全くないのでは心もとない。それにエリオンには、王の間にあるという地下通路の出口とやらを確かめてみたいという衝動もあった。ウェルがグリュックの王子であるという確証を得たわけではないからだ。
 もしドールクが城の様子に異変を認めなければ、すぐにでも城に戻るつもりであった。
 この時、エリオンは全く理解していなかった。
 妖獣の真の恐ろしさと力を。
 そして、東の戦線で妖獣と共に敵国に攻め入っていたフェンダーですら、闇の力を侮っていた。
 何故ウェルがエリオンを神殿の結界の中に連れて来たのかを、二人はこの後に思い知らされることになる。












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