第五章・聖なる神殿 1
一夜が何事もなく明けた。
外に寝かせておいた傀儡役人は、翌朝いつのまにか姿を消していた。旅亭トラオの裏口付近にはウェルの折れた剣があったきりで、他に何の痕跡もなかった。
昨夜の出来事が、まるで嘘のように、何も。
夜が更けていたこともあり、トラオの裏口付近に民家がなかったこともあって、異変に気づいた者も誰一人いない様子だった。いや、もっと探索すれば、あのウェルの放った鮮烈な光に気付いた者はいるかもしれない。
とにかく、トラオにはいつもどおりの朝がやってきた。
裏口直ぐの、円卓のある部屋で座ったまま剣を抱えて眠っていたシャオンは、トレーネが扉を開く音で目覚めた。
すぐさま剣の柄に手をあて、音のした方を向く。
「あんたか」
シャオンの鋭い右目を見て、一瞬息を呑んだように引いたトレーネだったが、すぐに笑顔になって言った。
「おはようございます。眠れなかったのではありませんか?」
「いや、あんたこそ、目が赤いが大丈夫か」
トレーネは微笑み返しただけで何も言わなかった。眠れたはずがない。
暗殺だの妖獣だの地下通路だの、とうていこの年の少女が経験しそうもないことを、この数日の間にすべて見たのだ。平静でいろというほうが無理に決まっている。シャオンはそんな彼女に何か労わりの言葉をかけたかったのだが、気の利いた言葉は何一つ思い浮かばなかった。
「お食事です。私はこれからお客様を送り出して、後片付けをします。そのあと古くから仕えてくれている者に任せて、神殿にご一緒しようと思うのですけど」
「ああ、それでいい。悪いな」
トレーネが円卓に置いてくれた食事はいい匂いがした。
焼きたてのパンが食欲をそそる。
「では、私は行きます」
トレーネは部屋を出て行った。
シャオンは暫くトレーネが出て行った扉を呆けたように見ていたが、とりあえずは空腹を満たすことにした。
ウェルは、どうしただろうか。
まだ暖かい食事に手をつけながら、ふとシャオンは思った。
ウェルと知り合って以来、ほぼ毎日を共に過ごしてきた。シャオン自身にとっても、気楽な毎日であった。ウェルとの言い合いでさえ、文句もいいはしたが楽しいものだった。
それが、である。
グリュックに来てからというもの、息つく暇もなく変化が訪れる。
エリオンが現れ、シェバがグリュックに向かってきている。
考えないようにしていた、自分の出生を目の前に突きつけられた。
そしてウェルは亡きグリュック王の子供だった。
自然と深い溜息がでた。
グリュック王の息子と、シェバ皇帝の息子。その二人が共に旅をしていたとは。
──仇同士が。
シャオンはその考えを振り払うようにパンにかじりついた。今は考えまい。ウェルが自分をどう思っているかということは。
シャオンは短時間で食事を済ませると、裏口の鍵を確認して、トレーネの元に向かった。
大半の客は食事を済ませ、グリュック治世十五年の祭りで賑わうグリウスの街へと向かっていった。トラオで働く者達は次の宿泊客のために、これから準備に追われる。
トレーネも立ち止まることなく働いていた。
シャオンは食堂の一角の壁にもたれて腕を組み、トレーネを目で追っていた。
額に汗を浮かべ、なんと楽しそうに動くことか。鼻歌くらい歌っていそうに見える。時折シャオンの方を見ては微笑み返す顔があどけなく、トラオを一人で守っているとはすぐには信じがたい。
「あの、なにか」
「いや、べつに」
あまりにじっと見ていたせいか、トレーネが困ったように首を傾げていた。
何か手伝うと言った方がいいのか、シャオンのほうが困ってしまう。
「シャオン様って、面白いですね」
「お、おもしろい?」
トレーネは顔を綻ばせた。
シャオンはその笑顔に負けないように咳払いをして言う。
「その、シャオン様っていうのはやめてくれ。腹ん中がひっくり返りそうだ」
「でも」
シャオンはトレーネをじっと睨んだ。
「ダメ、様は」
トレーネが机を拭いていた手を止めて、シャオンのほうに近付いてきた。
思わず身構えてしまう。
「本当に、エリオン様とはご兄弟なんですか?」
「嫌だけど、そうみたいだ」
トレーネは青い瞳で、シャオンを覗き込むようにして見た。反射的に左の髪を撫で付け、一歩後ずさりたかったが、壁にもたれている手前それは叶わなかった。
「どことなく似ているんですよね。初めて見た時、どこかで会ったような気がしてじっと見てしまったんです」
そう言えばトラオへ来た時、不審者を見るように眺められたことを思い出した。
「顔の傷は妖獣に? 痛みます?」
「そう、妖獣。もう昔の傷だし、痛くはないけど。慣れたって言うほうがいいかも」
トレーネはまた机を一つ一つ丁寧に拭き始めた。
三つほど拭いた所で、また手を止め、思いつめたようにシャオンを見る。
「エリオン様は、大丈夫でしょうか」
「大丈夫だよ。ウェルが一緒なんだ」
「ウェル様が父を尋ねて下さらなかったら、こんなことにはならなかった。いいえ、私が巻き込んでしまったのですものね。私、なんて謝っていいか」
机の上で湿った布を握り締め、俯いたままのトレーネはひどく小さく見えた。さっきまで楽しそうに手際よく宿の仕事をこなしていたのとはまるで別人のように、急に幼くなってみえた。
「でも、ウェルがいなかったら、もうエリオンは死んでたぞ」
「そんな!」
トレーネが肩を震わせて、顔を上げた。
「昨日も言ったけど、街には妖獣の目になってる役人がいる。きっと城にもいてエリオンを見張ってたはずだ。昨日ここに来たのが証拠さ。ウェルがいなかったら、もう昨日エリオンの命はなかったはずだ」
シャオンにはトレーネが息を呑むのが分かった。
ぐっと何かを堪えるように唇を噛んでいるのが分かる。さすがのシャオンにも、トレーネがエリオンをどう思っているのか、分かってしまうほどに真剣な瞳だった。
誰もが、いろんな思いを抱えているんだな。
シャオンは漠然とそう思った。
壁に預けていた体を起こして、トレーネの傍にいく。それからトレーネの握り締めていた布を掠め取ると、小さな肩に手を乗せた。
「ここは俺がやるよ。早く他の仕事、やっちまいな。会いてぇだろ、エリオンに。心配なんだろう?」
「シャオン様」
驚いたように大きな目を見開いているトレーネに、シャオンは首を横に振った。
「様は禁止」
言いながらシャオンは実に乱雑に机を拭き始めた。本人は丁寧に拭いているつもりかもしれなかったが。
けれどトレーネは笑わなかった。
「ありがとうございます」
その声は、無理やり絞り出したように、少しかすれていた。
「あ」
シャオンは急に声を上げた。
「ダメダメ、そんな腐った顔してちゃ、客が逃げるぞ」
破顔一笑したシャオンを見て、トレーネもつられて笑った。
シャオンは少女の笑顔に、どこか安堵した自分がいることに気付いた。
こんな事は早く終わらせてしまいたい。
シェバを倒し、憂いをなくして。エリオンも、フェンダーも、もちろん、みな無傷で。
──それで?
シャオンの机を拭く手は、はたと止まった。
またウェルと旅をすることが出来るのだろうか。今まで通りとはいくまい。ウェルはグリュックの正当なる後継者だ。ウェルが何と言おうが、その事実に集って来る輩は必ずいるだろう。
「どうかしました?」
「いや。ほら、早く片付けちまおう」
トレーネは、ハイと返事をして食堂を後にした。
心が冷えていく。足の指先から、ミシミシと体が心ごと凍り付いていくようだった。
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