序章・禍き妖獣の国
山裾に日が隠れ、余光も潰えた頃──
「助けてくれっ!」
裏返った声を張り上げながら、一人の男が馬に乗って疾駆してきた。
必死の形相で剥かれた目は血走っている。その目は辺りの何物をも映してはいない様子だ。手綱を握り締め、白い歯を剥き、ただ、ひたすらに疾走している。
両脇に畑の広がる一本道である。
辺りには民家もない。
畑に実った果実の甘い臭いと草の香りだけが漂っている。
男は振り向いて、後ろを確認した。
いる──
ざっと十匹だ。
飛んでいる。馬の脚にも負けぬ速さだ。
鳥である。一見して、雀くらいの大きさに見えた。
が、あのつぶらな瞳を持つ薄茶色をした小さな鳥とは、似ても似付かぬ化け物だ。
翼の先には、弧を描く乳白色の牙とも見える爪がついている。
足の先には三本の長い爪が、今にも皮膚を抉り取る鋭さでカッと開いていた。
体は艶やかに月光を反す黒。
目は、闇の中で唐紅に光る。それが人間の顔についている。人間のような筋の通った鼻がついていて、ちゃんと鼻腔も二つある。そり立った耳も二つある。頭皮に毛はない。
ただ口だけは人にあらず、肉食獣の牙を持っていた。
分かりやすく言うならば、体が鳥で、顔が人間なのだ。
「わああっ!」
男は振り絞るような悲鳴を上げた。鳥の化け物は時折羽ばたいて馬の尻を突く。そのたびに馬は嘶き、ますます疾走していった。
馬が大きく嘶いた瞬間、男は落馬し、地面に叩きつけられ転がった。
それを見計らったかのように、一斉に鳥の化け物達が馬に襲いかかる。
思わず耳を塞ぎたくなるような馬の奇声が辺りに響き渡った。が、それも長い間ではない。やがて、全身の毛がそそけ立つような肉を食む音だけが、虫達の鳴く声に混じって静寂を破るだけとなった。
男は馬が化け物に喰われていく様子を見ながら、尻餅を付いたままじりじりと後退っていった。
すぐ先にある集落から、幾人かの足音が聞こえてきた。
悲鳴を聞きつけた村人達が松明を手に駆けつけたのだ。
しかし、男が安堵の溜息を吐く間もなく、鳥の化け物どもは電光石火の勢いで馬を喰らい、血で生々しく汚れた口と紅い目をぎょろりと男に向けた。
男は尻餅を付いたまま、硬直したように身じろぎ一つせず、目をきつく閉じた。
その時。
ひゅっ──
と、空気を切り裂く音がした。
ごろり、と、男の足元に紅い目のついた顔が転がる。
男が恐る恐る目を開けると、黒いフードのついた外套を羽織った者が、闇に鈍く光る長剣を振り下ろしたところだった。
「生きてるか、あんた」
言いながら、今度は下から剣を振り上げる。
次に襲い掛かってきた化け物が空を切る音とともに両断された。
男が何かを言う前に、化け物は次々と切り落とされ、道に落ちて、まるで火に水をかけたような「ジュッ」という音を立てて黒い塵に変わっていく。
男は急に両脇から手を差し込まれ、立たされた。
「あなたは早くお逃げなさい。あちらの火のほうへ」
ゆったりと落ち着いた声音が、また別の黒い外套を羽織る者から漏れ出でた。
言うが早いか、その者も剣を抜きざま振り向いて、化け物を切り上げた。
はやい。
あっという間に、十匹の化け物は、黒い塵と化した。
男は全身から骨を抜き取られたように力を失って、また尻餅を付いていた。
「全く、金にならねえ事しちまった。ま、いいか。おい、行くぜ、ウェル」
「はいはい」
二人のうちの一人がそう言って振り向く。
口元に微かな笑を湛えていた。
闇の中に浮かぶ、白い肌に、浅紅色の唇。艶かしい女のようにも見えた。
二人は踵を返し、軽い足取りで、民家の方ではなく山の方に向かっていった。
「大丈夫か?」
ようやく駆け付けた村人が、男に声をかけた。
「あの人らは、山に入ったのか? こんな夜に……」
「妖獣をあっという間に……?」
男は、村人達の疑問を無視し、二人が消えていく山の方をぼんやり見ながら答えた。
「助かった」
道には、いくつかの黒いしみと、血の海の中に浮かび上がる白い骨と肉の残骸とが残された。
むせ返るような血腥い臭気が辺りに漂う。
ふいに、その残骸の陰から、小さな青い光が二つのぞいた。
それは、音も立てずに、山へと向かった二人の後を付け始めた。
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