聖・ヴァレンタイン。
西暦270年2月14日に処刑されたキリスト教司祭のバレンチノ(英語ではバレンタイン)の命日に当たるこの日は恋人達にとって特別な『愛の日』。
そして、もちろん、チョコレートショップ『XTC』にとっても特別な日である。
ヴァレンタインの前、一か月から、或いは一年も前から予約が入る『XTC』当日限定のチョコレートギフトはどんな恋も叶えるという評判がある。 特別な、大人達のためのチョコレートという事で、『二十歳未満と恋人未満はお断り』という暗黙の了解まで出来ているほどだ。
「よし。出来た」
2月13日.18:45PM.
ショコラティエ界きっての伊達男、トラビス・オリビエ(32)は唇に妖艶な笑みを浮かべて、目の前に並べられたトリュフを眺めた。
本日の営業時間中はミシェルとショコラに任せて、厨房に籠って作り上げた特別な一品。
それらは明日のヴァレンタイン、当日限定30個のスペシャル・トリュフ達である。
普通のアソートに一粒だけ赤い銀紙で包んで入れておく。(このチョコレートの効果は一粒で充分なのである。)
“地獄境の森に棲む・魔女”と噂されるヴィヨンカに、毎年ヴァレンタインに向けて、分けてもらった“媚薬”を仕込んだ、特別なトリュフ。
トラビスも半信半疑でその“媚薬”を貰っているのだが、何故か味見する気になれなかった。 薔薇の香りに似たその液体をガナッシュに混ぜて、トリュフを作ったのだが、厨房の中には濃厚な薔薇とカカオの香りが充満して、心なしか身体が火照るような気もしなくもない。
トラビスは腕を組み、右眉をあげて息を吐いた。
果たして、これらのチョコレート達に本当にそんな効果があるのか? そう疑いつつも、このチョコレートをいまだかつて自らはもちろん、ショコラにも、口にさせたことはない。
厨房のガラス越しの、カウンターから、悪戯子猫のまなざしで、こちらを覗き込む、ショコラと目が合う。
そして、その隣りにも、同じようなクリアブルーの瞳。
トラビスはさり気なくその四つの好奇の輝きから視線を逸らし、背を向けた。媚薬なんて、漫画じゃあるまいし……
トラビスはそう思いながらも、ニンフの舌を持つショコラに味見させるべきかを迷っている。
……しかし、ヴィヨンカ婆さんからもらったこの香料をただの香料と侮るべきか……。
考えれば考えるほど、その“香料”が“媚薬”なのではないかと、信憑性を増して来る。
トラビスは散々悩んだ末、もう一度ガラス越しに視線を向けた。
いくら、なんでも、ミシェルに媚薬が効いたら嫌だ。
かと言ってショコラに効いたら、犯罪だ。
こうなれば、自分?
……いや、どこの世界に自分に媚薬を使う馬鹿がいる。
そもそも、これが媚薬かも怪しい……。
ヴィヨンカ婆さんにからかわれただけかも知れない。
散々苦悩するトラビス。
『この媚薬はね。落したい相手と二人だけの時に使うんだよ。大勢いるところで使うと、誰に恋したらいいか判らなくなって発狂しちまうからね。まぁ、チョコレートに混ぜてしまうなら、効果も薄れて、せいぜい官能的な気分になるくらいだろう』
ヴィヨンカの不敵な笑みが浮かぶ。
トラビスは毎年この限定チョコレートを購入しようと躍起になっている女性達を思い浮かべる。
……まさか。
そう思いながらも、銀板の上のトリュフ達を見つめる。思い悩むトラビスの思考を電話のベルが遮断した。
皆、この濃厚なカカオと薔薇の薫りに酔っているだけさ。
そう思うことにして、トラビスは厨房を出た。
「あ。オリビエさん。セラヴィ氏から注文が入りました」
金色の巻き毛に薔薇色の頬を持つ美少年が、従順な笑みをトラビスに向ける。
「ああ。いつものやつだな。悪いがミシェル、セラヴィ氏の屋敷まで配達してもらえるか?俺は明日のチョコレートを包まなきゃならない」
トラビスの頼みにミシェルは快い返事をして、二階に向かった。
トラビスは郊外の屋敷に住むセラヴィ氏の為のショコラを、ショウケースから物色し始める。
甘さ、苦さはもちろん、蕩け具合や歯応えといった、まるで人生のように普遍的で、至福の薫り高く、見た目も鮮やかなチョコレートを選ぶ。
その多彩な風味にばらつきがないのは、やはり、恋の面影というトラビスとセラヴィ氏の共通の思い故か。
トラビスがショコラティエ界のドン・ファンならばセラヴィ氏は名実ともにフレンテーナに名を馳せた芸術界のドン・ファンなのだった。
ボルドーの包み紙と戒めのように厳粛な艶黒のリボンを選ぶ。
禁じられた情熱を表したラッピングは、先輩に向ける少々の愛嬌である。
この紐を解けばたちまち封じていた官能が蘇る。そんな脅迫にも似たメッセージを込め、トラビスは微笑した。
セラヴィ氏は今七十を過ぎたはずだが、五十歳下の美しい、元・バレエダンサーの妻と郊外の屋敷に住んでいる。
明日の為に、アレを入れておくか。
トラビスはほくそ笑みながら、厨房へ戻った。
「……ん?」
厨房に入るなり、トラビスは違和感を感じた。
辺りを見回せど、目立った変化は見られない。
ハッとして、腫瘍人物の存在を目で探す。
腫瘍人物こと、ショコラ・ドビュージュは店先でバケツに蹴っ躓いているところだった。
まさかな……。トラビスは微苦笑しながらも、むせ返る甘い香りにどこか息苦しさを感じ、暗燕脂のシャツの詰め襟を開襟にした。
いくら、ショコラでもこれには手を出すまい。
そう高を括り、トラビスは箱の中に例のトリュフを二つ仕込んだ。
いくら彼でも、ご老体には刺激が強過ぎるだろうか?そんな事を思いながら、トラビスは手際よく、ラッピングを完了させた。
ふとした拍子にボウルに残っていたチョコレートが指についてしまい、トラビスは癖でそれを舐めとった。
「オリビエさん!支度できました」
ミシェルが軽快な声と共にドアを開く。
「おう。ミシェル。よろしくな」
そう微笑んだトラビスの顔がいつもにまして妖しく見えたので、ミシェルは思わず顔を赤らめた。
トラビスは何故か舌先に甘い痺れを覚え、ミシェルに小包を渡した後、並んだトリュフをみた。
「オリビエさん?」
心配そうにトラビスを伺うミシェル。
「なんでもない。ちょっと匂いにあたっただけだ」
「そ、そうですか。では、いってきます」
「ああ。配達が終わったら、直帰して構わない。明日も忙しくなるだろうから」
「わかりました。では、いってきます」
「おう。気をつけてな」
ミシェルを送り出し、手を洗う。
立ち暗みを覚えたトラビスは、もう一度、ボウルに手を伸ばした。
まさか、いや……。
トラビスは何気なくトリュフを数えた。
1、2、3………………………………………27。
トラビスは厨房を飛び出した。
セラヴィ氏の小包には二つしか入れていない。
あと一つは間違いなく彼女の口の中だ。
「ショコラ!!」
トラビスは背後に詰め寄り、黒いワンピースの肩を思い切り掴んだ。
力なく振り返ったその顔は、上気して火照っている。
「トリュフをつまみ食いしたな?」
トラビスの厳しい声も介さず、しなだれかかるショコラ。
呼吸が、浅く短い。
しどけなく半開きになった唇から、答えの代わりに、甘い薔薇とカカオが薫った。
トラビスの背中に冷たいものが流れる。
そしてその背筋が、ぴくりと反応する。
ショコラのたおやかな指が、腰の辺りをゆっくりと撫でたのだ。
「ショ、ショコラ……?」
恐る恐る名を呼ぶと、熱っぽく潤んだ瞳が、ねっとりとトラビスを見上げた。
すっかり怒りを忘れて、トラビスはショコラの蠱惑的な眼差しに魅了されてしまう。
薔薇とカカオの濃厚な薫りがショコラの甘い体温で強調される。
ヴィヨンカ婆さんを侮った。
トラビスは後悔したが、むせ返るような色香に思考が朦朧とし始める。
「ショコラ……」
指はゆっくりと這い上がり、トラビスの両頬を捕らえた。
ショコラの不敵な微笑を浮かべた、淡い桃色の唇がゆっくりと近づく。いくら閉店後とはいえ、店内でこんなことをしていいのか。
途切れそうな理性を奮い立たせ、トラビスは身体を離した。
「ショコラ、悪ふざけがすぎてるぞ」
動揺を上手く隠せないままトラビスは店内のブラインドを閉めていく。普段の閉店準備が、しらじらしく感じられる。
違う違う。これは仕事の一部だ。言い訳のように自分に言い聞かせながら、トラビスは機敏に動く。
これじゃ密室を作ってるだけじゃねーか!
そうツッコミながらも、チョコレートショップ『XTC』は完全な密室になってしまった。
こなれた自分が憎い。
「ショコラ、俺は明日のチョコレートを包まなきゃならないから、先に帰りな」
トラビスは厨房の前で忍び寄る熱情の肢体を制するように、振り向き、人差し指を向けた。
そんな牽制の甲斐もなく、かすれた吐息がトラビスの名前を形取る。
「ショ……ショコラ……」
後ろ手に掴んだノブが緩くまわる。トラビスの胸にショコラの体重がかかり、二人は厨房へなだれ込んだ。
もの言わぬ彼女が、今日は空恐ろしくなる。
しかし、匂い立つ色香が、トラビスをこの場に止どめる。
「ショコラ……」
吐息の距離が、かつてないほど近い。
従業員の女の子には手を出さない。それは彼のこだわりの一つでもあった。
関係に及んでしまうと、必ず、ややこしい状態になり、仕事に歪みができてしまう。
……そう頭では、解っているのだ。
頭の中で、は。
しなやかな腕が首にまきついて、柔らかな唇が押し当てられた瞬間、トラビスの理性は弾け飛んだ。
必死に差し込まれようとする軟体のうねりが、彼の唇を割ろうと蠢いている。
これには応えてやらなければ。
そして、一流の舌を、チョコレートのニンフの舌を味わいたい、という願望が彼を動かした。
「んんぅ……」
ショコラが堪え切れずに、声を漏らす。
舌を絡め合い、トラビスは甘美な匂いと感触に溺れてた。
これは……?
今までに感じた事もない感覚――浮遊感、そして、大きなうねりに飲み込まれそうになる、圧迫感、すぐ後にくる、無重力に引き上げられるような、胸の衝撃。
「あぁ……ショコラ……」
うわ言のように、トラビスは彼女の名を呼んだ。
かろうじで、彼女から離れ、誘い込むように、後ろ歩きで厨房の中へと進むトラビス。 獲物を追い詰めるように、にじり寄るショコラ。
相変わらず、呼吸は浅く、紅潮した頬と、もの欲しげでうつろな眼差しをしている。
これ以上はいけない。
トラビスは自分にそう言い聞かせるが、自らを拷問にかけているのと、同じだった。
調理台に腰がぶつかり、もう、後がなかった。
いけない、と言い聞かせることで自分を煽っているのも分かっている。
理性と本能のせめぎ合いを心のどこかで楽しんでいる。
しかし、媚薬で女を動かしていると言う事が、唯一、気に食わない。 ショコラはピンヒールを鳴らしながら、ゆっくりと、彼に近づく。
トラビスは体勢を持ち直し、襟を正す。
「来いよ。ショコラ」
艶めかしい微笑を口許にたたえ、ショコラはトラビスの言葉に引き寄せられている。
トラビスはボウルに残ったチョコレートを指になすりつけて、ショコラの前に差し出した。
「お前の舌で教えてくれよ」
ショコラは大きく呼吸をしながら、その指を両手で柔らかく包み、舌を伸ばした。
感嘆を漏らしながら、その指に舌を這わせるショコラ。
丁寧に舐めとりながら、肢体を震わせている。
「……美味いか?」
ちゅるり……、と音を立てて、指が唇から抜き取られる。
しなやかな舌がその唇を滑る。
恍惚とした眼差しが、トラビスを見上げて、熱い吐息が、鼻先をかすめた。薔薇とカカオの甘い薫り。
ショコラの腰を引き寄せ、鼻先がつきそうな距離でトラビスはもう一度尋ねる。
「……どうだ?俺のショコラの味は?」
トラビスの問いにショコラは笑みを深くして、挑戦的な眼差しを向ける。
“あなた自身で試してご覧なさいな”
そう言わんばかりに覗きこむショコラ。
その指には魅惑のトリュフがあった。
「味わっても……いいか……?」
自らの吐息も熱く、声がかすれているのが解った。
――もう、どうだっていい。この蕩けたショコラを、早く、味わいたい――
トラビスはトリュフを歯にくわえ、ゆっくりと迫ってくるショコラの唇を待ち望んだ。
「オリビエさん!」
ミシェルの声で、トラビスは、がくんっと、頭が落ちるような感覚を覚える。
次々とざわめきを鼓膜が吸収し始めて、自分が、休憩室で居眠りをしていることを思い出した。
「……ああ、ミシェル……すまない。チョコレートがまだだったな」
微苦笑しながら立ち上がるトラビスを不思議そうにミシェルが見ている。
「……限定チョコレートなら、すでに完売しましたよ?」
ミシェルの言葉がハンマーのようにトラビスに衝撃を与えた。
「どういうことだ?!」
「昨日、オリビエさんが徹夜でご用意されたアソートは午前中に完売しました」
ミシェルは戸惑いを隠せずに、しかし真っ直ぐトラビスを見て答えた。
「そ、そんな……馬鹿な」
「徹夜でお疲れになっているんでしょう。大丈夫ですよ。今日の目玉は完売しましたし、僕ら……まぁ、彼女は微妙ですけど、お店は回っています」
「ミシェル、今何日の何時何分だ」
「え?14日の14時14分です」
いよいよトラビスは眩暈を覚えた。
まったく記憶が途切れているのだ。
「セラヴィ氏がお見えになっているんですが……、大丈夫ですか?オリビエさん」
「セラヴィさんが!」
トラビスは、この不可解な出来事の糸口を見つけた気持ちになり休憩室を飛び出した。 ごった返した客をすり抜け、店先のテラスに白髪の老紳士を見つけた。
「こんにちは。セラヴィさん!わざわざお越し頂けて光栄です!」
「やあ、トラビス!相変わらずの色男だな!」
二人は、親しみの籠った抱擁と、握手を交わした。
「トラビス、君が寄越してくれたショコラだが……」
ふいに、セラヴィの声がひそめられた。
トラビスは耳を近付けて、言葉を待った。
「……まさに媚薬のようなショコラだった……君のお陰で情熱が蘇ったよ。ありがとう」
トラビスは、ぎょっとしてセラヴィを見返す。
「さすがに身がもたんでな、休憩ついでに礼を言いに来たんだ」
冗談めかして片目をつむると、セラヴィはトラビスともう一度握手を交わし、踊るような足取りでハイヤーに向かった。
「素晴らしい愛の日をありがとう」
セラヴィはそう言い残し、去ってしまった。
「どういうことだ……?単に夢を見ていただけなのか?」
トラビスは呆然としたまま、セラヴィが座っていたチェアに、力なく腰を下ろした。
ふと、店内に視線をやると、箒を杖に、大きく欠伸をするショコラが見えた。 |