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三界大戦記―好色皇子と三界の姫たち― 作者:安里優

第二部:人界侵攻・蒼雷編

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第25回:祝宴(下)

「リディア……。君は」
「おいおい、やめろよ。お涙頂戴のために話したんじゃねえ。だいたい、敵愾心やら復讐やらで皇帝になろうってわけじゃねえんだからよ」

 スオウが目を細め、なんとも言えない表情を浮かべるのを、ぱたぱたと手を振って払いのけるような仕草をするリディア。

「ああ、いや……うん。まあ、最初はそうだったけどな。帝位継承権を保持し続けたのは、嫌がらせみてぇなもんだった。あの親父に一泡吹かせてやろうってな。だが、いまは違う。あんな奴はどうでもいい」

 照れ臭そうに言ってから、リディアは腕を組んで少し考えるようにした。

「そうだな。いきなり協力しろって言っても、わけがわかんねえだろう。もう少し昔話でもするか。聞いてくれるかい?」
「夜はまだ明けないからな」

 一晩つきあう気かよ、と彼女は笑った。

 君が望むなら、と彼は応じた。

「商売を覚えたのは、九つの時だ」

 スオウの返答にひとしきり笑ってから、リディアは機嫌良く話し出した。

「その頃、母さんは酒場をやっててさ。近所の奴らだけでも賑わってたんだけど、母さん目当てに遠くから来る奴らもいた。旅の商人たちだな」

 その頃のリディア自身は知らなくとも、後宮に召し上げられるほどの名花だ。評判を聞きつけて、帝国内のみならず大陸全土から人がやってきたという。

「そんな奴らは、まず場に溶け込むために、娘を手懐けようとする。そこで商売の勘所をたくさん覚えたよ」

 滅多に見られない珍しい菓子や雑貨を、幼い頃のリディアは楽しんだ。しかし、それがどのように自分の元にやってきたかという話の方が、彼女を楽しませた。
 たくさんの人の手を渡って、あるいは、冒険のような旅程を経て、それらは彼女の住んでいるその場所にやってくる。
 そのことの不思議さ、その奥にある人々の営みを、彼女は喜んで学んだ。

「実際にはじめたのは十の時。まあ、これはままごとみたいなもんだが、街の中をちょろちょろうろついて、小金を稼いでたな」

 そこまでは小遣い稼ぎのようなものだ。だが、そこからは様相が一変する。

「それが十二で自分が皇帝の娘だって知って、規模が段違いになった。自分が動かなくても、代理人を通じて、たくさんのものを動かせるようになったってわけさ。姫としての生活なんざ二の次で、商売を続けてたよ。アルリクの世話になるつもりはなかったからな」

 そこで、リディアはふと眉をひそめた。

「考えてみると、それもいけなかったのかもしれねえな。せっせと金を稼ごうとする義理の娘とか、気になってしかたなかったろうぜ。あっちにゃ貴族としての自負があるからな。それでもあそこまでとち狂ったのは……やっぱり自分の選択だよなあ」

 はあと一つ息を吐いて、リディアは続ける。

「なんにしても、そうやって商売を続けて……儲かることもあったし、大損こくこともあった。でもよ……」

 そこで彼女はにかっと笑った。月夜の闇を忘れさせるような明るい笑み。

「商人ってのはいいもんだぜ。望まれたものを、望まれた時に、望まれた場所に持ってくだけで金が儲かる。ついでに感謝までされることだってあるんだぜ」

 それから、彼女は自分を見るスオウの表情に気づき、怯んだように身をよじる。

「な、なんだよ」

 彼は、実に嬉しそうに、実に穏やかで温かな表情で、彼女を見つめていたのだ。

「いや、君が本当に楽しそうに語るものでな。こっちまで嬉しくなる」
「そ、そうか? うん、まあ、いいけどよ」

 どこか動揺しながら、リディアは話を進める。

「で、まあ……なんだ。しばらくすると、アルリクの野郎がかなりやばくなってきてよ。当時は貴族社会にもそんなに慣れてねえし、まさか、一族の財産丸ごと食いつぶしてるなんて思わねえからな。なんかおかしいなとしか思わなかったんだ。ただ、おかしいと思ったら調べるもんだろ?」
「賢明な行動だ」
「まあ、そんときついてた教師のおかげだよ。エレゲンってじいさんで……。なかなか面白い奴だぜ。いつか紹介してやるよ」
「楽しみだな」
「教師としては抜群でも、学者としてはへぼだけどな」

 それでも、彼女はその人物を誇るように語った。

「それでな。エレゲンの力を借りて、色んな事を学んだ。商売に関わることからはじめて、帝国のことはもちろん、いまある国々のことや、もう滅び去った国々のこともな。残念なことに、アルリクの破滅を止めるのには間に合わなかったんだけどよ」
「君のせいではあるまい」
「わかっちゃいるさ。ただ、オリガをはじめ周りが苦労してるからな……」

 彼女は肩をすくめて、気を取り直したように声を張った。

「ともあれ、そうして学んで気づいたことがあった。たとえば……」

 そこで、彼女はあたりを見回し、その足先で地面をぐりぐりと削った。

「これは、突き固めてるけど、元はなかなか豊かな土だ」
「ああ。どこかに畑でも作ろうと思っている。人界の糧食は高くてな」
「だろうな」

 唐突な話題の移り変わりにもついてきてくれるスオウに頷いてから、リディアはなにかを思い出そうとするかのように視線を宙にさまよわせた。

「たしか、開墾(イ=クン)……だっけか」

 そこだけを、イ=クンと彼女は発音した。北方語の中に突然に混じった自分たちの言葉に、スオウが不思議そうな顔をする。

「新しい耕作地を作るって意味だろ?」
「ああ、そうだが」
「知ってるか? ゲール通商語をはじめとした人界の言葉に、それを現す単語はねえんだぜ」
「なに……?」

 虚を突かれたようになったスオウだったが、にやにやと自分を見つめるリディアの視線に、はっと気づいたように体を震わせた。

「そうか、なるほど……。出来ないから、か」
「ご名答。人には大地の毒を浄化することは、もう出来ない。だから、新しい耕作地も得られない。昔は出来たのにな」

 もちろん、いま話しているように、いくつかの言葉を組み合わせればそれを表現することは出来る。
 だが、出来もしないことを短い単語として言語体系のうちに保持する必要はない。比喩表現として、日常的に口に上る話題というわけでもない。
 かくて、人界では開墾を意味する単語は失われてしまった。

「大地の毒を浄化することだけじゃねえ。たくさんのことが出来なくなってる。そんなことが出来たと、いまの時代には知られてないこともあるはずだからな。言葉が無くなってるどころか、その存在すら忘れ去られてるものがな」
「そうだろうな」

 慎重な口ぶりで、スオウは頷いた。彼の胸中を示すように、その表情は硬い。だが、そんなことに構わず、リディアは再びぐいと身を乗り出してきた。

「で、ちょっと聞きたいんだが」
「うん?」
「あんた、『船』って知ってるか?」
「船か?」

 スオウは寸時迷うように視線を逸らしたが、結局意を決したように彼女をまっすぐ見つめて答えた。

「ああ、もちろん。乗ったこともあるし、所有もしている。いまは手が出せない場所にあるが」
「そうか。そうだよな。うん。そうか」

 ぐっとリディアの拳が握られる。彼女の動作が示すあからさまな歓喜に、男は戸惑ってしまった。

「リディア?」
「ああ、すまん。……ちょっとな」

 それでも喜びを隠しきれないという風情で、彼女はくすくすと笑いを漏らした。

「あんたが知っているかどうかはわかんねえけど、いまの人界に船はない。あるのは獣に牽かせるはしけだけだ」

 人界において最も一般的な物資輸送は馬車をはじめとした、家畜の牽引による陸上輸送だ。
 だが、手頃な河川が存在する地域では、艀を浮かべ、それを家畜に牽かせる水上輸送も行われている。
 あくまで川の横を家畜や人が歩いて艀を引っ張ることが出来るという前提の場所で行われていることだし、大量の物品を運べる反面うさんくさい輸送手段だと思われているのもたしかだ。

 それらのことをスオウも一通り知ってはいたものの、あえて口にすることはなかった。

「だが、海を行く船さえ昔はあったらしい。ずっと昔はな」
「それも失われたというわけだな。大地を浄化する術と同じく」
「そうだ」

 それから、彼女は魔界の皇太子の度肝を抜くようなことを口にするのだった。

「だがな、無くなったもんは新しく作ればいい。そうだろ?」


                    †


「リディア……。君は」

 妙に長く感じた沈黙の後でスオウが呟いた台詞は、しばらく前とまるで同じものであった。
 だが、その響きは、そこに籠められた思いはまるで違う。
 彼は、一度喉を鳴らしてから彼女に問うた。

「君は、大いなる都があった時代の栄光を取り戻そうと言うのか?」
「取り戻す必要はねえよ。なにも昔通りのものを再現しなくたっていい。もっといいものを作っちまえばいいんだ」

 再び絶句するスオウに、リディアはからからと笑って続ける。

「そうは言っても、大昔の技を再現すんのは正直骨だと思うぜ。なにしろ、いまの人間にはさっぱりわからねえことばかり書いてある古代の本もあっからな。それがわかるようになった頃には、きっと別の道を見つけてるんじゃねえかな」

 それまでは希望に満ちていた彼女の瞳が、一転、そこでどんよりと曇る。

「ただよ。たとえば、さっきの大地の毒を浄化するって話だけど」
「うん」
「いまは人間が出来ねえから神界に頼ってるんだよ。何十年も祈り続けて、ようやくどっかに小さな都市を造ってもらうんだ。それも、地方がまとまって動かなきゃ神々の慈悲にもすがれねえ有様だ」

 リディアは憤慨するように鼻を鳴らす。

「あっちのほうが新参だってのに、おかしな話だよな」
「それを俺に言うのはまずいんじゃないのか?」
「あんたが漏らすわけねえだろ?」
「まあ、それはそうだ」

 彼女の立場を心配するスオウであるが、そう言われてしまうと返す言葉もない。
 元々、彼は神界の敵なのだから。

「ともかくよ。なんもかんも大昔のようには出来なくても、人界のことは人界で出来るくらいにはしてえ。それこそ、自分が住む土地の毒くらい抜けるようにはな。ただ、一足飛びにそれを成し遂げるのは難しい」
「それはそうだろうな」
「そこで、出来ることはなにかなって考えたわけだ。いや、ずっと考えてきたんだ」

 ここで話は繋がる。
 リディアは商人として活動をはじめ、次いで皇女としての世界を得た。
 そのことが彼女に特異な視界を与えたのであろうか。
 誰も当然としか思わぬ事に、誰もが所与のものと考えている世界に、彼女は別の視点から切り込んだ。

 人はかつて生み出したものを失った。
 それは認めるしかない。だが、なぜ、そこで足踏みしているのだろうか。
 失ったのならば、それを取り戻し、あるいは新しいもので取り替えてしまえばいいだけではないか。

 そのために自分になにが出来るか考え続けてきたと、彼女は言った。

「研究してるやつの後見人になるのが手っ取り早いと最初は思ったんだ。面白そうな事をやってる奴を見つけて、金を出す。そうすることで、なにかが変えられるかもしれねえとな」

 リディアは言って残念そうにため息を吐く。

「だが、それじゃ駄目なんだよ。どうやっても少なすぎる。狭すぎる。限界がある」
「限界か」
「ああ。出せる金の限度ってのもあるが、どんだけ頭の良い奴でも、一人や二人じゃどっかで壁にぶつかっちまうんだ。刺激が少ないのか、常識が邪魔するのか知らねえけどな。いまんところは神界の禁忌を避けようとしてるって事情もあるかもしれねえ」

 そこで、彼女は自分の天分と、学んだ歴史を思い出したという。

「結局は商人のやり方しかできねえなら、成功したはずのご先祖さまの行動に学んでみようと思ったんだよ」
「ゲルシュター隊商団、だったか」
「そうそう。あんたらの降臨より前から大陸を結び付けてた連中だよ」

 大いなる都が失われ、分断された大陸で、ゲルシュター隊商団だけが『穢れた地』を踏破出来た。
 彼らが結び付けることで、ようやく人々は暗黒の時代を生きのびてきたのだ。

 物を動かし、人を動かせば、職が必要とされる。衣服が流通し、建材が運ばれ、食糧が購われる。
 そうして、人々の営みは活性化し、社会はぎりぎりの安定を保った。

「いまの世でも、それは応用できる。飢える奴が減れば、新しいことに挑戦する奴も増えるだろう。職が充実すれば、余暇に注ぎ込む余裕も出てくる。人の交流が増えれば、色んな考えが混じり合って、発展してく。商業を活発にすれば、そんな風に社会全体を活性化できるんじゃねえかと考えたわけだよ」
「それを成し遂げるために皇帝になろうというのかな?」

 スオウの問いに、リディアは満足そうに頷いた。黒髪がさらさらと揺れ、その瞳が月光に煌めく。

「ゲールの皇帝にな。名目上、いまもゲルシュターの隊商団は全てゲルシュターの総帥、ゲール皇帝に従うんだ」
「なるほどな。利があることを示せば、名目は容易く実態となり得る。商業を活発にしようというなら、従う商人は数多いことだろう」
「ああ」

 スオウは目の前の女性の発想の広がりに舌を巻いた。
 人界の新たな栄光のため、社会を活発な状態にしようと考え、そのために皇帝を目指すと彼女は言う。
 彼女にとっては大国の皇帝も一つの手段に過ぎないのだ。

 彼女自身を含めた幾人もの人生を簡単に狂わせてきた……そんな権力を持つ立場も、利用できるなら利用しようという程度のものでしかない。

 もちろん、それは彼女が皇女という立場にあるから出来ることなのであるが……。
 その前提は、彼が皇子であることとなにも変わりはない。
 そして、皇子であるスオウは、ちっぽけな我欲の及ぶ範囲しか見ない近視眼的な皇族や実力者など腐るほど知っていた。

 それに比べれば……。

「桁外れの器量だな」

 思わず漏らした言葉に、リディアは笑う。

「三界制覇を企てる奴に言われたかねえよ」
「……違いない」

 二人は思い切り大声で笑った後、しばらくくすくすと笑い続けた。

「さて、あんたらとの取引の話はここからだ」

 笑いを収めたリディアは、半身を乗り出してスオウと対した。脅しでもかけそうな体勢だが、それを目も覚めるような美女がやると、実に様になる。

「さっき言ってたようなことを成功させるためには、これまでとは違う試みも必要になる。たとえば、『船』とかな」
「我々が協力できるというのはそこか」
「その通り」

 リディアは言って、一本だけ立てた指を揺らした。

「商業を活発にしようったって、ただ金を注ぎ込むだけじゃうまく回るとは限らねえ。人と物を潤滑に回すには、いままでよりもっと優れたもんが必要になるんだ。それこそ、これまでの常識を外れたもんがな」
「人界においては水上の利用は実に限定的だ。そこから外れたものは、常識の外にあるというわけだな」
「そうさ。実際に、あんたらが、ファーゲンでやってのけたみてぇにな」

 意地の悪い笑みを、リディアは浮かべた。それと同じくらい獰猛な表情で、スオウは返した。

「人界じゃあ、『船』は伝説の存在で、知ってる奴の方が少ねえくらいだ。それでも、艀があるんだから、どうにかなる……と思ったんだけどな」

 彼女が悔しげに片目をつぶるのに、スオウはぴんと来た。

「……その口ぶり。すでに取り組んでいるようだな?」
「ああ、実はな」

 艀でさえ、獣の背に乗せるよりは、あるいは獣に車を牽かせるよりは、ずっとたくさんのものを運ぶことが出来る。大河や海さえ渡ることの出来る船であれば、それはもっと大きな差となるだろう。

 リディアは文献に語られる伝説の『船』を知り、それをこの世に再び生み出そうと動いていた。
 とはいえ、概念すら忘れ去られた存在を再び作り出すのは、困難を極める。以前にオリガがリディアに指摘したように、船を造ろうという試みは金食い虫なだけでなんの利益も上げていなかった。
 少なくともいままでは。

「君が俺たちの協力を望んでいるのはわかった。だが、一つ解せないことがある」
「なんだい?」

 眉間に皺を寄せて難しい顔をするスオウに対して、リディアは妙にすっきりとした顔で応じた。
 自分が思い、考えてきたことを一気に話したことで、開放感のようなものを抱いているのかもしれない。

 そもそも彼女の目的を理解し、その目指した先の世界を想像出来る者など、人界にはごくわずかしかいない。前提となる常識が異なるとはいえ、それを軽々と受け止めるスオウは、彼女にとっては胸襟を開くに足る相手だったのだろう。

「対価の大きさだよ。君は皇帝となった君自身と帝国そのものを差し出すと言った。あれは比喩かなにかか?」
「まさか。そのまんまだよ」

 そこで、リディアは馬鹿にされたとでも思ったか、まなじりをつり上げた。

「言っておくが、報酬をごまかしたりはしねえぞ。商人の信義にもとる」
「では、君が俺のものになり、俺は君を通じて帝国を支配することになるというわけか? それで間違いないんだな?」
「だから、そう言ってんだろ」

 端から見れば当然とも言える男の執拗な確認に、彼女は苛ついたように答え、それから、なにかに気づいたような表情に移った。

「ああ、わかった」

 彼女はぽんと手を打ち、下から舐めるような視線を彼に送る。

「手付けを打っておけってことだな?」

 その口元が笑みの形を刻む。
 だが、それはどこか緊張をたたえているようにも見えたのだった。


                    †


「悪い雰囲気じゃなさそうだな」
「ですね」

 皇子と皇女、闇の中で語らう二人の輪郭は見て取れるものの、声が聞き取れないくらいには離れた場所で、フウロとオリガは小さく声を交わす。
 彼女たちは並んで立ってはいるが、お互いを見ることはなく、あくまでその視線はそれぞれの主に向けられていた。

「ずいぶん南から来たんだって?」
「ええ」
「物好きだな」

 オリガは極北語に堪能ではなく、フウロの話す人界の言葉はお世辞にも聞き取りやすいものではない。
 自然と、彼女たちの会話は短い言葉のやりとりになっていた。
 それでも、スオウたちの様子が緊迫したものではないと感じ取ってからは、その応酬も増えている。

「リ=トゥエ大山脈を越えてくるほどです?」
「こりゃやられた」

 オリガの返答に、フウロは軽く笑い声を立てた。彼女は横目で一度オリガを見てから、視線をスオウたちに戻す。

「あんた、軍人なのか?」
「一応は」

 それから少し迷うようにして、彼女は付け加えた。

「ただ、正規の軍人じゃありません」
「ふうん」

 今度はもう少しだけ長くオリガを見るフウロ。オリガの方はその視線に応じず、リディアがなにやら話しかけている様を見守っていた。

「ところで、なぜ軍人だと?」
「踊りが踊りらしくなかったからな」
「あはは」

 オリガは照れたように笑って、額から頬に走る傷に指を走らせる。意識しているのかいないのか、その動作は何度か繰り返された。

「踊りとか、慣れて無くて」
「構うことはないさ」
「そうですかね」
「ああ。主役の二人以外は、おどけてても許される場だ」

 そう言って、フウロは肩をすくめた。

「ただ、主役を務める日のために、少しは覚えておいてもいいかもな」
「アタシが?」
「うん。それとも、もう人妻だったか?」
「いやいや」

 驚いたように目を丸くしたオリガは思わず顔をフウロに向けてぶんぶんと手を振っていた。

「それはないんじゃないっすかねー……」
「なんでだ?」
「だって、ほら」

 なぜと尋ねる魔族の女性に、人界の女性は自らの顔を指さした。街中で行き合う人が驚くくらいの顔の傷を。

「ふうん」

 その様子に、フウロはもう一度彼女のほうを見てから、小さく肩をすくめた。

「じゃあ、魔界の男に嫁いだらいいよ」
「え?」
「そんな傷は誰も気にしない」

 なんでもないことのように言い切られ、オリガは、衝撃を受ける前に戸惑ってしまった。
 傷をなぞるように動かしていた指を離し、なんとも言えない表情を浮かべてフウロとスオウたちの間で視線を往復させる。

「魔界の男って……」

 しばらくして、オリガは尋ねた。一度ごくりとつばを飲み込んでからの問いかけであった。

「皇子殿下っすか?」
「え? あー……。うーん……」

 言われてみれば、いま人界にいる魔界の男はわずかだ。
 旅団長ハグマがいまさら女に興味を示すかどうか怪しいことを考えれば、スオウの名があがってもおかしくはない。

「殿下は……殿下だからなあ」

 なんの答えにもなっていない言葉を発して、フウロは腕を組む。彼女が複雑な顔をして考え込んだところで、奇妙な声が上がった。

「あわわっ!」

 もちろんそれはオリガが発したものだ。
 すわ一大事かと足を踏み出しかけ、しかし、フウロはなんとかそこに踏みとどまった。

 彼女の視線の先では、二つの人影が重なっている。
 木箱の上に座る男の膝に女がのしかかる形。
 あるいは、そこでその影の手に刃物でも握られていれば、彼女はそのまま駆け出していたかもしれない。
 しかし、その両手は男の肩に置かれ、男の手は彼女を押しのけるようにではなく、ずり落ちたりしないようにと背中と尻に回っている。

 それに、なによりも。

「気にしなくていいんじゃないか」
「で、でもですね」

 慌てているオリガに声をかけ、小さく息を吐く。彼女は、改めてオリガをなだめるようにこう言うのだった。

「いつものことだよ。殿下だから」

 なによりも、二人の顔は重なり、その唇が触れあっているようにしか見えなかったのだから。
次回『密約』にて第二部を終了する予定です。
その後、幕間をはさみ、第三部となりますが、第三部本編開始まではしばらくお休みをいただく予定です。
日程などについては次回、詳しくお知らせいたします。
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