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三界大戦記―好色皇子と三界の姫たち― 作者:安里優

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波紋(一)

挿絵(By みてみん)

 それは、まだほんの小さな動きに過ぎない。
 たった二千の魔族が、世界に向けて気炎を上げているだけのことだ。
 いわば、大海に放り投げられた小石の起こす波紋のごときものでしかない。


 そう、わずかに水面を伝わる波のようなものでしか。



                    †


 その日、魔界の新皇帝メギは実に機嫌を悪くしていた。
 それというのも父であり監国かんこくでもあるヤイトが朝議に出仕しなかったからだ。

「ふん。新しい官位を作って悦に入っていると思えば、姿も現さぬなど。どうしたものだかな」

 卓をこつこつと指で叩きながら、彼は呟く。
 普通の親子ならば、体調を崩したというようなことも考えるところだが、皇帝家ではそんなことは最初から考慮の外だ。
 なにしろメギにしろヤイトにしろ、常に周囲には人がいる。

 メギが皇帝に即位して日も浅いいま、なにか起きれば報せが来ないわけがない。
 いまのようにメギがなにも聞いていないという状況が生じうるのは、ヤイト自らが情報を断っている場合に限るのだ。

「皇帝である身を呼び寄せて、己の威を示したい……というところか?」

 ヤイトは、メギを皇帝に据えた後で、平時は宰相と同じ権限でありながら、皇帝不在の時には国家の全権を担うという『監国』の官位を新設して、自らそれに就いた。
 皇帝に等しい権力を握っていることを示したいのであろうが、それならば、当人が帝位に登ればよかったものを。そう、メギは考えている。

 簒奪の汚名は息子に押しつけて権力だけは握ろうというのは、実に厚かましい話では無かろうか。

「……ま、兄から奪った玉座には、と考えるのもしかたないところか」

 彼とて、父への情が無いわけでもない。ここは自分が譲ろうと考え、柔らかに体を受け止める椅子から立ち上がった。
 護衛の兵が後ろについてくるのを意識しながら、廊下を行く。
 そんな彼に声をかけるものがあった。

「陛下」

 廊下の隅、メギがそれまで意識もしていなかったような暗がりから、小さな影が現れる。
 禿頭の中年男は、宮殿にふさわしい衣装を身にまとっているものの、哀しいほどそれが似合っていない。
 それというのも、彼の背が魔族の標準からすれば小さすぎ、体つきも貧相きわまりないからであった。

 だが、それもやむを得まい。彼は、魔族にあらず人間なのだから。

「なにか」

 諜報の一部門を任せているその男に、メギは手短に尋ねた。護衛たちは彼が足を止めたところで一定の距離を保って周囲を警戒している。

「監国閣下は帝都を出ておられます」
「……どこへ行った」

 明らかに怒りを無理矢理に押さえ込んだような声。相手はそれをどう思ったか、調子を変えずに続けた。

「わかりません。ただ、南へ向かったらしきことは」
「兵はどれほど?」
「一中隊のみを」

 つまり、百五十から最大でも二百程度。護衛の範疇でしかない。

「なんのつもりだ……」

 ぎりと奥歯を噛みしめるメギ。
 正直そこで地団駄でも踏みたい気分であったが、そんなことができるわけもない。
 魔界を治める皇帝は取り乱したりしないのだ。

「ここはわかる者に聞くのがよいかと」
「誰だ?」
「国母様です」
「……なるほどな」

 男の言葉に一瞬虚を突かれたようになったメギだったが、すぐに納得したような顔で頷いた。
 その後は、もはや男を一顧だにせずきびすを返すメギ。禿頭の男も無言のままに頭を下げ、影の中に消えた。

 メギはそのまま自分の執務室を通り抜け、私室を抜け、後宮に足を踏み入れた。
 その間に護衛の兵が女性に代わっているが、もちろん、彼はそんなことで自分の歩調を崩さない。
 彼がたどり着いたのは、後宮の一角、自らの母が新たに住まいとした小ぶりな館であった。

「おや、メギ。どうしました。こんな時間に」

 館の主は女官たちに何事か命じている最中であったが、彼女たちはメギの姿を見かけたところで、頭を下げ退出した。
 痩せぎすな体に不釣り合いなほど豪奢な衣装を身にまとう母――クコに、メギは柔らかにほほえみかける。

「父上がお出かけになられたようで」
「ああ。あの破廉恥漢の様子を見に行ったのですね」

 その瞬間、すっと細まった息子の目を、クコは見ていない。
 彼女は皇帝となった息子がそこにいるというだけで誇らしさに胸がはち切れそうで、ろくに彼の顔など見ていなかったのだ。

「そのようで。父上も心配性だ」
「慎重とお言いなさいな」
「そうですな」

 母と子はそう言いながら笑いを交わす。それから少しおしゃべりをして、最後にこう告げてメギは母の元を辞した。

「では、父上がいない間も、私はちゃんとおりますからご安心を」
「はいはい。わかっていますよ。皇帝陛下」

 にこにこ顔を崩さぬまま館を出て、彼は一言吐き捨てる。

「鳳落関だ」

 そこには禿頭の男やその配下の姿どころか、誰一人いない。護衛の兵も離れている。
 それでも、どこかであの男の耳に入るはずだと彼は確信していたのだった。


                    †


 人界の北部東半、アウストラシア地方は、大きく二つの地域に分けられる。
 大河セラートを境に、北が旧ソウライ地域、南が戦王国せんおうこく群である。
 ソウライ地域は大きな諍いもなく、それ故に強力な権力集団も生まれずに、旧来の貴族階級による支配が続いている。
 それに比べると、戦王国群は絶えること無い戦乱と、様々な集団の栄枯盛衰が繰り返されていた。

 その地域にどれだけの氏族が、組織が、集団が、領邦が存在していたのか。あるいはいま、どれだけ形成されているのか。
 定かに知る者はいない。
 前の年に『国』を興した『王』が次の戦で討ち取られ、その――ごく小さな――領地がばらばらになることなど、珍しくもなんともないことなのだ。
 曲がりなりにも国としての体裁を保っている集団は少なく、何代もそれを引き継いでいる国家は無きに等しい。

 故にそれらの領邦は『戦王国』と呼称される。

 戦の中で勢力を伸ばした武装集団の頭目が『戦王せんおう』としてほんの十数年の短い期間、ある土地を支配する。それだけのはかない存在。
 戦の中で生まれる戦王や、戦王国は、そんな不確かなものでしかなかった。

 だからこそ、余計に彼らは戦い続ける。放っておけば四散しかねない己の領地を盤石のものにするため、周囲の敵を滅ぼそうとする。
 それが、自分の集団の力を余計に殺ぐことになると思いもせずに。

 そんな戦王国のひしめく地域の一角で、今日も戦が行われている。

「おらぁ! 押し出せ、押し出せ!」

 だみ声を張り上げて、突進する兵たちを鼓舞するのは、見上げるような巨躯の男。魔族の血が混じっているのではと噂される、『暴虐王』マルヴィンゴッツだ。
 ここ数年、周囲の勢力を次々呑み込んでは急成長している戦王である。

「第三隊を下げよ」
「はっ!」

 一方、その突進を受け止める一団を指揮している将は鮮やかな金緋――あるいは柑子色――の髪を持つ美しい女性であった。
 ただし、その美しさは猛獣のような鋭さを供える類のものであったが。

「修道騎士団にも用意をさせておくように」

 伝令が早速駆けていこうとするのに短く付け加える。
 彼女はその朝日のように輝く髪から、旭姫とあだ名される、ローザロスビータ。

 ローザは、指揮官が故であろうか、周囲の者に比べておかしく思えるほどに分厚い鎧をつけていた。
 馬にも乗らず、手に持つ長刀ちょうとうを支えに立っているかのようである。
 その長刀もすさまじい。刀身を収めているはずの鞘が、彼女の身長を超えるほどの大物だ。立てている限りは、柄にも手が届くまい。

「それにしても下品な攻めだ。呼吸もなにもあったものではない」

 彼女はじっと戦況の変化を見つめながら、そんなことを呟いた。

「魔族の血を受けているとも言いますからな。力押ししか知らぬのでしょう」
「魔族か。なんとも穢らわしい」

 側近が言うのに、ローザは侮蔑も露わに吐き捨てた。

「魔の者相手ならば、マハーシュリー様から賜った御旗みはたを押し立ててもよかったかもしれんな」

 相手の勢いに押されてじりじりと退いている自軍を確認しながら言った言葉に、側近たちが青くなる。

「姫様。それはあくまでも噂ですから」
「では、北の山脈からあふれ出たという魔族はどうだ? なんとかいう都市の包囲を解いて立ち去ったとも聞くが……。再び魔族どもの侵攻が始まったとなれば、いつまた現れるかはわかったものではなかろう」
「それは……まあ、真性の魔族相手であれば……」
「しかし、いまはそのような」

 口々に言う周囲の者たちに、ローザはにっと唇の端を歪める。

「だが、ここでゴッツめを下せば、北への道も開かれる。そうではないか?」
「それは仰せのとおりですな」
「父上はまだまだここで止まるような方ではない。ならば、魔を誅滅する機会もあるというわけだ」

 彼女の父、『雷将』とも称されるヴィンゲールハルトは珍しくも先代から領地を受け継ぎ、それを二十年もの間維持している老練の戦王である。
 戦王国群の北辺を制するのは我が父だ、とローザは信じていた。

「まあ、いまは目の前の戦だ」

 戦の潮目が変わった、と彼女は見て取った。
 その青い目がらんと輝く。
 自軍は、彼女の指示通りじりじりと後退を続け、事前に定めた防衛線上に到達しつつある。
 敵はそれに乗じて進出している。その隊列に乱れを生じるほどに。

 実に、彼女の思惑通りであった。

「これだけ食らいつけば十分であろう。騎士団に合図を。手はず通り横っ腹を食い破れと」
「はっ!」
「では、ゆこうか」

 ローザが手に持つ長刀を傾ける。従士たちがそれを支えるが、横に倒せば大の男が三人がかりで持たなければならないような代物であった。
 この大刀を抜くというのであろうか。しかも、ろくに動くことも出来そうにない鎧を身につけて。

 侍女が進み出て、彼女の頭に兜をのせる。その特徴的な髪はもちろん頭全体を覆うそれが、鎧の胴とつながった時、それは起きた。
 小さな破裂音が生じ、鎧の背に回転祈祷器が跳ね上がる。高速回転を始めた回転祈祷器からは祈りの歌が流れ始めた。
 その祈りを受けてであろうか。
 鎧の各所が光を帯び始める。

 いや、光っているのは鎧そのものにあらず、鎧に埋め込まれた数多くの神石リンガムであった。
 徐々に神石リンガムは輝きを増し、鎧全体を覆う光の幕となる。

「大いなる祈りを受けて、いざや、魔を断つ刃とならん!」

 重厚そのものの鎧ではとても考えられぬ動きで、彼女は一歩を踏み出し、すらりと刀を抜いた。
 彼女の身長などはるかに超える刃を背負うようにしながら、旭姫は駆け出す。
 それは、重い鎧を着けた身どころか、人の限界をも超えるような勢いと軽やかさであった。

 それをもたらしているのが、光り輝く鎧であると理解出来る者がどれほどいるだろう。
 そんな推察より、彼女そのものがなにかの神の化身であると、そう信じる者のほうがずっと多いはずだ。
 そして、味方の兵は彼女の姿を見るだけで士気を上げ、敵兵はその身をすくませる。

 彼女にはその一瞬で十分だった。

 走りながら振った刀は、幾人もの兵を切り裂き、ひっかけ、たたきつぶす。尋常ならざる速度で走る彼女が持つ長大な刀は、触れるだけで膚を割き、肉を割り、骨を砕いた。
 それがさらなる注目を呼び、敵兵の硬直を招く。
 それこそが、彼女の――否、彼女の軍が必要としていた好機であった。

「我がともがらよ! よくぞ耐えた! いまこそ、反撃の時ぞ!」

 その言葉を合図に、それまで懦弱を装っていた兵たちは猛然と敵に食らいついた。さらには、『聖鎚の守護者』騎士団が横合いから現れてその衝撃力を遺憾なく発揮する。
 そして、ローザは勢いのまま『暴虐王』の本隊へまっすぐに突き進んだ。

「ヴァイシュラヴァナの加護ぞある!」

 旭姫の喉から漏れる裂帛の気合いが空に上っていく。
 上空では、眼下で争い続ける矮小な人間たちをよそに、飛行鯨がのんびりと空を泳いでいた。


                    †


『現代に至るまで、人類は宗教上の衝撃を二度経験している。
 一度目は、『大いなる都』の消失後に続く混乱の時代。
 このとき、宗教指導者がその後継者共々姿を消し、過去の資料が散逸したことは、人類全体にとっての損失であろう。

 しかし、一般の人々にとって打撃であったのは、その後に続く混乱と災厄の時代である。
 次々と生じる災いは、人々から希望を奪い、既存の信仰に対する疑念を生み出した。
 だが、その疑念から累代の信仰に背を向けるという行為は、人々を救うことにはつながらなかった。
 この時代に生じ、そして、結局は人々の救いとも導きともなぐさめともならずに消えていった淫祠邪教がどれほどあったことだろう。

 さて、第二の衝撃は、当然ながら神々の降臨である。
 自らと同じ物質的存在でありながら、数々の奇蹟を示す神々に、疲れ切った人々は我先にすがりつき』

 そこまで書いたところで、女は手に持つ硝子筆を止めた。
 美しい刺繍の入った純白の長衣を身にまとう女性は筆を置き、目の前に自分の書いた文書を持ち上げる。
 真剣な表情のよく似合う美しい女性であった。白に近い輝きを持つ金の髪が、彼女が頭を傾けることでさらさら流れる。

「ふむ……。まあ、この程度は問題ないかしら」

 緑灰色の瞳で自分が綴った文を追っていた彼女は、そう結論づけ、再び筆を執る。

『……数々の奇蹟を示す神々に、疲れ切った人々は我先にすがりつき、こぞって彼らの信徒となった。
 数々の古き教えは打ち棄てられ、神々はあっという間に物心両面の支配者となったのだ。
 もちろん、全ての教えが絶えたわけではない。中には、表面的には神々に恭順を示しながら、太古から伝わる真実の教えを……』

「あー、だめ。これはだめ」

 彼女は筆をひっくり返すと墨壺に浸し、たっぷりと墨のついた軸の部分で最後の行を塗りつぶした。

「いくら彼らが偽神アルコーンに過ぎないとはいえ、いまは彼らの下で真の信仰を広めなきゃならないんだもの。刺激するような文言は避けないと」

 口を尖らせながら、彼女はそんな言葉をこぼす。
 彼女こそ、自らが記していた『古き教え』を守る宗教組織『ソフィア修道会』の長、女教皇ティティアナ・タバレスであった。

「うーん」

 ティティアナは、信徒たち向けの宗教史の概説書としてまとめようとしている文書の続きを考えてうなりを上げる。
 一説によれば『大いなる都』がこの大地に築かれるより昔から伝わっていたという彼女たちの信仰は、彼女も書いたとおりに、降臨した神族たちを表面的に尊重することで生きのびた。

 具体的には、神族たちを、彼女たちがあがめる神の『使徒』であると位置づけたのである。至高の神から地上支配の代行者として使わされた『神々』であるから、それに従うのは当然というわけだ。
 だが、それがある種の言い訳にすぎないことは、彼女たちの教義を少し調べればすぐにわかる。

 もちろん、神族たちもその程度のことは承知の上で、古来よりの信仰を目こぼししているのであった。
 とはいえ、教皇自らが記す文書で、それをあからさまに書くわけにはいかない。匂わせるにしても最低限にすべきであった。

「あー、めんどくさーい」

 結局、うまい表現が思いつかず、ティティアナは椅子にもたれかかる。さきほどまでの真剣さはどこに行ったのか、ぐでーと体を伸ばしていた。

「飛行鯨かー」

 彼女の左側には大きく開いた窓がある。ここは壮大な大聖堂に立つ塔の内の一つ、その最上部であったから、何に妨げられることもなく開けた空が眺められた。
 その青空を、ゆっくりと鯨が進んでいく。

「あの手の被造物を見ると、造物主デミウルゴスも美を理解できるんじゃないかと思っちゃうのよねー」

 大きく膨らんだ腹を上に、黒い背を下にして空を泳ぐ鯨を見ながら、ティティアナはそんなことを呟く。

 その腹に空気より軽い気体が詰まっていることや、海にいる同族が背を上に腹を下に水中を泳ぐことを彼女は知っていた。
 そんな知識を持って見ると……いや、それがなくとも実に不思議で楽しい光景ではなかろうか。
 あんなに巨大なものが空を泳いでいるというのは。

「まあ、たまたまなんだろうけど」

 小さく肩をすくめて、ずり落ちそうになっていた体を引き上げる。
 そうして、再び文書に向かおうとしたところで、鈴の音が部屋に響いた。

「はいはい」

 外扉を警護している修道騎士からの連絡である。彼女は立ち上がり、内扉を開いて問いかけた。

「誰かしら?」
「ヴァレリ枢機卿であります」
「なるほど。いいわ。通して」

 ティティアナが告げると、扉が開き、いかつい顔の老人が姿を現した。警護の騎士たちを労うように目礼してから内扉も抜け、その男は彼女の前に跪いた。

「ご機嫌麗しく、教皇猊下」
「いと高き神に、誉れあれ。……かしこまらなくていいわよ。誰もいないし、面倒」
「ありがたく」

 明るく言うと老人は立ち上がり、ティティアナが椅子に戻るとその前に移動した。

「あなたも座ったら?」
「いえ、結構。立ったままでいるほうが楽なのですよ。年ですかな?」
「どうだか」

 ティティアナはかくしゃくとした老人を見上げて鼻を鳴らす。
 彼はかつては修道騎士として各地を転戦した剛の者だ。その立ち姿からしても、老いさらばえるにはまだ早いと思えた。

「それで、なにかあったのかしら」
「少々気になる報告がありましてな。北方の魔族の件」
「ああ。ショーンベルガーを包囲した? あれは去ったのではなかったの? 包囲を解いたと聞いたけれど」

 魔族が二百年ぶりに人界に侵入したという報は彼女も受けていた。
 いま彼女たちがいる大聖堂は戦王国群の一角にある。
 だが、この戦乱の続く地でソフィア修道会は、ソウライ崩壊以前よりある領地を守り続けていた。まさに稀有な存在であった。
 しかも、その安定した統治技術と軍事技術を周囲に――一定の代価を得て――提供している。

 ソフィア修道会から派遣される宮廷顧問団や修道騎士団は各地の戦王国で重用され、官僚を指導したり、軍で教官を務めたりしていた。
 おそらくは、アウストラシアで最も広く信頼され、それ故に第一に情報を握る立場の組織である。
 だからこそ、彼女は魔軍の侵入を――より近い距離にあるローザよりも詳細に――知っていたのだが、それ以後の展開までは予想できていなかった。

「包囲は解かれましたな。ただし、魔軍そのものは未だに留まっている様子」
「……なにしているの?」

 本気で不思議そうに尋ねるティティアナ。

「そこまでは」
「……なるほど」

 納得したわけではないだろうが、なにも言わないわけにもいかず、彼女はそんな言葉を返す。

「彼らの目的がなんにせよ、それでソウライのあたりが動揺するのは困るわね」
「はい。あの地に国家がないことが、アウストラシアにとっては良い方向に働いております。魔族への備えとして大同団結などされては……」

 ソウライ地域は清浄な飲料水と、安全な食物の一大供給地である。
 戦に明け暮れる戦王国群にとっては、無くてはならぬ存在だ。そこに強力な勢力が生まれることは、あまり歓迎できることではなかった。
 出来れば、適度に分裂したまま――つまりは戦王国群でも交渉が可能な程度に――いてほしいと思っている勢力が多いことだろう。

 強固な支配体制のあるソフィア修道会自身にとってはあまり問題ではないが、周囲が乱れるのは避けたい。

「本当は邪魔したりすべきじゃないのでしょうけれど……ね」
「魔族から身を守ろうとする反応であればなおさらに。しかし、一足飛びに理想の世が来ぬ以上、もめ事の芽は摘んでおくべきでしょう」
「わかっているわ」

 ティティアナは小さくため息を吐き、そして、一度頭を振った。
 枢機卿に視線を戻したときには、その顔は決意を込めたものに変じている。

「あのあたりにいるのは?」
「『聖鎚の守護者』団と『狼の友』団ですな」
「カールフランツとオットーね」
「はい。残念ながら、いずれも内陣イナーサークルには達しておりませんが」
「それはしかたのないところね」

 しばらく考えて、ティティアナはぴんと指を立てた。

「決めたわ。カールフランツにしましょう」
「理由をお尋ねしておいてもよろしいでしょうかな?」
「彼が足萎えの雷将のところにいるから」
「ああ、ヴィンゲールハルト・ミュラーですな。いや、いまはミュラー=ピュトゥでしたか」
「そうね、婚姻によって家を継いだから」

 枢機卿は豪快に顔を歪める。それが、彼の懐かしげな笑顔だと判別出来るのは、近しい者だけであろう。
 彼はかつて騎士であった頃、ヴィンゲールハルトに知遇を得ていた。それをティティアナも知っている。

「あれは気持ちの良いくせ者ですぞ」
「褒めてるの?」
「もちろん」

 うさんくさげに自分を見つめるティティアナに向けて、枢機卿はさらに笑みを深くする。

「あやつならば適任ですな。探るだけにせよ、滅ぼすにせよ」
「あまり無茶をしないでくれるとも期待しているけど」
「そのあたりもうまくやるでしょう。とはいえ、いまあるだけでは手が足りますまい。人を手配しておきます」
「お願いね」

 枢機卿はそこで大仰に一礼して、扉へ向かった。
 ティティアナもくどくどしく何か言うでもなく、机に向かい直す。
 しかし、彼女は筆を持つでもなく、考え込むでもなく、ただ虚空を見つめていた。

「魔族、か……」

 その影響を排除すべく命を下した対象について、ぽつりと呟くティティアナ。その横顔は憂いに満ちていた。

「もしかしたら、魔族と共闘できる日が来るのかしら。いえ、だめね。あれらも所詮は偽神アルコーンに過ぎない。いかに神族の欺瞞を知ったとはいえ、真の覚知グノーシスには……」

 そんな彼女の呟きは、誰にも聞かれることなく、宙に漂い消えていく。
 ほうと淡いため息を吐き、彼女は中断していた仕事に取りかかるのだった。

2/26 サブタイトルを波紋(上)から波紋(一)に変更すると共に、冒頭に地図を掲載しました。
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